七章 仲直りのマドレーヌ

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七章 仲直りのマドレーヌ

 翌朝、外に出ると森は霧がかっており、ひんやりとしていた。  肩にかけたストールを胸元で手繰り寄せて門前に立つと、遠くから馬の駆ける音と馬車が姿を現した。  シェリーの目の前で停まった馬車の御者席から降りてきたのはハンス。シェリーの前で軽くお辞儀をすると人の良さそうな笑みを浮かべた。 「シェリーお嬢様、お待たせして申し訳ありません」 「いいえ、今出てきたところよ。ハンスの方こそ遠い距離を行き来させてごめんなさいね」  ハンスは昨日、シェリーたちを送ったあと町に戻った。学舎の生徒たちの家を回ってもらい、当分授業ができない旨を伝えてほしいと頼んだからだ。  それだけでなくアルファスが脱獄した後の城の動きを知るために情報収集も頼んでいたため、報告に来てくれたのだ。 「なにやら事情があるのでしょう? お連れの方は王族の紋章が入ったブローチをしておりましたし」  アルファスの胸元には、アルオスフィア王国の紋章が刻まれたブローチが飾られている。  しかし、アルファスは国王に即位しながらも、お披露目がされていないので顔は知られていない。だが、十歳とい年齢は周知されているので大よそ検討はついているのだろう。 「詳しいことをなにも話せなくて、ごめんなさい。でも、正しいことだって断言できるわ」 「シェリー譲のことは信頼しておりますよ。それで城の様子なんですが、随分と面倒なことになっているみたいでして」 「面倒なこと?」 「国王陛下と側近の騎士公爵が王妃の毒殺をもくろみ、国王つきのカヴァネスを人質にして逃亡中と町に御触れが出ました」  国王つきのカヴァネスは、あきらかに自分のことだ。  毒殺の罪をアルファスに着せたのは大公殿下だというのに、ここまで間違った事実を公表するなんて城の秩序はどうなっているのだろうか。このまま大公殿下が王座に就けば、アルオスフィアはどうなってしまうのだろう。  祖国の未来を憂いながら、シェリーは報告を受けていた。  ハンスを見送り、暗い気持ちで邸に戻るとシェリーは厨房で料理を作り始めた。  別荘であるこの邸には食材などない。朝、歩いて二十分ほどの距離にある隣町に調達に行かなければと思っていたのだが、気を聞かせてハンスが買いそろえてくれたので助かった。  この家にはもちろん使用人はいないので、昨日もアルファスとスヴェンが眠るベットのシーツを取り替えたり、着替えを用意したりと大忙しだった。   部屋は蜘蛛の巣がかかっていたり、埃が被っていたりと高貴なふたりを泊められるような状態ではなかったが仕方ない。  今日はこの汚れた古い邸を徹底的に掃除をしようと考えている。 「いい匂いがするな」  かまどに入れたパンを気にしつつ、焼いたウインナーやベーコンを卵の横に並べていると、うしろから声をかけられた。  振り返ると、白の麻のブラウスにトラウザーズという綿素材のベージュの下衣を着たスヴェンの姿があった。これらはクローゼットの肥やしになっていた父の服だったのだが、サイズは合っているようだ。  いつもの軍服とは違って軽装をしているスヴェンは穏やかな表情で微笑んでおり、強引で余裕を崩さない騎士の素顔が見れたような気がして胸がときめいた。 「お、おはようございます。スヴェン様」 「あぁ、おはよう」  起きぬけの気怠さを残したような声や右頬に流されている前髪を鬱陶しそうに払う  仕草に現れる色気にシェリーの心臓は騒ぎ出す。 「食事は俺が運ぼう……って、聞いているか?」 「え、あっ、はい」  とっさに気のない返事をしてしまう。  正直に言うと、スヴェンがなんて言ったのか聞いていなかったので、追及されたらどうしようかと目を伏せていると、ふいに目の前が陰った。  顔を上げようとした瞬間に顎を摘まれて、上向かせられる。 