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 窓際のテーブル席に座り、本沢理央(もとさわりお)は今しがた読み終えた本の表紙を撫でていた。 (共感性なぁ……)  温くなったコーヒーをひとくち飲み、窓ガラスに映る自分の顔を見ると溜息が出る。 (共感性が高い男にしては、いかにも友人がいないやつの顔だけどな)  丸テーブルには論文と臨床実習のレポートを広げていたが、一時中断して先生から押しつけられたビジネス書を読んでいた。研究室から帰るときに、グループ行動の参考になると言われて渡された本だ。内容は自己分析が主で、自分の強みを見つけて弱みをカバーしよう、という趣旨の前書きからはじまる。  読みはじめる前は、先生から医学書以外の本を渡されたことに不満だったが、読んでみると思いの外面白かった。何せ、書いてある内容に思い当たることが多い。  読者はあらかじめインターネットで診断を受け、自分の資質を確認しておく。その結果に基づいて集団の中での自己分析を深めていくのだが、たとえば理央のように『共感性』の資質を持っている人物は、他人の気持ちが自分のことのようにわかるらしい。 「いらっしゃいませ」  カフェに猫背のサラリーマンが入ってきた。 「まもなくラストオーダーのお時間で、当店二十一時閉店ですがよろしいですか?」 「大丈夫です……。ミルクレープとモンブランと、アイスココアのL」  盗み聞いているこっちが胸やけしそうな注文だったが、サラリーマンは浮かない顔を崩すことなく会計を済ませた。しこたま甘いものが食べたいのか、それともよほど疲れていてカロリーが摂りたいのか――。 「……?」 (やば……)  あからさまだっただろうか。じっと観察していたら、視線に気づいたサラリーマンに首を傾げられてしまった。  不躾だったことを反省し、理央が軽く頭を下げると、今度は驚いた顔で耳を赤くされる。 (あ……、そう……、そっち?)  あのサラリーマンは極限までお疲れにつき、癒しを求めている――というのが濃厚なようだ。  理央の容姿は一部の男から評価が高い。切れ長の大きな目に細い顎、色素の薄いやや長めの猫毛は見ていて癒されるらしい。背はそこそこあるはずだが、理央を撫でまわす男たちは必ず、綺麗だの可愛いだのと言うから胸クソ悪い。おかげで容姿に興味が失せ、白の開襟シャツにスキニージーンズという、量産型大学生ファッションに身を置いている。 「このあとどうする?」 「このあと?」 「ほら、腹とかへってない?」  店内中央のソファー席に座っている男女だ。男の方が今夜の予定を必死に探っている。会話を盗み聞いた限りでは、それほど押しの強い印象は受けないが、氷の解けたグラスを前に長い間ねばっているしつこさはある。  女の方はというと、かつての森ガールを彷彿とさせる素朴ぶりだが、男の健気な誘導には満更でもなさそうだし、大人しい顔をして実はビッチなパターンと見た。 (さっさとホテルにでも行けよ、鬱陶しい……)  ここで先生から渡された本に戻るのだが、自分のこれは『共感性』というより観察力じゃないだろうか、と思う。少なくとも店の中にいる三人の気持ちには一ミリも共感できそうにない。 「理央さんも試験期間ですか?」 「えっ」  理央はぴんと背筋を伸ばし、親しげな声がした方を見上げた。  黒髪を無造作にセットした長身の店員に笑いかけられていた。くっきりした目を細め、愛想よく笑う口元からは並びのいい歯が覗いている。 「すみません。驚かせました?」 「そ、そんなことない。俺がぼーっとしてただけ」  店員につられ、理央はにこりと微笑んだ。  本当は下の名前で呼ばれることに慣れておらず、「理央さん」と言われるたびに胸の奥がきゅんとしている。しかし、そんなことをイケメン店員に言うつもりはない。 「えっと、『も』ってことは、日向くんは試験期間なのかな?」 「はい。バイトなんて入ってますけど、明日は試験が二つとレポート提出が一つ。あとは前期最後のゼミがあります」 「笑ってるけど、それは大丈夫なの?」 「うちは緩いから……なんとか?」  日向は駅の反対側にある四年制大学に通う四年生だ。笹部日向(ささべひなた)――命名された瞬間から陽キャラとして生きることを定められたような名前だが、理央が知る限りでは、決して名前負けしていない。誰からも可愛がられそうな爽やかくんだ。恋愛事情こそ聞いていないが、就職活動を早々に終え、勉強にサークル活動にアルバイトに大学生活を謳歌している。 「さっき、何の本読んでたんですか?」 「ああ、これ? 先生から薦められた本なんだけど、これ……知ってる?」 「いえ、俺はビジネス書ってちょっと。小説は好きなんですけど」 「そっか。