三章 月夜の下、騎士の腕の中で

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三章 月夜の下、騎士の腕の中で

 翌朝、シェリーはグレート・ホールで朝食を食べるため、部屋を出て廊下を歩いていた。  するとやけに城内が騒がしいことに気づき、自然と人の声が聞こえるほうへ足を向ける。  廊下のつきあたりまでやってきて角を左折しようとしたとき、視界の端に過るヴァイオレット。視線でそれを追いながら、吹き抜けの大広間の二階に出る。  顔を上げれば音楽の神と芸術の女神が舞い踊る見事な天井画、手すりから一階を覗き込めば正面玄関を見下ろせるのだが、昨日とは様子が違った。  開け放たれた大扉から、勢いよく入り込む風で舞い上がる紫の花弁。香りから、それが薔薇であることがわかった。  戸惑いながらも階段を降りていくと、人混みの中にスヴェンの姿を見つけて駆け寄る。 「スヴェン様、なにかあったのですか?」 「シェリー、騒がしくしてすまないな。昨日はちゃんと休めたか?」 「はい、それより……この騒ぎはなんですか?」  どうやら彼らの視線は一点に注がれている。同じように視線を向ければ、床に黄薔薇とナイフがクロスするような形で置かれていた。  舞い散る紫の花弁に、置き去りにされたナイフと美しい黄薔薇。その奇妙なコンチェルトに、シェリーも言葉を失う。あきらかに愉快な事態ではない。 「何者かがこの大広間に花びらを撒き散らし、ナイフと黄薔薇を置いていった。この関係で緊急議会が開かれることになっている」  スヴェンは目の前の惨事を憂い顔で見つめながら、そう説明してくれる。  使用人たちはホウキを手に大広間中に散らばっている花びらをせっせと片付けながら、「前夜祭も明日に控えているのに」と話しているのを耳に挟んだ。 「前夜祭?」  心の声が漏れてしまったシェリーに、スヴェンはさらに表情を陰らせる。 「明日は城で即位式の前夜祭があるのだ。警備の再編成が必要かもしれんな」  スヴェンは腕を組んで難しい顔をしたまま、執事に呼ばれて議会に向かってしまう。その背中を見送って懐中時計を確認すると、約束していた朝食の時間を大幅に過ぎていた。  とにもかくにも、自分にできることはアルファスの側にいることだ。  不安を胸に残しながら、シェリーはその場を後にした。  大きなシャンデリアがいくつも輝き、金箔の浮彫が部屋全体を黄金に染めるこの広間は実際に明日も使う前夜祭の会場だ。  今日のアルファスとの授業はダンスレッスン。先ほど前夜祭があると聞いて、急遽予定していた歴史学から変更したのだ。  先ほどアルファスの執事に確認したところ、本来であれば前夜祭の翌日に即位式が行われるのだが、教育係が立て続けに退任したことでアルファスは式典の作法を習っていない。  そのため、式典が滞りなく進められるほどの作法を身に着けてから式を執り行うよう大公から通達があったのだとか。  ならば前夜祭も遅らせるべきなのだが、即位式もせずにアルファスを国王に即位させたことや一年もの間、式を延期してきたことに貴族たちから不信感がわいているらしい。  関係の修復を図る目的のもと、前夜祭のみを行う。つまりはご機嫌取りをしたいという、もくろみがあるのだろう。 「なぁシェリー、朝食のときから思ってたんだけどさ、城が騒がしくないか?」 「アルファス様、やり直し!」  ワルツを踊りながら、茶会の延長線上のような会話をしてくるアルファスの頭に軽く手刀を落とす。 「痛っ! なにするんだよ、シェリー」 「ダンスは男性としての器量を見られる、いわば戦場なのですよ。ダンス中によそ見だなんで言語道断です」  前夜祭で開かれる舞踏会では四人の男女カップルが四角になって踊るカドリールや男女の円舞曲であるワルツ、他にも民謡舞踏から生まれたアップテンポのポルカなどが踊られる。これらの曲名とダンスの順番は招待状にあらかじめ書かれ、配布される。   