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 夢はいつも一緒。夜明け前の暗い海と、背中から始まる。  襟から覗く、まだ成長途中にある華奢が残る首元に一筋汗が滴る。暑い夏。そのうしろ姿はただ、ずっと 波の音を聞いている。    飛行機が滑走路を加速する間、墜落する映像がいつもつい頭をよぎるのはなぜだろう。世界でいちばん安全な乗り物のはずなのに。  きっと、作ったはいいけど空を飛ぶとという現象に人間はまだ体感で理解ができていないせいだ。  トランジットを重ね、一日の半分以上を空の移動に費やし、へとへとになりながら十三年ぶりに日本入国すると感慨に浸る暇もなく今度は国内線で那覇まで二時間半。  六月の沖縄行き、LCC。機内客はほぼファミリー層で四方八方から子供の泣き声がするわ、小さい機体は揺れに揺れるわで那覇空港に着く頃には憔悴しきっていた。猫型ロボットの便利道具で一番役立つのはどこでもドアだという持論は揺らがない。  しかし到着ゲートを抜けたからと言って安心して『めんそ〜れおきなわ』のほのぼのした看板をぼんやり見つめている場合じゃない。自分はこれから観光ではなく仕事でこの地へ移り住むのだ。  出口ゲート付近を見回すと『蒼井煌様』とウェルカムボードを掲げたワイシャツ姿の男を見つけた。つかの間、ハッとする。どことなく、骨格が知っている人物に似ている気がしたからだ。もう二、三歩近付いてみてほっとする。明らかに違う人物だ。単純に日本人の、それも若い男性に会うのが久々すぎるせいだ。  訝しげにこちらを見つめていたその目も煌が近寄るにつれとどんどん眼球が丸くなっていく。 「え、あ、もしかして蒼井教授ですか」  目の前で立ち止まると男はようやく声をかけた。  背の高い男だった。  煌の頭がちょうど肩に当たるくらいなので百八十センチは超えている。一見スラッと着こなしているように見えるが水色のシャツは肘の位置で大きくひとつ折り曲げられており、粗野さを隠しきれていない。藍色のスラックスは二つ分かれた筒の繋ぎ目の位置が高すぎて逆に足首は布不足。シャツから覗く肌がこんがり焼けていて、短い髪の毛はパサパサ、脱色具合が光に当たると茶色を通り越して金色に輝いている。  間違い探しのようにちょっとづつ要所がおかしくてこの風貌、どう見ても一般的サラリーマンのイメージからはかけ離れていた。  こういう雰囲気の人間をあちらで何十人も見てきたからすぐわかる。ずっと人生を通して海と生きてきた人間だ。 「はい。マイアミ大学から参りました、蒼井煌です。よろしくお願いいたします」  深々とお辞儀をするとなぜか頭上で爆笑された。はっはっは、というお代官様笑いに眉を顰める。 「大学の教授がいらっしゃるって聞いてたからすっごいおじいさんを想像して待ち構えてたんですよ。そしたらゲートからこれまた少年のバックパッカーが出てくるなーと思って見てたらこっち来るから、まさかって。すみません」  一応言葉では謝っているが全く悪びれた気配はない。顔を上げ観察するところまだ二十代と見える。カラカラ笑う姿は太陽に向かって伸びる若木を連想させ、社会の重圧に押しつぶされていない健やかさが宿っていた。  しかし確実に煌よりも若い男に少年と言われると若干複雑な気持ちではある。 「少年ではありません。今年で三一歳です」 「えええっさんじゅういち?! 童顔過ぎ!」 「童顔…」  言われてむっとする。アメリカで東洋人は実年齢よりも若く見られがちだからそういう反応は慣れていたけれどまさか同人種からも言われるとは思いもしなかった。 「だって、麦わら帽に短パンなんですもん。完全に夏休みじゃないですか。しかも、大きいリュックだし」  何年も愛用している帽子、動きやすい服で来ただけだったが、ちょっと軽率だったようだ。 「沖縄は六月でも日差しが強いと聞いていましたので」  なぜか言い訳を探してしまう。反論にもならない。 「すみませんすみません。てか申し遅れました、俺、比嘉海広です。海洋総合センターから来ました。荷物はそれだけですか?」  煌の名前が書かれていたリング式自由帳を閉じて、ようやく海広は真顔を作る。  ほりが深く、目と眉毛の距離が近い。くっきり二重のタレた目奥の瞳は髪同様に薄い茶色で、そんなことあるわけないが瞳も海水で脱色するのだろうかなどと危ぶむ。 「はい。