「なんだ、俺に見惚れていたのか?」 「え、あの……」  そうです、だなんて言えるわけがないのに意地悪な質問だ。  彼は期待に満ちた目で見つめてくる。どうやら、答えるまで離す気はないようだ。じわじわと頬が熱を持ち始め、シェリーは眉尻を下げると思い切って告げた。 「そう……です」  恥ずかしさから目を潤ませてぼそりと伝えると、スヴェンの瞳に欲望の炎が揺らめくのが見える。 「愛らしい女だ」  脳髄まで蕩けてしまいそうな囁きとともに、掠めるような口づけをされる。  想いは通じ合っているけれど、ここ数日は怪我をしたり城から逃亡したりと慌ただしかったため、スヴェンとは口づけ以上の触れ合いをしていない。  いくら無知とはいえど、恋人になれば体も手に入れたいと思うものではないのだろうか。二十四年間生きてきて恋愛など一度もしたことがないため、どの時機で先に進めばいいのかがわからないでいた。 「どうした?」  じっと見つめていると、スヴェンの目が瞬く。急に黙り込んだシェリーを不思議に思ったのだろう。 「い、いいえ……。ここはいいので、アルファス様を起こしてきてもらえますか?」  公爵である彼に頼み事など無礼極まりないが、食事の支度をさせるわけにもいかない。なにより、今は顔の火照りをひとりになって静めたかった。  様子のおかしいシェリーに「わかった」とは言いつつ、何度も振り返りながら二階の寝室へ向かうスヴェン。その背中を見送って、大きく息を吐きだす。  あの宝石のように煌く瞳に見つめられると、身動きがとれなくなる。もちろん嫌というわけではなく、むしろ底なし沼にはまるように彼に溺れてしまいそうで恐ろしいのだ。  カヴァネスとして知識だけは蓄えてきたつもりだったのだけれど、恋人との付き合い方なんて、どんな本にも書いてない。  リビングのテーブルに皿を並べながら、シェリーはこっそりため息をつくのだった。  それは、朝食を初めて数十分後の出来事だった。   テーブルを挟んで向かいの椅子に座るスヴェンとアルファスが、ひと言も言葉を発さないのだ。先ほどから、葬式のように沈黙が続いている。  こうなる原因には思い当たる節があった。つい昨日、王位などいらないと口にしたアルファスをそんなことを軽々しく口にするなとスヴェンが叱ったからだろう。  お互いが信頼し合っているのは確かなのだが、似た者同士ゆえに自分から謝れないプライドの高さが今の状況を引き起こしている。 (まったく、早く謝ったらいいのに)  アルファスのいった言葉は、単に弱音で本心ではない。それがわかっていても側近として譲れないものがあるのだろう。  この喧嘩は長引きそうだと思いながら、シェリーは「あの……」と切り出す。ふたりの威圧感がこもった視線を一身に受け止めながら、ハンスから聞いた城の状況を報告した。 「やはり、お前のことも巻き込んでしまったな。授業もあったのだろうに、すまない」  申し訳なさそうな顔をするスヴェンにシェリーは首を横に振ると、にっこり笑う。 「私が望んでふたりと歩むことを選んだのです。それに大公殿下の悪事をこのままほっておくことはできませんから」 「お前はときどき、勇ましいな。騎士である俺でさえ、敵わないと思わされる」 「それは褒め言葉として受け取ってもよろしいのでしょうか……」  素直に喜びにくく、シェリーは苦笑いする。  その間もアルファスは黙ったままで、先に食事を終えたスヴェンは「調べたいことがある」と言って席を立つと邸を出て行ってしまった。  リビングに残されたシェリーたちはふたりで朝食をとる。そのときはアルファスも話してくれたのだが、どこか気もそぞろで心配になった。  朝食後、彼の帰りを待ちながら邸で過ごしていると庭にアルファスの姿を見つける。管理する者がおらず、荒れ果てているそこに立ち尽くす彼の背中は心細そうに曲がっていた。  シェリーは洗いたてのシーツが入ったカゴを手に、アルファスに近づく。