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1章 魔女と黄金の王子の愛憎
1
ザワザワと木々がざわめく音、鳥の囀り、川のせせらぎ。ここは五つの小国が覇王キルダ・クラウンディーナによって統一され、ひとつの国となったクラウンディーナ王国の郊外。人間が立ち入ることのできない神域と呼ばれる、クリードルの森だ。
とはいえ、森の眷属である動物や魔女にとっては大事な生活の場である。そう、この森に住むディアナは魔女の生き残りだ。魔女はどんな病も癒す魔法薬を作り、自然、動物たちと心を通わせることが出来る存在。昔は呪文を唱え、あらゆるものを自由自在に操り、生み出す“魔法”とやらを使えたらしいが、とうの昔に廃れてしまった。
そして、人間より遥かに永い時を生きる。ディアナも見た目は人間でいう二十代半ばくらいだろうが、実年齢はおそらく五百歳くらいだ。三百歳を超えたあたりからだろうか。恥ずかしい話、いったい自分がいくつなのか、歳を数えきれなくなってしまっていた。
人の姿をしながら、人でない存在である魔女は人間から意味嫌われ、二百年ほど前に行われた魔女狩りにより、その数が減ってしまった。魔女特有の深緑の髪と瞳は、理不尽な魔女狩りの報復を恐れてか、その風習がなくなった今の時代も人々から嫌悪されている。そのために魔女は、人とは無縁の場所で生活しているのだ。
ディアナも自分を育てた師匠以外の魔女は知らない。魔女は母親を師として薬学を学び、一人前になるとひとりで生きていくのが決まりだ。そこに愛情などはなく、母は子孫を残す為だけに町にいる人間の男をたぶらかし、子を成す。それは魔女の間では普通のことで、いずれディアナも辿る道だった。
『なぁなぁディアナ、たまには肉が食いてぇよ』
太陽の光を浴びた美しい銀の毛並みと瞳を持つ狼が、よだれを垂らしながらこちらを見上げる。その体は人間をふたりは悠々と背に乗せられるほどに大きい。
この狼はバウル、十五年前からディアナと共に暮らす家族だ。
彼が嘆くのには、理由がある。ディアナが町に買い物へ行くのを渋っていたせいで肉の買い置きが底を尽き、毎日森に茂る野草や木々になる果物、川で獲れる魚が食事の主体になっていたからだ。
『新鮮なウサギの肉とか、鹿の肉とかが食べたい!』
「あなた……彼らを前にして、なんてことを言うのよ」
ディアナは木の影からビクビクとこちらの様子を伺う、ウサギや鹿たちを指差して呆れた。森で共に暮らす家族だというのに、不憫だ。
しかも、すでに数匹はその場から立ち去っており、『こ、殺さないでぇ……』と、残った草食動物たちから懇願の声が聞こえてくる。
ディアナ自体は今の食生活で問題ないのだが、狼である彼は肉食動物だ。ヘルシーな生活に、いよいよ我慢の限界がきたらしい。このままでは、いたいけな彼らが捕食されてしまう。
『うぅ、お腹空いた……肉ぅぅ〜』
「仕方ないわね……町に行くの、嫌なのに」
(最後に町に降りたのはいつだったかしら)
ディアナとしては森でも果物や魚が採れるので問題ないのだが、狼はそうはいかないみたいだ。
『ディアナ〜っ』
どうにかこうにか、町に降りない言い訳を探すディアナの心を見透かしてか、バウルは催促するように鳴く。そのつぶらな瞳に負けて、ため息と共にディアナは頷いた。
「……わかったわよ」
(町は人間で溢れかえっているし、気乗りはしないけれど……)
ディアナは、それはもう長い間をもたせて渋々そう答えた。
『さすが、ディアナ!』
「はぁ……憂鬱だわ」
調子のいいバウルを恨めしく思いながら、森の奥にある丸太小屋に戻り、出かける支度をする。
(町……か、懐かしいわね)
彼に会ってしまうことへの恐怖と会えるかもしれない期待に、心が重苦しくなるのをディアナは感じていた。
「アクエス……」
(あなたは今、どんな大人になったのかしら。私をまだ……憎んでいる?)
瞼を閉じれば鮮明に思い出せる、太陽に透ける金糸の髪と青空のように澄んだ青の瞳。無邪気にディアナの名を呼び、駆け寄る幼子の姿。あれから十五年が経った今、彼は立派な大人の男性になっていることだろう。
『ディアナ』
ポツリと愛しい人の名を呟くディアナの足元に、バウルが鼻を擦りつけてくる。それが慰めであることは、すぐにわかった。
『俺たちが側にいる。なんならまた、俺を人間にしたらいい。ディアナが寂しいならな』
昔、魔法薬でバウルを人間にしたことがある。ディアナの心が孤独に耐えられなかった時、バウルは人間の姿で側にいてくれたのだ。
そう、失った人の温もりをディアナはバウルに求めた。
「ありがとうバウル。それにみんなも……」
いつの間にか、バウルだけでなく遠目に見ていたウサギや鹿、馬たちまでもが周りに集まってきていた。
今のディアナにとって、彼らは大切な森の家族。
そして、実は他にもディアナには忘れられない家族のような人たちがいる。森で暮らす前に、ほんのわずかな時間だけ一緒に暮らした四人の人間だ。
あれは、ディアナが人の王に呼び出されたことから始まった。
バウルの頭を撫でながら、あの日もこんな青空だったな、と空を見上げて追憶の旅へと立つ。
今から十五年前。つい昨日のことのように思い出せる、褪せることのない記憶。ディアナの生きる時間でいえば、一瞬の出来事だ。
でも、忘れることのできない傷跡を残した後悔の始まり。あの日々はディアナを幸せにするが、苦しめもするのだ。
そう、全ての歯車が狂い出したあの日、人の王に呼び出しをくらったディアナはクラウンディーナ王国の城を訪れていた。
「来たか、クリードルの森の魔女よ。私はキルダ・クラウンディーナ、この国の王だ」
王はにこやかに微笑み、ディアナを迎え入れた。
この時、大陸はまだ統一されておらず、五つの小国がそれぞれの国家を築いて存在していた。齢三十という若さにして小国のひとつ、クラウンディーナ国を治める国王、キルダ・クラウンディーナ。彼の王が治めるこの国は小国の中心に位置し、いつ攻め入られてもおかしくない危険を抱えている。
しかし、今だ攻め入られずにいるのはキルダ王の育てた絶対的な兵力があるからだと町で耳にしたことがある。
だからこの王は、魔女に笑顔など向けられるのだ。魔女など、怖るるに足らない存在だとなめているから。
「…………」
にこやかな笑みの裏に、何かあるのではないか。そう思ったディアナは、警戒を解かずに無言で王を観察する。
「王に挨拶しないか!」
王の側近だろうか。体格のいい長身の男が腰に差した剣に手をかけながら、こちらを鋭く睨み怒鳴りつけた。
「…………」
(連れてこられたのは私のほうだわ、何で挨拶なんてしなければならないのよ!)
沸々と怒りが沸いてくるも、無言、無表情を貫き通す。感情をむき出しにすれば付け入られる、そう思ったからだ。
「よい、そなたに頼みがあるのは私の方だからな。急に呼び立てて、すまなかった」
「え……?」
驚くべきことに、王は魔女のディアナに向かって頭を下げた。
人間は自分勝手で汚らわしい存在だと、師匠から聞かされていた。魔女は全て異端とし、人間に見つかれば即斬首、磔、火あぶりなど極悪非道なやり方でいたぶるのだと。
本来であれば今回のように呼び出しをくらって、ノコノコ参上する魔女などいないだろう。
しかし、命令に従わなかったことで住処である森に火を放たれたりしたら困る。それを懸念して、今回は大人しく従ったのだ。
もちろん、危険だと判断すれば逃げ出すつもりだった。それだけ身構えてきたというのに、王はディアナの思い描いた残虐な人間像とは違って、至って穏やかなのだ。
「頼みって、なによ……」
話なんて聞くつもりはなかったのに、気づけばそう尋ねていた。
いったい何を頼むつもりなのか、いや──この人間の王に興味がわいただけかもしれない。
だから、らしくもなく、人間の話に耳を傾けたりしたのだ。
「実はな、私の子供たちのことなのだが……」
王は愁いをその顔に映し、口を開いて早々に言葉を詰まらせた。臣下達も王の様子を見て、表情を曇らせている。王間には重苦しい空気が漂い、ディアナも居心地の悪さを感じていた。
(いったい、何の話をされるのかしら?)
深刻な話には間違いなさそうなので、心して彼の言葉を待つ。
「私の子供たちは双子でな、名をアクエスとフィオナという。しかし、本来ふたりは生まれてくることが出来ないはずだった」
「話が読めないわ、どういう意味かしら?」
その言い方では、ふたりはこの世に産み落とされた、ということになる。ならば生まれてくることができない、という言い方は矛盾していた。
眉根を寄せるディアナに、キルダ王は深く息を吐き出した。
「……妃は体が弱くてな、双子を生めば命を落とすと医者から言われていた。だが、私は国王、世継ぎと妃を天秤にかけることは出来なかった」
( 後継ぎ……ね。国のために妃を殺したのかしら、人間ってやっぱり醜い生き物だわ。)
幻滅していると、次のひと言にディアナは耳を疑った。
「どちらも選べなかった私は、ある魔女と取引をした」
「なんですって?」
(私の他にも、生き残りがいたの?)