まあ、俺もいつもはそうだよ」 「理央さんって経営学部とかでしたっけ?」 「ううん」 「違いますか?」 「残念ながら」  理央がそう言うと、日向は大袈裟に肩を落として見せた。 「……今日もハズレか。もう、理央さんって手強すぎ」 「そんなことないと思うけど」  日向からは何度も大学や学部を聞かれているが、なんとなく医大生とは言いたくなくて躱している。時々こうやって聞き出そうとしてくるから油断できないが、こんなやりとりもカフェでの楽しみのひとつだ。 「次こそは教えてくださいね」 「そんなに知りたい? 五年生の身としては、恥ずかしいしそろそろ諦めてほしいんだけど」 「ここまで来たら知りたいですよ」  日向はそう言うと、屈託のない笑顔のまま隣のテーブルを拭き始めた。  二十時四〇分になると、このカフェでは閉店前の掃除を始める。誰も座っていない席から徐々に掃除をし、ぎりぎりまで店に残っている客に焦燥感を抱かせる意図があるらしい。スーパーで流れるホタルの光のようなものだ。  その効果は一定以上あるようで、日向の姿を見たサラリーマンは、ミルクレープの塊を慌てて口に放り込んだ。  確かこの話を聞いたとき、「閉店前に掃除を始めるなんて、客を追い出している気がして嫌だ」と日向は言っていた。  えらく親切なやつだと感心したが、理央はうなずいてやれなかった。  この掃除が始まったのは、理央にとってラッキーなことだった。重労働の前に、可愛いカフェ店員と話す機会に恵まれた。  日向の笑顔は最近の理央の癒しだ。裏表のなさそうな笑顔と話していると心がほぐれる。  理央と日向が話すようになったのは、実はここ一カ月のことだ。理央がカフェに通うようになって四年、日向がアルバイトを始めてから二年以上経つことを考えれば、この掃除が導入されなければ、日向とこんな風に話すことはなかったと思う。会釈と会話の間には、レジカウンター以上に高い壁がある。 「スマホ鳴ってません? 理央さんの。非通知みたいですけど」  日向に指摘され、理央は慌ててテーブルに置いていたスマートフォンを掴んだ。外の大通りを一瞥し、震え続けるそれをジーンズのポケットへ突っ込む。 「そろそろ行かないと……」  理央は広げていた本と紙の束を鞄に戻し、すっかり冷めたコーヒーを立ったまま飲み干した。 「この時間から待ち合わせですか?」 「まあ、そんなところかな」 「もしかして彼女とか?」 「まさか。俺に恋人なんていないよ」  理央が笑うと、日向は驚いたような顔をした。 「あれ? 意外だった?」 「うん。絶対にいると思ってた」 「よくそう言われるけど、残念ながらいない」  友人だっていないのに、恋人なんて、おそらく理央には一生無縁だ。 「あっ、あとで一緒に戻すんで、トレーはそのままでいいです」 「ありがとう。それじゃあまたね」 「あっ、理央さん!」  理央が店を出ようとすると、追いかけてきた日向に引き留められた。 「どうかした?」  開いた自動扉から夜の温い風が店内に入ってくる。一瞬、店内に戻った方が良いかと考えたが、早く行かなくてはならない。 「帰り際にすみません。俺、実は理央さんにお願いしたいことがあって、次会ったときに話だけでも聞いてもらえませんか?」 「お願いしたいこと?」 「できれば、バイトのあとに話したいんですけど」 「バイトのあと……」  快諾しそうになって思い留まった。理央がこのカフェに来るのは、夜に予定がある日だけだ。予定までの時間潰しで立ち寄っているにすぎない。 「ごめん、俺、夜は……」 「そしたら、理央さんが良ければですけど、俺がシフト入ってない日でもいいので!」 「そんな……」 「お願いします!」  日向の縋るような目を見てしまうと、たまにはアルバイトくんと話すためだけにカフェへ来るのもありな気がしてくる。もしかして、これが共感性の資質だろうか。 「理央さん……」 「……わかった。次ね?」 「や、った! ありがとうございます!」 「いいえ」  人懐っこい笑顔がくすぐったい。理央は「ありがとうございました!」と手を振る日向にはにかみながら、残っていた客の中で一番にカフェを後にした。  日向と話しているとどうも調子が狂う。柄にもなく猫を被ってしまう。日向が愛想よくしてくれると、幻滅されるのが嫌でつい笑顔を作ってしまう。  穏やかな口調でにこやかに話している自分を思い返すと、ウゲェと吐きそうになる。本当の理央は、泣く子も黙りそうなほどの捻くれ者だ。 「やばい、結構待たせたよな」  先ほど電話を着信してから十分近く経とうとしている。  理央は下がりきった目尻を引き上げ、両手で強く頬を揉んだ。今から人と会うのだ。気持ちを切り替えないといけない。
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