なるべく自然を装って、彼の隣にある洗濯竿の前に立つとシーツを叩いて干していった。 「なにやってるんだ?」  ぼんやりと尋ねてくるアルファスとは、あえて視線を合わせなかった。洗濯に集中しているふりをして、なにげなく会話を繋げる。 「洗濯ですよ。おふたりが眠るとき、お日様を浴びてふかふかになったシーツに癒されてくれると嬉しいので干しているのです」  それを聞いたアルファスは「そうか」と短く答えて、一緒にシーツを干してくれた。竿は高いが、背伸びすればなんとか届きそうだったので、見守ることにする。  そうやって風の吹く音と鳥の囀りだけが聞こえる庭で淡々とシーツを干していると、「あのさ」とアルファスが声をかけてきた。 「はい、なんでしょう」  視線はシーツに向けたまま、返事をする。その方が心がささくれ立っている彼も話しやすいと思ったからだ。 「僕も王位を継ぎたくないなんて軽々しく口にしたらいけないこと、わかってる」  それは昨日、スヴェンに言われたことを話しているのだろう。シェリーはカゴから新しいシーツを取り出して彼の話を邪魔しないように、あえて相づち入れず続きの言葉を待つ。 「でも大事な人たちがいれば、地位などいらないという気持ちも本心だ。国王である意味がわからない」  そう言って、アルファスがこちらを向く。迷子のように揺れる碧眼をシェリーはまっすぐ見つめ返した。 「王は誰よりも理不尽で、裏切りのあふれる茨の道を歩まねばならないそうです」  城から逃亡する馬車の中で、スヴェンが本当に伝えたかった気持ちを代弁する。 「王でなければ、その理不尽から大切なものを守れない。スヴェン様はそうおっしゃっておりました」 「スヴェンが?」 「そうです。きっと、今の辛さを乗り越えて強くなってほしいのでしょう。それに私もアルファス様の作る国が見てみたいです」  風が彼の白銀の髪を揺らし、太陽を浴びて白く輝く。いつか彼を見下ろすのではなく見上げるようになる日が来るのだろう。そのときシェリーは側にいることが叶わないが、アルファスの創る希望ある国の中で自分らしく生きていると信じたい。 「身分関係なく、誰もが活躍できる社会を皆が望んでいますから。あなたの掲げる理想郷を現実にしてほしいのです。それはアルファス様にしか、できないことですから」  学舎の子供たちの顔を思い出しながら、未来の王に願いを託す。今まで幾度となく自分の立場を憂いてきたことだろう。  でも、自分の教え子であるアルファスを信じている。スヴェン同様にこの苦しい状況を乗り越えて、今度こそ戴冠する日を。 「僕にできるだろうか」 「あなたは私に、強くなりたいと言いました。そのために知識という名の武器を身に着けてきたのでしょう?」  アルファスはハッとした顔をした。  出会ったばかりの頃、彼はこの言葉の意味を少しも理解できていなかっただろう。けれど、誕生祭のダンスも即位式の予行も真剣に取り組むことで周囲からの信頼も高まった。身に着けた教養や知識が、彼を国王として輝かせてくれたのを実感できたはず。 「そうだな、シェリーの言う通りだ。僕のために命を張ってくれる人たちのためにも、逃げちゃいけなかった」  風にはためくシーツを眩しそうに見つめながら、自分で答えを導いた彼は清々しい表情をしていた。  目の前の小さな両肩に手を乗せて目線を合わせるようにしゃがみ込むシェリーに、アルファスは目を見張る。 「でも、本当に苦しくなったときは、私にだけこっそり吐き出してもいいのですよ? あなたは国王であると同時に、私の教え子なのですから」 「シェリー……ありがとう」  瞳を潤ませて泣き笑いを浮かべるアルファスに、首を横に振ってその手を握る。 「では、スヴェン様と仲直りしなければなりませんね」  アルファスは「うっ」と呻いて、顔を顰める。それだけで素直に謝るのに抵抗があるのがわかった。  男の子だな、と微笑ましい気持ちで眺めながら、空の洗濯カゴを抱えて立ち上がる。 