二章 アルオスフィア城の奮闘劇

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二章 アルオスフィア城の奮闘劇

 アルファスのカヴァネスとして王城に赴く朝、シェリーはボストンバックを手に邸の門前で迎えの馬車を待っていた。  これから四日間は学舎での授業がないため、お城に部屋を借りて泊りでアルファスのカヴァネスを務めることになっている。  しばらくすると遠くから馬の嘶きが聞こえた。目を凝らすと二頭の馬がこちらに駆けてきており、やがて御者の綱さばきにより目の前で足を止める。  窓枠や車輪に至るまで金で縁取られた真紅の立派な馬車には王家の紋章が描かれているのだが、この紋章のある馬車は王族や貴族だけでなく城の要人を乗せていることが多いために何人たりとも進行を妨げてはいけないとされている。  絶家した令嬢である自分が、この馬車に乗るのだと思うと恐れ多くて仕方ない。呆然と目の前の豪華な馬車を見つめて立ち尽くしていると、中からスヴェンが降りてきた。 「シェリー、待たせたか」 「いいえ、迎えに来てくださってありがとうございます」  本当は三十分ほど前から、この門前で待っていた。公爵にご足労をかけているだけでも申し訳ないというのに、自分が待ち合わせ時間に遅れては失礼だと思ったからだ。 「だが、少し手が冷えている」  流れるような動作でスヴェンに左手を取られた。  この国には他国のように季節というものがなく年中暖かいのだが、ここは森の中なので太陽の光が差し込まないぶん冷える。  そんなことを考えていると、ふいうちで甲に唇を押し付けられた。 (なんだか、手慣れすぎていない?)  女性の扱いに長けているというのは紳士としては褒められたものなのだろうが、シェリーからすれば節操がないように思えてしまう。  まず挨拶から、なっていない。恭しい女性への挨拶としては甲に唇を寄せるだけが好ましく、実際に口づける者は少ないのだ。 「どうした、不満げだな」  腰を折り、手を掴んだまま上目遣いに意地の悪い笑みを浮かべるスヴェン。その整いすぎている美しい顔から視線を逸らし、動揺が悟られないようにスッと手を引き抜く。 「失礼ながら、スヴェン様の挨拶は距離が近すぎます。もう少し節度を意識されたほうがよろしいかと」   あくまで冷静に、敬う口調は崩さずに間違いを指摘する。けれどスヴェンは気を害した様子もなく、楽しそうにクッと笑った。 「それはすまなかった。女性には求められることが多くてな。シェリーのように迷惑がられたのは初めてで、なかなか新鮮だ」 「あぁ、そうですか」  声に抑揚がなくなり、自分でも呆れを隠せていないことはわかっていた。ここまで女性に好かれていることを公言されると、かえって清々しく腹も立たない。 「行きましょう」  シェリーはボストンバックを手に、彼を置いて馬車に近づいた。そんなシェリーの背中を見つめながら、スヴェンは「ますます面白い」と呟き後を追う。 「ミス・シェリー、バックをこちらへ。それから、お手をどうぞ」 「お気遣い、感謝いたします」  事務的なお礼をして、差し出された手を取ると馬車に乗り込む。目の前の座席にスヴェンが腰を下ろすと、馬車は王城に向けて走り出した。  太陽が一日のうちで最も高く空に昇る頃、シェリーはアルオスフィアの王城に到着した。  見上げれば首が痛くなりそうなほど高い、塔や館がいくつかそびえ立っている。その周りは背丈を悠々と超える城壁やの門によって守られており、見事な防衛が施されていた。  城内の庭園には妖精が現れそうなほど咲き乱れる色とりどりの花。館の中に足を踏み入れれば、黄金の手すりがついた螺旋の大階段に出迎えられる。白を基調とした壁を飾るフランドルの花模様、天地創造を題材にしたタペストリーたちに心癒されながら、まっすぐにどこかへ続く長い廊下を歩いた。  そして、王家の紋章のレリーフが刻まれた純白の大扉でスヴェンは足を止める。控えていた騎士に目を向けると、厳かに扉が開けられた。   スヴェンの背に続いて足を踏み入れたそこは、シャンデリアに照らされた謁見の間。床や壁までもが白の大理石に囲まれ、少しひんやりとした。