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4章 15年越しのプロポーズ
アクエスと想いを確認しあった次の日の朝、ディアナの寝室には薬剤師の仕事がある薬室のふたり以外、麻薬事件の収束に奮闘した面々が集まっていた。
「セバスチャン、クランベルがバジル大臣の邸に出入りしている件について詳しく聞かせろ」
本題を切り出したアクエスが腰掛けているのは、背もたれに象嵌が施されたローズウッド材の椅子だ。モケット生地の座面と合わさって、どこか高級感を感じさせる。
いや、黄金の王子の名を欲しいままにするアクエスが座るからこそ、椅子の品が上がるのだろう。
「かしこまりました、王子。それでは──」
セバスチャンは恭しくお辞儀をして、アクエスの前へ出ると報告を始めた。
「バジル大臣の邸に私の有能な部下を張り込ませておきましたところ、大臣はあの魔女と頻回に接触しておりました」
「有能な手下って、盗賊の仲間のことか」
アクエスは厳しい眼差しを十五年連れ添った執事に向けたが、セバスチャンはニッコリ笑ってあくまで「有能な部下です」と言い切る。
詳しい事情はわからないけれど、この執事がただ者じゃないことだけは確かだ。
「バジル・グラッセといえば、この国が統一される前に東に位置したザルド国の王族だったようですね。魔女と手を組み、城に麻薬を持ち込んだ理由にしては十分でしょう」
「ザルド国か……それなら、俺が狙われる理由は十分にあるな。現にあの小国の軍は、俺が直接兵を率いて撃退した」
アクエスは腕を組んで難しい顔をする。その視線はここではないどこか、過去を振り返っているようにも見えた。
「じゃあ、今回のことはバジル大臣の逆恨みか?」
変身薬で人の姿になっているバウルが、ディアナの腰掛けているベッドの上で胡座をかきながら声を上げる。
ディアナはみんなの話を聞きながら、どうしても魔女であるクランベルが大臣に手を貸している理由がわからなかった。
「バジルの目的はそうかもしれないけれど、クランベルがあなたを狙う理由はなにかしら」
魔女は基本的に等価交換で約定を結ぶ。クランベルがバジル大臣から得るもの、それはなんなのだろう。
(なんにせよ、私がアクエスを守らなくちゃ)
考え込んでいるところに「ディアナ」と名前を呼ばれる。視線を向ければ、涼しげな瞳を細めてこちらを見つめるアクエスと目が合う。
「眉間に皺が寄っているぞ、ひとりで思い詰めるな」
「アクエス……」
「もうお前はひとりじゃない。悩むなら共に策を考えよう」
そのひと言には彼の愛情がたくさん詰まっていて、ディアナは胸が熱くなる。優しい眼差しを向けられるだけで、憎しみあっていた時に感じていた切なさが薄れていく気がした。
「ありがとう、アクエス」
胸がいっぱいになって、声が震えてしまった。そんなディアナにアクエスはますます目を細めて、「気にするな」と笑ってくれる。
「話を戻すが──クランベルは高貴な魂が器を満たす最後の贄だと言っていた。この言葉に、なにかヒントはないだろうか」
ディアナを励ますために、脱線した話題の軸を戻したアクエス。彼の言う器の話はディアナもその場にいたので聞いていたのだが、意味がわからないのだ。
その場にいた全員が頭を悩ませていると、ユンファが突然「あ!」と声を発する。
「ユンファ、どうかしたの?」
視線がユンファに集まる中、ディアナが代表してみんなの頭に浮かんでいるであろう疑問をぶつける。
「あのっ、師匠がくれた薬学書で見たことがあるんです!」
「……なんですって?」
彼女はたどたどしく伝えてくれたのだが、いちばん肝心なところ、“なに”を見たのかを言い忘れている。でも話の流れからするに、どうやら薬学書にクランベルの残した言葉に通ずるモノが記されていたようだ。
あの本のことはすべて頭に入っているはずだった。
けれど、そう過信しすぎて見落としていたモノがあったのかもしれない。
「えーと、確か……」
ユンファは荷物から分厚く年季の入った薬学書を取り出し、ディアナのいるベッドの上に広げた。その様子を近くで見ようとアクエスは椅子から立ち上がり、側にやってくる。
ユンファはパラパラとページをめくり、「あ、これです!」と元気よくページのある一節を指でなぞった。
「これはっ──禁薬!」
彼女が開いたページを、みんなでのぞき込む。そこに記されていたのは、魔女が決して手出してはならない禁薬のページ。高貴な血筋の魂を材料に、死んだ者を蘇らせるという蘇り薬の作り方が綴られている。
この数百年、禁薬について調べることもなかったので、すっかり頭から抜け落ちていた。
「魔女が作ることを禁じられた薬に、クランベルは手を出したというの?」
禁薬というのは、魔女である者なら誰しもが踏み込んではならない領域として教わる。それを破ることは、大罪に値するのだ。
「なんだ、説明してくれ」
薬学書を凝視したまま動けないでいたディアナの肩に、アクエスが手を乗せる。それに少しだけ波立つ心が落ち着いた。
「クランベルは……死んだ者を生き返らせたいと思ってるんだわ。この蘇り薬は高貴な魂──つまり、王族の魂が必要だった」
「死んだ者を生き返らせる? そんなことが、できるわけ……」
「できるわ、魔女の薬なら」
にわかに信じられないというふうなアクエスに、ディアナはピシャリと言い切った。
「現に、体の弱かったアフィルカ様があなたたちを無事に生むことが出来たのもクランベルの薬のおかげよ」
「確かに、母上は子を生める体ではなかったと聞く。その対価に俺かフィオナのどちらかを差し出す……そういう取引をしたってことだな?」
幼い頃の朧げな記憶を形づけるように確認してくるアクエスに、肯定するように頷いた。
「でも、双子は魂を分けあってるといわれてるわ。だから、魂の分量が足りなかったのよ」