「私に作戦があります」  片目を閉じて安心させるように笑えば、アルファスは「作戦?」と首をかしげた。  太陽が天頂を通過した頃、シェリーはアルファスとともに厨房に立ち、一緒にマドレーヌを作っていた。  ローズ家の別荘は他の貴族が所有しているものとは違って狭く、本邸のようにリビングと厨房が分かれていない。厨房からリビングを見渡すことができる造りになっていた。 「甘い香りがするな」  窯の温度を確認していると、リビングの扉が開いてスヴェンが帰ってくる。隣にいるアルファスは顔を合わせずらいのだろう。とっさに俯いて、レモンの皮を凝視していた。 「スヴェン様、お帰りなさい」  エプロンで手の水けを軽くふき取り、上着を脱ぐスヴェンの側に駆け寄る。見た感じ怪我はしていなそうだが、急に調べたいことがあると言って邸を出て行ったので気がかりだったのだ。  彼から上着を受け取り、リビングの端にあるポールハンガーにかけていると、スヴェンがふっと笑う。  シェリーが振り返って首をかしげると、スヴェンが側にやってきて頭に手を乗せてきた。 「こういうの、いいな。結婚したら、お前が毎日お帰りと言って上着を受け取ってくれる。そんな幸せが思い描けたぞ」 「け、結婚ですか?」  まさか、スヴェンがそこまで考えていてくれてたとは思わなかったので、驚きに目を瞬かせる。次第にじわじわと喜びがこみ上げてきて、顔がだらしなく緩んでしまうのを止められなかった。 「もろもろ片付いたらな」 「は、はい……」  プロポーズまがいの発言に頬を赤らめていると、視界に黙々とレモンの皮を刻んでいるアルファスの姿が映る。  こんなことをしている場合じゃないと、シェリーはスヴェンの手を取って厨房に連れていく。 「シェリー、どういうつもりだ?」 「忙しいでしょうが、今だけは一緒にマドレーヌを作りましょう」  シェリーは問答無用で彼に手洗いをさせると、アルファスの隣に立たせた。 「レモンの皮、アルファス様と一緒に切ってください。刃物の扱いなら、騎士の手にかかればお手の物でしょう?」 「シェリー、それは刃物違いだと思うがな」  頬を掻きながら、スヴェンは嫌とは言わずに皮を切りはじめる。その隣でアルファスが体を固くしているのがわかった。  なんとかして空気を和らげなくてはと、棚から蜂蜜の入った瓶を取り出しながら言う。 「このレモンの皮と蜂蜜を入れたマドレーヌは、よく亡くなった母が作ってくれたものなのです」  ふたりは静かに耳を傾けてくれている。  シェリーは黄金色の蜂蜜を見つめながら、幼いころの記憶を蘇らせていた。 「父は仕事から帰ってくると、信じられないことにレモンを丸かじりするんです。幼いながらに衝撃的で、真似したら顔がこんなふうになりました」  唇をうんと突き出して頬をすぼめると、ふたりが吹き出す。  あのときのレモンの味を思い出しただけで、口内が酸っぱくなった気がした。 「アルファス様と同い歳くらいのときに、父と大喧嘩をしてしまったことがあって、母が仲直りできるように父の好きなレモンの皮と私の大好物の蜂蜜を混ぜたマドレーヌを作ってくれたんです」  マドレーヌを食べるたびに思い出す記憶は、胸を温かくさせる。もし今も両親が健在ならば、こうして一緒にマドレーヌを作りたかったなと少しだけ切なくなった。 「シェリーの思い出の味か」  なにかを察してか、スヴェンはそう言って調理台の上に置いていたシェリーの手の甲に自分の手を重ねる。なにも言わなくとも心に寄り添ってくれる彼が、ますます愛おしく思った。 「はい。おふたりにもありますか?」 「俺にはこれといってないが……。アルファス様はよく、アリシア様とローズティーを飲んでいたな」  自然にスヴェンに声をかけられたアルファスは一瞬ビクリと肩を震わせたが、視線をレモンの皮に向けたまま話し出す。 「あれは母様が入れる紅茶だからだ。別にローズティーだから、というわけではない」  アルファスにとって大事なのは、物ではなく母の思いだったのだろう。