天井を見上げれば、煌びやかな金のモザイク模様が描かれており、落ち着きの中にも気品を感じる。  王座に続く赤い絨毯の上を歩いているとこちらを品定めするような騎士と大臣たちの視線を一身に浴びて、足がすくみそうになる。それでも歩き続けられたのは、スヴェンの頼もしい背中が目の前にあるからだろう。 「国王陛下、ミス・シェリーをお連れしました」 「本日より陛下の教育係を務めさせていただく、シェリー・ローズにございます」  スヴェンに習い跪くと「堅苦しい挨拶はいらん!」と頭上から声が降ってくる。ギョッとしたシェリーが顔を上げると隣のスヴェンは苦笑を零しており、周りの騎士や大臣たちも国王相手だというのに呆れた顔をしていた。 「待ちわびたぞ、シェリー」 「陛下、お戻りください!」  王座から飛び降りて、側にやってこようとするアルファスを大臣が引き留めた。足を止めたアルファスは、眉間にしわを寄せて不本意だと言わんばかりに大臣を振り向く。 「お前は明日から、仕事にこなくてよい」  冷酷な命を下す国王に大臣の顔は青ざめ、よろけてしまうのを近くにいた騎士が慌てて支えていた。 「それでシェリー、なにからするのだ?」  当の本人は何事もなかったかのように、平然と話しかけてくる。この先も今のような行動がまかり通ってしまえば、アルファスは横暴な国王になってしまうだろう。  シェリーは罰せられるのを覚悟で「そうですね」と言いかけると立ち上がる。 「どうしたんだよ、急に立ち上がったりして」  きょとんとしている小さな国王をじっと見下ろし、無言の圧力をかける。アルファスの顔に戸惑いが滲みはじめたが、構わず腰に手を当てて眉を吊り上げた。 「まずは、さきほどの横暴な振る舞いについて説教いたします」 「え、説教? なんで僕が?」  威圧感をまとったシェリーをアルファスは驚きの表情で見上げる。  さすがのスヴェンもポーカーフェイスを崩し、目を丸くしていた。  国王相手になにを言い出すのかと、その場にいた人間全員が固唾を呑んで見守る中、シェリーは未来のアルオスフィアを担う王を叱る。 「国王とは人を導き、愛し、ときには戦い守る者。さて国を治めるのに必要なものとはなにか、お答えください陛下」 「えっと……地位とお金?」  コテンと首を傾げるアルファスの瞳はどこまでも澄んでいて、悪気がない。それがわかるので厳しい表情を緩め、やわらかい口調で語りかける。 「それも大事な資源ですが、陛下のおっしゃる地位やお金はなにから生み出されますか?」 「うーん、わからないよ」 「人です、陛下。あなたが国王として君臨できるのはスヴェン様や大臣、騎士や使用人の方々が支えてくださっているからなのです」  その両肩に手を乗せ、ゆっくりと腰を折る。シェリーの眼差しが優しくなったのに気づいて、アルファスも体の力を抜いた。  彼とは王族として一歩を置くよりも、普段生徒たちに接しているようにまっすぐぶつからなくてはいけないのかもしれない。彼がちゃんと人の話を聞けるような相手になること、それが自分の役目だと思ったシェリーはアルファスの瞳をじっと見つめ返して口を開く。 「強くなりたいのでは、ないのですか?」 「なりたいけど……」 「けど? そのような生半可な覚悟で、私をカヴァネスにしたのでしょうか」  シェリーの目が鋭く光るのを見たアルファスはビクリと肩を震わせ、慌てて頭を振る。 「ち、違う! 僕は本気だ!」 「でしたら、あなた様が守るべき者にした仕打ちを謝罪してくださいませ」 「わ、悪かったよ……セデオ大臣」  ペコリと頭を下げるアルファスに、セデオ大臣もホッとした顔をする。そしてどこからともなく、拍手が巻き起こった。 「ヒヤヒヤしましたが、セデオ大臣の首が飛ばなくて安心しましたな」 「あの陛下を説得するなんて、今回は期待できるかもしれませんね」  周りの大臣や騎士たちから、喝采が飛び交う。  場もわきまず、やりすぎただろうか。反省しているシェリーの肩にスヴェンの手が乗り、「こちらに来い」と耳打ちされた。  アルファスと顔を見合わせて一緒に謁見の間を出ると、前を歩いていたスヴェンが廊下の途中で足を止める。  