魔女狩りの時代から数が極端に減った魔女。ディアナでさえ、師匠以外の同族とは会えていないのだ。その師匠も遠い昔に人間に捕まり、すでにこの世にはいない。
「魔女の作る薬で妃も子供も助けるかわりに、双子のどちらかを差し出せと言われた。その約定を違えば……」
その先は言わずともわかった。約定はいわば呪いだ。魔女は約束を重んじる種族なため、命よりも守るべきものとされている。
「それで王様、あなたは私に何をさせたいの?」
「どうにか、子供たちを差し出さずに済む方法はないだろうか」
「魔女との約定を、魔女である私に破れというの?」
その傲慢さに呆れて笑えてきたディアナは、腕を組むと蔑むように王を見る。
「あなたは代償を受け入れ、魔女に力を借りたのでしょう? いまさら都合が悪いからって、簡単に約定を蔑ろにするのは勝手過ぎると思うわ」
「貴様、王に何て口の聞き方をする!」
臣下たちはその無礼な物言いに、一斉に武器を構えた。王間の空気が張り詰めて、ディアナは懐にしまっていた薬の小瓶に神経を向ける。
さすがに、なんの準備もせずに人間の王と会うような馬鹿じゃない。この中には外気に触れると硝煙のように放散される、眠り薬が入っている。必要ならば、この薬を地面に叩きつけて逃げるつもりだった。
「勝手すぎるのは承知している。その時は手放すしかないと思っていたのだ、だが……」
しかし王はディアナを無礼者だと始末することなく、ただ静かに涙を流していた。
でも、その涙さえディアナには響かない。結局はその程度の覚悟で、魔女の言葉を軽んじたということだから。
「愛して……しまったのだ」
(愛なんて、そんな感情を持つから覚悟が揺らぐのよ。もともと捨てる気なら、遠ざけて愛さなければよかったのに)
失うとわかっていて愛する人間の心は、魔女のディアナには理解不能だった。
「頼む、そなたしかいないのだ。助けてはくれないだろうか」
「ならあなたは、私に命でも差し出してくれるのかしら?」
これは、ただの売り言葉に買い言葉だ。本気でこの王の命など、貰いたいとは思わない。他国の王どもは喉から手が出るほどに欲しいだろうが、魔女のディアナには無価値だ。
ただ、覚悟がどれほどのものかを知りたかったのかもしれない。
ディアナの言葉を聞いた兵たちの殺気を、肌で感じた。それでも先ほどのように剣を構えないのは、王の牽制があったからだろう。
「そなたが望むものなら、なんでも与えよう」
「なんで……すって?」
(嘘よ。どうせまた、やっぱりあげられなかったって約束を破るんだわ。人間は自分勝手で我儘な生き物だから。)
でも、少しも迷わずに王は言った。それに少なからず驚きを隠せないでいる。
「まぁいいわ、引き受けてあげる」
これは、人という生き物を知るいい機会かもしれない。敵なのか味方なのか、どちらにせよ相手の情報を知っていて損はないだろう。そう思ったディアナは首を縦に振る。
「本当か!」
王座からやや身を乗り出して、声を上げるキルダ王。明らかに期待している彼に、「ただし」と付け加えた。
「私にできることは魔女と交渉することくらいだし、必ず助けられる保証はないわよ」
「保証はなくとも、同族の魔女が交渉すれば良い方向に転ぶ確率は上がるだろう」
(そう簡単な話でもないと思うけれど、魔女は情なんてものに心を動かさないから)
けれどなんとなく、それは言わないでおいた。今思えば、期待を膨らませる彼の王を絶望せたくない、そう思っていたのかもしれない。
同情を買わせるほど、わが子のために流した王の涙は美しかった。
「……その代わり、報酬にはその命をもらうわよ」
心にもない言葉を王にかけ、ディアナはそっぽを向く。
「ああ、それでかまわない。頼んだぞ、クリードルの森の魔女よ。いや、名を聞いてもいいだろうか?」
「私は……ディアナよ」
そう、これは魔女の気まぐれ。永い時を生きる魔女なら、誰もが欲しがる余興。失敗しようが成功しようがどうでもいい、代わり映えのない毎日に少しの変化が見られるのなら。
人間との約束なんて守る価値もない。適当に人間を観察し、飽きたら捨てるつもりだった。
そんな軽い気持ちでディアナは城に部屋を貰い、双子のお守りをすることになった。
「ねぇディアナ、今度は花を咲かせてよ!」
「あっ、俺も見たい!」
晴天の下、色とりどりの薔薇が咲き誇る城の立派な庭園で、双子のフィオナ姫とアクエス王子がディアナに花を咲かせろとせがむ。
(またなの? 出会ってからというもの、毎回これだわ)
城の薔薇の方がずっと美しいと思うのに、よくも飽きずに作り物の花なんて見たいと思うな、と理解は出来ないが懐に手を入れる。
「「早くー!」」
「はいはい」
声を揃えてディアナを急かすふたりに呆れながらも、桃色の液体が入った小瓶を取り出す。これは幻想薬、使用者が思い描く幻を映し出す薬だ。
蓋を開けると液体は瓶から飛び出して、淡く白い光を放ちながら空へと登っていく。それがパァンッと弾けると、その粒子が色とりどりの花びらへ変わり、ディアナたちに降り注いだ。
「「わぁーっ!」」
双子ゆえか、ふたりの声がまた見事に重なる。両手を広げて、空から降る花びらに目を奪われているようだった。
王の話では十歳を迎えた時、ふたりのどちらかを魔女が攫いにくるとのことだった。
おそらく、王は王位を継げない女、つまり妹のフィオナの方を差し出す気でいたんだろう。
けれど、ともに過ごすうちにふたりを愛してしまったのだ。この無邪気な生き物を見ていたら、愛着が湧くのは当然のこと。それはディアナも例外なく、彼らに絆されていたからわかる。
「ディアナ、すごぉーい!」
フィオナが笑いながら、腰に抱きついてくる。
「ムッ……ディアナ俺も!」
モゴモゴとなにかを言うアクエスに苦笑いしながら、ディアナはその小さな頭を撫でてやった。
(私はどうかしてる……人間に自ら触れるなんて)
彼らと過ごすようになって、たった半年だ。こんなにも早く情が移るだなんて、思いもしなかった。
「ディアナ、俺……」
「なあに、アクエス」
「大きくなったらディアナのこと──お、俺の姫にしてやるから……な」
真っ赤な顔で求婚してくるアクエスに、自然と笑みを浮かべる。彼は大人になった時に驚愕するだろう。なんたって、人間が毛嫌いする魔女に求婚しているのだから。
「そうねぇ……でも私、あなたから見たらお婆ちゃんよ」
「お婆ちゃん? ディアナはこんなに綺麗なのに?」
今度はフィオナがコテンッっと小首を傾げる。そんな仕草さえ、可愛らしく思えた。
「アクエス、フィオナ」
すると、そこにキルダ王と王妃のアフィルカ様が現れた。
「「お父様!お母様!」」
アクエスとフィオナは嬉しそうにふたりに駆け寄る。両親に抱きつくアクエスとフィオナに、ディアナまで温かい気持ちになった。
(これが家族……羨ましいわ)
魔女にとって子供は、薬学の知識を次の代へ繋ぐための道具でしかない。愛の温かさを目の当たりにして、自分がいかに孤独で憐れな存在かを思い知った。
「ディアナ、今日はお前に話があるのだ。少し時間をもらえるだろうか」
子供たちをアフィルカ様に任せて、ディアナのそばにやってきたキルダ王。話というのはおそらく、明日の誕生パーティーのことだろう。明日、ついにアクエスとフィオナは十歳となる。
ただ誕生を祝えたのならよかったのだが、約束の十歳は魔女との取引の日でもあるのだ。
「お母様、さっきディアナに魔法を見せてもらったんだよ!」」
「あらまぁ、よかったわね」
楽しげに話すフィオナを、柔らかい微笑みで受け止めるアフィルカ様。ふたりには何度も魔法ではなくて、魔法薬だと伝えているのだけれど、その違いを覚えるにはまだ幼すぎる。ふたりが大きくなったら教えてあげよう、そこまで考えてハッとした。
そう、明日にはこの幸せが壊れているかもしれないのだ。魔女が約束通りアクエスかフィオナのどちらかを攫えば、今までのように賑やかな声も笑顔も城からは消えてしまう。
そんなディアナたちの不安も知らず、ふたりは楽しそうに庭園を駆け回っている。そんな変わらないふたりがいたからこそ、みんな今日まで希望を失わずにいられたのだと思う。あの子たちは、この城を明るくする光なのだ。
「ディアナ、いよいよ明日だ」
「そうね、キルダ王」
顔には出さなかったけれど、王も不安でしかたないはずだ。もしも守れなかったらと思うと、堪らなく怖くなる。
「魔女とは、話してみるつもりよ。でも……魔女は情に訴えかけてどうにかなる存在じゃないから……絶対とは言えないわ」
明日のために、ふたりを守れるよう魔法薬も調合した。ただ、魔女が同族を手にかけるのは重い罪。それでもディアナは、明日その罪を犯すかもしれない。愛しいあの子たちを守るためなら、この手を汚しても構わないとさえ思っていた。
そのはずなのに、視線を落とせば自分の手が小刻みに震えている。こんなに弱い自分と出会ったのは、初めてだった。
「ディアナ、こんなことをさせてすまない」
「キルダ王……」
「同族の敵になるのも、お前たち魔女に酷い仕打ちをした人間の味方につくのも、辛いだろう。それでも力になってくれたこと、本当に感謝している」
王は自分の身分の高さを気にした様子もなく、魔女相手に深々と頭を下げる。
(そんな……私はまだ何もできていないわ)
なんとかすると軽々しく言ったくせに、結局交渉してみることくらいしかできない。なんて無力なのだろうと、ディアナは唇を噛む。
「魔女も様々なのだな、お前は優しい」
「優しい……?」
(私が優しいだなんて、正気なの? 私はあなたたち人間を蔑んできたのに……)
信じられない気持ちで、ディアナはキルダ王の顔を凝視する。
「投げ出すことも出来たというのに、ふたりを愛してくれただろう」
「それは……そうね」
愛なんて知らないはずだった。なのにディアナは、確かにアクエスとフィオナを愛しく思っている。
(感謝するのは、私のほうだわ。彼らはこんなにも温かく、満たされた感情をくれたのだから)
「私は明日が恐ろしい」
「キルダ王ともあろう人が?」
「ああ、今までどんな戦の前も死に恐怖することはなかったというのに、大切な者を守れるのか、とてつもなく不安だ」
「でもあなたは、軍神とまで呼ばれる強さを持っているのでしょう?」
この城に来て知ったのだが、キルダ王は戦の天才らしい。彼自身はこんなにも穏やかだが、剣を取れば右に出るものはいないと兵たちが話しているのを聞いたことがある。
「剣に自信はあるが、明日は私の剣も届かないかもしれない。あの子たちを失うかもしれない……」
魔女の作る魔法薬はあらゆる病を治す奇跡のような代物だが、返ってその薬が毒になることもある。これから現れるであろう魔女の魔法薬が、この城を襲うかもしれないということだ。
「こんな私を情けないと思うか?」
王は恐怖を口にすると、自嘲的に笑った。大切な者がいると、弱くなるのは王も人も同じだ。
「いいえ、キルダ王」
ディアナは隣に立つ王へ向き直り、敬意を込めて地に膝をつくと頭を垂れた。キルダ王は「ディアナ?」と声に戸惑いを滲ませる。
「キルダ王、私はあなた方に会うまで人間というものを誤解していたわ」
魔女はひとりで生きていくもの。人間のように誰かと寄り添い、愛を育み合う生き物ではない。
でも、彼らに気づかされた。誰かと共に生きることが、こんなにも温かいことを。
「あなたたちと過ごす時間は、今まで生きた中で一番幸せだった」
「ディアナさえよければ、ずっとここにいたらいい。お前はもう私たちの家族だ」
「ギルタ王……ありがとう」
優しい眼差しでこちらを見下ろすギルタ王に、ディアナの胸は熱くなる。
(私……ずっとここにいたい)
彼らと生きていきたい、同じ時を歩めなくとも彼らと紡がれていく命を見守りたい。初めて見つけた私の居場所を失いたくないと思った。
「この手に持ちうる全ての力で、あなたたちを守るわ」
「ディアナ……いいのか?」
「これは約定、絶対に破られない誓いよ」
「すまな──いや、ありがとう。ならば私たちは、ディアナの心を守ると誓おう」
手を取り合い、約定を交わす。生まれて初めて出来た大切な人たちをこの命に代えても守ろう、そう強くディアナは心に決める。
「それから、報酬の件だけど」
「あぁ、私の命だったな」
(あぁ、って……なんてことないみたいに言わないでほしいわ)
守る兵たちの気苦労が絶えなそうだと、ディアナは苦笑いを浮かべながら、キルダ王に向かって口を開く。
「あれは冗談よ、だから忘れてちょうだい」
「そうだったのか?」
本気で驚いているキルダ王に、ディアナは心底呆れた。その様子で、彼が本気で命を差し出す気だったのだとわかる。
「王が簡単に、命を捨てるもんじゃないわよ」
「ははっ、違いない」
キルダ王は笑いながら、笑顔で駆け回る子供たちとその側で微笑むアフィルカ様に視線を向ける。その横顔を見つめながら、この気高い王の心も守らなければ、とディアナは気持ちを奮いたたせるのだった。
不気味なくらいに美しく輝く月が藍色の空へのぼる頃、アクエスとフィオナの誕生祭が城で開かれた。
大広間には庭に咲き誇る色とりどりの薔薇のような、サテンのドレスを纏った女性たちがクルクルと回り踊っている。熱い視線を流し目で殿方へ向け、お目当ての貴族の心を射止めようと躍起になっているのが見てわかった。
優雅なヴァイオリンやフルートが奏でる音楽の中、貴族たちの談笑が混じって聞こえてくる。それらにも耳をそばだてて、ディアナは警戒を怠らずに神経を研ぎ澄ます。
今日はおめでたい日であるはずなのに、ディアナの胸は緊張で押し潰されそうだった。
「ねぇディアナ、素敵でしょう?」
フィオナが長い金糸の髪を揺らしながら、ディアナ目の前で回ってみせる。白いシフォンのフリルがついたドレスは、フィオナの金髪に映えて美しかった。
「えぇ、とても素敵だわ」
「えへへっ、嬉しい。でも、ディアナはもっと綺麗!」
(私が綺麗……?)
