六章 命がけの逃亡劇

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六章 命がけの逃亡劇

 怪我を負って目覚めてから四日後、背中の傷は痛むが動けないほどではなくなり、カヴァネスとしての仕事にも復帰していた。  今日から三日間は学舎での授業のため、スヴェンやアルファスに会えるのは三日後ということになる。  シェリーは休憩時間になると紅茶と一緒に手作りのをマドレーヌを子供たちに出して、テーブルを囲んでいた。 「先生、国王様にお勉強を教えているんでしょう?」 「国王様ってどんな人?」  あちこちから質問が飛んできて、シェリーは苦笑いをする。生徒は十三人もいるので、リビングは賑やかだ。  でもこのざわめきは、孤独を和らげてくれるから好きだった。 「そうね、一生懸命な方よ。皆のように頑張っている人たちが、身分関係なく活躍できるような国を作るために頑張っているわ」  アルファスが話してくれた国王像を皆に話して聞かせると、「へぇ~」と感心したような声が上がる。 「なら僕は、立派になって国王様を助けてあげるんだ」 「私は、国王様が病気にならないようにお医者さんになるわ」  ここにいる生徒たちは、皆優しくて賢い。だから、遠くない未来にアルファスの創る国で活躍しているに違いない。そんな光景が、シェリーには見えていた。 「それにしても、即位式が見られなかったのは残念だったよね。前王妃様の体調が優れないんじゃ、仕方ないけどさ」  そう、即位式の中止は今のところ前王妃の体調不良という理由で御触れが出された。ただでさえ遅れている即位式を国王が原因で中止されたと説明するのは、民の信頼を失う。かといって本当のことを話せば、内乱が起きているのではと民は動揺し、他国から好機だとばかりに攻め入られる可能性がある。  よって、以前から体調不良と公言していたアリシア王妃を理由にするほうが角が立たないと判断したのだ。 「そうね、私も見たかったわ」  一番残念に思っているのはアルファスだ。本人は「次があるから大丈夫だ」と強がっていたのだが、それが彼らしくない。いつものアルファスなら、もっと我儘に怒っているところなのに、やけに大人びた反応だったので心配だった。 「甘いものを食べたら、元気になるんじゃない?」 「先生のマドレーヌは、アルオスフィア一だからな」  子供たちに言われて、シェリーは皿の上に並ぶ黄金色のマドレーヌに視線を落とす。  カヴァネスの仕事はないけれど、お菓子を届けに行ってもいいのだろうか。こんなものでも、アルファスを元気づけたらいい。それに、今回の事件の対応に追われているスヴェンにもマドレーヌを食べて気分転換してもらいたい。  そう思ったシェリーは授業の後に、お菓子を持って城を訪れることにした。  夕方、生徒が帰る馬車を見送った後、かつてローズ家の御者を務めていたハンスにお願いをして城まで送ってもらった。 「シェリーお嬢様、帰りも足が必要でしょう。私は城の裏手にある森の入り口でお待ちしておりますから、時間になったら正門までお迎えにあがります」  正門は王族の馬車の出入りがあるため、庶民の辻馬車は停めておけない。だからハンスは、城のすぐ裏手の森でシェリーを待っていてくれると言っているのだ。 「ハンス、私はもうお嬢様ではないわ。なのに気遣ってくれてありがとう。お言葉に甘えて、一時間半後に待ち合せましょう」  シェリーはマドレーヌが入ったカゴを大事に抱えて、馬車を降りると門番に挨拶をして中へ通してもらう。  廊下を歩いていると、視線の先に見慣れた姿を見つけて足を止めた。すると向こうもシェリーの存在に気づいて、歩く速度を速める。 (スヴェン様だわ)  すぐに駆け寄りたい衝動に駆られるが、常日頃アルファスや生徒たちに廊下は走るなと教えていたので、じっと堪えて彼に歩み寄る。 「スヴェン様、ごきげんよう」  向かい合うと、シェリーは軽くお辞儀をした。 「あぁ、昨日ぶりか。シェリー、どうして城に?」  彼は議会があったのか、小脇に書類を抱えている。多忙なスヴェンを引き留めるのは心苦しいけれど、せっかく作ったマドレーヌを食べてほしかったのでソワソワしながら言い出す機会を窺った。 「実はマドレーヌを焼いたので、届けに来たのです。今日は仕事もないのに、城に押しかけたりして申し訳ありません」     マドレーヌが入ったカゴを持ち上げて見せると、スヴェンは目を丸くした。 「アルファス様への差し入れか?」 