無礼を働いたことを咎められるのだろう。覚悟を決めてそのときを待っていると、あろうことか彼はぶはっと盛大に吹き出した。 「ス、スヴエン様?」  目を見張ると、スヴェンはお腹を抱えながらこちらを振り返る。 「シェリー、頼もしすぎるぞ。さすがの俺も面食らった」 「それは……申し訳ございません」 「怒っているのではない。褒めている」  スヴェンの手が伸びてきて、子供にするように前髪をくしゃりと撫でられた。シェリーは頬を真っ赤に染めて、唇を震わせる。 「なにをなさるのですか!」  これでは、まるで子供扱いだ。確かにスヴェンより年下ではあるけれど、たった三つ違いなのにあんまりだとシェリーは目くじらを立てる。  すぐに後ずさって、前髪を手櫛で整えた。 「すまない、可愛くてついな」  かくいう彼は、人の気も知らないでカラカラと笑っている。ため息をつきそうになっていると、アルファスが腕に抱き着いてきた。 「これから城を案内してやるよ!」  なぜか上機嫌な様子のアルファスは国王とはいえ、まだ十歳。年相応の反応が可愛らしくて、つい笑みがこぼれる。 「お願いします」 「仕方ないから、引き受けてやるよ」 「アルファス様、今の受け答えはやり直しです」 「ええっ、なんでだよ!」  アルファスは主に国王に求められる心の寛大さ、立ち振る舞いという勉強よりも教えるのが難しい部分が欠けている。  おそらく彼ひとりを相手にするより、学舎で授業をしているほうがずっと楽なのだが、引き受けたからには頑張らねばと気を引き締めた。  こうして、シェリーの波乱の一日が幕を開けたのだった。 「ではアルファス様、アルオスフィアの国政を行っているのはなんという機関ですか」 「えーと、議会?」 「議会を構成する四人の公爵と大公様の名前は?」 「セントファイフ公爵、ウォンシャー公爵、あとサザーリンスター叔父さ――大公、あとはー……わかんないよ!」  城内を案内してもらいグレート・ホールで昼食を頂いた後、さっそく午後から授業を行ったのだが、アルファスは早々に根をあげてしまう。 「騎士の名家セントファイフ公爵、商家のウォンシャー公爵、大臣の名家ノーデンロックス公爵、教会の代表者であるガイルモント伯爵。そして、議会の最終決定権を持つサザーリンスター大公です」  つらつらと正解を教えるとアルファスは机に突っ伏して、「そんないっぱい、覚えきれないよーっ」とグズリ始める。  時計を見れば、かれこれ三時間ほど授業をしている。少し休憩が必要かもしれないと思ったシェリーは、歴史書を閉じるとアルファスの頭を撫でた。 「庭園を散歩しませんか?」 「散歩!」  すぐに体を起こした彼は、さっきまでグズッていたとは思えないほど元気そうだ。 「ほらシェリー、早く行こうぜ!」 「はい、アルファス様」  小さな手に引かれるまま、アルファスの部屋を出ると螺旋の大階段を降りて庭園に出る。そこに咲いていたのは、むせ返るような甘い香りを放つ青薔薇だった。 「これは……オンディーナですね」  その花弁を指先でくすぐるように撫でれば、「オンディーナ?」とアルファスが興味深そうに手元をのぞき込んでくる。 「この薔薇の種類ですよ。青薔薇は神の祝福・奇跡・不可能を成し遂げるという意味があるんです」 「そうなんだ……実はこれ、母様が僕のためにって植えてくれたんだ」 「え、お母様が?」  薔薇からアルファスに視線を移したシェリーは、繋いだままの手をギュッと握る。父である国王の死は国民誰もが知っていることだが、アルファスの母――前王妃の話はあまり聞かない。というのも、夫である前王が亡くなってから体調が優れず、息子が王位を継ぐのと同時に退位されたため、公の場に出てこなくなってしまったからだ。 「うん、ここでよく一緒にお散歩もしたんだよ。でも今は、部屋から出てこれないんだ。心が病気なんだって皆は言ってた」 「アルファス様……」  普段は天真爛漫な彼の瞳が切なさを映して揺れており、大好きな父を失い心を病んでしまった前王妃に胸を痛めているのが見てわかった。  わがままに振る舞ってしまうのも、周りに頼れる人がいなかったからかもしれない。  悲しみと背負わなければならない国王の役目に板挟みになって苦しんでいたのだろう。  