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五章 散る瞬間に気づく心
アルファスのカヴァネスに就いてから、早くも一ヶ月が経った。
前夜祭の後から教養や勉学と並行して、本格的に即位式の練習を開始している。
シェリーは即死式の儀式について知識がなかったため、長年教育係を務めていた者に協力を仰ぎ、なんとか形にはなってきた。
教育係は「陛下がこのように素直になられるとは」と驚きの声を漏らしており、シェリーはこの城へ来たばかりのときに聞いた話を思い出して苦笑いをする。
靴に虫を入れられるなどの嫌がらせを受けて、教育係は全員が退任していた。今回、即位式の先生を探すときにも、歴代の教育係に散々断られ続けて大変だったのだ。
なんとか見つけた教育係が指導に当たる際はシェリーが同伴しているのだが、彼は真面目に練習に参加している。その姿が評価され、三日後に即位式が執り行われることとなったのだ。
「アルファス様、よくお似合いです」
国王の自室で白いジェストコールとと花輪柄の赤いジレを重ね着し、キュロットを履いたアルファスの姿を鑑賞深い気持ちで見つめる。
式典用の王族衣装を試着しているのだが、ようやくここまで来たのかと母のような気持で幼くも気高い国王の姿を目に焼き付ける。
「シェリーに言われるのが、一番うれしいぞ」
「そう言ってもらえると教師冥利に尽きます。さ、これで最後ですよ」
照れくさそうに鼻の頭を掻くアルファスに、純白のマントを被せる。それを純粋無垢にこちらを見つめてくる瞳と同じ、サファイアのブローチで留めた。
「アルファス様の晴れの舞台を間近で拝見できるだなんて、私は幸せ者ですね」
即位式の日は、ただのカヴァネスであるシェリーにも席が用意されている。これも、アルファスのご厚意だ。
「シェリーに見届けてほしいんだよ」
「私にですか? 前王妃様やスヴェン様にではなく?」
目を瞬かせながら、アルファスの前にしゃがむ。
「シェリーは国王として必要なものを教えてくれた。僕、シェリーみたいに女性の身で働くことで偏見の目に晒される人を助けたい。身分関係なく、誰でも活躍できる国にしたいんだ。その一歩をこれから踏み出すから、見届けてほしい」
教え子が大きく成長したその瞬間を目の当たりにして、胸を打たれたシェリーは涙が出そうになるのを堪えて微笑む。
「あなたほど国王に相応しい存在は、この世界のどこを探してもいらっしゃらないでしょう。今のアルファス様なら、皆が認めてくださるはずです」
敬意を込めて深々と頭を下げれば、うれしそうにはにかむアルファスが「ありがとう」と小さな声でシェリーの首に抱き着いたのだった。
夕方、今日の授業を終えたシェリーはボストンバックを手に城門を目指して廊下を歩いていた。明日から即位式の前日までは授業があるため、城を一時的に離れるのだ。
すると目の前から黒髪を後ろでひとつに束ねた四十代くらいの男性が歩いてくる。
(あれは、サザーリンスター大公殿下?)