すなわち、そこに書かれたダンスは一通り踊れなければ恥をかくということだ。 「ダンスと戦いは違うだろ」  頭をさすりながら、半信半疑な顔をしているアルファスにズイッと顔を近づけて、脅かすように淡々と告げる。 「いいえ、同じです。どの場面においてもマナーがなっていない方は一人前の国王以前に、男性としての器量がないと軽視されてしまいます」 「ぐっ……わかったよ、ちゃんとやる」 「それでよろしい。では、もう一度リードする姿勢からチェックしますね」  面倒そうではあるが、手を取ってくれるアルファスとともにワルツを再開する。  彼はシェリーが教育係に就く前からダンスレッスンを受けていたらしく、ある程度は踊れているが仕草に品が足りない。女性をリードするには心構えが必要なので、もう少し時間をかけて教えたかったのだが、前夜祭が明日に控えているのでシェリーは技術を優先的に指導することにした。  しばらくして、踊っているシェリーとアルファスに「今日はダンスレッスンか」と聞き覚えのある声がかかる。  同時に動きを止めて広間の入り口を見れば、戸口に寄りかかるスヴェンの姿があった。 「アルファス様、ミス・シェリーのエスコートは順調ですか?」   そんな軽口をたたきながら歩み寄ってくる彼の顔には、議会の後だからか疲労が滲んでいるように見えた。 「スヴェン、今日はどこ行ってたんだよ。朝食にも顔を出さないで」  不満げなアルファスに、彼はわざとらしく挑戦的な笑みを口元にたたえて言った。 「綺麗な令嬢を口説いていたら、時間を忘れてしまったんですよ。アルファス様も大人になったらわかります」  あきらかに、今朝の薔薇事件の話題を避けている。前夜祭の前に、よけいな心配をかけたくないのだろう。そんな彼の意図を察していないアルファスは「子ども扱いするなよ!」と怒り出す。   それでもスヴェンは目を細めて、弟にするみたいに彼の頭を撫でながら報告する。 「これから仕事で外に出るので、お側を少しだけ離れます」 「え、外に!?」 「遊びに行くのでは、ないのですよ」  声を弾ませたアルファスを彼は諭す。  仕事で外にと言うが、今朝のこととなにか関係があるのだろうか。  不安を胸に抱きながら、スヴェンの横顔を見つめる。すると、シェリーの視線に気づいたスヴェンとばっちり目が合ってしまった。  彼は口パクで「心配するな、調査だ」と教えてくれたのだが、当のアルファスはついて行く気満々だ。 「アルファス様、稽古が終わっていませんから」 「息抜きだ! 戻ってきたらちゃんとやるから、僕も行く!」  宥めてはみたものの頑として譲らないアルファスに困り果てたシェリーは、スヴェンの腕を軽く引いて壁際に寄ると緊急会議を開くことにした。 「この様子では、私がなんと言おうと聞かないでしょう」 「シェリーで駄目なら、他の誰が説得したとしても無理だろうな」  ヒソヒソと話しながら、同時にアルファスに視線を向ける。 「なにを言われても、僕の考えは変わらないからな!」  といったふうに、念を押されてしまった。 「スヴェン様、こたびの調査はその……朝のことと関係がおありですか?」 「あぁ、品種から薔薇の出どころを探し出し、犯人の特定を急ぐよう議会で俺に命がくだった」 「では、アルファス様を連れて行くのは危険でしょうか?」  そんなの聞くまでもなく危険には違いないのだが、アルファスの頭の中にはイエス以外の答えはきっとないだろう。なんとしてでもついて行こうとして、逆に危険な行動をとりかねない。ならいっそ、連れて行って目の届くところにいてくれたほうが安全ではないだろうか。 「城も安全とは言い難い、側に置いておくほうが俺も安心できる」  スヴェンも同意見だったらしく、考えた末に出した結論は――。 「あくまでの仕事に行くんですからね。同行は認めますが、勝手な行動はとらないように」  期待いっぱいに瞳を輝かせるアルファスに苦笑しながら、スヴェンが忠告をする。 