「なるほど、それでアクエス王子の魂も狙っている……ということですね。もう、約定うんぬんの話ではなくなっているみたいですが」
セバスチャンは納得したふうに相槌を打つ。まさにその通りで、クランベルは不足分の魂を片割れのアクエスで補おうとしている。
(そこまでして蘇らせたい者が、クランベルにもいたなんて……)
誰かに執着するような魔女には見えなかったので、ディアナの心の内側には小さな波が立っていた。
「セバスチャン、バジル大臣は牢にいるのか?」
「はい、クランベルのことを吐かせますか?」
多くは語っていないというのに、セバスチャンは主人の言いたいことを汲み取るように尋ね返す。
「いや、俺が話を聞きに行く」
踵を返して数歩扉のほうへ歩いたアクエスは、思い出したようにこちらを振り返った。
澄んだ碧眼が不意打ちに見つめてきて、ディアナの心臓は密かに鼓動を早める。
「ディアナ、お前はこの部屋から出ることを禁ずる」
「……はい?」
(いきなり、何言ってるのよ)
そんな心の声が顔に出ていたのだろう。アクエスは眉間に皺を寄せてツカツカと仕立ての良い革靴を鳴らし、ディアナの目の前にやってくる。ベッドに腰かけたままのディアナは、怖い顔のアクエスを見上げる。
「血色が悪い、だから横になって休んでいろと言っている」
アクエスの男らしい骨ばった手が優しくディアナの頬を撫でる。何度も剣を振るてきたことを証明するゴツゴツした手に、なぜだか胸が切なく締め付けられた。
(アクエスはきっと、私の知らないところでたくさんの戦ってきたのよね……)
今も側に置いてくれないことに、悲しみが心を浸す。講義するようにアクエスを見れば──。
「無茶はしてくれるな」
有無を言わさないというふうに、アクエスに念を押される。その言い方が子供を諭すようで、いつのまにか立場が逆転してしまったみたいだ。
「私はもう大丈夫よ、魔女は人間より薬に耐性があるの。それに、危険には慣れっこよ」
魔女というだけで、命を狙われることは少なくない。何度も住処を追われたし、師を奪われてからはひとりでどんな危険とも対峙して生きてきたのだ。
「そんなものに慣れなくていい」
アクエスは呆れたようにため息をつくと、頬を撫でていた手をディアナの顎へと移動させ、クイッと持ち上げた。
「これからは存分に甘やかせて、危険などとは無縁の生活をお前に捧げると決めた。だから、黙って俺に守られていろ」
腰を屈めたアクエスは、上向くディアナの唇に触れる。
朝もどこかのおとぎ話のように口づけで目覚め、一生分に匹敵するほどお腹いっぱい愛を囁かれた。アクエスに求められるのはもちろん嬉しいのだけれど、どうしても改めて欲しいことがある。
「んうっ……アクエス、みんなが見てる!」
(時と場所を考えて! 特に、ユンファには教育上よくないのよ!)
心の中で叫んでいると、アクエスはニヤリと笑ってみせた。その表情にゾクリと体が痺れ、ディアナの頬は紅を差したように赤く染まった。
「これは、牽制だ」
「なにを言って──んっ!」
唇をくわえこまれ、口づけはどんどん深くなる。牽制の意味はわからないけれど、誰かに見られているという羞恥に涙がジワリと目に滲む。
(この口付けが終わったら、絶対に文句を言うわ!)
「あのー、セバスチャンさん、前が見えません」
「いえ、幼子には目の毒ですので」
どうやら、セバスチャンがユンファの目を覆ってくれているらしい。アクエスの顔が視界を占領していて確かめる術はないけれど、とりあえずは安心した。
「おいこら、アクエス! ディアナを虐めるな、苦しそうだろ!」
かくいうバウルは、この行為の意味を分かっていないようだった。
狼は好きな相手に口づけなどしない。だから、アクエスがディアナを虐めている構図にしか見えないんだろう。
「……外野が煩くて敵わんな」
アクエスは軽く舌打ちをして名残惜しそうに唇を離すと、ディアナの濡れた唇を親指で拭った。その行為に気遣いが感じられて、心臓の鼓動が一段と早くなる。
(アクエスといると、いつか心臓が止まってしまいそう)
異性への愛なのか、悩んでいたのが嘘みたいに女としての喜びを求めているのだ。そんなディアナの心境も知らず、アクエスはみんなの顔を見渡す。
「この女は、俺の姫だ」
上機嫌に笑うアクエスの顔にセバスチャンは一瞬目を見開く。
そして憐れむようにディアナをチラリと見た後、完全に腑抜けた主人に向けてひと言、「あんた、好きになると面倒な男だね」と呆れ混じりに皮肉をお見舞いしていた。
「そうみたいだな、俺も最近知った」
「皮肉を言ってるんですよ、王子」
「今の俺には、痛くも痒くもないぞ」
なにを言っても無駄だと思ったのだろう、セバスチャンは「あ、そう」と短く返して両手を挙げると首を横に振った。
「ア、アクエス……私もバジル大臣の話を聞きたいわ」
「だから休めと言ってるだろう」
「私は今でも、フィオナを救えなかったことを後悔しているの」
「ディアナ……」
アクエスの顔に、影が落ちたのがわかった。悲しげに眉を寄せ、苦痛に耐えるように口元を歪める。
「私もあなたと戦いたい」
(アクエスまで失ったら……今度は私が壊れてしまうから)
失われないようにそばで守りたい、彼を愛してからより一層強くなっていた思いだった。
「突っぱねたい申し出だが……」
「っ……アクエス!」
「最後まで聞け。その気持ちは俺が一番理解できる、俺も二度と奪われたくないからな」
それだけで、ディアナの気持ちを優先してくれるのだとわかった。感謝の気持ちを込めて微笑めば、アクエスは「無茶ばかりする女だ」と付け加えて笑い返してくれる。
それは少しだけ困っているようにも見えたけれど、彼はディアナの体を抱き上げて扉の方へと歩き出した。
「って──まさか、このまま行く気じゃないわよね」
(アクエスにが抱えられたまま!?)