死亡したギュンターフォード一世前王陛下の弟で、かつては王位争いをしていたのだとか。現在は幼い王に代わって国政の代理を努めており、サザーリンスター大公は事実上の権力者ということになる。
「ごきげんようサザーリンスター大公殿下」
少し横に避けて深くお辞儀をする。大公とは何度か城や前夜祭などの行事で挨拶をしたことがあり、面識があった。
「あぁ、シェリー殿か。アルファス様の即位式の準備は進んでいるかね?」
「はい、とても誠実に向き合われておられます。即位式でもしっかりお勤めを果たされることでしょう」
顔をあげてそう答えたとき、ふと薔薇の香りがした気がした。気のせいだろうかと思った矢先、大公のジェストコールの裾に斑点模様のある黒い花びらが一枚ついているのに気づく。
「大公殿下、それは……」
シェリーが指さすと大公は不思議そうに花弁を摘まんで、まじまじと見つめた。
「おや、どこでついたのか。教えてくれて、礼を言うよ。このような老いぼれが薔薇の花など、若作りだと笑われてしまうからね」
「黒薔薇だなんて、珍しいですね」
薔薇は管理が難しい植物なため、自然に生えているとは考え難い。なので、この城のどこか、もしくは付き合いのある貴族や大臣宅で栽培しているものなのだろう。
だが、薔薇は庶民から貴族まで赤や青といった色鮮やかなものが好まれる。わざわざ黒い薔薇を栽培しているだなんて、風変わりな人もいるらしい。
「大公殿下、ここにおられましたか」
「これは、ウォンシャー公爵」
そこへやってきたのは、にこやかな笑みを口元にたたえるウォンシャー公爵だった。
スヴェンに近づくなと念を押されていたので、条件反射で後ず去ってしまう。そんなシェリーには目もくれず、ウォンシャー公爵は恭しくお辞儀をした後、大公の手にある黒薔薇の花弁に視線を向ける。
「その手にあるのは、おや珍しいですね。ルゴーン家の庭園で見たとき以来でしょうか」
ウォンシャー公爵の口から飛び出たのは、かつで騎士公爵の名を賜っていたルゴーン家の名だ。前に話してくれたウォンシャー公爵の見立てによると、前王を毒殺した首謀者の可能性があるだとか。
まさか、そのルゴーン家のお屋敷にある薔薇と同じということだろうか。しかもそれが大公の服についてるのはなぜかと、戸惑いの眼差しで花びらを見つめる。
「ルゴーン家に黒薔薇など咲いていたかね? 君はやけに、ルゴーン家のことに詳しいようだな」
大公の疑心に溢れた目がウォンシャー公爵に注がれる。
(やっぱり、ウォンシャー公爵がアルファス様を狙っているの? だとしたらなぜ、私に助言をするのかしら)
空気が張り詰めると、シェリーは呼吸することさえできずに軽い眩暈を覚える。
「あっ」
気づいたときには体が後ろに倒れており、大理石の床にぶつかるかと思われたが、すぐに誰かに抱きとめられる。青い顔で振り返れば、そこには心配そうに見つめてくるスヴェンの姿があった。
「大丈夫か、シェリー」
「は、はい……ありがとうございます。スヴェン様」
抱きとめてくれたのがスヴェンだと知って、ホッとしたシェリーは笑みを返した。
スヴェンはシェリーを抱く手に力を込めながら、大公殿下とウォンシャー公爵の顔を見比べる。
「立ち話ですか? 議会はもう終わりましたでしょう」
「セントファイフ公爵、その通りだ。それでは、お開きにしよう。シェリー殿、気をつけて帰られよ」
大公はそう言って踵を返すと、廊下の向こうへ姿を消してしまった。
「まったく。危ないところだったね、シェリー譲」
「え、私ですか?」
ウォンシャー公爵がやれやれといった様子で、シェリーの肩に手を置こうとする。
突然のことで避けられずにいると、スヴェンがすかさずその手を振り払い、ウォンシャー公爵を鋭く見据えて言った。
「触らないでもらおう」
彼の圧を感じ取ったのか、ウォンシャー公爵は後頭部に手を当てて呆れたように「まいったね」と言葉をこぼした。
そして、いつもの飄々とした態度とは打って変わって、厳しい視線をスヴェンに向ける。
「二度と大事な人を失いたくないのなら、そばに置いて片時も話さないようにしないと、今度は彼女を奪われるぞ。スヴェン」
「それが本性か、ウォンシャー公爵。あなたが俺に忠告する真意はどこにある?」
警戒心を解かないまま、スヴェンはシェリーを胸に抱きこむ。その腕の中で、ウォンシャー公爵の豹変ぶりに言葉を失っていた。
ますます誰が怪しいのかわからなくなり、不安になったシェリーはスヴェンの胸元の軍服をギュッと握った。
「俺が言えることは話したさ。しかし、抗うための力が整っていないうちは迂闊に口にできないんだよ」
ウォンシャー公爵のその言葉に、スヴェンは「そうか」と険しい顔をした。
「今の答えで、おおよそ見当がついたかもしれん」
「そうか、王城も荒れるね」