「わかったよ、スヴェン」  普段は突っかかってばかりの彼も素直にうなずいており、シェリーたちは町の巡回という名目で調査に赴くこととなった。 「町が賑やかですね。アルファス様の即位式を心待ちにしているのでしょう」  シェリーは近々ある即位式に向けて、お祝いムードが漂う町を笑顔で見渡す。  その前に前夜祭があったのには驚いたが、人前に出ることに慣れるためにもアルファスにはいい練習になるかもしれない。  そんなことを考えながら、シェリーとスヴェンの間を歩くアルファスを見下ろす。 「国王なんて、誰でもいいくせに」  どこか投げやりな言い方をした彼の顔は、町の賑やかさとは正反対に曇っていた。 「そのようなことを言うものではありませんよ」  スヴェンは眉間にしわを寄せて、アルファスを軽く咎める。  王として気高く在れ、民の希望であれ、国にその身を捧げ尽くせ。この小さな肩に庶民には理解できないほど、たくさんの期待と重圧が乗っている。  それは誇らしいことである反面、彼を苦しめる重荷でもあるのだろう。  必要とされているのがアルファスという人間ではなく、国王という肩書なのではないかと自暴自棄になってしまうのかもしれない。 「アルファス様、そのような顔をしないで。せっかく町に来たのですから、もっと笑顔を見せてほしいです」   その小さな手を握れば、アルファスはゆるゆると顔を上げた。  目の前にいる彼は国王というより、泣き出しそうな迷子のようにシェリーの目に映る。  この二日間で教育係という立場上、どうしても国王とはなんたるかをしつこいくらいに説いてきた。  しかし、それが彼のやる気を削いでしまったら意味がない。改めて、カヴァネスとして自分にできること、個に合わせた教育という難しさを考えさせられていた。  なんにせよ、今の彼に必要なのは息抜きなのかもしれない。そう気づいたシェリーは、彼の手を引いて広場でやっている大道芸を見に行く。 「シェリー、人が多い場所は危険だ」 「すみません、スヴェン様。ですが、少しだけ時間をください」  彼の心配はごもっともなのだが、アルファスにはこの機会に民の生活を身近に感じてほしいと思っている。自分が守るものがどれだけ尊いものなのか、気づいてほしかったのだ。  広場ではエスタンピーの器楽演奏に合わせて、ジャグリングや手品を披露しているジョングルールがいる。  彼らが見せる大道芸のひとつひとつに、アルファスは「おおっ」と感激の声を漏らしながら見つめていた。 「まるで母のようだな」  それを温かい気持ちで見守っていると、スヴェンが小声で話しかけてくる。恐れ多いけれど、彼の言うことは当たっていたので肩をすくめた。 「それに近い気持ちで、私はアルファス様を見ているかもしれません」  アルファスに限らず、それは教え子全員に言えることだ。結婚も出産も経験はないが、自分なりに愛し、厳しく接してきたつもりでいる。 「そうか、だからお前は優しい面立ちをしているのだな」 「ほめ上手ですね、スヴェン様は」  口を開けば女性を喜ばせるような言葉ばかり。誰にでも言っているのだろうと思うと、胸が締め付けられるみたいに苦しくなった。  それを悟られまいと笑みを張り付けていると、スヴェンは苦笑する。 「また、からかっていると思っているな?」 「ふふっ、違うのですか?」 「血の繋がらない子供にも真心を注げるお前に、俺は本気で胸打たれたというのに」  まただ。スヴェンに褒められると鼓動は加速するし、体温も上がる。余裕なんてたちまち崩れて、おかしくなりそうになる。この感覚に溺れてしまいたいような、恐ろしいような、相反する気持ちに胸が切なくてしかたないのだ。 「シェリーの生徒になった子供たちは幸せだな」 「大袈裟です、スヴェン様」  いい加減に恥ずかしくなって、シェリー顔を赤らめてしまう。  けれど、スヴェンは追い打ちをかけるように頬を手の甲で撫でてきた。 「スヴェン様っ」 「お前の肌は絹のように滑らかだな。