八章 誓いの初夜

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八章 誓いの初夜

 翌日、朝食を済ませた頃。ローズ家の別荘の扉が何者かによって叩かれた。突然の来訪者にシェリーとアルファスが身を強張らせていると、スヴェンは動じることなく「俺が出る」と言って扉へ赴き、予想外の人物を連れてリビングに戻ってきた。 「やぁ、久しぶりですね国王陛下、それからシェリー嬢も」  ひらひらと手を振って軽薄な笑みを浮かべている彼は、城からの逃亡に手を貸してくれたウォンシャー公爵だった。  彼の飄々とした態度に驚きながら、シェリーは気になっていたことを尋ねる。 「まさか、どうやってここをお知りになられたのですか?」 「あぁ、それはスヴェンが物騒な使いを寄越してきたからね」 「物騒な使い?」  若干顔を引き攣らせるウォンシャー公爵から視線を外して、シェリーはスヴェンを振り返る。どういうことかと問うように見れば、「大げさだ」とどこ吹く風で答えた。 「隣町の路地裏には荒くれものが集まる酒場がある。そこで少し金を積めば、あいつらはどんな仕事でも引き受けるからな」 「それにしたってスヴェン頬に傷がある屈強な男が訪ねてきたら、心臓がいくつあっても足りないだろう。おかげで、ウォンシャー邸では不審者が現れたと大騒ぎだ」 「結果的にあなたと連絡が取れたんだ。文句は後にしてくれ、時間が惜しい」  リビングの椅子に腰かけるスヴェンに「それもそうだ」と呆れつつウォンシャー公爵はうなづいた。  そんなふたりを見てシェリーはアルファスと目を合わせると、同時にクスッと笑ってしまう。怒涛の逃亡の末に邸に逃げてきたため、見つかるかもしれないと緊迫感がぬぐえないでいた。なので、スヴェンとウォンシャー公爵の懐かしいやりとりに安堵したのだ。  シェリーは椅子に腰かける皆の元へ紅茶を運ぶと、自分も座った。それを見図ったように、ウォンシャー公爵が口を開く。 「城では君たちが逃亡した後、その罪を問う議会が行われたよ。ただ、此度のことは不明点も多く、まともな調査も行われないまま国王陛下を投獄した件について、俺が意見する前に他の公爵たちから決議の延期の声が上がった」 「ということは、大公殿下の息がかかった公爵はいないということだな。単独で王位を狙っているのか?」  スヴェンの口から大公の名前が出た途端、隣に座るアルファスの肩がビクリと跳ねた。シェリーはそっとその肩を抱き寄せる。叔父である大公殿下の意裏切りに胸を痛めているのだろう。血縁者であろうと地位のためにここまで非道になれる大公殿下の考えを理解できなかった。  ウォンシャー公爵はちらりとアルファスに気遣うような視線を向ける。 「正確には秘密裏にルゴーンを使って、王位を狙っていたことになるね。それで、国王陛下には前王の死について全部話したのかい?」  それにスヴェンは苦い顔をする。前国王毒殺に関しては断言できる証拠がなかったために疑惑の段階でアルファスに事実を伝えるのは衝撃が強すぎるとのことで、話せてはいなかった。 (スヴェン様は、どうされるのかしら)  胃を固く締め付けられるような不安を抱きながら、判断を仰ぐようにスヴェンを見つめると目が合う。彼も決めかねているのか、難しい顔でじっと沈黙を貫いていると。 「話してくれ、スヴェン」  腹を据えたかのようにはっきりと告げたのは、当事者であるアルファスだった。その場にいた全員が、彼の声に宿る堅い意志に息を呑む。黙り込むシェリーたちの顔を見渡して、アルファスは懇願するように言う。 「国王はお前たち公爵もシェリーのような民も守るのが役目だ。だから、俺を守るための嘘はいらない。どんな事実も受け入れて、立ち向かっていくから」 「アルファス様……そうか、あなたは知らぬ間にそこまで成長しておられたのですね。さすが、この俺が使える王だ」  スヴェンは国王を眩しそうに見つめると、ウォンシャー公爵に目配せをする。それは全て話そう、という互いの意思確認のようにも見えた。  ウォンシャー公爵はうなづいて、アルファスに報告をする。 「国王陛下、公にはなってはいませんが前王陛下は大公殿下の息がかかったかつての騎士公爵であるルゴーンに毒殺されました」 「なっ……んだと?」 「それは今回、陛下を陥れた手口と類似しています。おそらく王位と前王妃様を狙ったものといえましょう」 「母様が狙われるのはなぜだ」 「恋愛感情ですね、おそらく」  それを聞いたアルファスは、信じらないといった様子で顔面を蒼白させる。兄の妻であり、ましてや国王の妃にそのような感情を抱くなど許されないことだ。動揺するのも、無理はない。 「状況は理解した……その、母様は無事なのか?」 「はい、今はずいぶん体調も落ち着いていると侍女からは聞いています。ただ、自分のせいで息子に嫌疑がかけられていると知り、また部屋に籠られてしまっています」 「そうか……でも、母様が無事でよかった」  自分のせいだと思っていたのはアルファスも同じだったのだろう。大公殿下の差し金だったとはいえ、実際に毒が塗られた薔薇を手渡したのはアルファス自身だったのだから。  険しい眉が少し解けたアルファスに、シェリーも笑みを浮かべて声をかける。 「よかったですね、アルファス様」  そう言って彼の手を握れば、アルファスも表情を和らげてコクリと首を縦に振った。 「それで、今日俺がここに来たのはですね、前王の死を心臓発作と診断した医師を見つけたからなんですよ」   ウォンシャー公爵はそう言うと、一枚の紙を取り出す。そこには【トルメキ産赤ワイン十五本】とその金額が明記されており、領収書のようなものだとわかった。 「元王医であるこの男は、うちの所有するワイナリーのワインをたいそう気に入っておりましてね。よく邸まで届けさせているんですよ。