城にはメイドや兵だっているし、王子が魔女と親密なんて知れたらまずいのではないか。ソワソワしながら落ちないようにアクエスの首に腕を回すと、満足げに目を細められる。
「お前を連れていく条件は、俺の命令に従うことだ」
「あ、あなたね……横暴過ぎない?」
(いつから、こんなに可愛げがなくなったのかしら)
無邪気で泣き虫の王子はどこへやら、ディアナは完全に彼に主導権を握られている。
「横暴なくらいがちょうどいい、お前はお転婆が過ぎるからな」
「うっ……私はあなたよりずっと年上なのよ?」
「年齢など関係ない。重要なのはお前が俺の女だということだけだ。だから命がけで守るし、全力で甘やかす」
それを聞いた瞬間から、幸福感が全身を駆け巡った。嬉しくて、愛おしくて、切ない想いに身動きがとれなくなる。
言いようのない感情を吐き出すように、ディアナは深いため息をついた。
「……じゅうぶん守られているし、甘やかされてるわ」
「まだ、俺は愛し足りないがな」
アクエスの愛はどこまでいけば尽きるのだろう。
ディアナの言葉を嬉しそうに受け止めて笑う彼の眼差しがいつも以上に優しくて、愛しさが胸にこみ上げてくる。
彼への想いを再確認したディアナは、恥ずかしさを隠すように彼の首筋に顔を埋めた。
地下牢へ続く螺旋状の階段を降りながら、ディアナは懐かしい気持ちになっていた。
ここにはディアナの投獄された牢がある。こんな場所を懐かしいだなんて思いたくないけれど、あの日からアクエスとの関係はずいぶん変わったなと感傷深くなるのだ。
「着いたな……牢の居心地はどうだ、バジル大臣」
アクエスはディアナを降ろすと一歩前へ出て、牢屋の前に立つ。
「……私を嘲笑いに来たのですか」
バジル大臣は悔しそうに表情を歪めて、鉄格子越しにアクエスを睨み付けていた。
「そうではない、理由を聞きに来た。なぜ城に麻薬を持ち込んだ」
実際は証拠が出ていないけれど、バジル大臣から自白させるためだろう。アクエスはカマをかけるように、麻薬を持ち込んだと断言した。
「…………」
「話す気はないか、ならば俺の話を聞け。あなたを大臣に推薦したのは、この私だ」
「なん……ですと?」
黙り込んでいたバジル大臣の顔が驚きに変わる。
それもそうだろう、王子自ら敵国のしかも王族の人間を大臣に推薦するだなんて誰が想像できようか。普通の思考であれば、謀反を心配してそんな重役を任せはしない。
「大陸が統一される前、この大陸は小国同士での抗争が絶えなかった。国の領土を広げたい、王として何かを成し遂げたい、どんな理由にせよ、そのたびに犠牲になるのは民だ」
「その争いを焚き付けたのはクラウンディーナ国ではないか」
バジル大臣は忌々しそうに無礼にも一国の王子を睨みつけたのだが、アクエスはさほど気にした様子もなく話を続ける。
「だから、我が国は大陸統一を目指した。大陸内で争っている場合じゃなかったのだ。大陸の外には大国がいくつも存在する」
小さきものより大きなものを見た、クラウンディーナ。その上に犠牲になった小国の憎しみ。どちらも正しいけれど、悲しみは少なからず生まれてしまう。誰が悪いなんて決められない、目指すものが違かったのだ。
「五つの小国は、その理想の元に犠牲になったのだ」
「俺たちが争っている間にこの大陸に攻め込まれたら、それこそ大きな犠牲を生むことになっただろう」
アクエスの言うとおりだ。領地争いが絶えず起こっていたこの大陸で、すでに話し合いで解決できる溝の深さではなくなっていた。
争いが長引けばそれだけ民が苦しむ、誰かが成さねばならないことだったのだ。
それを裏付けるように統一されてからのクラウンディーナ王国では、小さな抗争はあるものの大きな戦争は起きていない。
「五大臣にかつて存在した小国の出身者を起用したのも、共に平和な国を作っていこうというキルダ王の意向だ」
(キルダ王が……支配するのではなく共に生きる道を選ぶあの人は、やっぱり気高い王ね)
それに政治的な権限を各国の代表が持つということは、クラウンディーナ国に侵略された民の安心にも繋がる。実に考えられた政策だと、ディアナは感心した。
「私も、ザルド国の旧国王であるあなたなら、誰よりも民を思う決断が出来ると思っていた」
「えっ、王様だったのかよ!」
アクエスの発言にギョッとしたバウルの口を、ディアナは慌てて塞ぐ。
「静かにいてちょうだい」
「わ、悪かったよ」
今は薬の効果で人間の姿をしているのだが、垂れた耳と尻尾が見えてきそうなほどバウルはしょんぼりしている。さすがに可哀想になって、その頭を軽く撫でながら、ディアナは内心驚いていた。
(まさか、王を大臣にするだなんて……)
逆恨みで殺される可能性だってあったはず。王としては素晴らしいが、無茶しすぎだ。昔からキルダ王は魔女を前にしても剣は向けないし、子供のためにと簡単に命を対価に差し出す。
旧王を大臣にするあたり、アクエスはもキルダ王の人の良すぎる血を継いでいるみたいだ。
「同情、ですか……」
不愉快そうに眉を顰めるバジル大臣に、アクエスは一点の曇りもない真摯な眼差しを向ける。
「いいや、一国の主だったバジル大臣なら、キルダ王の苦悩を理解し、共にこの国を正しき道へと導くことができると考えたからだ」
「なんと、本気で私を信じていたというのか!」
「だから、失望させないでほしい。バジル大臣、この国に生きる五つの小国の民を守るために──この手を取ってくれないか」