唇も熟した果実のように旨そうだ」  彼の手が熱を持った頬を撫で、唇の感触を確かめるように何度も指先で押されてくる。  アルファスは目の前の大道芸に夢中で、見つめ合うシェリーたちに気づいていない。  とはいえ、こんなところを見られたらと気が気じゃなかった。  それでも振り払えなかったのは、彼に触れてほしいと心の奥底で願っていたからかもしれない。  などと、物思いに耽っているときだった。  突然、広間に悲鳴が響き渡り、人がザーッと散っていく。その中で道化師の面をつけたジョングルールのひとりが平然と立ち尽くしているのに気づいた。その手には剣舞に使うロングソードが握られており、皆が彼から逃げているのだとわかる。 「ふたりとも、下がっていろ」  剣柄に手をかけて、鋭い視線を道化師の男に向けるスヴェン。シェリーはアルファスを抱きしめ、震える声で「はい」と答えるとその背に隠れた。 「その剣をしまえ。さもなくば、身柄を拘束する」  張りつめる空気の中、スヴェンは凛とした姿勢を崩さない。  腕の中で震えるアルファスを強く抱きしめながら、シェリーは緊張の面持ちで成り行きを見守る。 「我々は必ずや成し遂げる。ギュンターフォード二世、その王座を必ずや散らせよう。アルオスフィアの平和は、これで終わりを告げるだろう」  ナイフを掲げ、男はケタケタと笑い出す。それがあまりにも気味悪く、背中にブルリと悪寒が走った。  スヴェンが剣を抜きかけたとき、男は颯爽と身を翻してその場から逃走しようとする。後を追おうとしたスヴェンだったが、シェリーたちを振り返ると置いていけないと判断したのか、こちらに戻ってきた。 「城に戻るぞ」  「はい……スヴェン様」  気丈に振る舞おうとするも、あきらかに顔色の悪いシェリーを見たスヴェンは、その華奢な肩を優しく引き寄せる。  そして、もう片方の手は「怖い思いをさせましたね」とアルファスの頭に乗せた。 (そうよ、怖いのはアルファス様のほうだわ。見知らぬ男に名指しで王座を散らすだなんて言われたんだもの)  しっかりしなければと自分に活を入れて、腕の中で震えるアルファスの頬を両手で包み込む。下がった眉尻に、涙をいっぱいに溜めた目。彼の不安が胸に直接流れ込んでくるようで、たまらず抱きしめた。 「ご無事でよかった……怖かったでしょう」 「ううっ、うわぁぁーんっ」  堰を切ったように泣き声を上げるアルファスを、さらに強く抱きしめる。心を込めて彼に関わっているからこそ、どうして彼が王にならなくてはならないのか、危険な目に合わなければならないのか、勝手だとわかっていても考えてしまう。  けれど、どんなに思考を巡らせようと、ただのカヴァネスである自分にはなにもしてあげられない。それがあまりにも不憫で悔しくて、シェリーの頬にも涙が一筋伝った。  そんなシェリーをじっと見つめて、スヴェンは目を見張る。 「お前は自分のことでは泣かないのに、誰かのために涙を流すのだな」 「え……?」 「前に城の庭園に咲いていた青薔薇を見つめていたとき、お前は泣きそうな顔をしていた。だが、曖昧に笑ってごまかしただろう」  それは、アルファスを気分転換に散歩へ誘ったときのことだろう。思い当たる節があったシェリーは、強がりが見透かされていた気まずさよりも彼が気づいていたことのほうに驚く。 「お前がますます気になって、仕方がない」 「なにをおしゃって……」 「さぁ、ふたりとも帰るぞ」  口にしかけた問いは、彼の言葉によって封じられた。続きを聞きたい気持ちもあったが、今はアルファスの安全をなによりも優先しなければならないので、開きかけた口を無理やりつぐむ。  調査どころではなくなってしまったシェリーたちは、町に来て数時間と経たずに馬車で城に帰還することとなってしまった。  城に戻ってからはとてもじゃないが、レッスンなど再開できなかった。   シェリーは規則正しい寝息を立てて眠るアルファスのベッドに腰かけながら、その顔にかかる髪を払ってあげる。  