Longing for spring.

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* * *  5月の末「満員電車がいや」と漏らすと、「電車1、2本早めるだけで全然違うよ」と母から、目から鱗な意見を、結月はすぐさま採用した。 そして幸運な事に、いつもの駅のプラットホームで、探していた黒ビニールバックの持ち主を見つけた。 電車を2本早めるだけで人の多さは違った。閑散とまではいかないが、ホームを埋める人々の間はいつもより距離があった。  西条高校バスケ部、白文字で印刷された鞄を食い入るように見つめ、ベンチで携帯を見ているクセのない黒髪の主に恐る恐る近づいた。距離が近づくにつれ鼓動が速さを増し、5月の梅雨前の風なのにベタついているような気がした。 「あ、あ、あの」 喉に声が引っ掛かった。携帯から顔を上げた二重の整った顔は警戒した表情だった。耳のイヤホンのコードを大きな白い手で引っ張った。 「…何? ってか、誰?」 低い平坦な声に心臓が騒がしくなって、結月の頭には怒鳴った老人の顔が浮かんだ。 「あ、あの、4月に席を譲ろうとして、お、怒られたとき庇ってもらった…」 「あ〜」 彼は結月から視線をそらし、(くう)を見て声を上げた。 「あぁ、席を譲る、譲らないの話してた」 「そ、そうです。あの時、庇ってくださってありがとうございました」 (い、言えた。やっと言えた。良かった。) 結月は助けて貰ったお礼が言えた事に安堵した。 「…いっつもそんな感じ?」 不意に低い声で問われて、目的を達成し、立ち去ろうとした結月は固まった。 「そんな感じって…」 結月は問われた意味が分からず、聞き返すと彼は言った。 「いや、なんか。…思い込みが激しいんじゃないの? 席を譲る時もそうだったけど、困ってるって、ジイさん、言ってなかったのに優しさの押し売りっつーか。私親切してます、みたいな。…今も、お礼言わなきゃ、みたいな変な圧を……」 結月は自分の頬が冷たくなるのを感じた。全身の熱が一気に下降する。 「わ、私、はただ、おじいさんが杖を持ってたから、少しでも楽になればって…」 結月の声は震え、言い訳のような言葉が口から出た。彼は、あ〜、と声を出して頭をかいた。 「違う。あんたが悪いって意味じゃない。俺なら、最初から電車の席には座らない。譲るとか譲らないとか考えたくないから。ガラ空きだったら、座るけど。年寄りがいたら立ってる。揉めたくないし、その方が気が楽。…だから、あんたが勇気を出して言った事はすごいと思う。ジイさんがあんたの優しさを受け取る優しさを持っていなかっただけで」 (優しさを受け取る、優しさ?) 結月は鼻の奥がツーンとして、思わず鼻を啜った。ずずず、と間抜けな音がした。彼の顔が一瞬、緩んだ。 「ごめん。泣かすつもりはなかったけど、なんか、口から出た」 「い、いえ、大丈夫です」 プラットホームにアナウンスが流れて、待っていた五両編成の電車がやって来た。 「これ、とりあえず使えば」  ビニールカバンからスポーツタオルが出て来て、結月に渡された。それを受け取って、目を拭った。タオルの淵に、深山那央(みやまなお)、と名前が書かれていた。  那央はホームに入って来た電車に乗り込んで、結月を見た。 「俺、朝練あるからいつもこの電車。タオル返してくれるんだったら、明日持って来て」 二重の瞳が結月を見つめて、少しだけ垂れた。笑ったのかな、と結月が思ったと同時に電車の扉は閉まった。短い黒髪が発車と共に揺れた。その揺れはそのまま結月の心臓をぎゅっと掴んだ。 (優しさのかたち、って考えたこともなかった。相手に気づかれないようにするのも、優しさ、なんだ) 那央の言った優しさの意味を考えながら、結月は借りたタオルを握りしめた。
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