自分の姿を見下ろせば、真っ先に目に入る胸元の大きく開いた漆黒のマーメイドドレス。瞳と同じ色をした翡翠のペンダントを首から下げ、髪は頭頂部で束ねていた。
(美しいのは私じゃなくて、宝石やこのドレスだわ)
こんなものを身につける日が来るなんて、思ってもみなかった。ギルタ王に贈り物として貰わなければ、いつもの黒地のワンピースで参加するつもりだったのだ。
それを王妃のアフィルカ様が「女性なのだから、着飾る楽しみを知るべきだわ」と言って化粧まで施してくれたのだ。
アフィルカ様よりディアナの方が遥かに年上なのだが、見てくれのせいか、まるで自分の娘のように可愛がってくれている。それはディアナの知らない母の愛に触れているようで、心地よかった。
「な、なぁ……ディアナ。いっ、一緒に踊ろう?」
数刻前の出来事を思い返していると、いつの間にかアクエスがディアナの手を掴んでいた。
(いけない、ボーッとしてたわ。しっかりしなくちゃ……)
気合いを入れ直して、ディアナは周りを警戒しながらアクエスに笑いかける。
「えぇ、ここからあまり離れないのならいいわ」
「や、やった!」
アクエスが嬉しそうに、ディアナ腕を引いた。その瞬間、反対側の手も誰かに引かれて振り返る。
「フィオナとも踊って!」
振り返ると、お母さんか姉を取られたかのような、そんな悲しそうな顔をしてフィオナがディアナの手を握っていた。
「なんだよっ、フィオナは女だからディアナとは踊れないよ!」
アクエスが嫌だと言わんばかりに、腕をさらに引っぱる。それに負けじとフィオナが反対側の手を引くものだから、ディアナは両手を伸ばした状態でなんともいえない恰好になっていた。
「でも、フィオナもディアナと踊りたいっ!」
「姫をエスコートするのは王子の務めだから、だめだよ!」
(姫って、私のこと? 私は魔女だから、その姫には当てはまらないと思うけれど)
そんなことを考えている間に、ディアナを挟んでふたりの喧嘩が始まる。
(あらら、また喧嘩してる)
ディアナを取り合って喧嘩をするのはしょっちゅうだ。だからこそ、このふたりの扱いはお手のものだった。
「なら、三人で踊ったらいいじゃない」
ディアナは「ほら」と、ふたりの手を引っ張る。そのままくるくると回りだすと、怒っていたアクエスとフィオナの顔にも笑顔が浮かんだ。
(よかった、全く手が焼けるわね)
でもそれを、面倒だとは思わなかった。彼らの世話を焼いていると、ディアナは優しい気持ちになれるからだ。ずっとこの時間が続けばいい、そんな淡い願望を抱いたその時──。
ふいにバリンッという音がして、顔を上げる。
目に入ったのはステンドガラス調の天井が割れて顔を出した月と雪のように降ってくるガラス片だった。
突然起きた事故に悲鳴があちこにで沸き起こる中、ディアナはとっさにアクエスとフィオナを抱きしめて破片から庇った。
「うっ……!」
背中にガラスの破片が突き刺さり、痛みに顔をしかめる。こんなことになるなら肌が出るドレスじゃなくて、いつものワンピースを着てくればよかったと後悔する。
「「ディアナ!」」
ふたりはディアナの血が滲んだドレスを見て、泣きそうな顔をした。
この子たちを守らなければと、ディアナがふたりの前に立った瞬間──。
「アハハハッ」
高らかな笑い声が広間に響いた。
ついにこの時が来てしまったのかと、ディアナは絶望しそうになる気持ちを奮い立たせる。
「随分と派手な演出ね、悪趣味な魔女さん」
ふたりを背に庇いながら、ディアナは声を張った。内心不安でいっぱいだったが、それを隠すように不敵に笑う。気を抜くなと、そう何度も自分に言い聞かせて気丈に振る舞った。
「へぇ、あたし以外の魔女の生き残りは久しぶりに見たねぇ」
深緑の短髪と瞳、ディアナと同じ魔女の出で立ちを持つ女が図々しくも広間の大扉から現れる。真っ赤なルージュが引かれた唇が孤を描き、貼り付けたような不気味な笑みを浮かべる魔女がディアナの姿をとらえた。
「こんばんは、穢れた人間に絆された愚かな魔女。気でも触れたのかい?」
わざとらしく、女は憐れむような目でディアナを見た。
(本当に可哀想なのはどっちかしら……)
人の温かさ、寄り添い生きる素晴らしさを知るディアナは、どんな魔女よりも幸せだと胸を張れる。
「あなたこそ、人間の弱さにつけ入り魔法薬を売りつけ、子供を攫おうとするなんて愚かだわ。魔女の誇りを忘れたの?」
震える手でディアナのドレスの裾を掴むアクエスとフィオナ。そんなふたりを背に庇い、魔女に対峙する。
「永い時を生きると、余興が欲しくなるのは魔女の性でしょう? いいじゃないか、私は娯楽を得て、そこの王は代償と引き換えに願いを叶えたのだから。約定は破ってないんだけどねぇ?」
「話をすり替えないで、私は魔女の在り方について咎めているのよ」
この魔女の言ってることは、正しいようでおかしい。約定が守られれば、人を苦しめていい理由にはらないのだ。
ただ、ディアナも人と触れ合わなければ、この魔女と同じ腐った考え方しか出来なかっただろう。だからこそ、この魔女を憐れだと思った。
「頼む、アクエスもフィオナも連れていかないでくれ。ふたりは、私の大事な子供なのだ」
キルダ王が懇願するように地面に膝をつき、頭を下げる。それを見た瞬間、胸がはち切れんばかりに痛んだ。
「キルダ王……!」
あの気高い王に膝をつかせ、頭を下げさせてしまった。彼の心を守りたかったのにと、悔しくて奥歯を噛む。
頭を下げた王を、ここにいる人間は誰も責めないだろう。守るべき者のために恥を捨てられる彼は、誰がなんと言おうと気高い。
「あっはははははっ! やだぁ、王が頭を床に擦りつけてるなんてねぇ! 滑稽、いい余興だわぁ!」
おかしそうに笑いながら、魔女は王へと近づく。そして、下げたままのキルダ王の頭に足を乗せ、信じられないことに踏みつけた。キルダ王は小さく呻くも、それをどかそうとはしない。
それを見た兵たちが「き、貴様ぁぁっ、王になんて事を!」、「その足をどかせぇ!」と怒りに声を荒らげ、剣を構える。
それだけ、キルダ王は兵にも民にも愛される王なのだ。
「やめろ! よいのだ、これは私の不始末。お前たちは下がっていろ」
王の言葉に仕方なく動きを止めた兵たちは、悔しそうに俯く。キルダ王の誇りまで穢すのかと、ディアナも怒りに震えた。
「あなたなんかに、この子たちはやらないわよ」
「へぇ……魔女であるあんたが、約定を無下にするのかい」
魔女の声が、ワントーン低くなった気がした。ディアナは怯むことなく、必死に頭をフル回転させる。
「私も王と約定を交わしたの……」
「どんな約定か、気になるねぇ」
話を長引かせ、どうしたらこの状況を脱せるのか、彼らを救うことが出来るのか、目の前の魔女の手札──隠し持っている魔法薬はなんなのかを考える。
(でも……もう、一か八か──仕掛けるしかない!)
