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一章 絶家令嬢、カヴァネスになる。
アルオスフィア王国の城下町から少し離れた郊外には、森に囲まれた小さく白い邸がある。壁は何年も手入れをしていないせいか黒ずみ、門や扉に至っては錆ついて開閉のたびにキィーッと不快な音を立てる。
傍から見ればゴーストハウスと呼ばれても仕方ないほど、薄暗く陰気な雰囲気をまとっているここは、かつて中流階級であったローズ家の邸だ。
そして今は、貧しい庶民の学舎になっている。
「じゃあ皆、この国の王様の名前がわかる人はいる?」
今年で二十四歳になるシェリー・ローズは平均十歳で十三名ほどいる子供たちに向き合い、教鞭を取っていた。
この国ではまだ学舎という概念がなく、庶民が学ぶことに対しての意識は低い。
しかし、大陸を分割した五つの領地に公爵を配置させ、統治させるという制度をアルオスフィアの前王が撤廃したことで時代は大きく変わった。
領地ごとではなく、大陸全体を治める議会という新たな政治機関が設けられることになったのだ。この議会は騎士、大臣の名家、民の支持を集める教会の代表者、庶民出身でありながら商家として成功した者に公爵位を与え、広い視野でこの国を統治するという制度。そこで重要なのは血筋関係なしに公爵位を与えられた庶民がいるという点だ。
高い教養や知識を身に着ければ、出自関係なくそれなりの地位に就けるかもしれないという希望を民に与えることとなった。
だが、その学びを受けられるのはカヴァネスという家庭教師を雇えるだけの財力がある裕福な貴族であり、生活するのがやっとである庶民には手の出せないものだった。
中流階級出身だったシェリーも高い教養を受けたのだが、両親を流行り病で亡くして家庭教師――カヴァネスとして働くしかなくなった。
女は嫁いでしまうし、結婚しなかったとしても家柄のいい女が働くことはみっともないこととされていたため、家の当主にはなれない。ゆえにローズ家はシェリーの代で絶家が決まった。
シェリーが就いたカヴァネスという職は『余った女たち』と呼ばれ、『絶家した財力のない女など、嫁の貰い手はない』という由来からきている蔑称だ。
シェリーの知識の豊かさはローズ家の才女として社交界に名を馳せていたほどで、その力量を買われ数年前までとある貴族のカヴァネスとして務めていたのだが、教え子のご子息が不幸なことに亡くなり、当主からお暇を出されてしまった。
今はひとりで住むには無駄に広い自分の邸のリビングを教室代わりに使って、貧しい子供たちでも教養を身に着けられるような学舎を開いており、物の読み書きから政治学、淑女のマナーまで教えている。
「先生、ギュンターフォード二世様でしょう!」
元気に手を挙げて正解を叫ぶ子供たちに、シェリーは温かい眼差しを向ける。
この仕事は貴族から見れば憐れまれるものではあるが、シェリーにとっては違った。教え子たちがこの先なにがあっても、ここで学んだことを武器に社会で活躍していってくれる。その手伝いができるのは、尊いことだと思っているからだ。
「ええ、すごいわねエルマ。国王様は一年前に、十歳という若さで王位を継がれたわ」
そう、前王は四十二歳という若さで突然病死されたらしく、まだ若いアルファス王子がギュンターフォード二世として王となった。
町で耳に挟んだ噂では、わがままでこのまま国王として君臨することに不安の声も多く聞かれた。
だが、父を亡くした年端もいかない十歳の子供が急に王になれと言われても、それは無茶な話だ。シェリーも両親を亡くしているので、寂しさゆえにやさぐれたくなる気持ちが痛いほどわかる。おこがましいけれど、幼い国王を哀れに思ってしまった。
「まだ公の場には出てきていないけれど、近々即位式もあるみたいだから、皆も私たちのために頑張ってくださる王様の姿をしっかり見届けてほしいと思います」
あまりに急な即位で式はまだあげられていないらしく、近日中に城下町の歴史ある大聖堂で行うと御触れがあった。
その準備で町の道の花壇には色鮮やかな花が植えられ、店頭には小さな国旗がぶら下げられており、メインストリートでは華やかなパレードの予行練習などが行われて賑やかだ。