「それもあるのですが、その……」  子供っぽいと思われてしまうだろうか。  弱気になって開いた唇を何度も引き結んだが、深呼吸をして意を決する。 「スヴェン様にも食べていただきたく……」  正面切って言うのは恥ずかしくて、語尾がすぼんでしまう。いつもはっきり意見を述べるシェリーが珍しく歯切れが悪いことにスヴェンは目を見開いていた。  取り乱す自分を見られ、赤面しながら俯いていると頭に大きくて無骨な手が乗る。  驚いて顔を上げれば、優しい眼差しに出会った。 「お前は本当に愛らしいことをする」  愛らしいなどと躊躇することなく口にするスヴェンに、どんな顔をしていいのかわからない。とにかく照れくさくて、カゴをギュッと抱きしめながら聞き返す。 「そ、そうなのでしょうか?」 「あぁ、愛らしい。歳のわりに大人びているかと思えば少女のような一面もあり、見ていて飽きない」  頭を撫でられ、その手はシェリーの抱えていたカゴに伸びる。 「これは俺が持とう」 「ありがとうございます」  カゴを持ってくれたスヴェンの気遣いに、密かに胸をときめかせる。仕事が休みのときも会える幸せを感じて、隣を歩きながらこっそり微笑んだ。  シェリーは城に間借りしているスヴェンの部屋に案内された。  壁際のキャビネットの中には分厚い本がぎっしりと並んでおり、部屋の中央には四角いテーブルを挟んで美しい曲線を描く金縁のソファーがある。これらの部屋の家具はオーク素材で統一されており、赤いペルシャ絨毯と合わさると厳格な印象ながらも気品があった。  ソファーに向かい合うように腰かけながら、黄金色のマドレーヌを食べるスヴェンを恐る恐る見つめる。 「これは蜂蜜か。他はなにが入ってるんだ?」  手にマドレーヌを持ったまま、スヴェンがこちらを見る。 「レモンの皮です。この蜂蜜レモンマドレーヌは学舎の生徒たちのお気に入りでして、授業のたびに作ってとせがまれるのです」  今日の授業の休憩時間に見れた生徒たちの笑顔を思い出して、胸が温かくなる。毎回このマドレーヌを作るのは、子供たちに喜んでほしいからだ。  甘いものは人を笑顔にする。だから、このマドレーヌを食べればアルファスやスヴェンも元気になってくれると思ったのだ。 「お前は優しい顔をするのだな」  ソファーから立ち上がり、隣にやってくるスヴェンを見上げて「そうでしょうか?」と小首を傾げる。  スヴェンは何も答えずにシェリーが座るソファーの背もたれに手をかけて、腰を屈める。急に近づいた距離に身を仰け反らせると、顎を掴まれた。  逃がすまいとゆっくりと顔を近づけてくるスヴェンに押し倒されるような格好になり、シェリーの心臓はバクバクしだす。 「あの、近いです。スヴェン様」 「怪我が治ったら、お前のすべてを愛したいと言っただろう」  彼の声は、ふたりっきりの部屋で甘く響く。じんじんと頭の中が痺れて、もっと聞いていたいという中毒性があった。 「でも、まだ治ってな……んっ」  その先は言わせてもらえなかった。  ガーネットの瞳が煌いて、瞬く間に唇を彼のもので覆われる。唇を啄まれるたびに、体中が発熱して蕩けてしまいそうだ。 「我慢ができない。叶うなら今ここでお前のすべてを奪い去りたいところだが、無理はさせられんからな。少し補充させろ」  懇願と焦りが混在したようなかすれた声が耳元をくすぐり、ビクリと体が震える。  触れたいのはシェリーも同じだった。だから、答えの代わりに彼の胸元の軍服を強く握りしめて、その顔を見上げた。 「っ……上目遣いはずるいな。お前は俺をひどい男にしたいのか?」 「えっと、はい?」 「わからないなら、いい。それがお前の魅力でもある」  疲れを滲ませた口調で困ったように笑ったスヴェンは、再びシェリーの唇に自身のものを寄せる。  吐息が、視線が絡み合い、声にならない〝愛してる〟が聞こえた気がした。  二度目に重なった唇は、味わうようにゆっくりと触れて離れていく。  スヴェンとの口づけは、蜂蜜レモンの味がした。 「あまりくっついていると、アルファス様に嫉妬されてしまうな」  スヴェンはシェリーの唇を親指で撫でると、隣に腰かけてそう言った。 「アルファス様は、姉か母を取られたような感覚なのでは?」 「気を抜くなよ、シェリー。男は何歳でも男だ」 「そ、そうなのでしょうか?」  腕組をして横目にこちらを見るスヴェンの顔はやけに真剣で、思わず目を伏せる。凛々しさが増して見えて、照れてしまったからだ。 