だから住所の入手は簡単でした」 「この男は前国王の死後、すぐに辞職しているな」  向かいの席から領収書をのぞき込むスヴェンは、元王医の名前であろう【メドレス・パルミーダ】の文字を睨むように見る。 「そうそう、たんまりと大公殿下から功労金をもらってね。だから、議会で彼を証言台に立たせるのはどうだろう?」  ウォンシャー公爵はそう言うけれど、もし虚偽の診断をしていたとしたら自分も罪を問われることになってしまうので、わざわざ証言台に立って本当のことを話すとは思えない。  シェリーは困惑気味に、疑問を口にする。 「メドレスさんは、証言してくださるのでしょうか?」  「ただじゃ無理だろうね。でも、金で動くヤツはそれ以上の対価を払えば簡単に動く」  意味深に笑ったウォンシャー公爵は、どういう意味かと首を捻るシェリーに向かって「金と身の安全だよ」と教えてくれた。 「ならば、これからメドレスの邸に行くぞ」  席を立ちあがり、スヴェンはウォンシャー公爵を見下ろす。自分はまたアルファスと留守番になるのだろうか。そんな切なさが胸を支配しようとしたとき、ウォンシャー公爵は陽気に「なら全員で支度しないとね」と言った。  もちろんスヴェンは片眉をピクリと震わせて、馬鹿なことを言うな、とでも言いたげにウォンシャー公爵を見下ろす。 「ここに彼女たちを置いていって、その隙に邸を襲われたらどうするんだ。側に置いといたほうが安全だと思うけど」  ウォンシャー公爵の言葉に納得できないのか「だが……」と渋っていたスヴェンだったが、最終的には重い首を縦に振った。  「仕方あるまいな」 「あぁそうだ。メドレスは大の女好きで有名だから、シェリー嬢には男装してもらうよ」  自分に話を振られると思っていなかったシェリーは「へ?」とウォンシャー公爵に気の抜けた返事をしてしまう。すぐに咳払いをして「だ、男装ですか?」と聞き返した。 「メドレスは綺麗な女を美術品みたいに飾って侍らせる悪趣味な男なんだよ。君のような美人は間違いなく標的になる。今回の証言台に立つ取引の交渉材料に使われかねない」  メドレスがどんな男かは存じないが、スヴェン以外の男のものになるなど想像するだけで恐ろしかった。  椅子に座りながら思わず身を震わせるシェリーの側にスヴェンがやってくると、強く肩を引き寄せられる。 「お前を連れていきたくはないが……やむおえん。俺の側を離れるなよ」 「あっ、はい」  心底嫌だと、スヴェンの顔には書いてある。それほどまでに大事に思われていることを知ったシェリーは顔を綻ばせた。  その様子を見ていたウォンシャー公爵は、感心するように口笛を吹く。 「貴婦人の憧れの的、社交界の薔薇公爵がまさかひとりの女性を愛することになるとはね。近々天変地異でも起こりそうだ」 「というわけだから、お前もシェリーに近づくな」 「それは残念。シェリー譲は気立てもいいし、なにより身分関係なしに滲み出る知性と気品が魅力的な女性だったのだけれど、薔薇の毒牙にやられてしまったみたいだ」  残念と言いながら、ウォンシャー公爵の言葉はあっさりしている。ただスヴェンをからかいたいだけなのだろう。  スヴェンも負けじと不敵に笑い、皮肉を返す。 「シェリーは、お前には高嶺の花だ。せいぜい悔しがって唇を噛んでいろ」 「君さ、俺に対してだけいつも態度が横暴すぎやしないかい?」 「日頃の行いだろう。まぁ――今は信用しているぞ、ガイ」  スヴェンはの口から飛び出した自分の名前に驚いたのか、ウォンシャー公爵「おぉっ」と感激の声を上げる。 「名前を呼んでくれるなんて、ずいぶん俺も出世したみたいだ。では、そろそろ準備をしようじゃないか」  和やかな空気のまま、全員で準備を開始する。シェリーとアルファスはウォンシャー公爵のよう逸したワインの運び屋の作業着を身に着け、髪も結って帽子の中に押し込んだ。  スヴェンはというと剣を持っていくと怪しまれるので懐にナイフを一本隠し、黒髪の鬘を被って執事服を身にまとう。おまけにモノクルまでつけているので、パッと見てセントファイフ家の騎士公爵だとは誰もわからないだろう。  着替え終わると、お互いの姿を確認するようにリビングに集まってくる。 「その格好でも、お前の美貌は隠せないな」 「スヴェン様……」  目の前にやってきたスヴェンに顎を掴まれ、まじまじと見つめられた。そう言う彼は見慣れない黒髪に瞳はガーネットのままで、怪しくも見る者を魅了する色香を纏っている。パリッとした黒の執事服も完璧に着こなしているスヴェンに、つい見惚れてしまった。 「はぁ、やはりお前を連れて行きたくないな」  何度もシェリーの頬を撫でながら、スヴェンは不満げにため息をつく。このままではやっぱり置いていくとでも言いだしそうだったので、シェリーは少し強めに彼を説得することにした。 「そんなこと言っても、おいて行かれるのは嫌です。最後まで共に行こうと言ってくださったではありませんか」 「そうだったな、すまない。だがこれも、お前を愛するがゆえなのだ。だから許せ」  機嫌を取るように頬に口づけられて、シェリーは赤い顔をうつむける。その仕草すら愛おしいとばかりに、スヴェンに力強く抱きしめられた。  そこへ、呆れたようなウォンシャー公爵の声がかかる。 「おふたりさん、お取込み中のところ悪いけど、そろそろ出発しますよ」 「僕のシェリーに、軽々しく触れるな!」  頬をぷっくりと膨らませて怒るアルファスに、スヴェンは「シェリーは私の未来の妻ですから、他をあたってくださいね」とやんわり牽制した。 「大人げないぞ、スヴェン!」 「シェリーのことに関しては微塵も譲れないのですよ、アルファス様」  スヴェンの発言に心臓が壊れそうなほど脈打ってさらに顔をうつむけるシェリーは、メドレス邸に向かう馬車の中でもしばらくみんなの顔が見られなかった。  ウォンシャー公爵の所有する荷馬車で三時間半ほどかけて城下町まで戻り、午後二時頃に目的地に到着した。  門番の許可を得て馬車のまま白亜の噴水を中央に構えた広大な庭を抜けると、パルミーダ邸の本館が見えてくる。