アクエスは汚れるのも気にせず、牢の中で座り込むバジル大臣の前で膝をつくと目線を合わせた。
そして、純白の手袋を外すとバジル大臣に手を差し出した。
「あなたは……どうしてそこまでできるのですか」
城に麻薬の花を持ち込んだ自分に敬意を払い続ける王子を、バジル大臣は虚を衝かれたように目を丸くして凝視する。アクエスは苦笑を浮かべると、その目を伏せた。
「つい最近まで、私も復讐することだけを目標にして生きていた」
それがディアナへの憎しみのことだと、すぐにわかった。あの日々は今思えばよく耐えられたなと思うほど孤独な時間で、愛する者に憎まれるのは針を飲むより痛い。それを思い出して、ディアナは胸がギュッと締め付けられた。
「そして、関係のない者まで巻き込み傷つけた」
アクエスの視線はユンファに向けられる。
(後悔してるんだわ、ユンファを傷つけたこと)
でも、それすらを教訓にして前を向くアクエスはディアナが与えた憎しみがなくても、もう自分の力で生きられる。
彼の葛藤をユンファも感じとったのか、もう気にしないでください、と言うように微笑んでいた。
アクエスは口パクで「ありがとう」と伝えると、もう一度バジル大臣に視線を戻す。
「だから、憎しみよりも大切なものがなんなのかを見据えてほしい。よく考えてくれ、あなたが守りたいモノのために私の手は必要か?」
「……参りました、アクエス王子」
終始険しかった表情を和らげたバジル大臣は、差し出された手をゆっくりと取った。真っ直ぐにぶつけられるアクエスの言葉は、バジル大臣を心を動かしたようだ。
「あなたの考えは、私がこの手を取るに相応しい答えだった」
ポツリと胸のうちをさらけ出していく大臣は、その瞳に悲しみを滲ませると自嘲的に笑う。
「ずっとザルド国の再建を夢見ていましたが、おそらく民はそんなことを望んではいない。今の平和が保たれることを願っているのでしょう」
戦う力のない民が平穏を望むのは当たり前のことで、理不尽に愛する者の命が奪われないのなら、誰が国を治めようとどうでもいいのだ。
でも王族は違うのかもしれない。その血に誇りを持っているし、代々受け継いだ土地を守るために生きてきた。その崇高な役目を唐突に奪われるのは、耐え難い喪失感を伴うのだろう。
「アクエス王子、あなたに忠誠を改めて誓う者として忠言します。魔女クランベルは私とザルド国を再建するために動いているのです」
「それはなぜだ?」
「そこの魔女と同じように、心からザルド国を愛していたからです」
(クランベルが……私と同じように国を愛した?)
十五年前にクランベルが城を襲ったのは、長生きする魔女なら誰でも欲しがる暇つぶしのためだと言った。
けれど、そうじゃなかったのだ。クランベルはザルド国のために、なにかとてつもない罪を犯そうとしている。
それを悟った瞬間、あの魔女が哀れに思えた。奪われたものを取り戻したい、そのために憎しみの炎を胸に抱いて生きていくのはとても苦しい生き方だったはずだから。
「愛した国を取り戻すため、私と共にこのクラウンディーナ王国を壊すことを企てたのです」
「それで、この麻薬騒ぎか……」
「それだけではありません、フィオナ姫のこともそうです」
フィオナの名前が出た瞬間、空気が一気に張り詰める。
アクエスは今すぐにでも問い詰めたそうに大臣を見ていたが、最後まで話を聞こうと決めたのだろう。開きかけた唇を引き結び、じっと耳を傾ける。
「小国同士で争っていたあの頃、私の妻は心を病み、命を落としました。それをクランベルはひどく嘆き、生き返らせる薬を作ることに決めたのです」
(それは……禁忌の薬のことね)
魔女が手を伸ばしてはいけない薬。その掟を破ってまで取り戻したいもの、それがザルド国の王妃様だった。
けれど、どんな理由があったとしてもフィオナを奪ったことだけは許せない。
失う悲しみを知っているのなら、なぜ同じことを繰り返したのか。ディアナは複雑な気持ちで大臣の話を聞いていた。
「クラウンディーナ国の王妃が双子を宿すも産めない体という情報を手に入れたクランベルは、王妃が子を産めるよう薬を作る代わりに薬の材料にする子供の片方を差し出すよう条件を付けた」
「ねぇ、フィオナはまだ生きているの?」
薬ができていないのなら生きている可能性はあるのではないかと期待を膨らませたディアナは、話に割って入る。
どうかそうであって欲しいと、祈るような気持ちで返事を待った。
「フィオナ姫はクランベルが暮らしている忘却の森にいます。生死に関しては私も聞かされておりません」
「そう……」
俯いて明らかに落胆するディアナの側に、寄り添うように立った誰か。顔をあげれば、そこには優しく微笑むアクエスがいる。
「希望は捨てるな。俺たちは信じて前へ進もう」
「アクエス……」
隣に立つアクエスに、やんわりと手を握られる。その手を握り返すと自然と前を向けそうな気がしたディアナは、ようやく笑うことができた。
「ありがとう、あなたは強いのね」
「守りたい者がいるからだ。明日、忘却の森へ行こう。共に過去へ決着をつけるために」
十五年前までは自分が守ってあげなければと思っていたのに、こんなにも成長した彼が頼もしい。
彼がいればこの道が地獄に続いていたとしても怖くはないと、ディアナはアクエスに応えるように首を縦に振るのだった。
翌日、兵を引き連れてザルド国の領地であった忘却の森へとやってきたディアナたち。