荷物はもとより少ないですし重要な資料などは事前に船便で送っていますので」 「はは、これから住むとは思えない身軽さですね。では行きましょう。車、駐車場に停めてあります」  バックパックを煌から降ろさせて右肩にひょいと担ぎざまひらりと翻った。体は大きいのに軽々動く。 「あ、荷物」  ずんずん先に進むので引き止められない。 「任せてください、長旅でお疲れでしょう。とりあえず今からそっこー家に向かうので今日のところはゆっくり休んでくださいね。家はセンターが契約している社宅にお住まいになると聞いていますが」 「はい。土地勘もないし仕事場から近いとのことでしたので」 「近いは近いですけど…先生、沖縄には来たことありますか?」 「全く初めてです」 「うん、その感じだと、そうですよね」  海広は驚きもせずに返した。 「じゃあご説明します。沖縄本土は下からなんとなく三つに分けられます。あ、車、これです」  駐車場に停められていた、白い軽トラックを指差した。 「家まで一時間半くらいで着くので、狭いですがもうちょっと我慢してください。…で、さっきの話。俺たちが今いる足の那覇空港エリアが観光地、その上からおへそあたりまでが米軍」  話しながらてきぱきと煌の荷物を積み込み、自由帳をダッシュボードに仕舞いながらキーを押し込む。 「そこから上は?」 「山。発進しまーす」  三度目でようやくエンジンがかかってぬるっと車体が発進した。  かぶっていた麦わら帽を腹に乗せ、ちらっと走行距離を覗くと二十万キロとなっている。  走行距離の限界値って確か十万キロなんじゃなかったか? 「てわけでセンターと社宅は近いですが周りは山と山、それから山なんでゆくゆくは移動手段に車が必要になるかと思います」 「はあ…」 「明日早速契約しに行きましょう。お好みの車種はありますか? 荷物詰め込むなら大きめがいいですよね」  当然の定で話を進められそうになるが、えっと…と話を止める。 「…僕、車の免許、持ってないんですが」 「え、マジですか?」 「マジです」 「沖縄県で免許持ってないと何もできないですよ。そもそも向こうって車大国なんじゃないんですか?」 「高校卒業直後に渡米してそれからずっと大学徒歩圏内十分以内に住んでいたので、考えたこともなかったです」  マイアミ大学は在籍者数だけで二万人近くいる。大学の周りは完全に小さな都市になっており衣食住すべてがその近所でまかなうことができる。海に調査に行くときも常に誰かが運転する車に同乗していたので必要性を感じることはほぼなかった。 「そうなんすか。うーん、ま、いいか。なんとかなるか」  なんとも諦めが早い。 「なんとかなるんですか?」 「先生、生活はアクティブな方ですか? 毎週末はクラブでナンパしてウェーイみたいな」 「…そんな風に見えますか?」  夏休みの少年かはともかく野暮ったい格好とひょろっこい容姿、どう見繕っても社会的ヒエラルキーの一軍には属していない。 「いやいや、可愛らしい系って一定の確率でちゃんと需要あるじゃないですか。これで夜はめっちゃお洒落してワックスつけて出陣、てタイプなのかなあと。アメリカ暮らしも長いし」  煌はきっぱり首を横に振る。 「どこにいても休日の主な趣味は睡眠です」 「はは、じゃあとりあえずなしで生活してみて不便ならまた考えましょう」  軽トラックは早くも観光地を抜け海広の言う山道を走る。全開の窓から湿った空気が勢いよく車内を抜けて気持ちよかった。六月だというのに、舞い込む風はもう夏の熱気を孕む。国境もないのに、こちらではとっくに梅雨が終わっているなんてなんだか信じられない。高速道路の入り口を通過すると右手に海が広がっていた。初めて見る沖縄の海に密かに興奮した。 「しばらく走るので寝ててもいいですよ」 「疲れてたはずなんですが、なんか今は吹き飛んでます。海、綺麗だ」 「いいでしょ。奥に行くと、青とティファニーブルーのグラデーションが多くなってもっと綺麗になりますよ。今日は晴れてるから、一発目で先生にいいとこ見せれてよかった」  かけっこで一番を取った子供を自慢する親みたいな反応が笑えたので確信で聞いてみた。 「比嘉さんは、生まれはこちらですか?」 「そうそう、生まれも育ちも。比嘉っていったら、こっちでは鈴木みたいにメジャーな沖縄人の苗字なんですよ。小学校では常にクラスに三人はいたし、病院で比嘉さーんって呼ぶと立ち上がる人めっちゃいますよ。