館の外観は白で統一されており、ツルを巻くような装飾が施された柱に幾何学模様のステンドグラスの窓など豪華絢爛な創りになっている。  館の入り口で馬車を止めて、トルメキ産の赤ワイン十五本を使用人に渡していると、そこへ腹が樽のように膨らんだ中年の男が現れた。  男は上質なベルベット製の赤のジェストコールに黒いズボンとブーツを履いており、ボタンは全てダイヤモンドで出来ている華美なものを身に着けていた。 「やぁメドレス、約束のワインを届けに来たよ」 「なんと! ウォンシャー公爵が直々に来てくださるなんて、私も出世したものですね。貴族になると、庶民との格差を思い知りますな」  移動中の馬車で聞いた話なのだが、庶民出身のメドレスは優秀な医術を買われて王医に上り詰めたのだとか。退任時には勤めを果たした功績を称えて公爵の進言により、アルファスから伯爵位を賜っている。爵位を授与したアルファスは父の死の直後でいきなり国王に即位したために、当然このときのことを覚えてはいなかった。  庶民でありながら五爵位と呼ばれる侯爵、辺境爵、伯爵、子爵、男爵の中で三番目の位を意味する貴族の称号を得たメドレスは医院をあちこちで営んでいる。  完全に自分の地位を誇示するような発言に、隣に立つアルファスが「過去に戻れるなら、このような馬鹿者に爵位など与えなかった」とつぶやく。シェリーは慌ててその口を手で塞ぎ、苦笑いした。   その頃は国王としての自分に疑問を抱いていた時期だろうから、国政も大公殿下に任せっきりで興味もなかったのだろう。でも今は国王としての自覚をもってくれているのがわかり、嬉しくなる。 「メドレスに折り入って、相談があってね」  声を潜めてウォンシャー公爵がそう言えば、単純なメドレスは高貴な方からの相談に優越感を滲ませた笑みを浮かべた。 「もちろんです! ささっ、中へどうぞ」  自ら応接間に案内してくれるメドレスの後ろをウォンシャー公爵とスヴェン、そのまた後ろをシェリーとアルファスがついていく。ふとスヴェンがこちらを振り返って、「ここが弱くて助かった」と口パクで頭を指さした。それにアルファスが吹き出しそうになったのをシェリーが察して、慌てて手で口を塞ぎ阻止する。 (もう、スヴェン様ったら)  咎めるように軽くスヴェンを睨めば、「すまない」と口パクで肩をすくめた。  少しして重厚感あふれるワインレッドの壁紙に相反する金縁のソファー、シャンデリアの光を目が痛むほど反射させるガラスのテーブル、自分をあきらかに美化して描いただろう肖像画が飾られた部屋に案内される。ひとつひとつの調度品は豪華で効果であることがわかるが、統一性や色味のバランスが悪く気品に欠けた。  向かい合って配置されている座り心地のよさそうなソファーに、ウォンシャー公爵とメドレスが腰かける。シェリーとアルファス、スヴェンは壁際に控えるように立った。 「さっそく本題に入らせてもらうけど、前国王の死因は本当に心臓発作だったのかい? 既往歴も特になく健康だったのに、その診断が釈然としなくてね」  ウォンシャー公爵はいきなり核心の真相を追求しに切り込んだ。空気が張りつめ、さきほどまで上機嫌だったメドレスの顔は笑顔のまま固まる。それに気づいていながらも、ウォンシャー公爵はトングでシュガーポットから角砂糖を取り、出された紅茶に落としている。 「なっ……んのことやら、さっぱり」  優雅に紅茶を啜っているウォンシャー公爵を畏怖する眼差しで見つめながら、メドレスはしらばっくれた。メドレスのあからさまな動揺は、誰の目から見ても後ろ暗いことがあると主張しているようなものだった。  茶番は終わりだとばかりに、ウォンシャー公爵は決定的な発言を口にする。 「あれは毒殺だ。君は知っていて事実を隠蔽した。それが明るみになれば、手に入れた伯爵位は剥奪されるだろうね」 「ち、違う! あれは心臓発作です!」  ウォンシャー公爵の視線が鋭くなると、メドレスはダラダラと汗をかいて身振り手振りを大きくしながら見苦しい弁解をした。 「今なら、君の罪をもみ消してあげなくもない。ただし条件がある。君が議会でっ証言台に立ち、誰に支持されて行ったことなのかを暴露することだ」 「そ、そのようなことをすれば私の命が――あ!」  ついに、自分で罪を認めたメドレスは、サッと血の気の失せた顔をする。  にっこりと笑って膝を組むウォンシャー公爵は「これは取引だ」と商談の延長のように余裕を見せて話を続けた。 「ちなみに、君は逆らえる身分ではなかったと言えば罪を免れるだろう。あのお方に指図されては、誰も断れまい」 指図した人間に関してウォンシャー公爵は見当がついているのに、大公殿下の名前を出さなかった。おそらくメドレスから大公殿下がこの事件に関わっているという決定的な確証を得たかったのだろう。 「む、無理だ! あなたが私の地位と身の安全を保証してくれるとは限らんだろう!」  声も足もガタガタと振るわせて勢いよくソファーから立ち上がるメドレスは「おい、こいつらを始末しろ!」と叫んだ。  するとどこからともなく、黒い装束を纏った荒くれ者たちが剣を手にぞろぞろと現れて、シェリーたちを取り囲む。 「私の秘密を知ったあなた方には、生きてここから出られては困りますからね」  被虐的な笑みを浮かべて優雅にソファーに座りなおすメドレスに、ウォンシャー公爵は深々とため息をついた。 「話の通じない猿はどうも苦手だよ。うちの執事に躾してもらいなさい」  その言葉を合図に、スヴェンがゆらりと前に出る。シェリーはアルファスが巻き込まれないようにさりげなく抱き寄せた。 「かしこまりましたよ、主」  冗談で返したスヴェンは目にも止まらぬ速さで近場の荒くれ者の背後に回ると、うなじに手刀をくららわせて気絶させる。  それを呆然と見ていた他の荒くれ者たちも、同じ方法で次々に気絶させられていった。 「な、なんなんだあいつは!」  