そう思ったら、どうしても甘やかしてあげたくなって抱きしめる。  女の腕の中でさえすっぽりおさまってしまう彼の肩には、アルオスフィア国に生きるすべての人間の未来が重くのしかかっているのだ。  本来であれば働く父の姿を見て少しずつ学び、立場を自覚していくのが自然だったのだろう。でも彼にはその猶予もなく、突然国王として即位することとなった。あまりにも酷すぎる運命を神は彼に与えたのだ。 「この青薔薇を植えたお母様は、心からアルファス様を愛しているのですね」  そう言えば、彼は腕の中で「え?」と不思議そうに見上げてくる。 「祝福ある人生を、どんな困難の前でも奇跡を味方につける力を、不可能を成し遂げる強さをアルファス様が授かりますようにという願いがこの薔薇たちには込められているように感じます」  一般的には赤薔薇を植える家が多いのだが、城の庭園に植えられているのは青薔薇のオンディーナだけだ。  アルファスのために植えたとも言っていたし、あくまで想像だけれどこの薔薇には前王妃の特別な想いが込められているのだと思う。 「そうだといいな……」  セレアの腕にしがみつきながら、アルフスは嬉しそうに笑う。 「きっと、そうですよ」  安心させるように微笑んでもう一度強く抱きしめたとき、ザッと風が薔薇の花びらを舞い上げた。  青色の風がシェリーの薄桃色の髪を巻き上げると、結びが甘かったのかリボンが外れて解けてしまう。 「あっ、リボンが!」  片手で髪をおさえると、リボンの行方を捜すために振り返る。その視線の先に立っている男性が、青いリボンを握った手を軽く上げてフッと笑った。 「美しい聖母様、落とし物だぞ」 「からかわないでください、スヴェン様」  そこにいたのは庭園に咲く一輪の深紅の薔薇、スヴェン・セントファイフ公爵だった。 「本心だ。アルファス様を抱きしめるお前の姿は、聖母のように慈愛にあふれている。その姿に不思議と心が癒されるようだった」 「話を聞かれていたんですか?」  だったら、声をかけてくれればいいのに、盗み聞きは誰だっていい気はしない。眉根を寄せて無言の抗議をしていると、それを感じ取ったスヴェンが苦笑いを浮かべて手を伸ばしてくる。  不意打ちの出来事に逃げることさえできなかったシェリーは、髪をひと房掬われて唇を寄せてくる彼をじっと見つめることしかできないでいた。 「これはお気に召さないんだったな」  彼はそう言って近づけた唇を押し当てることなく、手を離した。  その行動に今朝の会話が蘇ってくる。挨拶と言ってシェリーの手の甲に口づけたスヴェンを節操がないと窘めたときのことだ。  自分で説教したというのに、簡単に離れていく体温を寂しく思ってしまった。そんなシェリーの心など知らずに、スヴェンはいつもの余裕たっぷりな表情を少しだけ崩して困ったように笑う。 「本当はもう少し前からいたんだがな、薔薇に囲まれて微笑むお前の姿に見惚れていたら、出るタイミングを完全に失ってしまった」 「また、お世辞がうまいですね」  歯の浮くようなセリフの数々は、彼が言うと様になる。高鳴る鼓動がこれ以上強くならないように、近づいてくるスヴェンから視線を逸らして顔にかかる髪を耳にかけた。 「世辞じゃない、本心だ」  再び髪に触れてきたと思ったら、スヴェンがシェリーの背後に回る。  普段は剣を握る無骨な手がセレアの薄桃色の髪をリボンでひとつに結っていく。生まれて初めて男性に髪を結ばれたシェリーの頬は、たちまち赤くなった。 「スヴェン様、騎士とは忠誠、公正、勇気、武勇、慈愛、寛容、礼節、奉仕が得とされるのですよ。女性の髪にむやみに触れるものではありません」  ツンと顎を上げて説教をしてしまうのは、気恥ずかしさゆえにだ。 「申し訳ありません、シェリー先生。ですが、非ならあなたにもあると思うが?」  わざとらしくシェリーを〝先生〟と呼んでニヤリと笑った彼の目は、あきらかにからかいを含んでいる。なにを言われるのだろうと身構えながら、数多の戦場を駆けただろう騎士公爵に無謀にも言い返す。 「では、お聞きします。その非とはなんのことでしょうか」  そんなふたりの顔をアルファスは戸惑いながら見比べていた。 