ここには兵の他にバジル大臣も来ている。大臣はクランベルを説得したいからと、率先して着いてきたのだ。
「忘却の森か……ディアナ、前に森は眷属でないと立ち入れないと言っていたが……」
馬に乗ったまま、隣に並んだアクエスに尋ねられる。
「そうよ。この森は誰も立ち入れない故に人々から忘れられた森だから、忘却なんて名前がついたんだもの。気を抜けば、かどわかされて帰ってこれなくなるわよ」
アクエスの乗る背が高く毛並みも上質な白馬とは反対に、ディアナが乗るのは凛々しい漆黒の黒馬だ。ユンファはセバスチャンの後ろに座っており、バウルは狼の姿でここまで走ってきた。
「アクエス、兵は置いていきましょう。森を驚かせてしまうわ」
「ディアナの言う通りにしよう。夜が明けても俺たちが戻らなければ、捜索を開始しろ」
アクエスは兵たちを振り返り、指示を出す。
そして、森を真っすぐに見据えると「行くぞ!」というアクエスの掛け声と共に馬の足を進めた。
中に入ると森には霧が立ち、昼間なのに夜のように薄暗かった。コウモリの羽音や光る動物たちの視線に不気味な空気が漂っている。
「あなたも、嫌な感じがする?」
ディアナは自身が乗っている馬の鬣を撫でながら声をかける。なんもなく、馬たちも怯えているように見えたからだ。
「ディアナ、何をしてるんだ」
馬に声をかけるディアナに、アクエスは首をもたげて不思議そうな声を上げた。
『早く引き返せって、みんな言っているみたい』
お馬さんはチラリとこちらに目を向けて、教えてくれる。
(みんなって……遠目にこちらを見ている動物たちのことね)
森の茂みの中からこちらを伺っている動物たちを見ながら、ディアナは「それは、どうしてなのかしら」と質問を重ねる。
『この先に赤い花が咲いてるんだって、危ないから進んじゃダメって言ってる』
「赤い花──サブレアの花ね!」
ディアナが慌てて綱を引くと、お馬さんも足を止めてくれる。急に馬の足を止めたディアナの側に、セバスチャンが近づいた。
「なにかありましたか?」
「動物たちがこの先にサブレアの花が咲いてるから引き返せって言うのよ。みんな、口元をなにかで覆ったほうがいいわ」
みんなはひとつ頷くと口に布を当てたり、服の襟を引き上げるなどしてまた前へと進む。
すると、ディアナの乗る馬の側にバウルがやってきた。
『俺が先に、なにがあるのか見てこようか?』
「だめよバウル、ひとりで行動するのは危険だわ。今はまとまって進んみましょう」
『ディアナがそういうなら、従うよ』
もう、家族を失うのは嫌だった。フィオナのこと考えて、気持ちが沈みそうになっていると馬たちが一斉に足を止めた。
「馬が急に足を止めましたぞ」
「この先は、サブレアの花があって行けないみたいです!」
バジル大臣とユンファがどうするのかと、こちらを見る。ディアナを乗せてくれているお馬さんが、チラリととちらを見上げた。
『これから先は、誰も近づけないんだ』
「そう……ここまでありがとう、お馬さんたち」
申し訳なさそうな顔をするお馬さんたちから、私は降りる。草や地面は霧のせいかしっとり濡れていた。
「ここからは歩いていくしかなさそうね」
ディアナたちは徒歩で森を進むことになった。
そして、どのくらい歩いただろう。木々で先の見えなかった視界がふいに開けて、赤い絨毯のように咲くサブレアの花畑へ出る。
「ぐっ……甘い匂いが布越しにもしますね」
顔を顰めるセバスチャンは、口元に布を当て直した。
むせ返るほどの香りを放つサブレアの花の間を進んでいくと、先頭を歩いていたアクエスが足を止める。
「どうやら、俺たちの待ち人に会えたようだぞ」
アクエスの視線を追えば、赤い花びらが舞う幻想的なこの場所で微笑を浮かべている深緑の髪と瞳の女が立っているのが見える。
しかも、クランベルはサブレアの中毒症状に耐性があるのか口元を覆ってすらいなかった。
「まさか、バジル王がアタシを裏切るなんてねぇ。蘇った王妃と取り戻した国を治めるんじゃなかったのかい」
「クランベル、私はもうそれを望んではおらんよ」
「今さら諦めるのかい! ここまで来て、どうしたっていうのさ!」
「民は国を取り戻すことを望んでいるのではない。争いのない地を望んているのだ。私は王妃を失った時のように争いで大切な者を失う悲しみが生まれないよう、大臣として生きていくと決めたよ」
そう思わせたのは、アクエスの言葉だ。
憎しみは悲しみしか生まない、辛い現実を受け止めて未来を見ることをバジル大臣は選んだんだ。
「もうやめよう、クランベル」
「アタシはあの楽園を取り戻したいんだよ……。今さら、諦めろなんて酷いじゃないか」
クランベルは泣きそうな顔でバジル大臣を睨んだ。そしてナイフを取り出すと、切っ先を大臣へ向けてゆらりとこちらに歩いてくる。
「そのためだけに、この手を汚してきたっていうのにさぁ……」
そう言ったクランベルの目には、どこか狂気じみたものがある。それを見たバジル大臣の瞳は切なげで、必死に訴えかけるように口を開く。
「お前は私たちが幼いころから、そばにいてくれたな……。ずっと見守ってくれていたこと、心から感謝している。だからこそ、もう私たちのために手を汚さないでほしいのだ」
(なんだか……私と似ているかもしれない)
魔女は家族という繋がりを持たないから、愛を知らない。