さっきからたくさん考えたけれど、彼女の手札などぶつかってみなければわからないのだ。
ディアナは胸元に隠し持っていた小瓶に手を伸ばす。
「この子たちを守る代わりにキルダ王は私の心を守ってくれる……そんな約定を……ねっ!」
言いながら、魔女に向かって魔法薬が入った瓶を投げつけた。瓶がガシャンッと魔女の足元で割れ、弾けた途端に小さな爆発が起きる。
「ぎゃああっ!」
魔女は顔を押さえて悶え苦しむと、キルダ王の頭に乗せていた足を外して後ろによろける。
「今のうちに、広間からみんな逃げて!」
ディアナがありったけの声で叫ぶと、兵士以外の人間が一斉に逃げ出した。悲鳴と逃げ惑う貴族たちの騒がしさの中、女が苦しげに屈めた体をゆらりと起こす。
「あたしの顔が……焼けちまったじゃないのさぁぁ?」
煙を纏いながら、顔が半分焼け爛れた女がディアナを見てニタリと笑う。この状況で笑っていられる女の狂気にあてられてか、「「ひっ……あぁ……」」と、アクエスとフィオナが小さな悲鳴をあげた。
このか弱い命を守らなくては、とディアナは足を踏んばる。
「ディアナ、無茶をするんじゃない!」
「ああっ、もうやめて……っ」
キルダ王は泣き崩れるアフィルカ様を支えながら、こちらに向かって叫ぶ。散々無茶しておいて、勝手だなと思った。
「今無茶しなきゃ、いつ無茶するっていうのよ……」
小さく呟いて、ディアナは次の魔法薬を取り出そうと胸元に手を伸ばす。
「あんたたちには何もできないだろうねぇ」
いつの間にか、女の手には黒い液体が入った小瓶が握られている。
(なんなの、あの魔法薬は……魔法薬に長ける私でさえ見たことがないわ)
小瓶を凝視しながら、ゴクリと唾を飲み込む。ただ、得体の知れない恐怖が襲ってきて嫌な汗が背中を伝う。
「これは、特別に調合した薬でねぇ」
まるで実験でもするかのように、女はその液体を楽しげに地面へ垂らす。ディアナは何も出来ずに、その場で固まっていた。
液体は地面に落ちた瞬間、黒い影のような触手に変わって地面を這うとその場にいた人間を目掛けて襲いかかる。
「まずいっ、逃げ──」
みんなに意識をとられた、その一瞬をつかれた。そのせいで自分へ向いていた触手に気がまわらず、そのまま腹部を貫かれる。
「ううっ……あ……」
ポタポタと生暖かいドロッとした液体が、床に深紅のシミを作った。それをどこか他人事のように、ディアナは呆然と見つめる。
「ディアナ……?」
アクエスが震える声で名前を呼び、恐る恐るといった様子でディアナを見上げる。触手が貫いた腹部から血が伝って、目の前のアクエスの頬に落ちた。
「こ、れ……血?」
「っ……アクエス……大丈夫、大丈夫……だからっ」
その視界を遮るように、ディアナは彼の目にそっと手を翳した。
(こんなもの、この子たちに見せたくなかったのに……)
綺麗なモノだけを見て、健やかに育ってほしかった。そんな風に思うのは、この子たちを我が子のように愛しているからなんだろう。
「ディアナ、その赤いのっ……」
ディアナから後ずさったフィオナが、ペタンと床に座り込んでしまう。こんな光景を見たのだから、無理もない。
ディアナは痛みを堪えながら、心配させないようにフィオナに笑いかける。
「フィオナ、アクエス……ここから逃げるの、走って」
できるだけ、優しい声で語りかけた。
この子に「守る」ではなく、「逃げろ」としか言えない自分が情けなかった。
血を多く流したせいか、意識も朦朧とする。それでも倒れずにいられたのは、この子たちを残して逝けないという意地だけだった。
「お前のその高貴な魂が器を満たす、最後の贄なのさ」
(器……いったい、なんの話をしているの?)
そこで魔女が、少し離れた場所にいるフィオナへ近づいていることに気づく。
「フィオナ……っ!」
アクエスが慌ててフィオナへと駆け寄り、背中に庇った。
「アク……エスっ……駄目っ」
アクエスへ駆け寄ろうと一歩足を踏み出すと、ディアナはガクンッと膝から崩れ落ちた。
「くうっ……」
(こんなときに、私は何しているのっ!)
体に力が入らない、悔しくて涙が滲む。今はそんな暇なんてない、わかっているのに何もできない自分に泣きたくなった。
「おや、お前がその魂と血を捧げるのかい? あたしはどっちでもいいけどねぇ」
女はニタリと気味の悪い笑みを浮かべて、ふたりに手を伸ばす。
「フィオナに触るな!」
怖くてしょうがないはずなのに、アクエスは女を睨み付けていた。
「あはははっ、このクランベルに楯突くなんて気に入ったよ。なら、ご希望通りにお前にしようじゃないか」
クランベルは標的を完全にアクエスに絞り、手を掴もうとする。ディアナな力を振り絞って立ち上がった。
「手を離しなさい、クランベル!」
「何をするのさ、邪魔をするんじゃないよ!」
渾身の力でクランベルを押さえつけようとするディアナだったが、逆に突き飛ばされてしまい、地面を転がった。
「ああっ!」
「ディアナ!」
アクエスがこちらに駆け寄り、泣きそうな瞳で見下ろしてくるのを霞んだ視界で見つめ返した。
「アク……エス………」
どんなに動いてと願っても、体は自分のものではないみたいに言う事を聞かない。
「もう面倒だね、お前でいいや」
「い、いやぁっ!」
クランベルはアクエスから興味を失うと、フィオナの腕を掴んで引きずるように大広間の出口へ向かう。
「フィ……オナっ……だ、め……」
必死に遠ざかるフィオナの背中へと手を伸ばし、霞む視界の中で見失わないよう目を見開く。
「フィオナ!」
「駄目だ!」
駆け出そうとするアクエスの体を、触手にやられたのだろう血だらけのキルダ王が強く抱き寄せた。
「お父様ぁっ、離して!」
「アクエス、駄目よ!」
アフィルカ様も泣きながら、アクエスを引き止める。アフィルカ様に怪我がないのを見ると、キルダ王がその身を呈して庇ったのだとわかった。
「嫌ぁっ、助けてお父様ぁ、お母様ぁ! アクエス、ディアナー!」
フィオナの悲鳴に耳を塞ぐアフィルカ様、悔しそうに歯を喰い縛しばり俯くキルダ王に、懸命に助けに行こうとするアクエス。
そして、何もできない自分がここにいる。
フィオナはこうして、なす術なくクランベルに連れ去られてしまった。
誰も言葉を発せず、動くことも出来ずに静寂だけが大広間に残る。
「……ごめ、なさい……っ」
息も絶え絶えで、ディアナは彼らに謝罪する。
(私は約束を果たせなかった、守れなかったんだわ……)
助けてとディアナの名を呼んだ、あの子を見殺しにしたのだと、後悔に胸が押しつぶされそうになる。
「謝るのは私の方だ、ディアナ。お前も酷い怪我を……」
確かに、この傷では助からないかもしれない。でも、このまま死ねない。フィオナを奪われたまま、なにも報復できずに死ぬことは許されないのだ。
この胸に湧き上がるのは、確かな憎悪だった。
「魔女……魔女がフィオナを……」
「アクエスしっかりして、お願いよ……」
アフィルカ様は虚ろな瞳で「魔女」と「フィオナ」の二つの単語だけを繰り返し呟くアクエスを泣きながら抱き締めた。
このままでは、アクエスは心を壊してしまう。せめて、アクエスの心だけでも守らなければと必死に思考を巡らせる。
そう、ディアナが彼らのために死ねないと思ったように、喪失を上回る強い感情がアクエスには必要だ。
そこまで考えて、閃く。そう、今ディアナの胸の中にも湧き上がっている黒い感情、それこそが喪失を上回るほどに強い感情ではないかと。
「アクエス」
名前を呼べば、倒れているディアナをアクエスの虚ろな瞳が見下ろしてくる。
これからすることが、果たして正しいことなのか否かはわからないけれど、他に名案も浮かばないのだ。
ディアナは身を切る思いで決断する。痛む傷を押さえながら起き上がり、引き攣りそうなる顔に笑みを貼り付けた。
「あなたの大事な人を奪ったのは、魔女。あなたは残虐な魔女にフィオナを奪われた。そしてその魔女は──私よ」
なるべく気丈に振る舞い、悪役を演じる。
そう、ディアナは彼の憎むべき相手になることを決めたのだ。
「お前がフィオナ……を……絶対に許さない」
その瞬間、アクエスの瞳に生気が宿ったのを見逃さなかった。
綺麗な金糸の頭髪、空のように澄んだ青の瞳。心優しい彼が今は悲しみに涙を流し、憎しみに心を奮い立たせている。
(あぁ、私は彼から光を奪ってしまったんだわ)
フィオナを守れなかったせいで、彼は憎しみを糧にこれから生きていかなければならない。こんな幼い子供に酷なことを強いている、その事実に胸が締め付けられた。
「お前……お前だけはっ……!」
ディアナを睨みつける瞳には、危うくも強い決意の光が見えた。
(私を憎んだらいい。それであなたが生きる意味を見いだせるというなら、甘んじて受け入れるわ)
最も愛しい人へ、最も悪意を込めてディアナは皮肉な笑みを浮かべる。愛したものを傷つけることが、こんなにも苦しいとは思いもしなかった。彼を抱きしめて優しくしたい衝動に駆られながらも、その場に踏みとどまる。
そして、彼の目に最も残酷な魔女に映るよう意識しながら、口を開く。
「ふふっ、私は破壊することに快楽を覚える魔女よ。憎みたいなら、憎みなさい」
今は生温い優しさよりも、憎しみという死ねない理由を与える方がいい。
(だから、さようなら私の愛しい王子様。私はこれから、あなたに憎まれる破壊の魔女となりましょう)
そしていつの日にか、憎しみ以外に生きる意味を見つけてくれますように、そんな願いを抱きながら、ディアナはアクエスの憎しみの対象となった。
あの後、彼らの前から姿を消してクリードルの森に戻ってきたディアナは深手を負っていたせいで森の入口で力尽きて倒れてしまった。そこでバウルや森の動物たちに助けられ、命を救われたディアナはバウルたちと家族のようにこの森で生活するようになったのだ。
『ディアナ、行かないのか?』
バウルに声をかけられて、思考に耽っていたディアナは現実に引き戻される。
「そうね、そろそろ行きましょうか。はい、変身薬よ」
胸元から小瓶を取り出して、バウルの口元にあてがう。これはディアナが調合した、万物にかりそめの姿を与える薬だ。
『これ、苦いんだよなぁ』
「良薬口に苦し、よ。我慢なさい」
『はーい、ぐフッ』
ディアナが流し込んだ薬を呻きながらも飲み干したバウルの体が、パァァッと輝いて姿を変えていく。
光は人の形を象り、ディアナが「バウル」と名を呼んだ瞬間、キィンッという音を立てて光が弾け、彼は狼の姿から灰色の髪に銀の瞳をもつ青年へと変わった。
「やっぱり、この姿は馴れねぇな」
バウルは髪をワシャワシャと掻き乱しながら、自分の姿を見下ろす。人間でいえば、二十歳前後の外見をしている美丈夫だ。
「まずは、服を着させないとまずいわね」
裸の男をこのまま町に連れていったら、大騒ぎになる。ディアナは苦笑いを浮かべながら、タンスの引き出しを開けた。以前、町に降りるために用意したバウルの服があるからだ。
バウルに服を着せて支度を終えたディアナたちは、ふたりで小屋を出る。
「私たち、黒いわね……」
森を抜けて町に入るまでの街道を進みながら、隣を歩く彼に声をかける。人間になるとバウルは、ディアナの頭二個分ほど背が高くなるので見上げるのが大変だ。
「そうか? それって、何か問題なのか?」
今話しているのは、ディアナたちの服装のことだ。ディアナは丈の長い漆黒のワンピースを身につけ、バウルも同じく黒色のシャツとズボン、ブーツ姿という逆に怪しくて目立ちそうな身なりをしている。
(久しく町に行っていなかったし……)