だからローズティーでなくとも、母からの貰うものはうれしいのだ。  素直に甘えるのが不得意な彼がどんな気持ちで前王妃との茶会を過ごしていたのかを知って、シェリーの胸も温かくなった。 「アルファス様は、お母様想いのでお優しいのですね」  そう声をかけると、赤い顔を見られたくなかったのか横を向いてしまった。  これは期限が戻るまでにしばらくかかるな、と踏んでいたシェリーだったが、次のアルファスの言葉に目を開く。 「スヴェン、昨日はすまなかった……」  ぽつりと消え入りそうな声で呟かれたのは、謝罪だった。  さすがのスヴェンも目を見張っており、ナイフを手にしたままアルファスの顔を凝視している。  アルファスは気恥ずかしさには勝てなかったのか、顔はそむけたまま「僕のために命を張ってくれる人たちのためにも、逃げないと約束する」とだけ告げてレモンの皮を刻み始めた。 「ほら、スヴェン様からもなにか言ってあげてください」  固まっているスヴェンの腕を肘で突くと、シェリーは小声でそう言った。スヴェンはハッとしたように、アルファスに向き直る。 「あなたが困難にぶち当たるそのときは、必ず剣としてお側にいると誓います。ですから、この先も歩みを止めないでください」 「スヴェン……あぁ、お前に誓おう」  見つめ合って笑みを交わすふたりを微笑ましい気持ちで見守っていたシェリーは、もう心配ないだろうと胸を撫で下ろした。  このあと、仲直りしたスヴェンとアルファスとともに焼きたてのマドレーヌを食べ、つかの間の休息をとった。  これから待ち受ける厳しい現実のことは忘れて、久しぶりに緊張感から解放された時間だった。  その夜、お風呂を上って自室の鏡台の前に座り髪を梳いていると扉をノックされた。シェリーは台に櫛を置き、身なりを軽く整えて「はい」と扉を開ける。  そこに立っていたのは、ワインボトルとグラスを持ったスヴェンだった。 「どうしたのですか、このような夜更けに」  目を瞬かせるシェリーに苦笑を浮かべて、「眠れなくてな」と答えるとスヴェンはボトルを軽く持ち上げた。 「少し、付き合ってくれないか」  このような夜にレディの部屋を訪ねることは礼儀に反する。もちろん断るべきなのだろうが、思い悩んでいる様子の彼が気になって「はい」と答えた。  部屋にスヴェンを通し、ふたりでベットに腰かけてお互いのグラスにワインを注ぎ合う。普段お酒は飲まないので、久しぶりに口に入れたアルコールに少し頭がボーッとした。 「アルファス様に昨日、俺が言った言葉を伝えてくれたんだな。おかげで話すことができた。感謝する」 「いいえ、感謝させるようなことはなにも。もともと、おふたりの絆が強かったのです」 「お前がどう思おうと、俺は感謝している。素直にこの気持ちを受け取っといてくれ」  フッと笑いワインに口をつけるスヴェンは、やはり仕草までもが無駄なく上品だ。公爵であり、想い人である彼とお酒を飲み交わしていることに今更ながら恥ずかしさを覚えた。  頬が熱くなり、うつむいてちびちびとワインを飲んでいると、「シェリー」と真剣みを帯びた声で名を呼ばれた。  緊張しながら顔をあげれば、燃えるようなガーネットの瞳がまっすぐに自分に向けられていることに気づき、とっさに目を逸らす。 「シェリー、なぜこちらを見ないのだ」 「なぜって……その質問は、答えにくい……です」  あなたに見つめられたことが恥ずかしかったからなんて、言えるはずがない。わかっていて聞いているのなら、彼は相当意地が悪い。 「せっかくお前といるというのに、顔が見えないのでは意味がない」 「どういうことでしょうか」  シェリーは目を合わせずに尋ねる。 「お前が酒の肴だからだ。これでは酒が進まん」 「あっ――」  瞬時に顎を掴まれて、スヴェンの方を向かせられる。目が合った瞬間に、羞恥で前進が燃え上がりそうだった。 「あぁ、やっぱりお前は美しい。