だから、それを一度知ってしまえば余計に手放せなくなる。ずっと見守ってきたからこそ、初めて愛をくれた人たちだからこそ、取り戻したいと思う気持ちはディアナも痛いほどわかった。
「クランベル、あなたは私と似ている。愛しちゃったのね……人間を」
「…………」
クランベルは、なにも言わずにこちらを見つめた。その目はよく見れば寂しげで、胸が締め付けられた。ディアナはふうっと息を吐き、同じ立場だからこそ彼女の心に自分の言葉が届くと信じて真っ直ぐに見据える。
「でも、今あなたがしていることは本当にバジル大臣のためかしら」
「どういう意味だい」
彼女の声にほんの少しの苛立ちが滲む。それでもディアナは怖じ気つくことなく足を一歩踏み出した。同じ痛みを抱える魔女へ、真っ向から気持ちを伝える。
「私もアクエスを守るためだと自分を憎むように仕向けた。けど、アクエスは私が思う以上に大人で苦悩を乗り越える強さがあった」
クランベルも私たちより短命で、か弱い人間を守らなきゃと必死だったのだ。そのうちに本当に自分に守り切れるのかが不安になって、追い詰められてしまった。だから、過保護に守りすぎて逆に傷つける。
「クランベル、あなたが我が子のように守ってきたバジル大臣たちは、もう自分で答えを見つけ出せる。私たちがするべきなのは、見守ることと、背中を押すことよ」
言い切ったディアナの肩に、誰かの手が乗った。振り返るとアクエスがひとりじゃない、とでも言うように強気に笑う。
そして、雲ひとつない青空を映したような双眸が哀れな魔女の姿を捉える。クランベルは彼の純真なオーラを感じてか、表情を固めて後ずさった。
「俺もバジル大臣とは立場が似ている。だからこそ言わせてもらうが、俺を育ててくれたディアナに感謝しているからこそ、自分のために傷つかないでほしかった」
「アクエス……」
憎まれる道を選んだディアナのことを知った時、アクエスは罪悪感に傷ついたんだろう。
今対峙しているのは過去の自分たちのような気がして、ディアナは無意識にアクエスの手を握る。
その手をアクエスは無言で握り返してくれた。
「クランベル。お前もこれ以上、自分を傷つけるな」
「っ……アタシはフィオナを奪ったっていうのに、どうしてそんな言葉をかけられるんだ」
驚愕と困惑にクランベルの顔は忙しなく変化する。城に単身乗り込んでも飄々としていた彼女からは想像できないくらいの取り乱しようだ。
「それだけは絶対に許せないが、憎しみは連鎖する。それを断ち切り、平和な世を作れる道を俺は選び取ると決めたからな」
しばし立ち尽くしていたクランベルは、「ははっ」と力なく笑い声を漏らすと額に手をあてて霧に覆われた空を見上げる。
「……全く、アンタたちには驚かされるよ」
クランベルは毒気を抜かれたような顔をしており、その目にはジワリの涙が浮かびガラス玉のような輝きを放っていた。そんなクランベルの元にバジル大臣が歩み寄ると、その手を握る。
「クランベルの罪は私も背負おう。だから、それはもう捨てなさい」
バジル大臣が捨てさせたのは、ナイフだった。クランベルも抵抗することなく柄を握っていた手を開く。ナイフはゆっくりとサブレアの花の海に沈み、見えなくなった。
「バジル王──」
「今は大臣だ、バジルさんとでも呼んでくれ」
「まったく、無茶苦茶言うねぇ」
顔を見合わせて笑顔を交わすふたりが落ち着くのを見計らって、アクエスはもうひとつ大事なことを尋ねる。
「クランベル、フィオナはどこにいる」
そう、フィオナのことがまだ解決していないのだ。ディアナたちにとって、大切な家族の行方がわかっていない。
もう駄目かもしれない。そんな絶対が頭の端にチラついて、胸を鋭く抉る。それでも情けない顔を見せられないと思ったのは、一番辛い質問を口にしたアクエスが凛としているからだ。
「本当に……すまないことをしたね」
クランベルは深く頭を下げると、掠れるような声で謝罪を述べた。心臓がドクリと嫌な音を立て、ディアナの顔はサッと青くなる。
(じゃあ、もうフィオナは……)
絶望感に襲われて軽く目眩がした。すべてが聞き間違いだったと、そう思いたいゆえにか、キーンと耳鳴りまでしてくる。ディアナは体の力が抜けて膝から崩れ落ちそうになった、その時──。
「ディアナ、しっかりしろ」
力強い腕に抱きすくめられ、なんとか転倒は免れる。ディアナはお腹に回された手に自分の手を重ねると、力なく振り向いた。
「ごめんなさい、アクエス……でも、私っ」
「……ああ、お前の悲しみは俺が痛いほど理解している」
彼の眉間にも深い皺が刻まれ、その顔には苦渋が滲んでいる。辛いのはアクエスも同じはずなのに、ディアナの髪を撫で、頬に口付け、慰めてくれる。彼の優しさに涙腺が緩んでしまったディアナは、隠すようにその胸に顔を埋めた。
そんな時、クランベルが「着いてきてほしいところがある」と言って、どこかへと歩き出す。
ディアナたちは戸惑いに顔を見合わせながら、その背を追った。
連れてこられたのは、人間の背をはるかに超える巨大な茨の森。それを潜りながら進むと、その中央にある茨のベッドに誰かが眠っているのに気づく。
歳は二十代くらいだろうか、腰の辺りまである長いブロンドの髪も、どことなく風貌がアクエスに似ている気がした。
──いや、まるで生き写しのようだ。
「まさか……あの子っ」
ディアナは両手で口元を押さえる。あれは紛れもなく、あの日助けられなかった彼女そのものだ。体は大きくなっているが、愛している家族の姿を見間違うはずがない。