バウルは元々人間ではないから、この服一着しかない。ディアナも着慣れているのでつい、このワンピースを着てきてしまった。
「人間の世界では人が死んだ時に着る喪服という服があるの。それにそっくりで、あまり縁起がいいとは言えないわね」
「ふーん、よくわからないな」
この服装が喪服を連想させるという人間の感じ方は、狼にはない。ディアナも城で過ごした時間が無ければ、バウル同様に気にしなかっただろう。こういったマナーは、すべてアフィルカ様が教えてくれた。
「服なんて、隠せるもん隠せればいいだろ」
「あなたね……」
下品な言い方だけれど、バウルはふだん裸で生活しているのと同じだ。ディアナも男の裸ごときで慌てる歳でもないので、特に気にしてはいなかった。
けれど、こうして町に出る以上、彼には教養を教えてあげるべきなのかもしれない。
「人間って変だよな? こんな窮屈なモノを着てさ」
「私に同意を求めないで」
ディアナは魔女なので、どちらかといえば人間に類似した種族だ。彼のいう窮屈なものとやらを身につけなければ、裸で森を徘徊するという不審者になってしまう。
「私が裸で歩いていたら、色々まずいでしょう?」
「ディアナが裸? そりゃあいい、過ごしやすいからオススメだぞ」
「やっぱり、こうなるわよね……もう、あなたには聞かないわ」
(裸はバウルでいう普段の格好だしね、どうとも思わないわよね……)
人と狼では生活がまるっきり違う。それをとやかく言ったところで、種族が違うのだからしかたない。そう思うと、ディアナもよく人間と同じ生活が出来たなと思う。
「疲れたのか? 背に乗せていってやるよ」
(私の体の何倍もある大狼の背なら乗せていけるだろうけど……)
これから町に行くのに狼なんか連れて行ったら、男が裸で町を徘徊するより大騒ぎになる。
「そのままでいいわ、何でもないから行くわよ」
「ならいいけどよ」
(町に着いたら、新しいバウルの服でも買おうかしら)
ディアナは魔法薬に長けており、幸いにも薬で収入を得られている。魔女の薬は万能薬なため、高値で取引されるのだ。
もちろん、魔女は表立って町の人間には会えない。そのため、姿を隠して薬剤師と偽り薬を売っていた。
隣で鼻歌を歌うバウルは、久しぶりの肉に心を踊らせているのだろう。肉のことばかり考えている狼に呆れながらも、楽しそうにしているので連れてきたかいがあったな、と思う。
(それにしても、よりにもよってこの日に町に出ることになるなんて……)
今日はディアナにとっても、そして彼にとっても忘れられない日。そう、彼の二十五回目の誕生日なのだ。
どこか感傷深い気持ちで、ディアナはバウルと共に街を目指したのだった。
クラウンディーナ王国の城下町、フェルスナータへやってきた。
城下町ということもあり、フェルスナータはいつの時代も露店や月一で開かれるバザーで賑わっている。
ディアナは深緑の髪を隠すようにして、ワンピースの上から羽織っていたローブのフードを深く被った。
この大陸では金や茶色といった明るい系統の髪色や、白い肌が特徴的だ。海沿いの町や海を超えた先にある砂漠大陸には、漆黒の髪や小麦色に焼けた肌を持つ人間もいると聞く。
けれど、深緑の髪や瞳を持つ種族は世界中どこの国を探しても存在しないため、すぐに魔女だとバレてしまう。
「昔に比べて、随分と建物が増えたわよね」
あの事件から、十五年の月日が経った。変わった町の風景とは相反するように、ディアナの心はあの日に囚われたまま。彼にとっては長い、ディアナにとってはほんの一時の忘れられない惨劇。
そして、アクエスは今年で二十五歳になる。生きていれば、アクエスの対である彼女も同じように美しい女性に育っていたことだろう。
「フィオナ………」
クランベルが連れ去ったフィオナは、きっともう生きてはいないだろう。復讐したくても、ディアナはこうやって城から近いクリードルの森に身を潜め、鳥たちが教えてくれる城や町の情報を聞くことしか出来ない。
クランベルの行方は、この十五年間どこを探しても見つけることが出来なかったのだ。
「おばちゃん、この肉いくら?」
バウルは肉屋のおばあさんに、人懐っこく話しかける。バウルは群れからはぐれた大狼で、人に手当をされたことがあるらしい。なので、初めて出会った時も彼は傷だらけのディアナを襲おうとはしなかった。
「いらっしゃい、これは千クランだよ」
クランとは、この国の共通通貨だ。肉は五百グラムで千クラン、大陸が統一された今、漁業も盛んになって魚は一匹五百クランで買える相場になっている。
「それにしても、えらく美青年だねぇ! 少しまけて、九百クランにしてあげるよ」
「おぉっ! ありがとう、おばさん!」
バウルは人目も気にせずに、よだれを垂らしそうなほど肉に目を奪われている。
(そんなに目をキラキラさせちゃって……)
呆れ半分、可愛さ半分でいつも甘やかしてしまう。ディアナは顔を見られないように俯きながら、バウルにお金を渡した。
「おばちゃん、これ金ね」
「まいどあり〜。それより、そちらのお嬢さんは彼女かい?」
突然、おばあさんは意味不明な質問を投げかけてきた。ディアナは信じられない気持ちで、瞬きを繰り返す。
「彼女って確か、恋仲かってことだよな?」
バウルは空気を読めないゆえに、デリケートな話題をズケズケと聞き返してくる。
(普通、私に聞かないでしょう、ありえないわ)
呆れながら、ディアナはおばあさんに向かって首を横に振り、「私たちは家族です」と訂正した。
「それなら耳寄り情報だよ! 今日は城で黄金の王子アクエス様の誕生祭を開くらしい。しかも、婚約者選びを兼ねてるって話さ」
(黄金の王子……アクエスのことね )
アクエスは、この国では黄金の王子と称されている。なんでも、姿を見ただけで女たちが卒倒してしまうほど美しい青年だからだとか。
もちろん、アクエスがそう呼ばれるのは容姿だけが理由ではない。次代の王に相応しい才を持ち合わせているゆえの敬称だ。
この国は今でこそ情勢も落ち着いているが、数年前までクラウンディーナ国含む、全部で五つの小国がこの大陸で領土争いを繰り広げていた。
頻発する戦争によって時は戦乱の時代にあり、その中でもクラウンディーナ国は他国に囲まれる大陸の中心に位置する。そのため、大陸全土を手に入れようとする小国に真っ先に狙われる可能性があった。
それを危惧したキルダ王は北方に位置する隣国であり、クラウンディーナ国の背後に位置するナディア王国へ攻め入り、大陸統一への一歩を歩み出す。
そんな時、ナディア国との戦争でキルダ王が不在のクラウンディーナ国に好機とばかりに東のザルド国が攻め込んできたのが、アクエスが齢十八歳の時の話だ。
国王不在のクラウンディーナ国を守るため、アクエスは城に残ったわずか三千の兵でザルド国の五万の兵と対峙することになったらしい。絶望的な兵力差だったが、アクエスは剣の腕だけでなく頭もキレた。
ザルド国と剣を交えながら物資を燃やすよう指示し、一時退却すると長期戦で飢餓に追い込み、弱ったところを一気に叩いた。
この戦でクラウンディーナ国は北のナディア国と東のザルド国のふたつの領地を手に入れ、そこからは怒涛の勢いで西と南の小国も手中に収めると大陸の統一に成功し、ひとつの王国を築いた。
その栄光を称えて、アクエスは希望を意味する黄金の王子と呼ばれたのだ。
「婚約者……王子の年齢ならば、妻を娶ってもおかしくないですね」
むしろ、遅いくらいだ。この国では十八歳で成人として周りから扱われる。早い者では成人と同時に家庭を持つ者も少なくないのだ。
「城は開放されて、貴族様以外に私たちのような一般人も入れるらしいよ。だから、町の娘たちも色気づいてるのさ」
「本当に、耳よりの情報ね」
「お嬢さんも興味あるだろう?」
おばあさんの言葉は、曖昧に笑って流す。
(それにしても、婚約者候補を見つける誕生祭に一般人まで招待するなんておかしいわ)
他に目的があるとしか思えなかったディアナは、彼が無茶をしないかが心配でたまらなかった。
「おばあさん、ありがとう」
「あぁ、気をつけてね」
おばあさんにお礼をし、ディアナは考え込むように当てもなく歩く。そんなディアナを伺うようにバウルが見つめてくるのが、頬に感じる視線でわかった。
「……ディアナ、行くのか?」
バウルには、ディアナの考えはお見通しだった。彼はディアナの過去を知っているので、察することができたのかもしれない。
「えぇ、気になることがあるの」
生憎、見せびらかす場所もないため、美しいドレスなどは持ち合わせていない。
そのため、今日の誕生祭に紛れ込むためのドレスを調達するべく、ディアナは仮衣装屋を目指す。
「俺も行く、ディアナだけじゃ不安だ」
「あなたは駄目よ」
ディアナは即答で断る。それは意地悪とかではなく、バウルを危険に合わせるわけにはいかないからだ。今のアクエスはディアナのことを敵だと思っているので、バウルにも容赦なく剣を向けるだろう。
「どうしてだよ!」
「どうしてもよ……アクエスは剣にも長けてるの。あなたを守りきれる自信が、私にはないのよ」
フィオナを奪われた時のような、あんな思いは二度としたくない。もう誰も失いたくないから、ディアナは言っているのだ。
「また、死にかけるかもしれないだろ!」
バウルはきっと、出会った時の話をしている。血だらけで倒れていたディアナを、助けてくれたのが森に生きるバウルたちだったから。彼らがいなければ、ディアナは今ごろ死んでいたことだろう。
「……私は、あなたまで失いたくないの。聞き分けてちょうだい。あなたは私の唯一の帰る場所で、弱点なのよ」
「ディアナこそわかれよ、俺にとってもディアナは帰る場所なんだよ」
互いを想うからこそ、譲ることができないのだ。一度、寄り添って生きる心地よさを知ってしまうと、孤独には戻れないのが知能を持った動物の性なのかもしれない。そんなことを考えながら、ディアナは彼が納得してくれないかと、胸の内で願う。
「俺は強い、自分の身は自分で守れる。もちろん、ディアナのこともな」
「守るなんて簡単に言わないで。絶対なんて、この世にはないのよ」
そう、絶対なんてない。現にディアナは守れなかったのだ。助けてと自分の名を呼んだあの子のことを。
「ディアナ、あの頃はひとりだったかもしれない。でも、今は俺がいるだろう? ディアナの守りたいモノを俺も一緒に守るよ」
「…バウル、でも私は……」
(守って欲しくなんか、ないのよ……)
守ると言って守れなかった時の後悔も、自分を守るために傷つく痛みも、家族であるバウルには味わって欲しくない。
ただ、無事でさえいてくれればいい。そう、これは自分の我が儘だと、ディアナはわかっていた。
「ディアナがなんて言っても、俺は行くからな」
(この話は、無限ループになるわね)
頑として意志を固めてしまったバウルに、ディアナは諦めや不安の他に安堵もしていた。
本当はバウルがついて来てくれて、ほっとしているのかもしれない。矛盾しているな、と思いながら静かに頷く。
「ごめんなさい、バウル……」
「ありがとうって言えよ、ディアナ」
バウルはディアナが気にしないよう、わざと明るく振る舞ってくれていた。そんな気遣いをさせてしまったことを申し訳なく思いながら、その優しさに笑みを返す。
「ありがとう、バウル」
「おうよ!」
ディアナたちは仲直りをすると、肩を並べて仮衣装屋へと向かうのだった。
***
その頃、クラウンディーナ城の執務室では、クラウンディーナ王国第一王子であるアクエス・クラウンディーナが執務に当たっていた。
(考えなければならないことは、沢山ある)