今度試しにやってみてください」 「何のピンポンダッシュですか。その割には、綺麗な標準語ですね」 「ああ、仕事上、外のお客さんと話さなきゃいけないことが多いので、自然とそうなっちゃいましたね。って言っても俺らの世代はもうテレビで聞くようなコテコテの沖縄弁は元々使わないですよ」 「そうなんですか?」 「はい。一応こっちだって本土で契約したワイファイ使える国内ですからね? 先生は西ノ森ハカセの引き抜きでセンターに来たんですよね。何の専門? って、こっちに研究者で来たんだからもちろんサンゴの何かなんだろうけど」  煌がこの度、三十路と海を超えて転職することになったのは国立研究開発法人、水産総合研究センター。  大層な名前だが平たく言えば国からお金を貰い、国から言われた海についての何かしらを研究する国家機関のことだ。名護研究所は十年前設立されてからから世界的に危惧されているサンゴ礁の絶滅阻止についての研究が行われている。  しかし煌にとって研究という生活基盤もお金の出どころも大学と大差はない。違うことといえば学生相手に講義をしないことくらい、だと今のところ思っている。 「マイアミ大学では海洋汚染とサンゴの関係を調査していました。こちらの研究センターでは枝サンゴ以外の種の耐性と移植の研究をするように言われています」 「ああ、なるほど。枝サンゴのみの移植の弱点、ずっと指摘されてますもんね。遺伝的かく乱と生態系バランスの瓦解」  間髪入れず的確な返答が返ってくる。 「はい。でも育てやすくて実績のある枝サンゴがやはりメインにはなってきます。並行しながら新種の開拓ですね」 「わあ、先生の仕事見るの、めっちゃ楽しみ。マイアミ大はサンゴ移植の最先端ですもんね」 「よくご存知ですね」 「もちろん。去年の発表では五四種の移植に成功! 枝サンゴの生存率はー、なぁんと八〇パー! 脅威だ! 海洋学は日進月歩、是非とも名護研究所もそのノウハウを学びたいところだ!」  競馬実況のような口ぶりで海広は拳を強く振る。 「今年は十四種増えました。教授も僕の研究というより大学の先端技術を加味して誘ってくれたんだと思ってます」 「それだけじゃないでしょ絶対。三十一歳で博士って一旦もうすごいじゃん」 「僕は普通の方だと…思う。海洋分野だと七年とかでぱぱっと取っちゃう人も結構いるから」 「実力あるからハカセも引き抜きたかったんですよ。だって別に親しくないんでしょ? 恩師とかでもなければ」  絶妙に気に触らない間合いで所々敬語を崩されるので、こちらもつられてしまう。こういう距離の測り方が上手い人が、たまにいる。相手の壁を気づかぬうちに砕いていくので手品を見ている気持ちになる。  煌だって年相応に人生経験を積んできたつもりだが学校という狭い柵の中で、しかも十数年も英語しか使ってなかった環境からいきなり日本社会に適合するのかと緊張していた糸が、するりと解かれる。 「親しいと思ってくださってるかはわかんないけど、去年二ヶ月だけMU…マイアミ大学に教授がいらっしゃった時、一緒に研究をしてました」 「覚えてる覚えてる。いきなりいなくなっちゃって、残されたこっち、結構てんてこまいだったもん」 「そこで名護研究センターを勧めてくださっていんだけど、僕は博論の途中だったのでお断りしたんです。でも教授が帰国されて、メールで何度もお誘いいただいてるうちに」 「あーやっぱりな。ハカセ、すっごい押し強そうだわ」 「ありがたいことでした。博論が終わってから改めて考えてみると沖縄もいいかなって。サンゴの種類がマイアミとは何百種類も違うし」  一旦博士号まで取ってしまえば今後の研究テーマにこだわりはなく、むしろ海と関われたらそれでいいと漠然と思っていた。目標を失っていたと言えるかもしれない。そんな時西ノ森教授から再度勧められた、研究センターでの勤務。  日本に戻るのも悪くないかと、深く考えずこの度決意した。 「ところで、先生って呼ぶのやめてください。もう教鞭は取らないので」 「じゃあ煌先生ね。敬称と名前を合わせてプラマイゼロ」 「どんな理論…。比嘉さんはなんの研究を?」 「あ、俺は研究は一切しないんです。高卒だしそんな難しいことできないできない」 「そうなんですか?」  専門的に詳しいから同じ研究畑の前提で話していたので驚いた。話していてなんの違和感もなかった。 「俺の所属は開発の方じゃなくって、海上保安庁海洋課。って、なんのことかわかります?」 