「シェリーの美しさが男を惑わせているのが悪い」 「はい? いつどこで、私が……」 「アルファス様も、シェリーが好きですよね?」  シェリーの言葉を遮って、スヴェンはアルファスの前に片膝をつく。突然話を振られた彼は戸惑いながらも「まぁな!」と答える。それはもちろんうれしいのだが、不敵な笑みで見上げてくるスヴェンにはしてやられた。 「アルファス様を味方につけるなんて、卑怯です」  頬を膨らませて抗議すると「苛めすぎたようだ」と子供にするみたいに頭を撫でてくる。 (スヴェン様って、少し苦手かもしれない……)  彼からかけられる言葉や仕草、表情のひとつひとつに心臓が騒いで慌てふためいたりと落ち着かなくなる。どちらかというと自分は冷静な性格だと思っていたので、翻弄されるのに慣れていないのだ。 「さて、そろそろ俺は訓練場に戻る」  立ち上がったスヴェンの軍服の裾をとっさにアルファスが引っ張る。 「僕にも剣術の稽古をつけてくれ!」  必死な表情で頼み込むアルファスに、スヴェンの目が見開かれていく。 「めずらしいですね、アルファス様が自分から稽古だなんて」 「うるさい! 僕もシェリーにいいところを見せるんだ!」  それを聞いたスヴェンは「ほう」とつぶやくと意味深な眼差しをこちらに投げて、片側の口角を上げる。 「やはり、シェリーは男を転がすのがうまい」 「その誤解を招く言い方は、やめてください!」  「ははっ、では訓練場に参りましょう」  先に踵を返すスヴェンの背に「もうっ」と不満をこぼしながら後を追って、庭園の出口へ歩き出す。居舘に入る前、なんとなく後ろ髪を引かれて一度だけ足を止めると咲き乱れる青薔薇を振り返る。  思い出すのは、家の小さな庭園に残してきた薔薇たちのこと。薔薇は色と本数と組み合わせによって持つ意味が変わる。  あの庭園では生前から母のこだわりで、赤い薔薇が九百九十九本になるよう手入れされていた。赤は愛情、そして本数が意味するのは――。 「シェリー?」  スヴェンに声をかけられ、慌てて前を向くと曖昧に笑う。  彼は一瞬、なにか言いたげな顔をしたのだが、結局なにも聞かずに「行こう」と声をかけてくれた。  それに促され、切ない過去の記憶にそっと蓋をして歩き出す。それでも頭から消えない九百九十九本の薔薇の持つ意味、それは……。  ――何度生まれ変わっても、あなたを愛する。  訓練場にやってきたシェリーは、ベンチに腰かけながら遠目にふたりの稽古の様子を眺めていた。アルオスフィア国の歴史学がまだ途中だったのだが、剣術も彼にとっては必要な技能であるし、なにより体を動かしたほうが頭もスッキリするだろう。  剣同士がぶつかる金属音を聞きながら、ぼんやり彼らの動きを目で追っていると隣に誰かが腰かける気配がした。 「え?」  横を向くと三十代くらいだろうか、ブラウンの髪と瞳をした男性が素知らぬ顔で座っているではないか。  金糸で縁取られたベルベット製の青のジェストコールに、エメラルドのブローチがついた襟元のスカーフ。ぴったりとした黒いズボンとブーツを履いており、服装からして高貴な身分であることは明白であった。 「騎士は生まれついての身分、階級は出世にまったく関係ない。つまりはその代の当主に剣の腕がなければ、簡単に公爵位を剥奪されてしまうということだ。すごいよね?」  ね?と同意を求められても、とシェリーは眉を顰める。  なんでそんな話をし始めたのかはわからないが、向けられた屈託のない笑顔に押されて口を挟まず最後まで聞くことにした。 「セントファイフ家はスヴェンの代で公爵位を賜ったんだ。その前はルゴーン家だった」  その話には聞き覚えがあった。というより長年、偉大な騎士を輩出してきたルゴーン家の失脚は民の間にも衝撃をもたらした。それほど由緒ある公爵家だったのだ。  民の間ではスヴェンの力量が当時のルゴーン家当主より上だったため、騎士公爵の座はセントファイフ家に移ったのだと聞かされている。 「いいかい? これは俺の見立てだが、王は病死じゃない。毒殺されたんだ。その首謀者がルゴーン家でスヴェンが討ったから、彼は今の地位にいる」 「なっ……毒殺? そんな、信じられません。