新たな王が誕生して、この国の貧困さが少しでもなくなればいい。そんな願いを胸に抱きながら、シェリーは夕暮れ時まで子供たちに教えを説いたのだった。
「ふう、これで最後ね」
スパラキシスの花ような濃いオレンジ色の日差しが地面に長い影を伸ばす頃、ようやく最後の生徒を乗せた馬車を見送った。
生徒の送り迎えには辻馬車を利用しているのだが、その御者であるハンスがかつてローズ家お抱えの御者であったことから安い賃金で引き受けてくれている。
彼はブラウンの短髪に黒い御者服を着ており、今年で三十五になる。主従関係がなくなった今も、シェリーのことを気にかけてくれる兄のような存在だ。
子供たちに知識と教養を受ける機会を作りたいというシェリーの志に感銘を受けたと言って、十六人を四人乗りの馬車で送るには四回も屋敷と町を往復しなければならないのにも関わらず、快く力を貸してくれていた。
「さて、薔薇の手入れをしないと」
この邸の裏手には、母が好きだった薔薇が植えられた小さな庭園がある。大輪のハイブリッドティーに房咲きのフロリパンダ、カップ咲のフレンチローズ。どれも赤を基調としていて、緑の葉によく映えていた。
「今年も美しく、この庭を彩ってね」
大きく太い、丸みのある枝だけは残して剪定していく。この薔薇は母が残してくれた形見であり、ずっと守ってきた。
ハサミを手に次の薔薇へ近づこうと歩き出したとき、髪が後ろに引っ張られるのに気づいて振り返る。
「あっ、まただわ」
シェリーは薄桃色のアーモンドの花のようなウェーブがかった髪を青のリボンでひとつに束ねているのだが、腰まで伸びているためによく薔薇の棘に引っかけてしまうのだ。
この髪は母譲りで知性を感じさせるブルーゾイサイトの瞳は父譲りであるのだが、鏡で自分の容姿を見るたびにシェリーの心には切なさの影が落ちる。
こうして今はいない両親の姿を思い出し、寂しさに胸が締めつけられたときは決まってすることがあった。
それは、胸元の服の下に隠れているお守りに手でそっと触れること。
カヴァネスは裾の長い真黒なワンピースに白の付け襟を身に着けるのが一般的な服装で、今触れている胸元の布の下には絶家したローズ家の紋章とともに薔薇が彫られた首飾りがある。シェリーが父の形見として大事にしている物だ。
シェリーにとってこの庭園と首飾りだけが、両親の存在を感じられる唯一の宝物だった。
「夜になると、やっぱり森は冷えるわね」
腕をさすりながら、薔薇の手入れを終えたシェリーは邸の中へと入る。玄関すぐのところにあるのは吹き抜けの大広間。その中央には階段があり、踊り場の壁には初代ローズ家当主の肖像画が飾られている。
そして踊り場から左右に分かれた階段をさらに上がれば、広いリビングが一部屋にベッドルームが七部屋、使用人専用の部屋がある。
この家は両親が亡くなってから、広くなった気がする。父と母が他界する三年前までは執事やメイド、薔薇の手入れをしてくれていた庭師、馬車の御者など多くの使用人がこの邸内を慌ただしく走り回っていたからだ。
けれど、当主を失ったローズ家は使用人を雇うだけの財がなく、家族のようにともに暮らしてきた彼らに暇を出すことを余儀なくされてしまった。
なので三年前から身の回りのことはすべてシェリー自身が行っている。最初は手間取ったものの、優しい使用人たちが辞める前の置き土産だからと炊事、洗濯、掃除といった一通りの家事をシェリーに教えてくれたので、今は仕事をしながら不自由なく家事をこなすことができていた。
「明日は学舎もお休みだし、なにをしようかしら」
学舎を開いているのは週に三日だけだ。子供たちは庶民出身なので、家の仕事を手伝っている子がほとんどである。幼いながら働き手でもある子供たちが何日も仕事を抜けるのは家に大きな負担がかかるので、個人の希望を聞きながら学ぶ環境を整えるのも教師として大事なことだとシェリーは考えていた。
(ああ、そうだわ。明日は子供たちに作るお菓子の材料を買おうかしら)
決して豪華なものではないけれど、授業中に焼いたクッキーやケーキを差し入れると子供たちは喜んでくれる。それがシェリーの楽しみでもあった。
自分の作ったお菓子で笑顔になる生徒たちの顔を想像しながら、夕飯とお風呂を済ませたシェリーは早々にベッドで眠りにつくのだった。