いつものへらっとした笑みを浮かべて、ウォンシャー公爵は両手を後頭部に当てる。そこでようやく、スヴェンの口元にも弧が描かれる。
「だが、荒探ししなければ、ネズミは見つからん」
「頼りにしているよ、騎士公爵様」
背を向けたウォンシャー公爵は、「またね」と言って手をひらひら振りながら歩いて行ってしまう。
「シェリー、屋敷まで送ろう」
こちらを見下ろして優しく声をかけてくるスヴェンに、なんだか申し訳ない気持ちになる。議会だけでなくアルファスの側近としての仕事もあるというのに、彼の貴重な時間を自分のために使わせていいのだろうか。
「お忙しいのに、よろしいのですか?」
「俺がそうしたいのだから、送らせてくれ」
子供にするように頭を撫でられると、なぜか逆らえずにうなづいてしまう。それに満足したのか、スヴェンは「よくできたな」といっそう眼差しを和らげてシェリーの肩を抱くと、馬車まで歩いた。
即位式当日。
アルファスは町の大聖堂で即位式を行ったあと、広場で民へのお披露目をしてパレードに参加する予定になている。
シェリーはカヴァネスの正装を身につけて軍服姿のスヴェンの隣に並び、祭壇の上で片膝をつくアルファスの姿を目に焼きつける。
この大聖堂は宗教団体をまとめる教皇であるガイルモント公爵が運営しており、王族関係の祭事はすべてここで行われる。
此度の即位式もガイルモント公爵から戴冠を賜ることになっているのだ。
そのときを静かに待っているアルファスは、この短期間で随分と凛々しい顔をするようになった。成長を側で見守ってきたからこそ、この瞬間を迎えられた感動は大きい。胸が熱くなって目に涙を滲ませていると「本当に人のことばかりだな」と耳打ちされる。
隣にいるスヴェンを見上げれば、困ったように笑っていた。
「すみません、うれしくて」
「かまわん。俺もこのときをずっと待っていたからな」
スヴェンも熱心にアルファスを見つめていた。
子離れしていくような寂しさと同時に、嬉しさが胸にこみ上げてくる。側で仕えてきた者同士、この感情は同じなのかもしれない。
「ギュンターに見せてやりたかった」
スヴェンの言うギュンターとは、前王ギュンターフォード一世のことだろう。戦友だったのだと、前に話してくれたことがある。
この姿を一番に見たかったのは父である前王だろう。それが叶わなかった前王の気持ちを考えると、胸が切なく締めつけられた。
今日は前王妃も大公と並んで式典に参加している。それだけでなく国政を動かす四公爵にも見守られて、アルファスは晴れて国王としてお披露目されるのだ。
祭壇で王冠持って控えている神官は聖帽につけられた目元まで隠れるベールのために、顔がはっきり見えない。というのも、教皇以外は神に祈り祝福を受けるという神聖な場で顔を出すことを禁じられているためからだ。
「今ここに、ギュンターフォード二世の即位を認める」
司祭の言葉とともに、冠がアルファスの頭に乗ろうとした瞬間。司祭の背後に控えていた神官がどこからともなく取り出したナイフを勢いよく振り上げる。
「我々は今、成し遂げる! 王座を散らし、アルオスフィアの平和を終わらせるのだ!」
掲げられたナイフの矛先は、アルファスだった。
「アルファス様ーっ!」
悲鳴をあげるシェリーの隣にいたスヴェンが弾丸のように飛び出すと、振り下ろされた男のナイフを弾く。宙を舞ったナイフはステンドガラスの七色の光を浴びて煌きながら、神聖な祭壇の床に突き刺さった。
「貴様っ、邪魔をするな!」
「その声ナイフといい、お前はあのときのジャングルールだな」
スヴェンの言う通り、道化師の仮面を被って不吉な言葉を残し逃走したあのジャングルールと同じ声をしている。床に突き刺さっているナイフも、広場で掲げていたものと同じように見えた。
「なにが目的でこのようなことをする」
剣先を道化師の男に向けたままスヴェンが尋ねれば、道化師の男は馬鹿にするようにケラケラと不気味な笑いを大聖堂に響かせた。
その狂気にあてられてか、参加者たちは震えながら固まっており、騎士たちもスヴェンの指示を待っていつでも男を捕らえられるように待機している。
いっそう空気が張り詰める中、道化師の男が聖帽に手をかけたとき、「やめんか!」と大公殿下の切羽詰まった声が聞こえた。
それでも問答無用で脱ぎ捨てられた聖帽の下に隠れていたのは、左頬に大きな傷のある顔。緑がかった短い黒髪をかき上げ、吊り上がった目をさらに細めてニタリと笑う。
「この顔を見るのは久しぶりかな、スヴェン・セントファイフ」
「貴様はアルガノフ・ルゴーンか!」
スヴェンは目を剥くほどかっ開き、驚愕の表情を浮かべている。
(ルゴーンって前騎士公爵の名よね? ということはスヴェン様が打ち取ったという前王を毒殺した首謀者!)