その知性を滲ませるブルーゾイサイトの瞳も、髪色と同じで薄桃色に染まる頬も……」  赤ワインを口に含んだスヴェンは、グラスをナイトテーブルの上に置く。顎を掴んだままの手はそのままに、空いた手でシェリーの後頭部を引き寄せると、深く口づけられる。 「んっ!」  突然のことに頭が真っ白になっていると舌で唇をこじ開けられる。口内に赤ワインが注ぎ込まれ、スヴェンに与えられる熱なのかアルコールのせいなのかはわからないが、頭が蕩けてぼんやりとしてきた。  強く腰を引き寄せられ、肩から腰のラインを彼の無骨な手が這うとビクリと体が震える。その反応を楽しむかのように、何度も手で擦られた。 「あっ、スヴェン、様ぁ」  自分の声とは思えないほど、舌っ足らずで甘えるような声が出て耳が熱くなる。唇を噛んで声を抑えようとすると強く抱きしめられた。 「シェリー、愛している」  息継ぎとともに囁かれる言葉は口づけよりも甘くて、シェリーは目に涙をにじませながらスヴェンの首に腕を回す。 「シェリー?」  目を見張るスヴェンを息を切らしながら見つめる。貰うばかりではなく、自分も愛していることを伝えたかったからだ。 「――私っ、も……愛して、います」  ワインの匂い香るベットで想いを口にすれば、スヴェンは息を詰まらせて首筋に顔を埋めてくる。彼の前髪と吐息が首筋にかかり、そこに唇が押し当てられるとゾクッと痺れが走って身を捩った。 「――っ、今日はこれで我慢する。お前のことを大事にしたいからな」 「スヴェン様……うれしいです。私、スヴェン様が全然触れてくださらないから、女性としての魅力がないのかと――んっ」  言いかけた言葉はスヴェンの唇によって遮られる。何事かと目を白黒させて赤面していると、そんなシェリーの顔を見てスヴェンはフッと笑った。 「魅力がない女に、このようなことはしない。この俺が欲情するのは世界でたったひとり、お前にだけだ」 「そ、そのようなことを……恥ずかしげもなく、いっ、言わないでください」 「不思議だな。普段は凛として美しいというのに、照れるお前は可愛らしい。色んな表情をするシェリーに、俺は心奪われてばかりだ」  宝物を扱うように瞼に優しく唇で触れられ、慈しむように髪を梳かれる。こんなにも男性に愛されたことがなく、シェリーの心臓は壊れそうなほど脈打っていた。 「明日も早いしな、今日はこのまま寝よう」  背中に手が回ったかと思うと、スヴェンに優しく横たえられる。すぐ隣に彼も寝そべり、シェリーの体を引き寄せた。 「明日もどこかへ出かけられるんですか?」  今日も朝食を済ませてすぐに邸を出て行ってしまったので、ひとりで無茶をしていないかが気が気でなかった。  ただでさえ指名手配されている彼が城の人間に捕えられれば、ただではすまないだろう。毒殺の容疑までかけられているので、貴族であっても最も苦痛を伴う絞首刑に処される可能性もある。  敵はこの国で事実上の最高権力を持つ大公だ。いくらなんでもひとりで相手にするには分が悪い。なんとか他の公爵と力を合わせられればいいのだが、今は連絡手段も絶たれてしまっている。  自分にもできることがあればいいのだけれど、カヴァネスごときにできることなど、たかが知れている。愛する人のためになにかしたいのに、無力な自分を情けなく思っていた。 「あぁ実は明日、この邸に来客がある。俺たちにとっては唯一の希望と言っても過言ではない。これから忙しくなるだろうから、今日はゆっくり休もう」  スヴェンはそれっきり誰が来るのか、忙しくなるとはどういう意味なのか、なにも話してはくれなかった。  不安はあったが彼にあやすように背を撫でられると、お酒のせいもあって強い眠気に襲われる。その手の心地よさに抗えず、瞼を閉じて意識を手放す間際に「おやすみ、シェリー」という声が聞こえたのだが、返事をすることができずに眠ってしまった。
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