翌日、城下町のメインストリートは卸売り商人たちが開く市場で賑わっていた。ここでは肉や魚、香辛料や薬種といった様々な食材が手に入る。シェリーはそこでマドレーヌを作るためのバター、卵、小麦粉を購入した。
市場の帰りに行きつけのパン屋に寄り、フランスパンを買うと食材の入った紙袋を抱えて辻馬車乗り場までの道のりを歩く。
やがて十字路に差し掛かったとき、左手から飛び出してきた小さな影が弾丸のようにシェリーにぶつかった。
「きゃっ」
シェリーの抱える紙袋の中にはマドレーヌに必要な材料が入っており、なんとしても守らなければと強く抱きしめる。
傾く体と迫る地面に固く目を閉じたシェリーだったが、瞬時に誰かの腕が腰に回り、重力に逆らって強く引き寄せられる。頬が硬いなにかにあたり、弾かれるように目を開けると顔を上げた。
「え……」
その瞬間、シェリーは息をのんだ。かき上げられた真紅の前髪はサラリと右頬に流され、美しいガーネットの瞳に少しだけかかっている。
「大丈夫か、怪我はないか」
耳元をくすぐるような低い声と、筋肉がほどよくついた体躯の男が自分を抱きとめてくれていた。彼が身に着けている白の軍服には金の肩章に飾緒、左の肩からは赤の大綬と腕章がかかっている。金糸に縁どられた袖章と同様のデザインが施された飾帯には柄の先端に薔薇のモチーフがあり、鍔にかけて茨が巻かれるような彫刻のある剣が差さっていた。
顔立ちも美術館に飾られる神々の彫刻のように美しく、思わず目を奪われてしまう。
「俺に見惚れるのは大いに構わないが、人目を引いているぞ」
「――あっ、そんなんじゃありませんから」
ハッと我に返ったシェリーは頬が熱くなるのを感じながら、目の前の男の胸を押し返す。
じっと見つめたりして、はしたない。男の言葉は図星を指していて、なるたけ平静に振る舞ったものの、羞恥に心臓がありえないくらい鼓動していた。
そんなシェリーの心を見透かしてか、男は片側の口角を引き上げてニヤリと笑う。
「そう照れるな、惚れられるのには慣れている」
慣れてるって、いくらなんでも自意識過剰すぎやしないだろうか。信じられないくらい自分に自信がある様子の彼に、シェリーはすぐさま否定する。
「惚れていませんので、勘違いしないでください」
ふいっと顔をそらせば、クッと喉の奥で笑う声が耳に届いた。不快に思ったシェリーは、咎めるような鋭い視線を彼へ向ける。
「どうやら、お嬢さんの機嫌を損ねたらしい。俺はスヴェン・セントファイフだ。名乗らない上に無粋にもあなたの本心を代弁したこと、許してはもらえないだろうか」
スッと流れるように自然な所作で胸に手を当て、恭しくお辞儀をする彼を驚愕の表情で凝視する。先ほど燃えたぎっていた怒りなどすぐに沈下し、今は彼の正体に全身の血の気が引いていた。
(セントファイフ……ですって?)
その名は政治機関である議会を構成し、国政を動かす四公爵のひとり。騎士の名門、セントファイフ家のものと同じだ。国の治安と軍事的権力を司るセントファイフ公爵家の現当主は二七歳になる見目麗しい殿方らしく、彼の持つ赤い髪色から戦場に咲く赤薔薇とも称されると聞く。
そして剣に刻まれたセントファイフの薔薇の家紋が、なにより目の前にいる人の身分を物語っており、シェリーは後ずさった。
「私、なんてご無礼を……」
声が震えて、恐怖のあまり頭を下げることすら忘れてしまう。国王に続く大公の次に発言権があるとされる公爵に盾突けば、問答無用で罰せられるだろう。斬首刑、絞首刑、嫌な単語が脳裏を巡り、最悪の事態を想像して卒倒してしまいそうだった。
「その怯える顔もなかなか美しいが――」
そう言いかけたセントファイフ公爵の指が、シェリーの顎をすくうように持ち上げる。眼前に迫る美しい顔に心臓がドキンッと大きく跳ねた。
目を見張って無意識に息を止めると侯爵はフウーッと唇に息を吹きかけてきて、意地悪い笑みを口元にたたえた。
「まるで生娘のような反応だ。男の経験はなし……か」
「なっ――」
公爵様ともあろう人が、なんてことをおっしゃるのか。絶句して口をパクパクさせていると、セントファイフ公爵が楽しげにこちらを見つめてくる。
そのように凝視されると、居心地が悪い。自然と苦い顔になるシェリーに満足したのか、フッと笑って体を離してくれた。