狂気的な笑みを浮かべているルゴーンに、シェリーは身震いする。
「前王だけでは飽き足らず、アルファス様まで手にかけるつもりか!」
「スヴェン・セントファイフ、それは王ではない。王座に真にふさわしい者へ返すべきだ」
「アルファス様こそ、この国を導くにふさわしい王だ」
揺るぎなくはっきりと言い切ったスヴェンに、アルファスは泣きそうな顔をする。
ふたりはよくぶつかっていたが、剣術の稽古を頼むのも、張り合おうとするのも、スヴェンだった。それだけで、アルファスが一番の信頼を置いていることがわかる。
スヴェンとルゴーンが睨み合う中、前王妃が叫ぶ。
「やめてくださいっ、誰かアルファスを助けて!」
「前に出てはなりません!」
目尻に涙を溜めてアルファスの元へ駆け寄ろうとする前王妃にスヴェンが駆け寄り、肩を掴んで止めさせる。
その姿を見て、スヴェンは前王妃のことが大切なのだと気づいた。自分に好きだと言っておきながら、本当は前王妃を想っていたのではないだろうか。前に部屋の前で抱き合っているところも見ていたので、自分に告白をしたのは身分違いの恋を忘れたかったからではないかと勘繰ってしまう。
「離してスヴェンっ」
「なりません!」
暴れる前王妃を押さえながら、スヴェンがこちらを振り返ろうとしたとき。
「新たなるアルオスフィアの創造を!」
意味不明な言葉を高らかに叫びながら、ルゴーンは床に突き刺さっていたナイフを抜いてアルファスへと振り上げた。
「やめて!」
シェリーは無我夢中でアルファスの前に飛び出すと、その小さな体を抱き込む。すぐに背中に鈍い痛みが走り、唇の隙間から「うっ」呻き声が漏れた。
ナイフの切っ先はリボンを掠ったのか、結っていたはずの薄桃色の髪が解けてふわりと舞い上がる。
「シェリー?」
腕の中にいたアルファスは、怯えるようにこちらを見上げてくる。その目があまりにも不安そうで、シェリーは安心させるように無理やり笑みを浮かべた。
「大丈夫……です、アルファス様。あなたはきっと、民からも……城の皆からも、愛される……王様、になりま、す」
荒い呼吸で時々痛みに顔を顰めながら、言葉を紡いでいく。
アルファスはシェリーの背中に手を回すと、ナイフが刺さっていた場所に触れて顔面を蒼白させた。恐る恐る両手を見て、そこにべっとりと付着する赤い血に息を詰まらせる。
「これ、これ……なんだよっ」
シェリーの傷口からはナイフが刺さった後に無理やり引き抜かれたせいか、とめどなく血が流れている。
「なんで、僕のことを庇ったんだよ!」
「自分の命より、も……優先したいほど、大切な存在……だから、ですよ」
ポロポロと涙を流しながら、自分の名を呼ぶ彼の頭を撫でてやる。
でもアルファスは血の気の失せていくシェリーの顔を見つめて、ただ呆然とするばかりだった。
「その男をひっ捕らえよ!」
大公の号令で、騎士たちが動き出す。視界の端にルゴーンが捕らえられるのが見えてホッとした途端、急激な眠気に襲われた。
「シェリー、しっかりしろ!」
そこへスヴェンが駆け寄ってきて、動揺しているアルファスの腕からシェリーの体を受け取る。
ぐったりとしたシェリーは横抱きにされながら、スヴェンの顔を弱弱しく見上げた。
「ご迷惑、を……申し訳、ありま……」
「迷惑など、そのようなことはどうでもいい! なぜお前は、無茶ばかりするのだ!」
このように取り乱すスヴェンを見るのは、初めてだった。それがうれしくて、こんな状況だというのに口元が綻んでしまう。
「私のこと……より、前王妃様のそばに……。きっと、不安がって……います。私なら大丈……夫、です、から」