目を剥いて叫ぶメドレスは慌てて逃げようと立ち上がると、なぜかこちらを見た。 (嫌な予感がする)  そう思ったのもつかの間、こちらに走ってくると手を伸ばしてくる。とっさにアルファスを突き飛ばしたシェリーは、逃げ遅れてメドレスに羽交い絞めにされてしまう。 「はっ、離して!」  おもいっきり暴れた拍子に帽子が外れてしまい、隠していた長い髪が露わになる。青いリボンがひらひらと舞うのを呆然と見つめた。 「おおっ、なんたる美しい薄桃色の髪。お前は女だったのか!」  感嘆の声を上げるメドレスに、最後の荒くれ者を片づけたスヴェンは眉間にしわを寄せて「その手を離せ」と低い声で唸るように言った。  メドレスはニヤニヤと下衆な笑みを浮かべると、胸元からペンを取り出してシェリーの首筋にあてる。 「それ以上近づけば、この女の頸動脈を突き刺すぞ。さぁどうする。今度はこの私が、お前たちと取引をしてあげようじゃないか」  ケタケタと笑って、シェリーの首筋をメドレスのザラッとした舌が這う。その瞬間、スヴェンのガーネットの瞳が怒りに燃えた。 「や、やめて……」  あまりの気持ち悪さに、シェリーの目に涙が滲む。それを見たウォンシャー公爵は、メドレスに憐みの目を向けた。 「馬鹿な男だ。アルオスフィア一の剣が、最も大事にしている乙女に手を出すなんて」 「仕方あるまい。力量も図れぬくせに無謀にも薔薇の騎士に喧嘩を売ったのだ」  床に座り込んでいたアルファスは皮肉を口にしながら立ち上がると、膝についた埃を手で叩く。そして、執事姿のスヴェンに向かって叫んだ。 「スヴェン・セントファイフ、国王ギュンターフォード二世の名において命ずる。その男に灸を据えてやれ」 「なっ、赤薔薇の騎士に国王陛下!?」  その名を耳にした途端、メドレスは声を裏返らせてシェリーからも後ずさったが、スヴェンは構わず追い詰める。 「忠誠を誓う君主からの命令の元、俺の女に無粋にも触れたこと後悔させてくれる」  スヴェンは懐のナイフを構えて、メドレスと瞬時に距離を詰める。その首筋に向かってナイフが突かれるのと、シェリーの体が引き寄せられるのはほぼ同時だった。ナイフはメドレスの首の皮膚をあと一ミリでも動けば傷つける距離で止まっている。スヴェンはガーネットの瞳を鋭く光らせ、メドレスを視線で射抜いた。 「証言台に立て。さもなくば、お前の命はここで散るものと思え」  ナイフの切っ先を突き付けられたメドレスは鼻水を垂らしながら、小鹿のようにプルプルと震えて何度も首を縦に振っていた。  シェリーを抱きしめながら、怯えるメドレスにスヴェンは尋問のごとく続ける。 「それで、お前の証言以外に毒殺ではないと証明できるものは残っているのか?」 「そっ、それなら……薔薇の棘に毒を塗り、前国王陛下の部屋に落としたメイドがいたはずです。あの女も金を必要としていましたからな」 「その女はどこにいる?」 「じょ、城下町の教会で修道女をしているとか」 「わかった。ではお前は出番がくるまで監禁させてもらおう」  スヴェンがサラッと告げた言葉にメドレスは「監禁!?」と青い顔をする。そんなメドレスなどどこ吹く風で、ウォンシャー公爵が「それなら俺が引き受けるよ」とスヴェンと話し合いを続けていた。  その間アルファスは黙りこくっており、シェリーはそっとスヴェンの腕から出ると彼のもとへと歩み寄る。背中に「シェリー?」というスヴェンの声が聞こえたが、シェリーの行動の意図が読めたのか、それ以上呼び止めることはしなかった。 「アルファス様、よく耐えましたね」  きっと、父を死に追いやったメドレスを生かすことに怒りを覚えているはず。そして、復讐したいとさえ思っているかもしれない。けれど、彼はじっとなにかに耐えるように唇を引き結び、最後まで怒号を浴びせることはなかった。 「僕には個人の怒りよりも優先しなくてはならないことがあるからな。王族に蔓延る悪を一掃するために、国王として今は耐えると決めた」  悔しさを押し込めて強気に笑うアルファスを見て、たまらず抱きしめようとした。でもそれは、彼の決意を軽んじるよう泣きがしてやめた。  代わりに、強くうなずいて笑ってみせる。 「ご立派です。あなたの決断に敬服いたします」 「ありがとな。シェリーに褒められるのが一番うれしい」  笑い合っていると、後片付けをウォンシャー公爵に任せてスヴェンは「ふたりとも、無事だな」と声をかけてくる。 「ここの処理はガイに任せて、俺たちは教会にメイドを探しに行くぞ」 「差し出がましいかもしれませんが、指名手配されているスヴェン様たちが城下町に赴いて大丈夫なのでしょうか?」  偽の情報とはいえ人質に取られているはずのシェリーや王妃の毒殺に関与したとされるスヴェンとアルファスが町にいたら、騒ぎになるのではないか。  心配になってスヴェンの顔を見上げていると、頭に手を乗せられる。 「だが、ガイが目立った動きをすると大公殿下に怪しまれる。城の動きを把握するには、あいつの協力が必要不可欠だからな」 「だから、私たちが行く必要があると?」 「そういうことだ。それに城下町の教会はガイルモント公爵の活動の拠点でもある。あの方は公爵として国に仕えながらも、第三者として物事を観察しているからな。大公を悪だと断定できる証拠があれば、味方になってくれるやもしれん」  議会を構成する四公爵のひとりガイルモント公爵は、王族とは別に発生した主に民から支持のある宗教団体の長だ。全教会の司教、使徒に対して普遍的な権威を持ち、その力はすべて正しきことにしか奮わないのだと城でも有名な話だ。 「このままの恰好なら、正体に気づかれないだろう」  スヴェンは黒い前髪を指先でいじると、悪戯な笑みを浮かべる。彼の余裕な表情にシェリーは「それもそうですね」と肩の力を抜くことができた。 「スヴェン様がそう言うと、なんでも大丈夫な気がしてきます」 「任せておけ。なにかあったとしても、この俺がシェリーを守る」  まっすぐに伝えられる言葉に感極まって、どう返事をすればいいのか言葉に迷ったシェリーは躊躇いがちにスヴェンの手を握る。 