「アルファス様もここへ呼ぶように使用人に伝えておいたのだが、遅いな」  スヴェンは壁掛けの時計を見て、訝しげに眉間にしわを寄せた。シェリーも時計に目を向けると、ここに来てから三十分が経っていることに気づく。 「私、馬車を待たせているので、あと一時間で城を出なければならないのです。お逢いしたかったけれど、叶わなければこのマドレーヌをお渡し願えますか? 前王妃様と一緒に食べてもらえたらと多めに作ってきているので」  カゴに残りのマドレーヌを見つめながら、残念な気持ちでスヴェンに頭を下げる。  本当はアルファスが元気にしているのか、様子も見たかったのだが仕方ない。あと一時間して部屋にこなければ、お暇しようと考えているときだった。 「セントファイフ公爵様、急ぎお伝えしたいことがございます!」  扉の向こうから、切羽詰まった声が聞こえてくる。ノックするのさえ忘れてしまっているところを見ると、かなり焦っている様子だ。  スヴェンが「入れ」と声をかけると、勢いよく扉が開け放たれる。 「国王陛下が投獄されました」 「……な、んだと?」  騎士の報告を受けたスヴェンは、ソファーから勢いよく立ち上がる。ツカツカと騎士に歩み寄ると、「どういうことだ」と問い詰めた。 「アリシア前王妃様に毒殺を図ったとのことで嫌疑にかけられ、大公殿下のご指示で投獄が決まったのです。刑罰はこらから議会にて決定すると――」 「ふざけるな! 大公殿下の独断で国王を投獄するなど許されん!」  騎士に向かって怒号を浴びせるスヴェンは、悔しげに拳を握りしめている。  アルオスフィア一の強さを持つ男に睨まれた騎士は恐怖のあまり足を震わせており、見かねたシェリーがスヴェンの手を握った。 (落ち着いて、スヴェン様)  心の中でそう語り掛ければ、繋いだ手からシェリーの気持ちが伝わったのか、スヴェンは「すまない」と小さく呟いて瞳に冷静さを取り戻す。 「実の母君を陛下が毒殺とはどういうことか。詳しく話せ」 「は、はっ。一時間前、陛下が前王妃様に青薔薇を贈ったのですが、棘に毒が塗られていたらしいのです。誤って指に刺さしてしまった前王妃様が、お倒れになってしまって……」   無邪気に微笑むアリシア前王妃の顔が頭に浮かんで心配になったシェリーは、差し出がましいと思いながらも口を挟む。 「前王妃様はご無事なのですか?」 「一命はとりとめたのですか、まだ目を覚ましておられません」 「そうなのですね……」  騎士の口から目覚められていないと聞き、心が沈む。  なにより、アルファスのことが気がかりだった。自分が贈った薔薇のせいで母親が生死の境を彷徨ったとなれば、自身を責めていることだろう。ただでさえ即位式が中止になって気落ちしているというのに、立て続けに問題が起きているのだ。  投獄されてしまったアルファスを思うと胸が痛む。 「犯行に使われたのも城の庭園に咲く薔薇であったことから、国王陛下のご乱心だと城内では噂されています」 「おふたりの思い出の薔薇に、アルファス様が毒を塗るとは思えないです。その薔薇は、本当にアルファス様がお摘みになられたものなのですか?」  アリシア前王妃が植えたという青薔薇には祝福ある人生を、どんな困難の前でも奇跡を味方につける力を、不可能を成し遂げる強さをアルファスが授かるようにという願いが込められている。それを知ったアルファスは、本当にうれしそうな顔をしていたのだ。  だから絶対に、母を手にかけるようなことはしないはず。  カヴァネスの証言だけではなんの力にもなれないかもしれないが、アルファスの人となりはよく知っている。絶対に自分だけは彼の無実を訴えようと心に決めたとき、また扉がノックされる。 「スヴェン、失礼するよ」  部屋の主の許可を待たずに入ってきたのは、ウォンシャー公爵だった。 「その顔は、状況は理解したようだね」  ツカツカと側にやってきたウォンシャー公爵は、この緊迫した状況でも飄々とした態度を貫いてソファーに腰掛ける。 「できれば、スヴェン公爵とシェリー譲の三人で話したいんだけど、君は席を外してもらえるかな」 「かしこまりました」  ウォンシャー公爵は報告に来た騎士を下がらせると、改めてシェリーとスヴェンの顔を見渡した。 「薔薇、毒……。スヴェン、似通った事件だとは思わないかい?」 「前国王の毒殺のことと、なにか関係がありそうだな。あのとき、部屋で倒れていた前国王の傍らには黒薔薇が落ちていた」 「城お抱えの医者は心臓発作って言ってたけど、薔薇の棘には毒が塗られていた。