「――っ、俺は誰よりも、お前の側にいたいのだ。言っただろう、好いていると!」
「スヴェン、様……」
その言葉はうれしい。彼の必死の形相から、自分を心から好いてくれているのが伝わってくるから。
けれど、さきほどから手先の感覚がなくなってきている。大丈夫とは言ったものの、思った以上に出血しているのかもしれない。
(この人を置いて逝きたくない。でも、もし……このまま死んでしまうのだとしたら、ちゃんと自分の気持ちだけは伝えたい)
今、告白の返事をしなければ後悔する。
そう思ったシェリーは彼の頬に手を伸ばして震える唇を動かした。
「ずっと、言えなくて……ごめんなさい。私もあなたが……好き」
それを伝えるだけで、限界だった。ふっと体から力が抜けて、スヴェンの頬に触れていたシェリーの手は力なく落ちる。
重い瞼を閉じれば、「シェリー?」という絶望を滲ませた彼の声が聞こえた気がした。
***
「しっかりしろ、シェリー!」
固く目を閉じているシェリーの体を揺するも、反応がみられない。血の気が失せていくのを感じながら、その顔を手で撫でた。
「言い逃げするなんて、ひどい女だ。俺はこう見えて執念深い男でな、絶対に死ぬことは許さないぞ」
瞼の裏に滲むのは知的で優しいブルーゾイサイトの瞳に、聖母の如く美しい彼女の笑顔だった。
スヴェンは冷たい唇に口づけると、守り切れなかった悔しさを胸にシェリーを抱き上げて立ち上がる。
「死なせてたまるか。俺は、お前と未来を生きたいのだ」
たとえ死者の国に乗り込もうとも、彼女を手放すつもりは毛頭ない。心が通じ合ったからこそ、余計に失いたくないと心から願った。
スヴェンはアルファスを信のおける騎士に預け、早急に城へ帰還した。即位式は続行不可能と大公が判断し、ルゴーンの望んだとおりに中止となってしまったのだった。
***
シェリーが目覚めたのは、即位式から丸三日後のこと。目覚めてすぐに教え子であるアルファスの即位式が中止になったと知り、胸が痛んだ。
医者からの診察を受けて目覚めてからかれこれ三時間が経つが、即位式での襲撃事件の対応に追われているスヴェンとは一度も会えていない。
アルファスはシェリーが目覚めたのを確認すると、心を痛めて部屋に籠ってしまった前王妃のところへと向かった。
自分の夫を毒殺され、息子の命まで脅かされたのだ。気が滅入ってしまうのは無理もないだろう。シェリーも様子を見に行きたかったのだが、体を起こすだけで傷が痛み、身動きがとれないでいた。
そして外に夕闇が広がり、欠けた月が世界を照らす頃。夕食を終えて眠りにつこうとしたシェリーは、部屋の扉がノックされるのに気づいて体を起こす。
「はい」
そう声をかければ、慌ただしく扉が開け放たれた。
「シェリー、目が覚めたのか!」
部屋に飛び込んできたのは、スヴェンだった。
シェリーのいるベットまで駆け寄ってくると、両手を包むように握りしめてくる。
「スヴェン様もご無事で本当によかっ――」
「もう、目覚めないのではないかと思った」
スヴェンはシェリーの言葉を遮り、背中の傷を避けるように腕を回すと強く抱きしめる。
その腕が小刻みに震えているのに気がついて、彼がどれだけ自分を心配してくれていたのかがわかった。
「私も助からないかと思いましたが、あなたを想うと死ねないと強く思いました。きっと、あなたへこの想いが私を生かしたのだと思います」
手を握り返して微笑むと、スヴェンは眉間にしわを寄せて俯き、ふうっと息を吐きだす。
「スヴェン様、どうかなさいましたか?」
「……病み上がりのお前に、このような願いを口にすることを許してほしい」