「ありがとう、ございます」 「シェリーは律儀だな。そういうところも気に入っている」  繋がれた手を握り返されて、シェリーは思わず微笑んだ。  この場をウォンシャー公爵に任せて荷馬車に乗り込んだシェリーたちはすぐにメドレス邸を立ち、教会に向かった。馬車の荷台から見えるのは活気づく町の人々。お昼時で人も多くシェリーは帽子をさらに深く被りなおす。  三十分ほど馬車を走らせたところで、正面に真っ白な外壁に天使の像がいくつも浮き彫りにされた建物が見えてきた。屋根には大きな黄金の十字架が掲げられており、太陽の光を反射して神々しく輝いている。 「あれが、ガイルモント公爵の活動拠点であるダオスエルマ教会だ」  そう教えてくれたスヴェンに、シェリーはゴクリとつばを飲み込む。門前で馬車を降りる際も正体がバレやしないかと心臓がドクドク騒いでいた。  しかし、教会前に立つ神官たちは素性を聞くことなく危険物の所持がないかだけを確かめると中へすんなり通した。  神官に案内されて聖堂に続く長い廊下を歩きながら、不用心すぎやしないかと驚いているとスヴェンがこっそり教えてくれる。 「ここは、どのような罪を犯した人間も受け入れる最後の駆け込み場だ。懺悔する気があるのなら滞在させ、更生まで命の保証を認めているのだ。だから訳ありの来訪者には慣れているのだろう」  どうりであっさりと中へ通してくれるわけだと、スヴェンの言葉に納得したシェリーは納得するようにうなづく。  足元の上質な赤い絨毯以外、白い柱や壁に囲まれている廊下の突き当りで足を止めた神官は十字架や天使の彫刻がなされた見開きの大扉の前でシェリーたちを振り返る。 「まずはガイルモント教皇様に、懺悔をなさってください」  そう言って神官が開け放った先に広がっていたのは、ステンドグラスから差し込む虹色の後光をまとった十字架とその両側に立つ二対の女神。どこか新鮮な空気が流れる聖堂の祭壇には宝冠を被り祭服を身に纏った白髪の老人が立っていた。  その姿は即位式のときにも見たのでわかる。祭壇でこちらをじっと見つめる老人こそ、ガイルモント公爵だ。先の神官の口ぶりで、どうやら教会では公爵ではなく教皇と呼ばれているらしい。 「迷える罪人よ、ここへはなにを懺悔しにきた」  ここへ案内してくれた神官は静かに聖堂を退出し、ガイルモント公爵とシェリーたち四人だけがこの場に残された。 「もしここが本当に、罪人さえ受け入れる慈悲深き場所だというのなら――」  そう言いながらスヴェンは、茶番は終わりとばかりに鬘に手をかけると口元に笑みを浮かべて迷いなく脱ぎ捨てる。 「王妃の毒殺疑惑をかけられた私の話を聞いてくれるだろうか、ガイルモント公爵」 「なっ、そなたは――」  赤髪を晒したスヴェンの姿を凝視して、ガイルモント公爵は言葉を詰まらせながら「スヴェン・セントファイフ公爵!」と声を上げる。指名手配されているはずの人間を前に驚愕の表情を浮かべてはいたが、ガイルモント公爵は逃げ出そうとしなかった。 「セントファイフ公爵の話とは、なんのことでしょう」 「まず、私たちにかけられた罪状は根の葉もない大公殿下の虚言だ。あの方は私と国王陛下を陥れ、地位と前王妃を手に入れようとしています」  スヴェンの話を聞いたガイルモント公爵は「なんと、それが事実ならば由々しき事態ですぞ」と戸惑いを見せる。そこへスヴェンは、さらなる事実を突きつけた。 「前国王の死も病ではなく毒殺だ。かつて王医であったメドレス・パルミーダから、心臓発作は嘘りの診断結果だったと証言を取っている」 「なんということだ……」  額に手を当てて青い顔をするガイルモント公爵は、気持ちを落ち着かせるためか深呼吸を繰り返した。考えを整理するかのように胸に手を当てたガイルモント公爵は、静かにスヴェンを見据える。 「確かに前国王の死には不可解な点が多かった。だが王妃の毒殺未遂に関しては、あなた方が主犯でないと断言できるものはない」   ここでガイルモント公爵を納得させられなければ、スヴェンとアルファスは大公に身柄を引き渡されてしまうかもしれない。  そう思ったら、とっさにシェリーの体は動いていた。深々と被った帽子を取り、薄桃色の髪がふわりと肩に落ちると、スヴェンの隣に並ぶ。スヴェン視線を頬に感じたが、今は目の前のガイルモント公爵に集中した。 「そなたは……国王付きのカヴァネスではないか!」  人質にされているはずのシェリーの姿はガイルモント公爵も即位式で目撃しているので、ここにいるのが本人だと証明するのは容易かった。 「私は国王付きカヴァネスのシェリー・ローズと申します。町に出された御触れでは私が人質になっているとのことですが、それは事実無根です」 「どういうことでしょうか、シェリー殿」  ガイルモント公爵がこちらに体の向きを変えるのを待って、頭を整理しながらあの日の出来事を振り返る。 「あの日前王妃様を毒殺するのに使われた薔薇と庭園の薔薇は色が似ていますが、まったく別の品種でした。私の邸にその薔薇がありますので、確かめたければ庭師を呼んでくださればお見せします」 「国王陛下がその薔薇を摘みに行ってないとは、言い切れないでしょう」 「一国の王であるアルファス様が勝手に城外に出れば、騒ぎになります。それに気づけないほど、城の警備は甘かったでしょうか?」  王城の門には必ず門番が二名立っている。それに警備体制は戦に長けたスヴェンが整えているのだから、内部での謀反が起きない限り城の守りは完璧だろう。 「その通りだ。門番はその日の来客や外出の人名、人数を把握している。アルファス様が許可なしにそこを出るのは到底無理だ」  スヴェンが加勢するとガイルモント公爵は「むう」と悩むように唸り、固く瞳を閉じてしまう。なにを信じるべきか、思考を巡らせているのかもしれない。審判を待つような気持ちになり、居ても立っても居られずにもう一度説得する。 