それを知らずに前国王は触れてしまったから、殺されたんだと考えられる」  ウォンシャー公爵の言葉にスヴェンも難しい顔で腕を組みながら「今回の手口と大いに似ている」と頷いていた。 「その黒薔薇がルゴーン家の庭園に咲いていたものと一致したから、君は毒殺を疑ってかつて騎士公爵だったルゴーンを捕えた。でも国王の死因は心臓発作として扱われ、大公殿下に身柄を引き渡したんだったね」  奥歯を噛みしめて「そうだ」と怒りに声を震わせるスヴェンを見て、戦友だった前国王の死の真実を曲がった形で片づけられたことが悔しかったのだろうと思った。  ルゴーンが毒殺をしたという決定的な瞬間を目撃した者がいないので、証明できなかったのかもしれない。 「国王は心臓発作などではない。これまで病など、なにひとつかかったことがないのだぞ。それに毒の塗られた薔薇はどう説明する」  それだけでも大きな証拠になりそうなのに、医者の言葉を鵜呑みにするなんておかしい。庶民のシェリーでも疑問に思うのに、誰も異論は唱えなかったのだろうか。 「そうだね、俺も変だと思うよ。でも医者の言葉の方が信憑性があるとして、心臓発作という死因は変えられなかった」  前々からウォンシャー公爵は、前国王の死因を毒殺だと疑う発言をしていた。そう考えると、この状況に異論を唱えた者は信用できるのではないだろうか。  一介のカヴァネスごときが偉そうなことは言えないけれど、ウォンシャー公爵は敵ではない気がする。 「ルゴーンは毒殺を図ろうとした可能性があるとして爵位を剥奪されたが、処罰を下したというより余計なことが大っぴらにならないよう誰かが庇ったように思える」 「同感だよ、スヴェン」  ふと苦笑するウォンシャー公爵の手に、布の塊が握られているのに気づく。 「あの、それは?」  気になったシェリーは、布の塊を見つめながら尋ねた。  ウォンシャー公爵は「あぁ」と思い出したかのように布の塊をテーブルの上に乗せて、中身を見せてくれる。  現れたのは、布に巻かれていたせいで傷んだ青薔薇だった。 「国王陛下が前王妃様に贈った薔薇らしい。報告に来た使用人から受け取ったんだけどね、なにか手掛かりになるんじゃないかって持ってきたんだ」  話によると前王妃を死に追いやろうとした薔薇は確か、城の庭園に咲いている青薔薇と同じだったはず。  でも、目の前にある薔薇は同じ青色でも庭園のものとは種類が異なる。どういうことかとシェリーは首を傾げて疑問を口にした。 「これは庭園の薔薇ではありません」 「なんだと?」  スヴェンは驚愕の表情を浮かべてテーブルの近くにやってくると、シェリーと薔薇を交互に見比べる。 「城の庭園に咲いているのはオンディーナといって、もっと花弁が少なく丸いんです。それに色も青みの弱い藤色をしてます。でもこの薔薇は花弁も多く先が尖っているし、青みも強い。これはターンブルーです」  オンディーナにそっくりだけれど、薔薇に詳しい者が見たら違いは明白だ。  それを聞いたウォンシャー公爵は拍手をして、軽い微笑を右頬だけに浮かべる。 「これは思わぬ朗報だよ。だとしたら国王陛下に薔薇を渡した奴が犯人ってわけだ。普通に考えたらルゴーンが怪しいんだろうけど、彼は今牢の中にいる」  そうだ。即位式に現れたルゴーンは国王を殺そうとした罪で投獄されているがゆえに、薔薇を渡すことはできない。 「では、誰がアルファス様を陥れたのだ」  議論はまた迷路に入り、スヴェンは額を押さえる。 (それにしても、薔薇が気になるわ)  ふと、この城に来たばかりの頃に部屋の前に青薔薇が落ちていたことを思い出す。 「そういえば、あのときの薔薇もターンブルーだった」 「シェリー、どうかしたのか」  呟きがスヴェンの耳にも届いたらしい。不思議そうにこちらを見る彼に、部屋の前に落ちていた薔薇のことを伝えた。 「そういえば、お前が感じていた異変も薔薇のことばかりだったな」  以前にも話したことがあったので、スヴェンは思い当たる節がある口ぶりで言った。 「はい。もしその薔薇に意味があるのだとしたら……」  自分の部屋の前に落ちていた青薔薇や大広間に散っていた紫の薔薇の花弁、黄薔薇とナイフ。前王妃の部屋にあった一本の赤薔薇と三本の黄薔薇の花言葉を思い出す。 「青薔薇は不可能を成し遂げる。散った紫の薔薇は王座が散る。黄薔薇の意味は平和ですが、ナイフが添えてあったことから平和の終わりを指しているのではないでしょうか?」  