この大陸がひとつの国になってから早五年。統一されたとはいえ、世界にはまだまだ数え切れないほどの大国が存在する。寝首をかかれないよう、父上が築きあげたこの王国を他国から守っていくのがアクエスの役目だった。
海に囲われたこの大陸は軍艦に囲まれれば逃げ場がなく、ひとたまりもない。
そのために海兵の軍力を上げて適切に配置し、警備を強めるなど考えることは底を尽きない。
そんな忙しさの中でも、決して消えない闇がアクエスの胸の中にある。
「今日で十五年か……」
アクエスにとっては長い、憎しみと後悔に溢れた十五年間だった。
しかし、あの魔女にとってはなんてことない一瞬の余興なのだろうと思うと、腸が煮えくり返りそうになる。
執務室の椅子に座りながら、アクエスは金の髪を掻き上げ、青色の瞳を窓の外へと向ける。
視界いっぱいに広がる青空に一瞬、花びらが舞っているように見えて頭を左右に振った。
「ぐうっ……」
そして、すぐに襲ってくる頭痛に奥歯を噛み締め耐える。
妹のフィオナを魔女に奪われたショックからか、アクエスはその時の記憶を失っている。以来、時々こうして頭痛を伴う幻覚を見ることがあった。
あれから、なんの手がかりもないまま時だけが過ぎ、アクエスは今日で二十五歳になった。
父上であるキルダ王は悲しみから目をそらすように建国に尽くし、母上であるアフィルカ王妃は塞ぎ込んでめったに部屋から出てこない。
「魔女め、必ずこの手で殺してやる」
(俺たちの幸せを奪ったあの魔女を、絶対に許さない)
あの魔女をこの手にかける瞬間を、何度も何度も夢に見た。それほどまでにアクエスの憎しみは深く、魔女という種族を根絶やしにしてやりたいとさえ思っている。
「アクエス様、顔色が悪いようですが気分が優れないのでは?」
「……セバスチャン、部屋はノックして入れ」
アクエスは、振り返らないまま答えた。
「面倒ですので」
相手を敬わない敬語でそう言ったのは、浅黒い肌に漆黒の髪を持つ金の瞳の青年、セバスチャン。
見かけこそ執事だが、本職は盗賊の頭だ。無作法な盗賊をわざわざ執事に雇ったのには、理由がある。アクエスの悲願に必要な強さを、この男が持っていたからだ。
「お前の正体が、バレたらどうする」
「さぁ? その時はアクエス様の人選ミスだった、ということで」
メガネをクイッと押し上げてニヤリと笑うセバスチャンに、アクエスは何度目かわからないため息をついた。
(まぁ、信頼できる唯一の存在だからな)
多少無礼だろうが、素行が悪かろうが、手放す気はない。
腹立たしいことに、この男は剣の腕に長け、戦闘の場数を多く踏んでいることから、城の兵士より断然強い。アクエスも剣には自信があるが、セバスチャン相手では手こずるだろう。
「いよいよですね」
セバスチャンは仕える王子の横に並び、同じように窓の外から見えるトルコ石のような空を見上げた。
「ああ、今日はあの魔女をおびき寄せる」
「あの人質を使うのですか?」
セバスチャンの言う人質というのは、数日前に捕らえた魔女の少女のことだ。姿こそ幼いが、あの忌々しい魔女と同族。残虐な一面を隠し持っているに違いない。
それに、フィオナを攫った魔女と何か関係があるかもしれない。あの魔女を罠にかけるために人質は有効活用するつもりだ。
そんなアクエスの考えを読み取ってか、セバスチャンは「怖いですねぇ、アクエス様は」と笑う。
「あの女を殺すためなら、なんだってやる」
「その時の記憶を失っているというのに、憎しみの対象だけは忘れないなんて……さすがは黒王子」
「なんとでも言え」
医者からはショックによる記憶喪失と告げられたが、皮肉なことに憎しみだけは胸の中に根深く残り、アクエスを動かす原動力となっていた。
「セバスチャン、行くぞ」
アクエスは話しているうちに暮れようとする空に気づくと勢いよく椅子から立ち上がり、迷いなく扉に向かって歩き出す。
あの日から止まったままの時間を、今宵進めるために。
「仰せのままに、我が王子?」
「俺以外は、敵と思え」
わざとらしく、恭しい態度をとる執事にアクエスは忠告する。ここから先は戦と同じだ。初めて戦場を駆け抜けた、あの高揚感と血のたぎりをアクエスは感じていた。
「もとより、あんた以外は信用してないよ」
いつもの口調に戻るセバスチャン。この男の敬語が砕けるのは、偽りのない本心を語っている時だけだ。
「魔女狩りの時間だ」
そしてアクエスたちは、大広間を目指す。
憎しみが自分を冷酷な男にしたとしても、前に進むことをやめられないのは、そこに希望という変化があると信じているからだ。
この道が人々の言う栄光の王子像からかけ離れていたとしても、安らぎなどない修羅の道であっても、進むことをやめはしない。
あの魔女をこの手にかけるその時までは、立ち止まるわけにはいかないのだ。
***
クラウンディーナ城の大広間では、優雅な音楽に豪華な食事、黄金で出来たシャンデリアの輝きの下、美しく着飾った男女が集まっている。きらびやかなドレスに身を包む女たちは、おとぎ話にもありそうなロイヤルウエディングを夢見て、キョロキョロと運命の男を探していた。
着飾っているせいか、身分の差がわからないほど誰もが令嬢のように美しく高貴に映る。
この光景は今も昔も変わらない。十五年前にアクエスとフィオナと踊った、あの日の記憶が蘇って来るようだった。
それにしても、先ほどから気になっていることがある。
「おーっ、あれは極上霜降り肉だろ、うっまそー!」
彼にとっては初めての場所なのだから、はしゃぐ気持ちもわからなくはない。
けれど、今は偵察に来ているのだ。正体を知られでもしたら、下手したら命のやり取りに発展するかもしれないくらい危険な場所でもある。
これでは目立ってしょうがないので、ディアナは食欲旺盛な狼を注意することに決めた。
「バウル」
「お、あれはなんていう食べ物なんだ──って、なんだよディアナ、怖い顔して」
執事服に身を包んだバウルを、ディアナは咎めるように睨んだ。
「なんだ、じゃないわよ。肉のことではしゃぎすぎよ、周りから怪しまれるでしょう?」
そう、バウルは執事ということにして連れてきている。婚約者選びも兼ねた誕生祭に、同伴の男を連れて行くのは返って不自然だと思ったからだ。
(でも、バウルでは役不足だわ)
執事というより、我が儘坊ちゃまという感じで明らかに浮いている。
「あれが美味そうなのが悪い!」
「声が大きいわよ、黙って!」
広間の隅の方で、バウルと小声の言い争いをする。その間も心臓はバクバクと騒いでいた。
(アクエスが、私に気づくことはないわよね……)
今は魔女の特徴である深緑の髪と瞳を変化薬で、どこにでもいそうな茶色に変えている。服装は仮衣装屋で借りた深い青色のイブニングドレスに、ダイヤの首飾りを身に着けていた。
ここまで変装すれば気づかれるはずがない、それなのに心臓が煩い。
(私は怖いのかもしれない、アクエスに会うことが……)
受け入れたのは自分なのに、愛しているから憎まれるのはやっぱり辛かった。
「それでは、アクエス王子の登場です」
ドクンッと、心臓がひときわ大きく跳ねた。パチパチと拍手が起こり、ディアナの緊張が最高潮に達する。
大広間には「黄金の王子よ!」、「会いたかったわっ」、「本物にあえるなんて、夢みたいよね」と、あちこちから歓声が上がった。
あれからアクエスはどんな青年になったんだろうか、憎しみにあの笑顔を失ってしまったのだろうか。
(なんにせよ、私にはもう笑いかけてはくれないのよね)
そう考えると、悲しくて涙が出そうだった。知らぬ間に俯いていたディアナの顔をバウルがのぞき込んでくる。
「……大丈夫よ」
自分に言い聞かせて、小さく笑ってみせた。そこに彼の幼い頃より遥かに低く、意志の強さを宿したバリトンの声が響く。耳に届いた懐かしい彼の声に、ディアナはゆっくりと視線を向けた。
「みんな、今日は身分も何もかもを忘れて楽しんでくれ。遥々、城に来てくださったことに心から礼を言わせてほしい」
静かな笑みをたたえる青年は金糸の髪に映える碧眼の持ち主で、目鼻立ちも美しい。その見目麗しい王子が身につけるのは、ネイビーの生地に金の飾緒や袖口、裾に至るまで華美な装飾がなされた上着と黒のパンツに革のブーツを履いた王族の正装。見る者すべてが、王子の姿にほうっと恍惚の息をつくほどだ。
ディアナもその姿を目に捉えた瞬間、息が止まるかと思った。
「ああっ……」
(アクエスだわ……)
ディアナは思わず声を漏らし、とっさに口元を両手でおさえる。
(あんなに立派になって、できれば傍で成長を見届けたかった)
耐えきれず涙が頬を伝い、こぼれ落ちてしまう。会えて嬉しかったはずなのに、胸が苦しい。
それはアクエスの浮かべる笑みが、明らかに質を変えてしまったからだ。あの頃は無邪気な太陽のように笑っていたのに、今は冷たい氷のような作り物の笑みを浮かべている。
「私のせいだわ……」
(私はアクエスから笑顔を奪い、憎しみを与えたのよ)
彼から心を奪った罪は重い。彼に背負わせたものを目の当たりにして、自分の犯した罪に胸が苦しくなった。
「ディアナ、泣くな」
バウルはディアナに顔を近づけ、狼の姿でもよくしたように涙を舐め取る。今は人間なのに、と文句を言おうとしたが出来なかった。ひとりでこの痛みに耐えるのは、辛すぎるから。
「ありがとう、バウル。私には、あなたがいるものね」
無理やり笑みを作り、ディアナはアクエスを見上げる。壇上の彼はきっと気づかないだろう。憎むべき相手、ここにいるだなんてこと。
「バウルは、あそこで控えていて」
ディアナは執事が控えている壁際を指差す。
「わかった、でも無茶するなよ?」
心配してくれるバウルに、「わかったわ」と答える。
そして、安心させるように彼の銀の髪を撫でてやると、ディアナは早速ダンスを踊る女たちに紛れて怪しい者がいないかを探した。
(……今のところ、怪しい人間はいないわね)
それでも油断は出来ない。クランベルが紛れ込んでいる可能性もあるので、ちゃんと見張っていなければと参加者の行動を一人ひとり確認していく。
「失礼、私と踊ってくれないだろうか」
「えっ……?」
突然、目の前が陰った。顔を上げると、そこには今一番会いたくて会いたくない人が立っている。
(嘘、どうして……)
信じられない思いでその姿をまじまじと見つめる。
「アクエス……王子……」
そこにいたには、あの頃よりずっと大人になったアクエスだった。不意打ち過ぎて呼び捨てにしそうだったところに、慌てて王子をつける。
ディアナはただの招待客だ。名前で呼んだりしたら怪しまれてしまうので、自分で言って肝が冷えた。
「駄目だろうか?」
手を差し出したまま困ったように笑うアクエス。思わず泣きそうになりながら、ディアナは無意識にその手をとった。
「もちろんです、アクエス……王子」
「それはありがたい、美しい姫と踊れるなんて光栄だ。さぁ、お手をどうぞ」
(姫……アクエスは幼い時も私をそう呼んだわね)
歯の浮くようなセリフも、アクエスは言える歳になったのだ。彼の成長を嬉しく思いながら、手を重ねて自然と身を寄せ合う。それを合図に音楽が始まると、ゆっくりダンスが始まった。
「ダンスは初めてか?」
「あ……前に一度だけ、あります」
(ダンスは、あなたとフィオナが最初の相手よ)
ディアナがふたりのどちらとダンスをするかで喧嘩して、結局三人で仲良く踊った幸せな記憶が蘇ってくる。あの日を一とカウントするならば、これは二回目のダンスだった。
「そうか、だからうまいんだな」
「ねぇ、アクエ──」
(アクエス、あの時のことを覚えてる?)