月が昇る今の今まで不安にさせないよう側にいて、ようやく寝かしつけることができたのだ。 「こんな時間まで側にいたのか」  ふいにかけられた声に顔を上げると、戸口に微笑を浮かべているスヴェンが寄りかかっていた。 「スヴェン様こそ、今までお仕事ですか?」  彼は城に戻ってから、広場でのことを議会で報告するなど対応に追われていた。おそらく、今まで走り回っていたに違いない。労わりを込めて彼を見つめれば、それが伝わったのかフッとやわらかい笑みを浮かべて側にやってくる。 「あぁ、対応に追われていてな。不安だっただろう、一緒にいられなくてすまない」 「そんな……スヴェン様の気持ちは、アルファス様にも伝わっていると思います」 「アルファス様のこともそうだが、シェリーのこともひとりにしてしまっただろう?」  やはり子供をあやすような言い方ではあったが、自分を思っての言葉に胸が温かい気持ちになる。剣の腕だけでなく、心も守ろうとしてくれる彼の優しさに心臓が高鳴った。  そこでようやく気づいた。目の前の身分も性格も大きく異なる彼に、男性として惹かれている自分がいるのだと。 「私のことなんて、気になさらなくていいのに……」  気づいてしまった自分の恋心にどぎまぎしてしまい、つい可愛げのないことを言ってしまった。  本心とは違うことが口をついてしまうシェリーに気づいてか、スヴェンはその髪に手を伸ばして花を愛でるかのように撫でつけながら答える。 「無理を言うな。考えないようにしようとしていても、執務中だろうが鍛錬中だろうが、お前の顔が頭をチラついて離れない」 「それはどうしてですか」 「俺に聞くのか、それを」  彼の熱を孕んだガーネットの瞳が月光に煌いて、シェリーの視線も捕らわれる。見つめ合う時間が一秒を刻むたび、鼓動が加速していく。全身の神経の触覚が彼に向く。  やがて髪に触れていたスヴェンの手が、まるでダンスにでも誘うかのように優雅にシェリーの手をとった。 「少し、庭園を歩かないか」 「はい」  まだ離れたくなかったシェリーは、頬を赤く染めながら頷いてその手をやんわりと握り返したのだった。  浮彫の月が淡い光で照らす夜空の下、スヴェンと青薔薇の庭園を歩く。繋がれた手の温もりに密かに胸を高鳴らせていると、ふと頬に視線を感じて彼を振り向いた。 「青薔薇に、なにか思い出があるのか?」 「あ……そんなに顔に出ているでしょうか?」  おどけるように笑うとスヴェンはなにも言わずに、ただ強く手を握り返してくれる。その仕草に気遣いを感じられて、彼にまた惹かれてしまう自分をどう止めていいのかがわからなくなっていた。 「……私の家にある薔薇園のこと、覚えていますか?」 「あぁ、城の庭師に手入れさせている、あの庭園のことか」 「そうです。あれは、他界した母の忘れ形見のようなものなんです」  ひとりで思い出に浸るには切なすぎて、ずっと鍵をかけていた懐かしい記憶の宝箱。それをゆっくりと開け放ち、遠い昔に過ぎ去った幸せな時間を手繰り寄せるように言葉にしていく。 「母はあの庭園に、九九本の赤い薔薇を植えました。薔薇には本数や組み合わせ、色に意味があるんです」 「シェリーの母君は、どういう意味を薔薇に託したんだ」 「それ、は……っ」  スヴェンに言われてすぐに答えようとしたのだが、うれしい、悲しい、愛しい、切ないといった様々な感情が喉につかえて言葉を詰まらせる。  シェリーの様子がおかしいことに気づいたスヴェンは、静かに背中をさすってくれた。  気持ちが落ち着いてくると深呼吸をして、もう一度口を開く。 「何度生まれ変わっても、あなたを愛する……と」  自分でいった途端、目が熱くなってぶわっと涙があふれ出る。頬をポロポロと零れ落ちていくそれは、月光を浴びて銀色に輝いていた。スヴェンは指先で涙を拭ってやると、そっとシェリーを抱き寄せる。 「申し訳ありません、子供みたいに泣いたりしてっ……迷惑、ですよね?」  そうは言いながら、縋りつくように彼の服を握りしめてしまう。