第一、そのようなことを私のような庶民に話してもよいのですか?」  信じられない事実を突然知らされ、顔を真っ青にしながら震える声で尋ねた。  そんなシェリーの動揺に気づいているのか、いないのか。目の前の彼は、笑みを崩さないまま口を開く。 「さっき、謁見の間に俺もいたんだけど……。君なら、陛下の教育係も長く続くだろう。だから、ふたりの側にいる以上は忠告しておいたほうがいいと思って」  善意のつもりだよ、とでも言うように彼は肩に手を置いてくる。嫌な感じはしないのだが、掴みどころがなくて接し方に戸惑っていた。 「シェリー」  そこへ稽古を中断してきたのか、スヴェンが駆け寄ってくる。隣に座る彼をチラリと見やると盛大にため息をついた。 「ウォンシャー公爵、ここでなにをしているんです?」  シェリーの肩に乗る手をやんわりと払い、スヴェンは男をウォンシャー公爵と呼んだ。その名を耳にしたシェリーは、あまりの驚きに世界がぐらつくような錯覚を覚える。 (ウォンシャー公爵って……。庶民出身でありながら、公爵位を賜った方じゃない!)  いくつも事業を展開させ、商家として成功したガイ・ウォンシャー公爵と話していたなんて恐れ多い。今更たが、失礼がなかっただろうかと自分の言動を振り返って冷や汗をかいてしまう。 「いいや、新しい陛下の教育係にご挨拶をと思ってね。それよりスヴェン、俺のことはガイでいいって言ったじゃないか。敬語も堅苦しいだろう?」 「あいにく、議会の人間に対しては一定の距離を置かせてもらっているので、その要望は聞きかねますね」  ふたりは友人ではないのだろうか。少なくともウォンシャー公爵のほうはそう思っているように見えたので、警戒しているスヴェンを見て首を傾げる。  「大丈夫、俺は黒じゃない」  なにかを察したふうにウォンシャー公爵はヘラッと笑うが、スヴェンはなにも答えなかった。ふたりの間にだけ通じるなにかが、あるようだった。  張り詰めた空気の中、息をのむシェリーを救ったのは小さな救世主だ。 「おーい、なにやってるんだよ!」  アルファスが剣を手に遠くからこちらに向かって叫んでおり、その顔は不満げに歪んでいる。おそらく、稽古をほっぽり出したスヴェンに対して怒っているのだろう。  ウォンシャー公爵がやれやれと首を横に振り、アルファスに向かって叫ぶ。 「私が引き留めてしまったのです、国王陛下。すぐにお暇しますから!」  遠くから陛下に向かって叫ぶなんて失礼極まりないが、彼の人懐っこい雰囲気のせいなのか注意する気も失せる。  対するアルファスは「早くしろよ!」と文句を言っていた。  ウォンシャー公爵はクルリとこちらに体を向け、謎を秘めたブラウンの瞳を細める。 「じゃあ、くれぐれも身辺には気をつけて」  最後に言った言葉は、紛れもなくシェリーに向けられていた。胸をざわつかせながら、訓練場を立ち去っていくウォンシャー公爵の背中を見送っているとスヴェンに声をかけられる。 「シェリー、ウォンシャー公爵に何を言われたんだ」 「それは……」  前王が毒殺されただなんて言葉にするのも恐ろしいが、真実を知りたい気持ちもあった。話すべきか迷ったのだが、ウォンシャー公爵の最後の言葉も気になったシェリーは言われたことをすべて伝えることにする。  話し終えると、スヴェンはあからさまに苦い顔をした。 「そんなことを話せば、余計に危険が増すというのに……わからないやつだな」  スヴェンの言葉は、話したことが真実だったと肯定しているようなものだった。  真っ先に心配したのは、幼い陛下のことだ。国王といえど、十歳の少年に受け止められるような事実ではない。  シェリーは躊躇いがちに、彼に尋ねる。 「このことを、アルファス様は……」 「聡明なお前には、もう隠せないのだろうな。……病死だと思っている。とてもじゃないが、本当のことなど話せない」 「そう、でしたか……」 「それに、毒殺と疑っているのは議会でも俺を含む三人だけで、大公様とノーデンロックス公爵は医者の言う病死という診断を信じている。しかし、前王の死は不明点が多すぎる」  難しい顔をして、スヴェンは隣に腰掛けた。