ようやく離れた体温にホッと息をつき、恥ずかしさをごまかすように咳払いをする。
「セ、セントファイフ公爵様は――」
「スヴェンと呼べ。そっちはどうも仕事気分が抜けなくて疲れる」
言葉を遮られ、風のような速さで手を取られたと思ったら甲に口づけられる。挨拶だとわかっていても、いつも子供たちばかり相手にしていたので男性慣れしていないのだ。瞬時に赤面するシェリーに「いじらしいな」と彼は笑った。
「ほら、スヴェンと呼んではくれないのか」
「っ……ですが……」
そうは言うけれど、自分のような庶民が恐れ多すぎる。かといって面と向かって断るのも失礼にあたるだろう。困り果てていると、セントファイフ公爵はジリジリと距離を詰めてこようとする。
吐息を唇に吹きかけられたことや手の甲に口づけられたことが走馬灯のように脳裏によみがえり、耐えきれなくなったシェリーは意を決して「ス、スヴェン様!」と彼の名を呼んだ。
「あと一歩ってところだが、気長に待つことにしよう。それで、お前の名はなんという」
「私はシェリー・ローズです」
自己紹介に合わせて、軽くワンピースの裾をつまんでお辞儀する。その一連の動作をスヴエンは顎に手を当て、吟味するように眺めていた。
どうしてか、すごく見られている気がする。
向けられる視線をむずがゆく思っていると、彼は「ほう」と関心したふうにつぶやいた。
ますます意味が分からないシェリーは高貴な相手にも関わらず、眉間にしわを寄せて首を傾げてしまう。
「庶民にしては動きが洗練されている。どこかで教養を学んだのか? いや、その服装からするに、お前はカヴァネスか」
質問しておきながら、スヴェンは勝手に解決してしまう。
シェリーが「はい」とそれだけ答えると、彼の目が怪しく光った気がして胸がざわついた。なんとなく嫌な予感がして、早々にその場を立ち去ろうとしたのだが――。
「おい、お前!」
背後から突然、男の子の声が聞こえた。
振り返ろうとしたら、背中に鈍い衝撃が走って前に倒れこみそうになる。
「大丈夫か、シェリー」
とっさにスヴェンが片手で引き寄せてくれたおかげで、転倒は免れたらしい。助けてくれたことに不覚にもときめいてしまったシェリーの心臓は、壊れてしまいそうなほど脈打っていた。
動揺を顔に出さないよう努めながら心の中で慌てふためいていると、スヴェンは「アルファス様」と厳しい目をシェリーの背後に向ける。
(アルファス、どこかで聞いたことある気が……)
そう思って、スヴェンの腕の中で体の向きを変える。そこにいたのは、赤いジェストコールと呼ばれる上衣と花輪柄のジレと呼ばれる袖のない胴着を重ね着し、白の詰め襟に丈の短いキュロットを履いた少年だった。
なにより目を引くのは白銀の髪と碧眼。その澄んだ眼差しがこちらに向けられると、どこか神々しさを感じさせる彼の口から信じられない言葉が飛び出す。
「この僕にぶつかっておいて、謝罪もなしか! 愚か者!」
子供の口から出たとは思えない……いや、信じたくない毒舌ぶりにシェリーは目を剥いて言葉を失う。
「ぶつかったのはアルファス様でしょう。ミス・シェリーに謝罪なさってください」
呆れ混じりに男の子を論すスヴェン。十字路でぶつかった弾丸の正体は、どうやら彼だったらしい。あまりにも早く背丈も低いために、シェリーの視界には黒い塊のように映っていた。それがまさか子供だったなんて想像もつかなかったな、と考えているとスヴェンに注意されたアルファスと呼ばれた少年はフンッと鼻で笑い、腕組みをしてふんぞり返る。
「断る! なぜ僕が低級の者に頭を下げなければならないのだ」
そう言ったアルファスと目が合うと、ふいっと顔をそむけられてしまう。
公爵家のスヴェンに敬語を使わせるなんて、男の子は同等かそれ以上の地位についている方のご子息ということだろうか。
ふたりのやり取りを見守りながら、少年の身なりを確認すると胸元にアルオスフィア王国の紋章が刻まれたブローチが飾られている。そのブローチの紋章とアルファスという名前に、シェリーの思考はようやく繋がった。
「まさか、あなた様は……」
アルファスという名前は、王位を継ぐ前のギュンターフォード二世の幼名だ。
(ということは、目の前のこのお方はまごうことなき――国王陛下!)