「フィオナなのか!」
アクエスの声を合図に、ディアナたちは茨を避けて会いたかったフィオナへと駆け寄る。その頬に触れれば、氷のように冷たい。それに薄暗い森のせいなのか、顔も死人のように青白かった。
ディアナは恐る恐る彼女の首筋、太い動脈に触れてみる。その瞬間、ディアナは息を詰まらせて、その手をパッと離してしまった。
「ディアナ、フィオナは……」
縋るようなアクエスの視線に、力なく首を横に振る。
彼女の動脈は拍動していなかった。つまり、心臓もその働きを止めているということ。決定的なフィオナの『死』を意味していた。
「嘘だろ……目を開けてくれ!」
フィオナの体に縋りつくアクエスに、ディアナは呆然と涙を流す。その後ではセバスチャンたちが、言葉を失った様子で控えていた。
(やっと会えたのに、こんなことって……っ)
幼い彼女の無邪気な微笑みが、今も脳裏に鮮やかに蘇る。なのに、目の前にいる彼女はニコリともしない。
本当にあのフィオナなのか、そんな疑念に囚われるほどディアナは現実を必死に否定していた。
「蘇りの薬……必要なのは高貴な血の魂、蘇らせたい器となる肉体。双子だったこの子はそこの王子と魂を分け合っていたからねぇ、薬を調合する途中で……」
「彼女は亡くなったのですか?」
言葉を紡げないでいるディアナたちの代わりに、セバスチャンが聞いてくれる。
クランベルは静かにフィオナの元へ歩いていくと、眉尻を下げて申し訳なさそうに瞼を閉じた。
「薬を作る過程で、フィオナの魂は霊薬で体からすべて抜き出した。でも魂は半分しかなく、それを補うまでに時間がかかっちまってね」
クランベルが懐から取り出したのは小瓶だった。その中には青い光を放つ液体が入っている。
補う魂──それはアクエスの魂のことだ。そのために、クランベルはアクエスが必要だった。
でもアクエスの魂は手に入らず、霊薬の禁忌である多量、長時間の使用により魂と肉体が完全に分かたれてしまった。
──それは、彼女の『死』を意味する。
「魂が肉体から離れた時間が長かったから、魂はこの世に留まっていても肉体が実質的な死を迎えてしまったのね……」
最悪の予感が当たってしまったディアナは、どこか他人事のように淡々と口走っていた。
その見解が正しいとばかりに、クランベルは無情にも頷く。
「それが、フィオナの魂か……っ」
クランベルの手の中で、悲しげに光る魂に手を伸ばすアクエス。クランベルは壊れ物を扱うようにそっと、小瓶を手渡した。
「ずっと、どこかで生きていてくれていたらと思っていた」
瓶を両手で握り締めるアクエスの手に、ディアナは手を重ねる。
ディアナも同じだ。心のどこかで、フィオナが生きていてくれたらと期待していた。
けれど、彼女の魂が還る場所はもうないなんて、あまりにも悲しすぎる。
「フィオナ……ごめんなさい、あなたを救えなくてっ」
(あなたを守る魔女に、なりたかったのに)
アクエスと繋いでいない方の手で、冷たい彼女の手を握りしめる。昔、三人でダンスを踊った日のことを思い出した。あの時はディアナの手を取り合って喧嘩して、変わらない日常に幸せを感じていた。
もう二度とあの日々が帰ってこないのだと思うと、胸にぽっかりと穴が空いてしまったような気になる。
「本当にすまなかった。アタシの命を奪うなり、なんなりしてくれていいよ。アンタたちにはその権利があるからね」
クランベルがディアナたちの前に土下座した。裁きを待つように俯いている彼女に、アクエスは深い息を吐く。
「そんなことをしてもフィオナは戻らない、無駄な血は流すな。償いたいのなら、奪った命のぶん他者のために生きろ」
迷わずにそう言ったアクエスを誇らしい気持ちでディアナは見つめた。彼の心の強さは、見ている者の心をも救ってくれる。
クランベルも例外なくアクエスの言葉に静かに頷いて、涙をひとしずく流していた。
「あのー、その魂を戻すことはできないのですか?」
ふとユンファが尋ねると、クランベルは苦い顔をした。
「肉体は腐敗しないように保管してたんだけどね、一番大事な魂と肉体の繋がりが消えちまったんだよ」
「ですが、クランベルさんが王妃様を蘇らせようとした方法で、フィオナさんも蘇らせることができるんじゃ……」
ユンファの純粋な質問は、誰かの魂を贄にしてフィオナを生き返らせると言っているのも同然だ。
かなり斬新なアイデアだったが、素晴らしい閃きだった。ディアナは希望を見出したような気持ちで、パッと顔を上げる。
「ユンファ、あなた天才よ!」
弾む声を上げるディアナに、ユンファは「へ?」と小首を傾げている。こんな簡単なことに気づかずに絶望していた自分を、ひっぱたいてやりたい気分だった。
「蘇り薬を作りましょう、それでフィオナを生き返らせるの。だって、ここに材料はすべて揃っているわ」
ディアナは立ち上がり、その場にいるみんなの顔を見渡す。しかしクランベルは、愕然とした表情で硬直していた。
「な──なにを言ってるんだい! 器と肉体はここにあるからいいけどねぇ、重要な魂がないじゃないか!」
蘇り薬を作るための贄となる魂だけがない。クランベルはそう言っているのだろうけれど、ディアナには考えがあった。
「それなら、私の魂を半分あげるわ」
「──なにを言っている、許すわけないだろう……!」
そう言った途端、アクエスが激高する。怒りと戸惑いに揺れる青の瞳を、ディアナは自覚するくらいに優しい眼差しで見つめ返した。