これはすべて、薔薇に込められた負の意味の抜粋だ。薔薇には良い意味もあるのであくまで憶測でしかないけれど、全く関係がないとも言い切れない。 「確か町の広場でルゴーンと対面したとき、王座を必ずや散らせよう。平和はこれで終わりを告げる……などと言っていたな」  顎に手をあてるスヴェンを横目に、ウォンシャー公爵は「ふむ」と首を縦に振ると、シェリーに片目を瞑って見せた。 「シェリー譲、お手柄だ。あながち薔薇の花言葉も馬鹿にできないね」  向かられる表情にどう返すべきか対応に困ったシェリーは「あ、あと……」と話を続行して、あえて触れないことにした。 「前王妃様の部屋の前に落ちていた薔薇のことなんですけど……。三本の黄薔薇の中に一本の赤薔薇。これはあなたがどんなに不誠実でも愛してる。それから本数ですが、四本は死ぬまで愛の気持ちは変わらないという意味があります」  この組み合わせは贈る相手の想いを無視して自分の愛を押しつけていることから、贈るには適さない。 「この一連の薔薇騒動の犯人は同一人物だろう。王座を狙い、アリシア様のことを慕っている者の仕業ということか」  考え込んでいるスヴェンが「まさか……」と言葉を零したとき、再び扉がノックされる。部屋を訪れたのは、先ほど報告に来た騎士だった。 「大公殿下より、国王陛下の罪状を決める緊急議会の開催の知らせがありました」 「調査もなしに、そこまで話が進んでいるのか」  深刻な顔をするスヴェンに、ゴクリと喉を鳴らす。アルファスの身になにかあったらと思うと、背筋が凍るようだった。 「わかった。すぐに向かうと伝えろ」 「はっ。かしこまりました」  スヴェンの指示に背筋を伸ばして頭を下げると、騎士は「それから……」となにかを差し出す。  彼の手に握られていたのは、斑点模様の黒薔薇だった。 「これはなんだ?」 「部屋の間にこんなものが落ちておりました」 「そうか、もう戻れ」  薔薇を受け取ったスヴェンに「はっ」とお辞儀をして、騎士は足早に部屋を立ち去る。スヴェンはそれを見送ることなく、視線を薔薇に注いでいた。 「その薔薇……前に大公殿下の服についてた花びらと一緒です。意味は死ぬまで憎む、戦争や戦い……」  シェリーは顔を青ざめながら伝える。 「大公殿下は前国王とアリシア様を取り合っていたらしい。最終的には前国王と結ばれたが、〝あなたがどんなに不誠実でも愛してる〟という薔薇の意味からするに未練があると考えられないかい?」  大公が前王妃を好いていたという衝撃の事実に、シェリーは耳を疑う。大公は前国王の弟君にあたるので、実兄の妻を愛してしまったということになるからだ。  信じられない気持ちでスヴェンを見れば、大して驚いた様子もなく苦い顔をしている。どうやらウォンシャー公爵の言うことに、スヴェンも憶えがあるらしい。 「そういえば、即位式の日もルゴーンが聖帽を脱ごうとしたときに大公殿下が止めたな。あれは、神官に扮したルゴーンの正体が公になるのを危惧したからか?」  それはシェリーの記憶にも真新しく刻まれている。なにせ、自分が刺された日の出来事だから余計に覚えている。あの狂気的なルゴーンの顔は今でも脳裏にこびりついて離れない。  思わず身震いするとスヴェンに肩を抱き寄せられた。言葉はなかったが、守ると言われているようで恐怖心が和らぐ。 「あの薔薇はルゴーン家の庭園に咲いていたものと同じだよ。公爵同士の付き合いで屋敷を訪れたときに見ている」  だからあのとき、ウォンシャー公爵は薔薇の花びらを見てルゴーン家の庭園で見たとき以来だと言ったのだ。  不吉な意味しかもたない黒薔薇をわざわざ栽培する家はそうそうないから、簡単には忘れないだろう。 「つまり、ルゴーンと大公殿下が繋がってるってことだよね。前国王陛下の毒殺にも関わっているかもしれない。動機は王位や前王妃への執着、たくさんあることだし」  自分はアルファスに勉学や教養を教えることはできても、こういった血肉の争いから守ってあげることができない。カヴァネスが大それたことを言っているという自覚はあるけれど、シェリーにとってアルファスは国王である以前に教え子なのだ。  だからこそ、力になれないことが歯がゆい。 「あぁ、それにルゴーンは王座に自分が座るとは言わなかった。真にふさわしい者へ〝返すべきだ〟と言ったのだ。それが大公殿下にという意味なら納得がいく」  これも広場で道化師に扮したルゴーンが言っていた言葉だ。このスヴェンの発言により、散りばめられていた不審点が繋がっていく。