そう言いかけて、口をつぐんだ。
自分は今、何を聞こうとしたのだろう。本来であれば言葉を交わすことすら許されないのに、そんなことを聞いたって何も変わらないというのに。
「どうした?」
「いえ、何も……」
不自然に黙り込んだディアナをアクエスは不思議そうに見たけれど、気づかないフリをした。何も言わずに、曖昧に微笑んで誤魔化す。
(普通に話せることが嬉しくて、気が緩んでるんだわ……。しっかりしなきゃ、まだなにも解決していないんだもの)
そう気持ちを引き締めた時、視界の端に深緑の髪が過ぎった気がした。
「えっ……」
見間違いだろうか、ダンスをしながらすれ違った女性の髪が深緑に見えた気がしたのだ。
(でも、気のせいじゃなかったら……?)
脳裏に浮かぶのは、自分と同じ魔女のクランベルの姿。振り向こうとした時、それがただの気のせいじゃないと思い知らされる。
「久しぶりだねぇ、ディアナ」
人を嘲けるような不快な声が耳に届く。ずっと憎み続けてきたのだ、忘れるはずもない、それはクランベルのものに間違いなかった。
(やっぱり、この城の人間になにかするつもりなんだわ!)
そう思ったディアナは「待ちなさい!」と叫びながら駆け出そうとした。
しかし、それを阻むように手首を強い力で掴まれる。その一瞬でディアナはクランベルを見失ってしまい、自分の動きを封じたアクエスを咎めるように睨んだ。
「どうして止めたの、離しなさいっ!」
「どこへ行くつもりだ?」
アクエスの射抜くような視線に、ゾワッと身の毛がよだつ。感じるのは明らかな殺気で、掴まれた手首にはどんどん力が入る。
「くっ、痛いわよ」
「魔女だな、お前」
アクエスは冷たい眼差しでディアナ見下ろすと、一寸の迷いもなく魔女と呼んだ。
「うっ……私の正体に気づいてたの……?」
(ということは、これは私を捕まえるための罠?)
そうだ、始めからおかしかった。ここへ入城する時に身分の確認もない、アクエスが自分を真っ先にダンスの相手に誘うのも全てがうまくいきすぎていた。
「最初から、私を疑っていたのね」
「お前たち以外は、事前に身分の掲示をさせているからな」
(……やられたわ)
アクエスは怪しい人間、つまり事前に身分の掲示を受けていない人間が誕生祭に来てもそのまま入城させるように指示を出していた。ちろん、泳がせて魔女という証拠を掴むために。
アクエスの頭がキレることはわかっていたはずなのに、こんな罠に引っかかるなんて気が緩んでいた証拠だ。
バウルの方をチラリと見ると、すでに大勢の兵に武器を向けられている。
そんな時、バウルが静かに見つめ返してきた。おそらく、お前の判断に任せる、という意味なのだろう。
「アクエス様、人質を連れてまいりました」
今度はメガネをかけた浅黒い肌に、揃いの黒髪と金の瞳をもつ青年が現れる。
誕生祭に参加していた町娘や貴族たちは、何事かと緊張の面持ちでこちらを遠目に見つめていた。
「ここに連れてこい、セバスチャン」
(一体、何をするつもりなの……?)
成り行きを見守っていると、アクエスの命令でセバスチャンと呼ばれた青年が鎖を引っ張り、誰かを連れてきた。
「これでいいてすか?」
セバスチャンは乱暴に、その誰かを床に転がす。始めは囚人かと思ったのだが、その姿があまりにも幼くディアナは言葉を失った。
そこに投げ出されたのは、深緑の髪と瞳を持つ少女だったのだ。
(ま、魔女の子供?)
同族の生き残りに会ったのは、クランベル以来だ。自分の目を疑いつつ、言葉を発さずに床に倒れている少女を見る。
その手足には鞭で打たれたような痕や、鎖による擦り傷がある。ディアナの頭には、拷問の二文字が浮かんでいた。
(これをアクエスがやったというの……?)
ズキリと胸が痛みに悲鳴を上げそうになる。
ディアナに花の魔法薬をせがみ、笑っていた少年はもうどこにもいない。憎しみを糧に生きたせいなのか、彼は幼い魔女の娘を見ても平然と冷たい目を向けている。
彼にとって魔女は、すべてが同じくくりなのだ。フィオナを攫った魔女ではなく、種族として憎んでいるのだろう。
「魔力に反応し、引っかかると思った。見事にあたりだったな」
魔力なんてセンサーみたいな力はないが、アクエスはそこまでしても魔女を殺したいのだと思った。彼の冷酷な笑みを見つめながら、自分の罪をまた思い知る。
「あなたを壊したのは……私ね」
「何を言っている?」
アクエスは怪訝そうな顔をすると、いきなりディアナの顎を掴んだ。恐ろしく整った彼の顔に至近距離で見つめられ、ディアナの心臓が早鐘を打つ。
「いいか、魔女」
彼のバリトンの声が響き、ディアナの体に甘い痺れが走る。アクエスは魔女の私でさえ美しいと思うほどの、美丈夫に育っていた。
こんな時に、とは思うが、不覚にもときめいてしまう。
「魔女は、根絶やしにする」
「っ、そう……」
アクエスが放ったひと言。それは甘美なセリフとは程遠い、残酷な宣告だった。ディアナは胸がチクチクと痛むのを堪えるように、唇を噛み締める。いつまでも、幸せな過去な記憶に縋ってしまう自分が情けなかったのだ。
「アクエス、これはなんの騒ぎだ」
唐突に、威厳のある声が響き渡る。 大広間の空気はいっそう張り詰め、成り行きを見守っていた誕生祭の参加者たちが息を呑むのがわかった。
(この声は、まさか……)
聞き覚えのある声に振り返ると、そこには少し老けたキルダ王の姿があった。
「あなたは、キルダ王……」
「お前は……まさか!」
かつて、ディアナが約定を交わした存在。キルダ王も魔法薬で姿を偽っているとはいえ、名前を呼んだディアナの存在に気づいたようだった。
「ついに魔女を見つけたのですよ、父上」
アクエスは私の顎から乱暴に手を離すと、自慢げに父王を振り返る。しかし、キルダ王は眉を顰めると鋭い眼光でアクエスを射抜く。
「その傷だらけの少女は、お前がやったのか」
キルダ王の咎めるような口調に、アクエスは特に悪びれる様子もなく「そうですが?」と答える。むしろ、片眉を持ち上げて、なぜそのようなことを自分に問うのかと、得心のいかないような顔をした。
「魔女が全て悪では無い。そのような横暴、許した覚えはないぞ!」
キルダ王が激高すると、空気が震えた。大広間にいた人間は、あまりの剣幕に倒れる者まで出たほどだった。
それもそうだろう、キルダ・クラウンディーナは大陸統一という偉業を成し遂げた覇王なのだから。
「フィオナを奪った魔女は、全て悪です!」
アクエスの悲痛な声に、胸が締め付けられる。その場にいた人間全てがキルダ王の纏う威圧感に動けずにいる中、ディアナは考えていた。
(こんなに大勢の目がある中で、王家の人間が言い争うのはよくないわ)
怒りの矛先は、自分にだけ向けばいい。そう思い立ったディアナは十五年ぶりに再会した愛しい子に向けて、意地悪い笑みを浮かべる。
「会いたかったわ、アクエス」
「おのれ、魔女……って、おい! どこへ行く!」
素早くアクエスの腕から抜け出したディアナは、大広間の中央へ駆けていくと立ち止まる。
すぐさま透明な液体が入った小瓶を胸元から取り出し、自分の体にふりかけた。
すると、まばゆい光と共にディアナの茶色の髪と瞳は、元の深緑へと戻っていく。これはクリードルの森にある泉の水で、あらゆるものを浄化する自然の治療薬なのだ。
「お前……は………」
アクエスは驚きと憎しみを入り混ぜたような、複雑な瞳でディアナを捉えた。なにか、この人の怒りを焚きつける言葉を言わなければ、と思考を巡らせる。
なのに、言葉は喉につかえてしまう。あの時は言えたのに、まだわかり合えると期待しているせいなのか、彼を傷つける言葉が出なかった。
「お前を殺すために、俺は……っ」
アクエスが腰に差していた剣を鞘から抜き、構える。刃から放たれる銀の閃光に、ディアナは目を細めた。
「ディアナ、生きていたのだな」
剣先を向けられながら、ディアナは声をかけてきたキルダ王を見やる。彼はホッとしたような、穏やかな眼差しをこちらに向けていた。
(キルダ王……私を心配をしてくれているのね)
でも、自分がまたキルダ王の名前を呼べば、この国の王は魔女と繋がりがあると勘ぐられてしまう。それを懸念したディアナは、キルダ王の威厳を守るために沈黙を貫いた。
「アクエス、剣を収めろ。これは王命だ」
「父上、なぜ止めるのですか!」
「まだ言えぬ。だが手を出せば、お前はきっと後悔するぞ」
ふたりのやり取りを聞きながら、ディアナはバウルに目配せをした。それにすぐ気づいたバウルは、ひとつ頷いて行動に出る。
「よっと!」
バウルは床に転がされていた魔女の少女を小脇に抱えると大きく飛翔し、ディアナの隣に降り立つ。本来は町で買い物をしてすぐに帰ってくる予定だったので、魔法薬の効力が切れかけているのか、バウルは姿こそ人だが狼の耳と尻尾が現れてしまっていた。
バウルの人間離れした動きに「なんだ、化物か!」、「宙を飛んだぞ!」と兵たちが騒ぎ出す。参加者たちの悲鳴もこだまする中、ディアナはアクエスとキルダ王を見つめた。
(さようなら……)
もう二度と顔を合わせることもないとは思うけれど、また会うことが出来て嬉しかった。そう心で別れを告げると、ディアナはバウルにも泉の水をふりかけた。
『ワォォォーーンッ!』
バウルがオオカミの姿に戻るも、ディアナは少女を抱きしめて一緒にその背に跨る。
「さようなら」