すると背中に回っていたスヴェンの手が慰めるようにシェリーの頭を撫で始めた。 「迷惑だなんて思わん。大切な者を失えば、子供も大人も関係なしに涙を流すものだ」 「でも……もう三年も経っているというのに、私は弱いままです」 「時間では癒せぬものもある。俺も戦友を亡くしたことがあってな、一年経つが今だにあの人を夢に見る」  スヴェンは騎士だ。数多の戦場を駆ける彼は、庶民で守られる側の自分よりもずっと死と隣り合わせだったにちがいない。 「戦友って……騎士のお仲間ですか?」  彼の腕に手を添えて、躊躇いがちに踏み込んだ質問をする。その過去を聞いたとしても事実は変えられないけれど、悲しんでいる彼の気持ちを一緒に受けとめることはできる。シェリーは彼の感じる痛みを理解したいと思っていた。 「いや……実はな、ギュンターフォード一世のことだ」 「えっ、前王様が戦友だったのですか?」  目を見開くシェリーの反応は、予想の範疇だったのだろう。スヴェンは苦笑いを返すと夜空を仰いだ。その憂いを帯びた視線の先には月がある。  アルオスフィアには死者の魂は月の楽園へと昇り、永遠に幸せに暮らせるという言い伝えがある。  だから彼は月を通して戦友の姿を見つめているのかもしれない、そう思った。 「共に戦場を乗り越えてきたからな。十五という歳の差も身分も気にならなくなっていた。気づけば戦友として、酒を酌み交わすほど気の知れた人だったのだ」  公の場でしか、そのお姿を拝見したことはないけれど、前王妃と並んで国民に手を振る前王の姿は気高くも朗らかで民の心にも幸せを運んでくれていた。 「スヴェン様も大切な方を亡くされていたのですね……」  「だから少しは、お前の気持ちもわかるつもりだ」  頭を搔き回すように撫でてくるスヴェンに、「髪が乱れるので、やめてください」と言ったのだが、面白がって手を止めてくれなかった。  髪が茨のように絡まった頃、彼はようやく手を止めてくれる。  「泣き止んだみたいだな」 「あ……もしかして、私を励ますために?」  きょとんとしているシェリーの髪をスヴェンは梳いて整えた。その優しい手つきにくすぐったい気持ちになり、か細い声で言う。 「ありがとう、ございます……」  大人になって頭を撫でられるのは、なんだか気恥ずかしい。悲しみが子供のように泣きじゃくったことへの羞恥心に塗り替えられていく。 「みっともないところをお見せしました」 「なにを言う。俺の前で思う存分泣いてくれたほうが安心だ」  意味がわからなくて「安心?」と聞き返せば、「こっちの話ですよ、ミス・シェリー」と彼の真意は笑顔の仮面に隠れてしまった。 「シェリー、俺の前では気丈に振る舞おうとしなくていい」  月の光のように柔らかい眼差しを向けられて、「え?」と聞き返す。するとスヴェンは、シェリーの頬に手を添えて続けた。 「ずっとひとりで頑張ってきたお前は生きるためにカヴァネスとなり、子供たちの未来のために強く在ろうとする。それは美徳ではあるが、シェリーは女だろう。これからは俺に守られ、愛でらていろ」   「スヴェン様は……ずるいです」  また、目の奥からなにかがこみ上げてくる。泣いてしまいそうになって俯けば、彼は「ずるい?」と顔を覗き込むようにして聞き返してきた。  泣かまいと顔の筋肉に力を入れてみたけれど、押し寄せてくる感情の波に歪んでしまう。それでもなにか答えなければ、と震える唇を動かす。 「そんなこと言われたら……また、泣いてしまうではないですか」 「なら思う存分、泣けばいい」  力強い腕が背中と腰に回り、引き寄せられるとシェリーのブルーゾイサイトの瞳からポロポロと涙が溢れる。  甘えるように鍛え上げられた硬い胸板に顔を埋めれば、スヴェンはシェリーの後頭部を胸に軽く押しつけるようにして泣くことを許してくれた。
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