見えてくる犯人像に体の芯から冷えていくようだった。 「そうだね。大公殿下は前国王と王位争いをしていたから。まったく、黒幕は大公殿下ということか……なかなか強敵で参るよ」  薔薇を布の中に戻すと、ウォンシャー公爵はソファーから立ち上がる。 「スヴェン、国王陛下を連れて逃げるんだ」 「ウォンシャー公爵……だが、逃げればアルファス様が罪を認めることになる」 「だからといって今議会に出ても、無罪にすることはできない。いいかい、最終的な議会の決定権は大公殿下にあるが、根本には四人の公爵の参加が条件になる。つまり、君が参加しないことで判決の正当性を否定できるんだ」  そうか、たとえ城から逃げている間にアルファスの罪状が決まったとしても、スヴェンの不在を理由に判決を無効にできるかもしれない。それをウォンシャー公爵は狙っているのだ。  庶民出身でありながら、その機転の良さは勉学の賜物だと感動する。 「これは商売と一緒だ。商品を即買いするのではなく、キープするんだよ。それで時間を稼ぐ。それまでに大公殿下の悪事の証拠となりえるものを集めるんだ」 「だが、アリシア前王妃を置いてはいけない。俺は前国王からアルファス様とアリシア様のことを任されているのだ」  だから、スヴェンはアリシア前王妃と親しげだったのかとシェリーは納得する。許されない恋をしていたのではないかと不安だったので、ホッと胸をなでおろした。 「スヴェン、前国王と同じ手口で毒を盛ったのに前王妃様は死ななかった。つまり、大公殿下はアリシア様を本気で殺す気はなかったんだ」 「愛しているからか」 「そういうことになる」  ウォンシャー公爵は同意するように頷いて、部屋の出口に歩いていくと扉に手をかけた。 「うまく逃げてくれよ。できるだけ時間は稼ぐから」  そう言ってひらひらと手を振るウォンシャー公爵は扉の向こうへ姿を消した。部屋に取り残されたシェリーたちは顔を見合わせる。 「シェリー、お前は何も知らなかったことにして自分の邸に帰れ」  突然突き放すような言い方に、敬語すら忘れて「え?」と聞き返してしまう。当然詩文もついていく気だったので、帰れと言われたことがショックだったのだ。 「お前を巻き込むわけにはいかない」 「スヴェン様、私はあなたを愛しているのです。ひとりで無茶させられません。それに、アルファス様は私の教え子でもありますから、助けたいのです」  凛とした姿勢を崩さずに、はっきりと意思を伝える。なにができるかはわからないが、なにもしないで自分だけ安全な場所にいることなどできない。 「俺も愛しているからこそ言うのだ。お前を失いたくない」 「私もあなたを失いたくない。どんなときも側にいてください!」  彼の胸に縋りつけば、苦しげに「シェリー」と名を呼ばれ、強く抱きしめられる。  腰を引き寄せる腕の強さや頬に感じる温もりもすべて失いたくないと、自分からも彼の背に腕を回した。 「馬車を待たせてあります。御者はかつてローズ家に仕えていた者なので信頼してくださって結構です。ですから、それで遠くに逃げましょう」  腕の中から彼を見上げてそう言えば、スヴェンは困ったように笑った。 「お前に言われると、すべて肯定せねばならないような気になるな。先生に怒られているような気になる」 「もう、スヴェン様ったら冗談をおっしゃってる場合ではないのですよ?」 「わかっている。お前の意思が変わらぬのなら、最後まで共に行こう」  スヴェンの手がシェリーの両頬を包み込み、そっと上向かせる。唇に触れる吐息に心臓がトクリと跳ねた。 「これは守り抜くという誓いだ」 「はい……んっ」  スヴェンからの口づけをどこか厳かな気持ちで受け止める。頬に触れている彼の手の甲に自分の手を重ねると、指を絡めるようにして握り直された。  そしてゆっくりと触れ合っていた唇を話すと、決意を秘めた互いの瞳を見つめ目返す。 「覚悟はいいな」 「はい、スヴェン様。どこまでも共に参ります」  その答えに満足そうに頷いた彼に手を引かれ、部屋を出る。真っ先に目指したのはアルファスが捕らえられている地下牢だ。  牢に続く階段の両脇には監視をする騎士が二名立っている。そのうちのひとりがスヴェンに気づいてお辞儀をする。 「騎士公爵様がこのような場所に来られるとは、どうなされたのですか」 「大公殿下に頼まれて、国王陛下の様子を見に来たのだ」  堂々と答えたことが功を成したのか、騎士たちは疑いもせずに中へ通される。