公爵と国王陛下に挟まれるという今まで経験したことのない状況に、目眩を覚える。
このふたりの機嫌を損ねれば、シェリーの命など蟻を踏むのと同じくらい簡単に奪われてしまうのだ。
「なぜこのようなところに、ギュンターフォ……」
言いかけたシェリーの言葉は、後ろから伸びてきた手によって塞がれる。顔だけで振り向けば、スヴェンが唇に人差し指をあてていた。
「アルファス様のお披露目は、まだされていない。だから、その名を口にはするな」
その声色は優しくもあり、皇帝以外の返事を受け付けないという威圧も含んでいた。
シェリーがコクコクとうなずくと無骨で男らしい手が口元から離れていき、ほっと息をつく。
「怖がらせてすまないな」
ふいに頭を撫でられて、シェリーの心臓がトクンッと小さな音を鳴らした。
「あ、いえ……」
強引ではあるけれど、優しい方なのかもしれない。騎士公爵として男らしくレディーファーストを自然にできるスヴェンは、社交界でさぞかしご令嬢の心を射止めているに違いない。
それはシェリーも例外ではなく、容姿や内面に至るまで完璧な彼に心が勝手に惹かれてしまうのを感じていた。
とはいえ、相手は自分より遥かに高貴なお方。本来であれば言葉を交わすことすら許されないのだ。それを一目ぼれと認めてしまうのは恐ろしすぎて、憧れと混同しているだけだと自分に言い聞かせる。
シェリーが自分の心と葛藤している頃、スヴェンの説教とアルファスの反抗する声が苛立ちとともに大きくなり、行き交う町人の視線を集め始めていた。
それに気づいたシェリーはふたりに小さく声をかける。
「もう少し声を抑えたほうがよろしいかと……」
しかし、白熱していてこちらを見向きもしない。
カヴァネスの血が騒いだシェリーは無言で拳を握りしめ、肩幅に足を開く。大きく息を吸い込んでお腹の底にためると、キッとふたりを見据えた。そして――。
「いい加減になさい! ここは道の往来です。人様の迷惑になりますよ!」
普段子供たちにするみたいに、つい声を張り上げてしまうシェリーをふたりは目を丸くして見つめた。
やってしまったとは思いつつ、ここで否定すれば自分の教師道に背くことになるので、先ほどより声量を落としてもう一度告げる。
「おふたりとも、ここで立ち話もなんですから……。狭いですが、私の家にいらしてください」
有無を聞かずに、辻馬車乗り場の方へと歩き出す。その後ろで顔を見合わせたスヴェンとアルファスは、シェリーの気迫に押されるまま着いていくのだった。
「大したおもてなしもできずに、申し訳ありません」
トレイに乗せたダージリンティーと焼き菓子のクッキーをソファーに座るふたりの前に出すと、アルファスの目がキラキラと輝いたことに気づいた。どうやら国王は甘いものが好きなようで、シェリーの口元にも笑みが浮かぶ。
「買ったもので申し訳ありません。明日であれば、マドレーヌを焼いたのですが……」
トレイをテーブルの端に置いて、向かいに座ると軽く頭を下げた。それを聞いたアルファスは、クッキーに注いでいた熱心な視線をシェリーへ向ける。
「お前は、自分でお菓子を作るのか?」
「えぇ、そうですよ」
「使用人もいないようだが、この紅茶もお前が入れたのか?」
「はい、お気に召しませんか?」
シェリーの質問には答えず、アルファスは揺れる紅茶の水面に視線を注いでいる。その顔は思案しているようにも見えて、口を挟むのがためらわれた。
しばらく沈黙が続き、見かねたスヴェンが気遣うようにシェリーを見る。
「色も香りも完璧だな」
空気を和らげようと気遣ってくれたのだろう。シェリーは頬を緩め、自身のカップを持ち上げると縁を指先でなぞる。
「紅茶の魅力は色と香りだそうです。それを引き出すのは茶葉の蒸らす時間、使う湯の温度、色が映えるカップの選択。他にも色々ありますが、提供されるまでに多くの工夫がなされているのです」
カヴァネスとして働きだす前、身の回りのことをなにひとつできなかったシェリーに紅茶の入れたかを教えてくれたのは、ローズ家に長年仕えてくれた年配の執事だった。
そのときのことを思い出して、切なくも懐かしい気持ちになる。
「お前は物知りなんだな」