「薔薇を入手する手段がないアルファス様が薔薇を持っていたということは、誰かから渡されたということになります」 「それが大公殿下だと、シェリー殿も言いたいのですね」  返事の代わりに、肯定の意味を込めてガイルモント公爵にうなづいた。  公爵相手にここまではっきり意見を述べるのは、生きた心地がしない。でもガイルモント公爵の淀みない瞳はただ真実を追求しているだけに思えて、自分のような低い身分の女の話にも耳を貸してくれると信じられた。  緊張で強張るシェリーの肩に、あとは任せろとばかりに手が乗せられる。隣を見上げれば、スヴェンが目を細めて微笑んでいた。たったそれだけで、もう大丈夫だと確信をもってうなづける。  シェリーが一歩下がったのを見届けて、スヴェンは続けた。 「そしてここには、前国王の毒殺に関わったメイドが修道女として匿われているという確かな情報を得ている。その者に証言してもらえれば、なにもかもはっきりするだろう」 「……しかし、私にはどのような罪人であっても一生を懺悔に尽くすというのなら、その者を守る義務がある。簡単に突き出すことはできない」  ガイルモント公爵が罪人を守ろうとすることを責めることはできない。それは公爵でありながらも、教皇としての役目を果たそうとしているからだ。なので否定することはできないが、本当にそれは正しいことなのだろうか。 「ガイルモント公爵、あなたは守るの意味をはき違えている。神に向かって懺悔したところで、失った者は帰ってこない。そして遺族も報われん」 「ウォンシャー公爵、それでも罪を犯した人間を俗世に返すことはできない。罪人は後ろ指を刺され、いつ自分のしたことの報いを受けるのかと怯えてくらさねばならん。人目のない場所で匿い、守る必要がある。咎を背負っていても、失われていい命はないのだ」  お互いの信念が食い違っている限り、話し合いは平行線になる。どうすればいいのかと悩んでいると、すぐ側を温かい気配が通り過ぎた。  振り向くより先に、前に立つ小さな背中。それがアルファスだと思った瞬間、静かにその帽子を脱いだ。姿を現した美しい銀髪に、ガイルモント公爵は「国王陛下!?」と目を見張る。 「ガイルモント公爵、スヴェンの言う通りだ。あなたのしていることは守るのではなく、罪悪感から目をそらしているだけだと僕は思う」 「陛下……」 「僕も自分の軽率な行動のせいで、母様を危険な目に合わせたからわかる。どんなにあれは自分のせいじゃない、神様に祈っていればいつか許されるだろうと思っていても、消えないんだ」  アルファスは胸を押さえて、苦しそうに言葉を絞り出す。 「罪は消えないんだよ。だからきっと、そのメイドも大公に手を貸した理由はわからないけど、苦しんでると思う。罪を受け入れて生きることが、救われたいより先に僕らがしなければいけないことだ」   はっきりと自分の過ちを受け入れて発言する彼は、眩しかった。どんなに周りの人間が悪くないと言っても、結果的に自分の渡した薔薇のせいで母親を傷つけてしまった事実は変わらない。それをアルファスは自分の罪として認め、二度と誰も傷つかないように強くなろうと努力している。そんな彼の言葉は、誰のどんな言葉より説得力があった。 「陛下のお考えにこのガイルモント、感服いたしました」  ガイルモント公爵は床に片膝をついて、深々と頭を垂れる。 「自分の成すべきことを迷いなく口にされた陛下の目は、とても澄んでおられた。私も教皇として多くの罪人や事情を抱えた人間を見てきていますので、その者が嘘をついているか否かはわかります」 「ガイルモント公爵、では大公が悪だと信じてくれるのか?」 「私自身は信じていますが、ガイルモント公爵の名と爵位を背負っている以上は簡単に決めることができません。ですが、助力はいたしましょう」  そう言って立ち上がったガイルモント公爵は、扉に向かって「ヨエルをここに」と声をかけた。ガイルモント公爵はこの一件に関わったメイドに心当たりがあったのか、迷いなくヨエルという名を出す。  しばらくして二十歳くらいだろうか。肩までしかない短髪の少女が聖堂にやってくると、ガイルモント公爵の前で膝をついた。 「教皇様、いつかこのような日がくると予感しておりました」  ヨエルはここに呼ばれるまでの間に神官から何かを聞いたのか、すでに悟っている口ぶりで言う。ガイルモント公爵はその小さな肩に両手を乗せると、ゆっくりと視線を合わせるようにして屈んだ。 「君の力を必要としている人たちがいる。罪を認め、遺族である国王陛下のために勇気を振り絞ってくれやしないだろうか」  ヨエルは「国王陛下……」とガイルモント公爵の言葉を復唱し、振り返る。アルファスの姿をその目に映した途端、ぶわっと涙を浮かべた。 「お詫びなどと、軽々しく口にすることも許されないと思います。けれど、本当に……本当に、申し訳ありませんでした」  その場に泣き崩れるヨエルは、何度も「申し訳ありません」と社債の言葉を繰り返す。そんな彼女の前でアルファスは膝を折り、尋ねる。 「理由を聞いてもいいか?」  ヨエルは首を縦に振り、震える唇で真実を語りだした。 「弟は幼いころから、肺を患っておりました。その治療に薬が必要だったのですが、庶民に払える額ではなく……。お金が必要でした」  それだけで、どのような取引が大公とされたのかがわかった。アルファスは怒りと慈悲の間で心を揺らしているのか、眉根を寄せて険しい顔をしている。その表情を見たヨエルは目を伏せ、取り返しのつかない罪に怯えるように両手を握りしめた。 「大公殿下は薔薇を陛下の部屋に置いてくるだけで、生涯治療の補助をしてくださるとおしゃってくれました。私は疑いもせず、甘い話に乗ってしまった」 「では、毒を塗られていたことに気づかなかったのか?」  目を瞬かせるアルファスに、戸惑いながらもヨエルはうなづく。 「はい……。