スヴェンと顔を見合わせて、緊張の面持ちで地下に続く階段を下りていった。 「見張りは階段前の二人とこの先の牢屋前にひとりだ。城の警備は俺が取り仕切っているから、間違いないだろう」  スヴェンはこの国の治安と軍事的権力を司る役割を担っているため、警備体制にも詳しいのだろう。このような状況でも冷静さを欠かないスヴェンを頼もしく思いながら、その後ろをついていく。  牢屋前にやってくると、スヴェンの言った通り騎士がひとり見回りをしていた。  スヴェンはすかさず彼との距離を詰めると、騎士が振り返る前に「許せ」と言って頸部に手刀を打ち込む。小さなうめき声をあげて倒れる騎士の体を受け止めると、冷たく湿った石床に横たわらせた。  シェリーは床に片膝をついて、騎士の腰にある鍵をくすねるスヴェンの側に寄る。 「その方は大丈夫なのですか?」 「気絶させただけだ。俺の大事な部下だからな」  騎士から視線を逸らすと、スヴェンは立ち上がった。その背中はやはり苦しげで、部下に手をあげることに胸を痛めているのだとわかる。  なんて声をかけていいのか悩んでいると――。 「そこにスヴェンがいるのか?」   聞き覚えのある声が聞こえて、スヴェンと顔を見合わせた。  弾かれるようにある牢の前まで走ると、鉄格子と石壁に囲まれた牢の中で膝を抱えて座るアルファスの姿を発見する。 「よくご無事で……っ」  泣きそうになりながら鉄格子を掴むと、アルファスがこちらに駆け寄ってきた。 「シェリー、来てくれたんだなっ」  サファイアの瞳を潤ませて、シェリーの手の上から格子を掴むアルファスに「はい」と笑って見せた。 「アルファス様、ここから脱出しますよ」  牢の鍵を開けて、スヴェンはアルファスに手を差し出す。 「スヴェン、お前は僕のことを信じてくれるのか。聞いたんだろう? 僕が母様を……」 「当たり前です。俺が何年あなたに仕えてきたと思っているんですか。世界中の人間がアルファス様を疑っても、俺は味方です」  曇りないガーネットの瞳を見たアルファスは息を詰まらせて、差し出された手をギュッと握り涙をこぼした。 「僕の剣はお前だけだ。スヴェン」 「ありがたき幸せ」  恭しく頭を下げて先に歩き出したスヴェンは階段前で立ち止まると、腰に差している剣柄に手を添えてシェリーたちを振り返る。 「俺の背から飛び出すなよ?」 「は、はい!」  シェリーはアルファスの手を握る。なにがあってもこの手だけは離さないで走り続けようと覚悟を決める。 「行くぞ」  駆け出したスヴェンの後を追いかけると、やがて階段の上が見えてくる。先ほど会ったふたりの騎士がこちらを振り返り驚愕の表情を浮かべた。スヴェンの背後にアルファスの姿を見つけたからだ。 「国王陛下がなぜここに!」 「ここから先はお通しできません!」  慌てて剣を抜こうとする騎士を前にしても、スヴェンは失速することなく走る。 「邪魔をするな!」  怒号とともにスヴェンは剣を抜き放つ。その気迫だけで騎士たちは腰を抜かせてしまい、スヴェンはすかさず背後に回って、うなじに手刀を打ち込む。  気絶する騎士の横を駆け抜けて、シェリーはたちは城の裏門を目指す。 「はぁっ、スヴェン様! 馬車は……っ、城の裏手にある森の入り口に停まっています!」 「了解した。裏門にも二名の騎士がいる。一気に通り抜けるぞ」  息を切らしているシェリーとは違って、スヴェンは戦いながらだというのに余裕そうだ。  それはアルファスも同じで、訓練しているからなのか呼吸が乱れていない。 「シェリー、大丈夫か?」 「はい、すみませんアルファス様」  足をもつらせそうになるシェリーの手を、今度はアルファスが引いてくれる。 「気にするな。シェリーは命がけで僕を守ってくれただろ。今度は僕もシェリーの力になりたい」  こういう台詞をいつの間に言えるようになったのだろうか。ふとした瞬間にアルファスの成長が感じられて、やはり彼は善き国王になるお方なのだと信じられた。  順調に門番も気絶させて、スヴェンを先頭に森の入り口へとやってくる。馬車の前でハンスが手を振っていた。 「シェリーお嬢様、早いお戻りで」 「ごめんなさいハンス、説明している暇はないの。とにかく、馬車を出してちょうだい。それで、できるだけ城から離れて」  捲くし立てるように言うと、ハンスは目を丸くしていたが、ただ事ではないことを悟ってすぐにうなづいてくれた。  シェリーたちが乗り込むと、すぐに馬車は森の中へ向かって走り出す。  