尊敬の眼差しで見つめてくるアルファスに、「カヴァネスですので」と冗談を込めて笑みを返す。先ほどシェリーを罵った少年とは思えないほど、純真な瞳がそこにはあった。
「今はこの邸を学舎にして庶民の生徒たちを招き、教師として働いております」
今度はアルファスだけでなく、隣に座るスヴェンも「庶民が?」と驚きの声を漏らした。ふたりの反応に、庶民が学ぶことに関して理解が浅いのだと思い知らされる。身分の高い貴族以外の人間が教養を身に着けてどうするのか。そんな顔をしている彼らに、説得するような気持ちで続けた。
「庶民出身でも商家として成功し、公爵位を与えられたウォンシャー公爵のように出自関係なしに活躍できる時代が必ず来ます。そのときに必要なのは教養や知識です。それらは、未来を勝ち取るための武器となりましょう」
少なくとも自分の教え子たちには、輝かしい未来を掴み取ってほしい。そのために、ありったけの情熱を注いで向き合っているつもりだ。
「これは感服した。シェリーは先進的な考えを持っているのだな」
自身の顎をさすりながら、手放しで褒めてくれるスヴェン。熱弁したことを少しだけ恥ずかしく思いながら、気持ちを落ち着けるようにカップに口をつける。ダージリンの繊細な香りが鼻腔を通り抜け、ほっと息をついた。
「勉強が武器になるのか?」
カップを受け皿の上に乗せたアルファスは、揺れる瞳で尋ねてくる。それを見ただけで、彼に思い悩んでいることがあるのだとわかった。
軽々しく答えることはできないけれど、自信をもって言える。
「必ず、なります」
それが口だけにならないように、シェリーは身の上話をすることにした。
「両親が流行り病で亡くなって、このローズ家は潰えてしまいました。財産も地位もなくした私に残ったのは、中流階級ではあったものの受けることができた読み書き、算盤と教養です」
「それを武器に、お前はカヴァネスになったのか?」
「はい、アルファス様。その通りです」
「自分の身を不幸とは思わないのか? 望んでカヴァネスになったわけじゃないだろ」
その問いは、アルファスの思いそのものを映しているように聞こえた。
もしかしたら、国王になったことを不幸だと思っているのかもしれない。望んでなったわけじゃないと、自分の立場を憂いているのかもしれない。
そう思ったシェリーはおもむろに立ち上がり、向かいに座るアルファスの前にしゃがみ目線を合わせる。何事かと目を丸くしている小さな国王の手を無礼とは思いながらも、やんわりと握った。
「確かにこのような目に合わなければ、私は孤独にならずに済んだのでしょう」
「ならやっぱり、お前は不幸だと思って……」
「いいえ、違います」
首を横に振りながらアルファスの言葉を遮って、紅茶のカップに視線を向ける。
「先ほどの紅茶の入れ方は、かつてローズ家の執事を務めていた者に教えてもらいました」
唐突に紅茶の話を始めるシェリーに、アルファスは訝しむような顔をした。
そんな彼にくすりと笑みをこぼして、家族同様に大切な存在である使用人たちの姿を思い出しながら続ける。
「両親を失う前の私は紅茶の奥深さ、洗濯、料理の仕方さえ知らなかったのです。だから、私に生きていく力をくれた両親や使用人、カヴァネスとして子供たちの未来を作る道を与えてくれた運命に感謝しています」
これまで経験した悲しい別れも、地位を失うという惨めさも、不幸という言葉で片づけてしまいたくない。その経験があったからこそ、シェリー・ローズという人間は強くなれたのだから。
「あなたに与えられた力は大きく、時に苦しみを連れてくるのかもしれません。ですが、多くの人間を幸せにできる素晴らしいものです」
たいていの人間は、どうやっても地位や権力を手にすることができない。時代も変わってきてはいるものの、生まれや血筋がその人の価値を決めてしまうことがほとんどだ。
逆に貴族や王族が持ちたくもない力のために、自由に生きられないことも少なからずあるだろう。でも、出生や運命を嘆いても未来は変わらないのだ。
「だが、誰もが僕のことを王の器ではないと噂している」
手を握られたまま項垂れるアルファスに、にっこりと笑って見せる。
