記憶

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記憶

 渓谷を登っていく少年の心はひどく落ち着いていた。龍の住む湖のように、波のない心に映される記憶―― ――もう少年は困ってはいないみたいだ  クライスはそう言って少年の元から離れていった。少年の心には、ずっとその時のペンダントの輝きが残っている。クライスに出会わなければ、自分は野垂れ死にしていたかもしれない、あの輝きがなければ今の自分はいなかったかもしれないと少年は思う。  ただ、クライスと出会ってからそれなりに時を経た今となっては、クライスという人間がろくでなしであるということが、少年にはよく分かっていた。右も左も分からない少年の、生きるための財産をほぼ丸ごと持ち去ったのだから。  少年は人間という生き物が綺麗で汚いのだと、クライスから教わって本当によかったと思っている。 ――龍に会ったら、そいつがどんな奴だったか俺に教えに来い  少年はシンチェロとの約束を既に果たした。シンチェロは油断ならない男ではあったが、確かに少年との契約を守る誠実さを持っていた。龍は確かにいたのだ。  龍は名前を教えない割には親しげに話しかけてくるということを聞くと、シンチェロは大きな腹を震わせて豪快に笑った。「はっはっは! あんたみたいなやつだな」とシンチェロが言うと、少年はきょとんとした。  「あんたも名前を教えないだろう?」という言葉を聞いて、少年は予期せず愉快な気持ちになった。そして、少年が名前を教えると、シンチェロはにやりと笑った。 「なるほどな、あんたは龍に会うわけだ」 ――獅子も悪魔も我が家には関係ない。力があるかどうかが肝要だ  少年は父親の言葉を思い出す。少年は力を持った、名前を持った。しかし、そのことが何になるのだろうか。僕は何を手に入れたかったのだろうか……少年は答えのない問いを己に投げかけた。
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