正面に座るスヴェンとアルファスに「この後はどうしましょう」と声をかけた。 「お前の邸は真っ先に追っ手に気づかれるだろう。どこか、身を隠せる場所があればいいのだが……」  外を警戒しながら頭を悩ませているスヴェンに、シェリーは閃く。 「あの、ローズ家の別荘はどうでしょうか? 町境の森の中に長らく使っていない別荘があるのです」  今住んでいる邸は郊外とはいえ、馬車で数十分で城下町に着く。仕事も人口の多い城下町に集まるので、ほぼ隣町に近い場所にある別荘はここ何年も使っていなかった。 「あそこなら人気もないですし、城の追手もすぐには見つけられないのでは?」   三ヶ月に一度、掃除をしに帰っているのだが頻度が足りないのか、どの部屋も扉の立て付けが悪く床も軋むし状態は悪い。国王陛下に公爵という高貴な方を泊めるのにはいささか勇気がいるが、命がかかっているのだ。背に腹は代えられない。 「それは、名案だな。世話になってもいいか?」 「もちろんです」  シェリーはすぐにハンスに行き先を伝える。馬車で行くと三時間半ほどかかってしまうのに、快く引き受けてくれた。 「追手もいないようだな」  馬車の窓から外の様子を窺っていたスヴェンが視線をこちらに戻すと、ひと息つく。  それにつられてか、アルファスの顔にも安堵の色が見えた。張りつめていた空気が少しだけ和らぎ、お互い顔を見合わせて笑みを浮かべる。 「アルファス様、ひどいことはされていませんか?」  見た感じ怪我はしていないようだったけれど、心配になってその小さな手を包み込むように握る。 「シェリーの手はあったかいな……。僕、母様とふたりがいてくれるなら王位なんていらないよ」 「今は疲れて弱気になってしまっているだけです。そのように気を落とされないで」 「でも、もうたくさんなんだ。叔父様がくれた薔薇に毒がついてて、それで母様が倒れて……。誰を信じたら、大切な人が傷つかないのかがわからないっ」  薔薇はやはり、大公がアルファスに渡したらしい。王位のために孫にすら容赦なく魔の手を伸ばす大公が恐ろしくてたまらなかった。  ふと膝の上に乗るアルファスの拳が震えているのに気づいたシェリーは、なんて声をかけていいのかわからずに目を伏せる。  すると、それまで黙っていたスヴェンが静かに口を開いた。 「あなたは国王を継いだ身。王位がいらないなどと、軽く口にされては困ります」  それは、十歳の少年にはあまりにも厳しいひと言だった。案の定、アルファスは目尻を釣り上げて、スヴェンに掴みかかる。 「お前は僕の味方だったんじゃないのか!」 「そうです。だからこそ、厳しくするのです」 「僕にどうしろって言うんだよ……っ」  抱えきれない苦しみが、ついに爆発した。  アルファスは大声で泣き出してしまい、その間スヴェンは何も言わずに視線を窓の外へと投げていた。  しばらくして、アルファスは泣き疲れたのかスヴェンの膝の上で寝てしまった。馬車の中には静寂が訪れて、シェリーは恐々と声をかける。 「スヴェン様、なぜあのようなことをおしゃったのですか?」  母を危険に晒しただけでなく、信頼していた叔父にまで裏切られた彼は、王位を投げ出したくなってしまってもおかしくない。  まだ十歳なのだ。この短時間で彼が味わった絶望は、その小さな体で抱えきれるものではない。 「確かに、王は誰よりも理不尽で裏切りのあふれる茨の道を歩まねばならん。だが、王でなければ、その理不尽から大切なものを守れないのだ」  膝の上で眠るアルファスの頭を撫でながら眉尻を下げるスヴェンを見て、きつくあたったことに胸を痛めているのだとわかった。  それでも厳しく接したのは、アルファスに乗り越えてほしいからなのだろう。苦悩の先にある強さを手に入れてほしいから。 「それを素直に伝えてさしあげたら、よろしかったのに」  素直でないところは、ふたりともそっくりだとシェリーは苦笑する。 「アルファス様は俺の子供のころに似ていてな、どうも厳しく接してしまう」 「ですが、愛のある叱咤はちゃんと心に届くものです。アルファス様にもきっと伝わっていることでしょう」  励ますように笑えば、スヴェンは眩しそうに目を細める。 「シェリーには毎度、救われてばかりだな」 「あ……」  それ以上、言葉が紡げない。こんな状況だというのに、目の前で柔らかな微笑みを浮かべるスヴェンに目を奪われてしまうのだった。
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