「アクエス、魔女が長寿なのは人間より魂の質量が多いからよ」
「だからなんだというのだ!」
怒りに捲し立てるように叫ぶアクエスの首に腕を回すと、ディアナは強く抱きついた。
「私は、あなたと同じ時を生きていける分だけの魂があればいい」
「なっ……!」
アクエスはディアナの真意がわかったのか、眉根を寄せて泣きそうな顔をする。震える指先でディアナの顔の輪郭をなぞると、呼吸させないほどの強さで華奢な体を掻き抱いた。
「本当に無茶苦茶だな、お前はっ。それは危険ではないのか?」
後頭部を押さえつけるアクエスの手は強く、ディアナは彼の胸に顔を押し付けられながら、聞こえてくる鼓動に耳をすませていた。
この人と同じだけ心臓が動けばいい、だから半分はもうひとりの愛しい存在にあげよう。その気持ちに迷いなどなかった。
「危険がまったくないとは言えないわ。だから、信じてほしいの」
「……酷い女だ。この俺をこんなにも不安にするのだから」
抱きしめるアクエスの腕に力がこもるのがわかった。
アクエスが愛してくれている、それだけで死ねないと思える。彼のためになんとしても生きなくてはと思えるから、絶対に大丈夫だとディアナは気持ちを奮い立たせた。
「フィオナも助ける、あなたもひとりにはしない。私は無敵の魔女だから心配しないで」
安心させるように笑って見せれば、アクエスは困ったように笑って髪を優しく撫でてくれる。
「愛している、ディアナ」
その言葉を聞けただけで、充分だった。フィオナを助けて、この人のために生きよう。そう強く決心したディアナは、クランベルが住処としていた忘却の森の木造の家で蘇り薬を作った。
いよいよ魂を半分抜き出す時が来て、ディアナは茨のベッドで眠るフィオナの隣に横になり、不安げに見下ろすアクエスを見上げた。
「大丈夫よアクエス。私は必ず、あなたの元へ帰るわ」
安心させるように笑ってはみたのだが、本当は怖かった。必死に隠しているけれど、手が小刻みに震える。それに気づいたアクエスは、ディアナの手を包み込むように握った。
「強がるな、俺には弱さを見せろ」
アクエスはディアナに顔を近づけると、額に触れるだけの口づけを落とす。
この温もりを二度と感じることが出来なかったらと思うと、体の芯から冷えきるような不安が襲ってきた。
「お前の名を何度も呼ぼう。死の国に誘われても、俺の元へちゃんと帰ってこれるように」
「ありがとう、何年経っても愛してるわ」
魂を抜かれた反動がどれほどのものなのか、想像もつかない。もしかしたら何十年も眠り続けてしまうかもしれないし、今の健康体とはかけ離れた姿になっているかもしれない。
(それでも──この人との再会を夢見て、今は運命に身を委ねよう)
「俺もディアナを愛している。この世で唯一無二の愛おしい女だ」
告げられた愛の言葉に、ディアナは決心を固めてそっと瞳を閉じた。彼の姿ま瞼の裏に滲んで消えない、ずっと忘れない。ディアナは口元に笑みを浮かべると、小瓶を催促するように手を差し出す。
「っ……それでは師匠、これを飲んでください」
ユンファの喉を締め付けられたような、苦しげな声が聞こえてくる。顔を見なくてもわかる、彼女は今泣いているのだろう。ディアナは差し出していた手を探るようにさ迷わせて、横になっていても届くユンファの頭の上に落ち着けた。
「大丈夫よ、ユンファ。私はあなたを──家族をひとりにはしないわ」
「……うぅっ、はいっ」
ユンファが嗚咽を漏らしながら、ディアナに瓶を握らせる。辛い役目をさせてしまったな、とディアナは苦笑をこぼした。
この手にあるのは霊薬、ディアナの魂がアクエスの残りの命に比例するよう、クランベルとも計算して正確に調合した。
というのも、アクエスの魂とフィオナの魂の分量は一寸違わず同じなため、ディアナの魂もそれに合わせる必要があったのだ。
ひとりの魂を使うよりも、双子の魂を使う蘇り薬の調剤はかなり難易度が高いだろうが、優秀な魔女がふたりもいるのだからきっと大丈夫だろう。
『ディアナ……』
「バウル、ユンファのことよろしくね。それから、肉が食べたくなっても森の動物たちの前でそれを言わないこと。家の棚に変身薬のストックがあるから、ユンファが作れるようになるまではそれを使って町に行きなさい」
『わかってるって! というか、ちゃんと帰ってこないと噛みついてでも起こすからな』
「えぇ、ありがとうバウル」
(ユンファもバウルも、私にために泣いてくれる……。一番孤独だった時、この子たちが寂しさを埋めてくれたのよね)
だから、この子たちを絶対に孤独にしてはいけないと強く思った。なんだか、ふたりへの言葉が一番多くなってしまった気がする。でも、わが子のような存在なので、そこは多めに見て欲しい。
「後のことはアタシに任せな。ただし、帰ってこなかったら許さないからね」
「王子が腑抜けにならないように、俺が叱咤激励して手綱を握っておくから安心しなよ」
クランベルとセバスチャンの優しい皮肉は、ディアナの胸の不安を軽くしてくれた。ディアナは小さく笑みをこぼすと、深呼吸をしてゆっくりと唇を動かす。
「じゃあ、行ってくるわ」
「──たとえ永遠という時間がかかっても、お前を待ってる」
愛おしい人の声を子守唄のように聞いて、ディアナは一気に霊薬を飲みこんだのだった。
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