Longing for spring.

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 * * *    それからの日々、結月はお礼を那央に告げられずに会えなかったのが嘘だったかのように、毎朝、駅のプラットホームで顔を合わせた。  タオルを返してお礼を言って、はいサヨナラ、とはならずに、結月は嬉しかった。  那央の姿を見ると心臓が騒がしくなって、ずっと顔を見ていたいけど、直視できずにモジモジして、その様子を那央に悟られたくなくて、結月はあくまでも満員電車を避けるために早い電車に乗る事を強調し平静を装っていた。  けれど、心は正反対で、目的はすっかり那央と話す事にすり替わっていた。  ホームのベンチに座って、電車が来るまで、好きな食べ物の話、部活の話、通っている学校の事も話をした。深山那央、県立西条高校の2年、バスケ部。学年は結月の1つ先輩。いつも洋楽を聴いていて、姉弟は姉が1人。 「俺、洋楽も聴くけど、クラシックも聴く。高崎さんは聴く?」 「クラシックですか? ピアノを小さい時、習ってました。少し弾けます。子犬のワルツとか」 「え、俺も小さい時、ピアノ弾いてた。家が駅前の郷田楽器店なんだよ。親父がピアノ教えてんの」 「あ、そうなんですか? 那央先輩がピアノ…意外です」 (バスケ部のカバンのイメージが強いから、運動ばっかりしてるのかと思ってた。) 結月の言葉に那央は眉を寄せた。 「意外? 俺、中学の時、背も低くて、ピアノ弾いてたから女子にバカにされてたよ。バスケでも万年補欠。中3の時に急に身長伸びて、急に手の平返したように女子がキャーキャー言って来て、だからちょっと女子は苦手……」 結月が、ふんふん、と頷いていると那央は言葉を発するのを辞め、結月を見た。急に話が止まって結月の心臓は途端に騒がしくなる。自分の顔に何かついているのだろうかと見つめられた目線に堪えきれなくなる。 「…なんか、高崎(たかさき)さんと居るとつい口が滑る。俺ばっかりいつも喋ってる。前も優しさについて語っちゃったし、キリのいい所で止めて。なんか、不必要な個人情報ドンドン漏らしてる気分」 「那央先輩の話、楽しいです。あの優しさの話も先輩に言われなかったら、おじいさんを悪者にして、自分の事だけを正当化してて怒られた意味が分からなかったです。…それに、気づかれない優しさって奥が深いんだなって思いました」 結月は電車の中でショルダーカバンを自分の方向に向けて、他人に当たらないように配慮していた那央を思い出した。席の事で揉めていた時も他の人は見て見ぬ振りだったが、那央は助け舟を出してくれた。結月にはそれが嬉しかった。 「…高崎さん、褒めすぎ。そんなに褒められるとか恥ずかしい」  那央は腕で口を押さえて、結月から視線を逸らした。結月はその崩れた表情をもっと見たくて、でも見てしまったら心臓がもっと騒がしくなって、隣に座ってもいられなくなりそうな気持ちになった。居場所を見つけられない、焦れた気持ち。那央の表情を覗き込むのすら恥ずかしくなった。  ホームにアナウンスが流れて、五両編成の電車が入って来た。結月が立ち上がろうとするとホームの階段下から「おい、押すなよ」「待てよ、おい」と低く交わされる声が昇って来た。声の主達は那央と同じ制服を着ていた。 「おいっ! 那央、那央がいるぞ。お前、最近この時間の電車だったのか〜。朝練、俺達も行くから」 「自分だけレギュラー取ろうたってそうはいかねぇぞ」  結月の事など目に入っていないかのように2人は那央に並んだ。那央より身長が少し低いけれど、一般的な男子校生よりは高い。2人が那央の肩に腕を回した。 「あ、あれ? 知り合い?」 その内の1人が結月に気が付いた。結月は軽く頭を下げた。 「その制服、京浜高校だよね。頭いいんだ〜」 なんて答えたらいいか分からず、結月が愛想笑いを浮かべていると、もう1人が声をあげた。 「那央、こんな可愛い子と仲良くなるなんてずるいぞ。希空(のあ)ちゃんはどうした。本命だけ大事にしてろよ」 (希空(のあ)、本命…。) その言葉に結月はショックを受けた。間違いなく那央に惹かれている自分を結月は自覚していたが、その好意を日々の些細な事で積み重ねていけば、あわよくば…なんて想いは吹き飛ばされてしまった。 「うっせ、希空(のあ)は関係ないだろ。つーか、高崎さんに絡むなよ。困るだろ」 困るだろ。ひょっとして、と結月は思った。優しさを相手に悟らせないように振る舞う那央はーーー。 (今まで、仕方なく私と話してたのかな? 那央先輩、本命の人がいるんだ。さっきの照れた顔ももう誰かのものなんだ。だったら、最初から優しくなんてしないで欲しかった。) 結月は電車に素早く乗り込んだ。その後に那央と友人達も続いた。 「ちょっと、待って」 乗り込んだ電車の中で那央に腕を掴まれた。車内が揺れて発車した。 「なんですか?」 「いや…、急に表情変えて、電車に乗るから、気になって」 その言葉に結月は少し腹が立った。こんな気持ちの時に優しくしないで欲しかった。他に好きな人がいるんだったら、気遣いなんていらない。でも本当は、特別な優しさが欲しい。自分だけに向けてくれる特別なもの。でもそれは自分のものじゃない、そう思うと結月の胸は傷んだ。 「……して、くれなくていいです」 「え?」 「だから、優しくしてくれなくていいです。那央先輩、本命がいるんですよね。なのに、今まで毎朝私と電車に乗ってたじゃないですか。彼女が悲しみます」 「彼女って、なんの話……って、さっきの? 希空(のあ)の事?」 那央の口から優しく呼ばれた名前に結月は胸が痛んだ。当たり前みたいに下の名前を呼んだ。その響きに自分と那央、那央と彼女の距離の近さが異なる事にさらにショックを受けた。  結月が悲しい気持ちを我慢していると、彼は制服のポケットから携帯を出した。 「希空(のあ)、見る?」  那央は笑いを堪えながら、携帯を結月の前で軽く振った。黒のビニールカバンはいつものように前に抱えられていた。満員電車じゃなくても、荷物への配慮ができるのに、目の前の結月の気持ちには全く配慮ができない那央に結月は益々腹が立った。 「み、見ません」 「…なんで。可愛いから見てよ」 (可愛いって。わざわざ言わないで欲しい。那央先輩って意地悪なの? 傷つくんですけど) 結月は顔を背けると、那央は、ははは、と声をあげて笑った。 「いいから見てって」 結月の前に、ふわふわの白い毛の猫が携帯の画面に映し出されていた。 「彼女だと思った?」 「はい」 「彼女じゃないよ。だって、好きな子いるし」 「好きな子…」 (いるんだ。好きな子。ショック。女の子苦手とか言って、私とはたくさん喋ってくれるから、てっきり那央先輩も私を悪くは思ってないよね、なんて勘違いしてた。本命いるってショックを受けて、それが猫かって喜んで、またショック。もう忙しくて自分で自分をどうにもできない。)  結月は淡い気持ちが萎えたように口を閉じた。電車が来るまでホームで話して、気づけば制服は移行期を迎えて、那央の腕はシャツを捲らなくても白くて逞しい腕がのぞいていた。 「どうしたの?」 那央が結月の顔を覗き込む。 「な、なんでも、ないです」 ショックな気持ちを隠すように結月は那央から顔を逸らした。今は泣いちゃダメだと、自分に言い聞かせる。 「…なんでもなくないよね。その顔」 那央は結月の変化を見逃さなかった。 「み、見ないでくだ、さい」 結月が顔を伏せても那央は引かなかった。 「見せて。俺の好きな子の事、気にならないの?」 (なんでそんな意地悪な事言うんだろう。さっきも、猫にヤキモチ妬いてたのに、それすら揶揄(からか)って。) 「気に、なりませんっ」 瞳に滲んだ涙を隠すように結月は那央に表情を見られまいと抵抗した。その抵抗は虚しく、結月は腕を持たれて一瞬で那央の正面に向かされてしまった。 「俺は気になる。好きな子の顔だから」 その言葉に結月の目に浮かんだ涙が引っ込んだ。すぐに那央の顔を見ると耳と頬が赤く、意地悪な表情とは打って変わって、真剣に結月を見つめていた。心臓がどくどくどくと暴れ出す。 「え、那央先輩、今、なんて言ったんですか?」 結月の質問に、那央は、あ〜と右手で頭を掻いて、ちゃんと聞いててよ、と呟いた。 「先輩、教えてください」 結月が那央を見上げると、はぁ〜、とため息をつき、改めて那央は声を上げた。 「俺の好きな子は、高崎さん。彼女に…なってくれる?」  人が少ない電車の中で、周りの人に聞こえないように囁いた那央の言葉を聞いて、結月はどきんと胸を弾ませた。 電車に乗る前、乗ってからも。 車内の加速したスピードは心臓の速さと相まって、結月の心臓はますますリズムを早めた。電車の揺れはコントロールできない自分の鼓動にも似ていた。 きっと、電車を降りてもこの拍動を自分では収められないだろうな、結月はそう思って、照れたように笑う那央の顔を、はにかんで見上げた。
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