俯いたままで表情が見えないスヴェンの顔を覗き込もうとしたとき、後頭部に手を回されて引き寄せられる。驚きに目を丸くしていると、膝をベットに乗せて屈み込んできた彼に唇を奪われた。
ぶつけた想いごと閉じ込めるように深く重なった唇は互いの体温を分け合って、しだいに熱を持ちはじめる。
彼のぬくもりを感じられる幸せに、涙がこぼれた。
「――愛している、シェリー」
そっと名残惜しむように離れた彼の唇が紡ぐのは、両親を失ってから久しく注がれていない愛情。
シェリーが泣いていることに気づくと、スヴェンは唇で目尻に溜まった雫を掬った。
(人を愛し、愛されるというのはこんなにも幸せなことなのね)
心に咲く枯渇寸前の薔薇が、愛情に潤い満たされていくのを感じる。
「私もあなたを愛しています」
町で出会った頃は、スヴェンとこのような関係になるだなんて想像すらしていなかった。カヴァネスとして生きると決めてからは、一生独り身でいることも覚悟の上だったのだ。
けれど、運命の悪戯だろうか。今は共に歩んでいきたい人がいる。
「お前の怪我が治ったら、お前のすべてを愛したい」
「え? それはどういう……」
「わからないか、カヴァネスのお前でも」
首を傾げて意地悪い笑みを浮かべるスヴェンに、心臓が早鐘を打つ。顔を赤くするシェリーの顎を掬い上向かせると、再び口づけをした。
「んっ、ふっ」
突然のことで満足に息も吸えなかったシェリーは、すぐに息が続かなくなる。酸素を求めるように口を開ければ、攻め込むように舌を捻じ込まれた。
「スヴェン、様ぁっ」
その胸を押し返すも力では敵わず、解放されたのは自分で体を支えられないほどぐったりさせられた頃だった。
「はぁっ、いきなり……ひどいですっ」
スヴェンの胸に寄りかかり、呼吸を整える。
そんなシェリーの濡れた唇を親指で拭うと、スヴェンは口端を吊り上げた。
「すべてを愛するというのは、これ以上にひどいことをするということだ。今のままだと、先が思いやられるな」
「もうっ、スヴェン様!」
彼の胸を叩けば、ははっと笑われてしまう。頬を膨らませれば、スヴェンに優しく体を押されてベットに寝かされた。
「だから、早く傷を治せ」
そう言ってシェリーの体にかけ物を被せると、自身もベットの端に腰を下ろす。こちらを見つめるガーネットの瞳に胸が高鳴った。
「なんだ、そんなに見つめるな」
「あ、ごめんなさい。あなたの瞳が本当に綺麗で、見惚れてしまいました」
見すぎて不快にさせてしまったかと視線を逸らす。
「っ……シェリーは聖母のようで時折、俺を惑わす悪魔のようだ」
「え、悪魔ですか?」
どういう意味かと問うように彼を見上げれば、苦しげに眉根を寄せたあと、困ったように笑った。
「つまり、俺を喜ばせる天才ということだな」
「喜ばれておいでなのですか?」
目を瞬かせて、スヴェンを見上げる。自分が彼を喜ばせた自覚はないのだが、嫌われたわけではないのだと知り安心した。
ホッと息をついていると、スヴェンに片手で前髪を上げられる。不思議に思っていると…。
「あぁ、どうやら俺は翻弄されるのが病みつきになったらしい」
「え……きゃっ」
額に口づけられて、小さく悲鳴をあげてしまう。
慌てるシェリーの反応に機嫌をよくしたのか、「かわいいな」と耳元で囁くと、何度も頬や顔の輪郭を愛しそうに撫でてきた。
せっかく助かった命だというのに、今度は騎士公爵の溺愛ぶりに心臓が止まってしまいそうだった。
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