ですが、倒れた前国王陛下の指に小さな刺し傷があったとお聞きして、すぐに私の運んだ薔薇の棘でできたものだとわかりました」 「薔薇を届けに行ったとき、父様は部屋にいなかったのか?」 「部屋にはいらっしゃらなかったですけれど、廊下で前王妃様とお話しているのを見かけました。とてもお元気そうで病で倒れたなんて信じられませんでした。私は大公殿下に話を聞きに、部屋の前まで行ったのですが……」  嫌なことでも思い出したのだろうか。ヨエルは青い顔で口元をおさえると、深く息を吐きだす。 「前国王の毒殺に成功したと、ルゴーン公爵様と話しておられました。大公殿下自ら、棘に毒を塗ったのだと……っ」  両手で顔を覆い、泣き出すヨエルをアルファスは茫然と眺めていた。真実を知っていくたびに、彼の心の傷は何度も抉られている。それは国王として乗り越えなければいけない痛みなのだとしても、シェリーは見ていられずに目を伏せた。 「そう……か。話してくれてありがとう。それから、すまなかった」  耳に届いたアルファスの言葉に、シェリーは顔を上げる。なぜ、自分の大事な者を奪った相手に謝るのかが、理解できなかったからだ。 「僕たち王族の権力争いに、君を巻き込んでしまったから。民の弱みに付け込んで、罪を背負わせた僕たちに罪があると思う。これって間違ってるか?」  眉尻を下げて、アルファスは不安げにシェリーを振り返る。いつの間にか、ものすごい速さで成長していく教え子を目の当たりにして感慨に打たれていた。  「いいえ……いいえ、アルファス様。間違ってなどいません」  首を横に振って笑みを返すと、アルファスはホッとしたように息をつく。 「僕の先生がそう言うんなら、この道で間違ってないな。ヨエル、今度はこの国のために真実を話してくれないか」 「国王陛下……。はい、それが私のするべきことですから」  涙を手の甲で拭ったヨエルは、アルファスに尊敬の眼差しを向けてそう言った。 「証人の身の安全は俺が保証しよう。ガイルモント公爵、彼女を議会の証言台に立たせることを許可してもらえるだろうか」  誠意を込めて左胸に手を当てるスヴェンを見たガイルモント公爵は「私も協力させてもらいましょう」と握手を求めた。 「いつ仕掛けるのかは、追って連絡させてもらう」  差し出された手を固く握り返したスヴェンは、そう言って踵を返すとシェリーたちの元へ歩み寄る。 「承知しました。お帰りの際は気をつけて」  背中越しにガイルモント公爵の声を聞きながら、シェリーたちは行きで使った荷馬車で邸へと戻るのだった。  三時間かけて邸に戻ってくると、シェリーは扉に折りたたまれた紙が挟まっていることに気づいた。首を傾げながら手を伸ばすと「待て」とスヴェンに手首を捕まれる。 「毒が付着している可能性もある。お前は触れるな」  そう言って懐に手を差し込むと「普段は煩わしくて、外しているんだがな」と苦笑いして白い手袋を取り出す。 「これは公爵の身だしなみだからとセントファイフ家の執事が買い揃えたものなのだが、剣は素手で握らないと感覚が鈍る。長らく使っていなかったのだが、このようなところで役に立つとは思わなかった」  手袋をはめたスヴェンは、紙を開いていく。そこに書かれていたのは、ガイ・ウォンシャーの名前と【大公殿下に勘付かれた。決行は明日の晩に】というメッセージだけだった。 「これ……ウォンシャー公爵になにかあったのか?」  背伸びをして、紙をのぞき込んでいたアルファスの顔に緊張が走る。  勘付かれたということは、ひとりでメドレス邸に残った彼になにかあったと考えるのが自然だ。ただでさえこちらには味方が少ないというのに、ウォンシャー公爵を失った痛手は大きいものになるだろう。  膨れ上がる不安に呆然と立ち尽くしていると、「大丈夫だ」とスヴェンの力強い声が頭上から降ってきた。顔を上げれば、スヴェンは安心させるように笑いかけてくれる。それに不思議と、張っていた気が抜けた。 「ガイの手紙には、明日の晩に決行すると書かれている。つまり作戦に参加できる状態にあるということだ」 「あ……では、無事だということですね」  よかったと胸を撫で下ろして、アルファスと顔を見合わせる。彼も同じく不安だったのだろう。スヴェンの言葉に笑みをこぼしていた。 「大公殿下に気づかれているとなると、城の警備体制は俺の知っているものではなくなっているだろう。だが、夜間の方が日中よりも手薄になるのは間違いない」   邸内に入り、みんなでリビングに向かいながらスヴェンの話に耳を傾ける。  「でも、どうやってウォンシャー公爵と合流するんだ?」 「アルファスに様、合流する必要はありません。俺たちは議会に乗り込むんですよ」  スヴェンの説明を聞いたアルファスはギョッとして「乗り込む?」と声を裏返らせながら聞き返した。 「おそらく明日、この邸にウォンシャー公爵が馬車を向かわせるはずだ。それに乗り、昼頃には城下町入りする。暗くなるまで町に潜伏し、議会中に大公殿下の悪事をすべて公表する」  簡単な流れを説明してくれたスヴェンの話が、どこか遠くに聞こえる。お互いに明日の動きを確認し合い話が終わっても、いよいよ決戦かと思うと気が張って夕食中もぼんやりしてしまった。議会で大公が黒幕であることを証明できなければ、そのままスヴェンとアルファスは捕縛されるだろう。それを想像するだけで、絶対に失敗できないと体が震えてしまうのだ。 「駄目ね、弱気になったりして」  お風呂を出てからベットに腰を掛けて、どれくらい考え事をしていたのだろう。今日は眠れそうにないな、とぼんやりしていると部屋の扉がノックされる。シェリーは心ここに在らずで「はい」と返事をした。少しして躊躇いがちに扉が開けられると、ゆったりとしたシャツに着替えたスヴェンが怪訝な顔で側にやってくる。 「待っても扉が開かないから心配したぞ」 「私ったら、出迎えもせずに申し訳ありません」  ハッとして頭を下げると隣に腰かけたスヴェンが、気遣うような眼差しを向けてくる。 「それは構わないが、どうかしたのか?」 