ディアナの涙交じりの声が駆け出したバウルの起こす風に消える。背中越しにアクエスの静止の声が聞こえた気がしたが、決して振り返ることなくディアナたちは森へと帰るのだった。
***
魔女たちが姿を消したクラウンディーナ城の広間は、水を打ったように静まり返っていた。セバスチャンが避難させたため、この場所に招待客はひとりも残っていない。いるのは我が城の兵や大臣などの関係者のみだった。
「……クソッ!」
アクエスは耐えきれない怒りに身を震わせた。ずっと探し続けていた、殺したいと願っていた相手をみすみす逃してしまったからだ。
爪が手のひらに食い込むほど、アクエスは拳を握りしめる。
「あと少しだったというのに!」
なぜこんなにも、苦しいのか。あの魔女を見た瞬間、悲しくも嬉しいなどと、わけのわからない感情を抱いた。
「この、言葉に形容しがたい気持ちは一体なんだというのだ!」
アクエスの怒鳴り声が、大広間に響く。
ふと、『なら、三人で踊ったらいいじゃない、ほら』と、どこからか柔らかい声が聞こえた。それと同時に、見たこともない映像が脳裏に浮かび上がる。
あれは誕生祭、左手はフィオナと手を繋ぎ、右手も……誰かと手を繫いでいるのに、姿は見えなかった。
それから三人でくるくると回りだした。
(そう、この時は楽しかった……)
フィオナもいて、なにより顔も思い出せないあの人と手を繋げたのが、何よりも嬉しかったのを覚えている。
「ぐうっ……」
突然、頭痛にみまわれたアクエスは床に片膝をつき、額を押さえた。
(くそっ、幻覚に心乱すなど……弱者がすることだ)
「俺は……俺は弱くなんかない」
もう、あの頃の弱い子供ではない。好きな女が目の前で傷ついたとしても、この剣で守れる。
「いや、俺はなにを言って……好きな女など、生まれてこの方──」
そこまで考えて、本当にそうなのだろうかと疑問符が浮かぶ。記憶を失う前の自分には愛する女性がいたのではないか、と。
(俺は何を忘れている……?)
あの女のこともそうだ。あの女は敵のはずなのに姿を見た途端、理解し難い愛しさにも似た切ない感情に胸を押しつぶされそうになった。
「アクエス様!」
「っ──悪い、取り乱した」
名前を呼ばれてハッ顔を上げれば、セバスチャンが顔をのぞき込んでいた。アクエスは乱れていた呼吸を整えると、気持ちを落ち着けるように静かに息を吐く。
「まったく、心配シマシタヨー」
「おい、感情がこもっていないぞ」
(相変わらず、酷い棒読みだな)
失礼極まりない執事に呆れながらも、アクエスは額にかいた汗を手で拭い、立ち上がる。
「迷ってる暇などない、あいつは……俺の敵だ」
迷いは判断を鈍らせ、そして心を弱くする。だからアクエスは、余計な考えを頭から除外することにした。
「アクエス……真実を見据えろ。そして、見かけに囚われず本質を見抜くのだ」
セバスチャンと共に広間を後にしようとするアクエスの背に、父上の声がかかる。アクエスは足を止めて、顔だけで振り返った。
「……父上が何を隠しているかは存じませんが、俺は俺の意志で前に進むだけです」
あの事件のことをどんなに城の者に尋ねても、誰も語ってはくれなかった。だからこそアクエスは自分の正しいと思う道を探し、真実を求めてここまできたのだ。
(もう、父上すら俺を止められはしない)
一度も振り返らず、アクエスは大広間を後にする。たとえ誰に止められようと、自分の信じた道を進むために。
***
「酷い傷だわ……」
クリードルの森にある家へと戻ったディアナは、連れてきた少女を年季の入ったソファーの上に寝かせた。
『なぁ、こいつもディアナみたいに魔法薬とか使ってよ、戦えなかったのか?』
バウルは薬草が入った器を口に咥えたまま、器用に尋ねてくる。
「この子がはぐれ魔女ならば、師もいないかもしれないわ」
魔女は生きる術である魔法薬の知識がなければ、外敵から身を守れず、生きてはいけない。
少女は見た目、人間でいう十五、六歳の容姿をしている。おそらく、少女はまだ百年程しか生きていないだろう。魔女から見て百年は子供の領域で、薬学を学ぶ者としてはまだまだ半人前。膨大な魔法薬の種類を理解し扱えるようになるには、最低でも三百年は必要だといわれている。
「とりあえず、この子の傷を癒やすのが先ね」
ディアナは薬を作る際に使う木製の作業台に鉢を用意すると、手際よく薬草や他の材料を細かくすりつぶす。
「ユニコーンの涙にクコの実、これを泉の水で溶いたら出来上がりよ」
ドロッとした緑色の液体──薬を水差しに移す。そして少女の上半身を抱き起こすと、唇に水差しの口をあてた。
『すげぇ傷だな、治るのか?』
「私を誰だと思ってるの、大丈夫に決まってるわ」
(必ず治してみせる。そうしたら、この子を傷つけたアクエスの罪も、少しは軽くなるかもしれないから)
魔女であろうと、子供を傷付けた罪は重い。
けれど、アクエスがあのように魔女に酷い仕打ちをするようになってしまったのは自分のせいだ。だからディアナは、目の前の少女に許しを乞うように器を傾ける。どうか死なないでくれと、祈るように少女を見守っていると、その喉がゴクリと動いた。
少女が薬をすべてを飲み干すと、体の傷がジワジワと塞がっていった。
「バウルは怪我してない?」
『俺か? この通りピンピンしてるぞ」』
安心させるように笑うバウルに、ディアナも頬を緩める。ふたりで無事に帰ってこれたことに、心の底から安堵していた。
「う……ん……」
しばらくすると、少女が目を覚ました。ディアナたちの存在に気づくと、怯えるように体を震わせる。水差しを作業台に置き、再び少女の前にしゃがみ込んだディアナは安心させるように笑ってみせた。
「大丈夫よ、私もあなたと同じ魔女だから」
証明はこの深緑の髪と瞳で十分だろう。すると、少女の顔に安堵の色が見え、小さい笑みが返って来る。
『ディアナが治してくれたんだ、よかったな!』
「はうっ」
突然バウルに話しかけられた少女は、ビクンッと肩を揺らして仰け反った。
「彼は大狼のバウル、私の家族みたいな存在よ」
「オオカミ……一緒に暮らしているのですか?」
狼に食べられたりしないのか、という少女の心の声が聞こえてくる。動物と意思の疎通を図れても、相手は肉食動物だ。ディアナたちのように共存しているケースは珍しいだろう。
ディアナは肯定の意味を込めて頷く。
『大広間では人間の姿だったんだぞ、覚えてないか? あの時はディアナの魔法薬で人間の姿にしてもらってたんだ』
「すごい……すごいです! そんな魔法薬まで作れるなんて!」
少女は驚きと感動が入り混じったような、キラキラと輝く瞳でディアナを見上げる。
「魔法薬は料理と同じ。知識と手際と加減を経験から学べば、ものにできるわ」
「でも私、すぐにはぐれ魔女になっちゃったから、知識なんて全然ないんですが……私にもできるでしょうか?」
はぐれ魔女は師に捨てられるか、魔女狩りに合うかして、魔法薬の知識を得られないままに孤立した魔女のこと。家族という概念を持たない魔女にとって、生きる術である薬学を知らないとなれば待つのは死だ。
『なら、ディアナに教えてもらえばいいだろ? なんてったって、優秀な魔女様だからな』
「本当ですか!?」
バウルの言葉に、彼女は勢いよく立ち上がる。でもすぐにふらついてしまい、ディアナは慌てて少女の体を抱きとめた。
「傷は塞がっても、病み上がりには違いないのよ? 無茶しないで、横になってなさい」
「は、はい……」
ディアナはもう一度、少女をソファーに横たえる。
「あの……わ、私っ! ずっと魔法薬が作れるようになりたかったんです!」
「うっ……」
(正直、面倒だけれど……)
その輝く瞳を見たら断れなくなってしまったディアナは、仕方ないと小さくため息をこぼす。
「わ、わかったわよ……」
この子には、きっと住む場所もない。さっきも言った通り、はぐれ魔女のゆく末なんて人間に殺されるか、飢えて死ぬかのどれかだ。
助けたい、そう思えるようになったのは、孤独を埋めてくれたアクエスたちとの時間があったからなんだろう。
「私、ユンファと言います。ありがとうございます、師匠!」
『ユンファ、傷が治ったら森を案内してやるよ!』
「はい! とっても嬉しいです!」
(バウルもユンファも勝手に話を進めて……)
なんて言いながら、家族が増えることにディアナの心ははしゃいでいた。ただ、本当のことを口にするのは恥ずかしいので、悟られないようにふたりに背を向ける。
「ユンファ、ご飯作るから手を洗ってきなさい。バウルはユンファが転ばないように支えてあげて」
それだけ言い残し、台所へと向かう。そんなディアナの後ろでは──。
「はいっ!」
『おいディアナ、今日は肉だよな、肉!』
そんな騒がしい声が聞こえる。これからこの家も賑やかになりそうだな、と自然にほころびそうになる口元を慌てて引きしめる。
(忘れては駄目。私にはまだ、すべきことがあるのだから)
アクエスを不幸にした自分が幸せになることなど、許されないのだ。
とはいえ、一度知った幸せほど簡単には手放せない。
ディアナは痛む胸をそっと服の上から押さえると、気を紛らわすようにバウルのリクエストでもある肉料理を作ることに集中した。
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