「全く、想像もつかない」 「ですよねー。簡単に言うと何でも屋? 違うな、肉体労働力? まあ、研究する先生方のサポート的なことを後ろでやってます。見てればわかりますよ。でも最初に言っときます、俺一人でめっちゃ大変なんで、コキ使わないでね」  自分の肩を女子っぽく首を傾けながら抱いてみせる。 「若いだろうに、何その錆びれたリアクション」 「二十五歳はもうそこそこいい歳だからやってもいいの」 「そのうち令和世代に化石だって馬鹿にされるよ」 「ひでえ。ていうか煌先生こそ、比嘉さんてのやめてよ。これからずっと一緒にいるわけだし、よそよそしいの俺嫌いだなー」  大げさに顔をしかめるので、社交辞令ではなく本気と捉えられる。 「そういうわけには。ここ日本だし」 「そこは、昨日までアメリカに住んでましたって印籠見せてもいいじゃないの? サップ、メーンみたいなノリ」 「ほら出たその偏見。全員がそんなんじゃないって」  イメージを何度も壊して申し訳ないがアメリカでは極めて慎ましやかな生活を送っていたので一度でも酒を酌み交わしたら全員仲間、みたいなノリにはついて行けない。 「確かに煌先生がラッパーみたいな格好してたら大分笑えるけど。あの人たちこそ平成だろうが令和だろうがいつの時代でも永遠スタイル変わんないよね。何でずっとダボっとしたシャツ着てるの?」 「あれは、ファッションよりも信念なんじゃない? 私こういう感じでやってますって宣言する座標」 「なるほどー名刺交換的なね。やっぱり煌先生頭いいんだなあ」  満足げに頷いて、大袈裟に煌を褒める。やっぱりのニュアンスが、長年知っていることを再確認するかの言い草だったので、こういうちょっとした親近感が相手の壁を壊す仕組みかもしれない。 「とはいえ、確かに名前で呼び合うのには向こうで慣れすぎているから、細かいことはきっちりしなければ」 「あはは、急にそこは真面目なんだ。短パン優等生。小学生探偵」 「変な単語をくっつけないでください。僕だって十年以上も日本を離れているからきっと感覚は浦島太郎くらいずれているんだろうって自覚がある。せめて言葉遣いくらいしっかりしないと」  と言いながら早くも敬語から崩れてはいるのだけれど。 「はいはい、まあおいおいね」  家具や家電は一応一式揃っているとのことでスーパーに寄って途中、食料と日用品を調達した。歯磨き粉やら、洗顔やらティッシュやら。食料はとりあえず今後飢えないよう特売のお弁当と大量のカップラーメンとペットボトルの水を買った。 「煌先生、一応聞くけど自炊できないね?」  購入した商品を一つずつ袋に入れていると後ろから呆れた声が投げられる。 「できる。お湯沸かせるし電子レンジも使える」 「それを一般的に出来ないと定義するんだよ」  有名なアニメ映画の冒頭のような山道を車は走り、というかひたすら登り、途中で林がひらけたと思ったら奥に建物がぽつ、と立っていた。なるほどこれは車が必要かもしれない。そして社宅、と言うからなんとなく五階建くらいの建築物をイメージしていたが予想は大きく外れた。 「到着到着〜」  ピンクに塗られた横長木造の平屋。体育館横にある倉庫の扉のようなアルミのドアが四つ。その中の『2』と書かれた表札の前で海広は鍵を開ける。せめて『102』であって欲しかった。 「見た目は古いけど、住みやすいよ。今んとこ右横しか住人いないから、のびのびやってよ。じゃあ煌先生、あとはゆっくり休んでね。あ、明日八時半に迎えに来るから」  言うが早いがパタンとドアが閉められた。  目の前に広がる空間はおそらくリビングだろう、広々と十五畳くらいあった。二人用のソファと冷蔵庫、食器棚、左角にキッチン。なるほど調理道具や食器も一式揃っているので勝手がいい。右奥には扉が二つ。手前の一つは洗面所兼シャワールーム、奥が六畳ほどの寝室。入り口を直線で進んだ先にもう一つ扉があり、開けるとベランダだった。が。 「あ」 「煌先生ヤッホー」  同じタイミングで右の扉から出てきたのは今しがた別れた海広だった。 「俺、『1』の住人ね。よろしくお隣さん」  なるほど四部屋分の共同ベランダというかだだっ広い庭が裏に、敷居もなく広がっていた。  右横しか住人いないって、あなたじゃないですか。  どうりで帰る車のエンジン音が聞こえなかったわけだ。
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