「あ、えっと……」  皆で頑張ろうとしているときに、弱音など吐けば士気が下がる。そう思って唇を引き結んだシェリーに、スヴェンは「強情だな」と困ったように笑う。大きく骨ばった彼の手が伸びてくると、固くなった唇をほぐすように指で撫でられた。 「俺たちは運命を共にしているのだから、その胸にしまい込んだ不安を一緒に背負わせてほしい。駄目だろうか」  懇願するように聞かれてシェリーの胸は切なく締めつけられるのと同時に、喜びが洪水のように全身に駆け巡るのを感じた。彼の優しさに目に熱いものがこみ上げてきて、シェリーは「駄目なわけがないです」と小さな声で返す。そして胸に溜まっていた思いをすヴぇて吐き出すように言葉を紡ぐ。 「実は、明日が来るが怖くて……」 「シェリー……そうだな。生きるか死ぬか、それは俺たちの説得力にかかっている。重圧に不安になるのは当然のことだ」  慰めるように肩を抱き寄せられ、額を重ねられる。感じる彼の体温に、この温もりを失いたくないと強く思った。 「私はスヴェン様を失いたくありません」  しがみつくようにスヴェンのシャツを握れば、背中に腕が回り強く抱きしめられる。顔を上げると彼の顔が近づいてきて、シェリーはそっと目を閉じた。受け入れた唇はさらに強く押し付けられ、そのままベットに倒れこむ。かすかな水音とともに離れた唇を名残惜しく目で追っていると、スヴェンは眉根を寄せて切羽詰まった表情浮かべた。 「シェリー、そのような顔をするな」 「私はどんな顔をしているのでしょうか」 「欲しくてたまらないと、俺を求める顔だ」   そう言ってスヴェンは、ベットの外に投げ出されているシェリーの膝の裏に手を差し込む。なにをするのかと呆けていると、少し抱き上げられてベットの上に寝かされた。背中にマットレスの柔らかさを感じながら、上に跨るスヴェンを見上げる。その瞳の赤は、今まで見てきた中で一番強く燃えていた。 「明日、どちらかが命を落とすこともあるやもしれん」  スヴェンは切なげに目を細めて、シェリーの輪郭を指でなぞる。ゾクリと肌が際立って触れられた部分から痺れていくようだった。 「永遠に触れられなくなる前に、俺にシェリーのすべてをくれないか」 「スヴェン様、それって……」 「順序が逆で悪いな。お前を嫁にもらってから、するべきだということは重々承知している。だが、お前のすべてを知らないまま死ぬのだけは御免だ」  彼の言う〝すべて〟が、心だけでなく体も欲しいという意味だとわかる。こんなにも彼に求められて、自分は幸せ者だ。でも、素直に喜べない。その言い方がまるで死を覚悟しているようで、シェリーは泣きそうになりながら彼の首に手を回す。 「死ぬかもしれないから、私を抱くのですか?」 「シェリー?」 「私は共に生きるために、この体にスヴェン様の存在を刻み付けてほしい。そうすれば、あなたのために生きなければと心を強く保てると思うから」  それを聞いたスヴェンは一瞬目を丸くして、すぐにハッと笑った。 「シェリーは可憐なようで強い女だ」 「そんな私は、お嫌いでしょうか」 「いいや、俺はそこが気に入っている」  スヴェンの体がさらに近づいて、額から瞼、頬から顎の順に口づけられる。最後に唇に触れようとして、動きを止めたスヴェンと至近距離で見つめ合った。 「愛している、シェリー。明日も明後日も共に時を刻んでいこう。だからこれはお前を守り、俺自身も死なずに決着をつけるという誓いだ」 「うれしいです、スヴェン様。私も必ず生きて、あなたのお側を離れないと誓います」  誓いの言葉と共に口づけを交わす。彼に応えるように薄く口を開けば、荒々しく侵入してくる熱を愛しく思った。 「っ、シェリーは美しい、な」  絹のような柔肌に手を這わせ、スヴェンは吐息交じりに生まれたままのシェリー姿をじっと目に焼き付ける。その視線をくすぐったそうにして目を伏せる仕草さえ、スヴェンの体を熱くさせた。 「あなた、は……傷が、たくさん」  息を乱しながら、スヴェンの鍛え上げられた胸板に手で触れる。そこは瘢痕化した傷痕がいくつもあり、痛々しいほどにでこぼこしている。 「俺は騎士だからな、戦場に出たての頃はよく怪我をした。醜いだろう?」 「いいえ、あなたの生きた証だもの。愛しいわ」  少しだけ体を起こして、彼の胸元の傷に口づけをする。すると、息を詰まらせたスヴェンが「――っ、シェリー」と掠れた声で名前を呼ぶと、シェリーの中へ押し入る。 「ああっ、スヴェン様っ」  ギュッと目を閉じて痛みに耐えると、スヴェンは苦しげにシェリーの首筋に顔を埋めた。 「……っ、すまない、愛しくてたまらなくなった」  必死に動くのを我慢している様子のスヴェンに、自分を大事にしようとしてくれているのがわかり、思わず笑みをこぼす。  こんなにも誰かを愛しいと感じたのは、生まれて初めてだ。こんなに素晴らしい感情を教えてくれた彼に、なにかを返したい。そんな強い衝動に駆られて、シェリーはスヴェンの鮮やかな赤髪を優しく撫でる。 「あなたにすべて捧げると、言ったではありませんか」 「シェリー?」  体を起こして不思議そうに顔を覗き込んでくるスヴェンに、シェリーはにっこりと笑って見せた。 「我慢しないで、私のすべてを奪って」 「――っ、完全に陥落させられたな。すまない、終わったら責任をもって甘やかすから、今は俺に奪われてくれ」  その瞬間、いつもの余裕な表情など微塵も見せずに、スヴェンは激しくシェリーを愛した。自分を揺さぶる彼の瞳には赤い情熱の炎が揺らめいて、野獣の本能のように心も体も深く求めてくる。 どちらの息遣いなのか、体温なのか、境界が曖昧になり気が遠くなったとき、耳元で「愛している」と囁かれた。返事を返したかったのだが、蕩けきった体には力が入らず、彼の低く耳心地の良い声に誘われてシェリーは意識を手放した。
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