その顔には疲弊からか影が落ちており、心配になったシェリーは膝に置かれている彼の手に自分の手を重ねた。 「シェリー?」  スヴェンは問うような視線をこちらに向けてくる。 「思い詰めていても、いい考えは浮かばないものです」  ふわりと笑いかければ、彼の顔も和らいでいく。 「お前の言う通りだな、礼を言う」  見つめ合って、笑みを交わしたときだった。 「もうっ、いつまで待たせるんだよ!」  口をへの字にしたアルファスが側にやってくる。 (そうだわ。元はといえばアルファス様の稽古に来ていたのに、私ったらスヴェン様とすっかり話し込んでしまって……)  唇を尖らせるアルファスに深々と頭を下げた。 「申し訳ありません」 「もう部屋に帰る! シェリー、残りの勉強をやるぞ」  完全にへそを曲げてしまった彼に「はい」と苦笑交じりに答え、ベンチから立ち上がる。 「俺は騎士たちへの伝達事項が残っているから、残らせてもらう」 「それでは、失礼します」  訓練場に残るスヴェンに一礼をして、背を向ける。  アルファスと部屋に向かって歩き出したのだが、ふと思い詰めていた彼の表情が脳裏に浮かんだ。  心配になって立ち止まり、ベンチに座ったままのスヴェンを振り返ると我慢できずに声をかけた。 「私のような者が、このようなことを言うのはおこがましいかもしれませんが……。愚痴をこぼしたくなったときは、いつでもお聞きしますから」  国を支えるスヴェンの悩みは一介のカヴァネスが解決できるものではないだろうから、相談に乗るとまでは言わない。  けれど、不安だとか、疲れただとか、そういった話を聞くことはできる。 「やはりお前は、いい女だな」 「もうっ、その調子なら大丈夫そうですね」  軽口が聞けて安心できたシェリーは、アルファスの背に手を当てて再び歩き出す。その背中に、スヴェンが熱い眼差しを送っていたことなど知らずに。  夕食もアルファスと一緒にグレート・ホールで頂いたのだが、ふたりで食事をするには大きすぎる部屋と縦に永遠と長い机に圧倒されてやっぱり落ち着かなかった。   せっかくなのでテーブルマナーを教えつつ、食事を終えたシェリーは部屋に向かって廊下を歩く。その途中で、ひとつの部屋の前に立つスヴェンの後姿を見つけた。 「スヴェ――」  声をかけようと口を開いたとき、中から出てきた女性と彼は抱き合う。衝撃的な光景を目の当たりにしたシェリーは、言葉を飲み込んでとっさに柱の陰に身を隠した。 「スヴェン、私……怖いのよ」  そう言ったのは腰まである白銀の髪に、左右に分けられた前髪のおかげではっきりと姿を現すサファイアの宝石の瞳を持つ女性。その容姿には見覚えがあった。 (まさか、あの方は前王妃様?)  最近では滅多に公の場には出てこなくなってしまったので、その姿を見たのは実に一年ぶりだった。 「大丈夫です、この私が命に代えてもお守りします」  スヴェンの誠意が込められたその言葉に、なぜか胸がチクりと痛む。それがどうしてなのかはわからないけれど、これ以上抱き合うふたりを見ていたくないと思ったシェリーは足早にその場を立ち去る。  遠回りをして、自分に与えられた部屋の前までやってくると扉の前に一輪の青薔薇が落ちていた。 「どうして、こんなところに……」  不思議に思いながらも、その薔薇を手に取って部屋に入る。 「これは、ターンブルーね」  城の庭園に咲いているオンディーナにそっくりな青薔薇だが、花弁の尖り具合や芯の高さが違う。  誰が落としたのかはわからないけれど、捨てるのはかわいそうだ。  そう思ったシェリーはベッドの脇の重厚感ある天然木のサイドテーブルに近づいて、そこに置かれていた空の花瓶に薔薇を生けた。  さきほど、前王妃と抱き合っていたスヴェンの姿が瞼の裏にちらついて離れない。この感情はまるで恋じゃないかと、そこまで考えて首を横に振る。 「そんなこと、あるわけないじゃない」  身分違いの恋などお伽話じゃあるまいし、したりしない。そう自分に言い聞かせるようにしてベッドに潜り込むと、現実から目をそらすように固く瞼を閉じたのだった。
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