「でしたら、強くなってあっと驚かせてしまえばいいのです」
「……なら、シェリーが僕のカヴァネスになってくれよ」
「えっ、私がですか?」
そう返されるとは、予測していなかった。
目を瞬かせながら、不安げなアルファスの顔を見つめ返していると――。
「これは頼む手間が省けたな」
いつの間にそばにやってきたのか、スヴェンが肩に手を乗せてきた。
「アルファス様は教育係の靴にヤモリやら、馬の糞やらを入れるといった悪戯をやらかしていてな。辞めた教育係の数は星の数ほどいる」
「それは……すごいですね」
そこまでされたら、さすがに逃げ出すだろう。
苦笑いを浮かべていると、スヴェンは意味深に見つめてくる。それだけで金縛りにあったかのように、体が動かなくなった。彼の瞳には人を従わせる不思議な魔力でも宿っているのだろうか。
「さっき町中でお前にカヴァネスかと尋ねたとき、アルファス様のカヴァネスになってくれないかと頼むつもりだった」
「で、ですが……私には他にも生徒がおります」
「授業がないときで、かまわない。引き受けてはくれないか」
頼みを聞いてあげたいのは山々だけれど、自分に国王のカヴァネスになれるだけの技量があるのか不安になる。というのも、自分に力がなければ強くなりたいというアルファスに迷惑がかかるだけだからだ。もっと国の政治やしきたりに詳しい者がいるだろう。やはり無責任に引き受けるわけにはいかないと、アルファスに視線を向けた。
そこにあったのは、懇願するような表情。彼の心細さが垣間見えて、すぐに考えを改める。彼が望んでくれるうちは、応えるのがカヴァネスの役目だと気づいたからだ。
気持ちが固まったシェリーは、ふたりに礼儀正しくお辞儀をする。
「未熟ながら、力添えさせていただきたいと思います」
シェリーが体を起こすと、アルファスが勢いよく腰に抱き着いてくる。
「ア、アルファス様?」
「じゃあ、学舎の仕事がない日は城に泊まれ! な、いいだろう?」
ニコニコしながらこちらを見上げてくるアルファスを抱きしめ返し、曖昧な笑みを返す。
泊まるとなると、気がかりなのは薔薇園だ。薔薇は繊細なので温度管理や病気にかかってはいないかなど、マメな観察や手入れが必要になる。
「心配事があるなら、遠慮なく言うといい」
シェリーの不安を感じ取ってか、スヴェンが声をかけてくれる。迷惑でないだろうかと悩んだ末に、おずおずと薔薇園のことを相談したら城の庭師を手配しようと言ってくれた。
「すみません、お手数をおかけします」
「こちらが無理を言ったのだ。シェリーが気にすることはない。俺はアルファス様の側近も務めているからな、うちの王がなにかやらかしたら俺に相談しろ」
軍事指揮をとりながら、側近まで努めているスヴェンに驚く。忙しい身なのに長らく引き止めては悪いと思ったシェリーは、「おふたりとも、そろそろ」と声をかけた。
窓の外に広がる空は、青が深みを帯びて夜の訪れを知らせている。
「長居してすまないな。アルファス様、お暇しますよ」
「えぇー、まだいいじゃないか」
席を立つスヴェンに、アルファスはごねる。そんな彼にシェリーは語尾を強めて「アルファス様」と厳しい声を放った。
腰に手を当ててズイッと顔を近づけると、アルファスは身を仰け反らせる。
「わかったよ、じゃあいつ会えるんだ?」
唇を尖らせながらも納得してくれた彼に、よくできましたと微笑んだ。
「明日は授業がありますので、明後日からお引き受けしたいと思っています」
「むっ、承知した」
渋々だがコクリと首を縦に振るアルファス。それを見たスヴェンが腕組みをしながら、「ほう」っと再び驚きの声をあげる。
「たった数時間で、ここまでアルファス様の信頼を勝ち取るとはな。俺の目に狂いはなかったということか」
「スヴェン様?」
「シェリーとは、長い付き合いになりそうだ」
彼の言っている意味がわからなかったシェリーは首を傾げる。
しかしそれ以上はなにも語ってくれず、意味深な発言だけを残してスヴェンはアルファスとともにローズ家の邸を出ていってしまうのだった。
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