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 雨のその日、カフェに日向はいなかった。理央が店内に視線を巡らせていると、親切な女性店員が今週はゼミ合宿に行っていると教えてくれた。  そういえば前に会ったときにそんなことを聞いた気がした。合宿で長野の下諏訪に行くとかなんとか。日向とは会って話すこと以外しない。日向は理央の連絡先を知らない。理央だって、以前に押し付けられた電話番号をメモのまま持っているだけだ。お互いのシフトなんて把握しているわけもない。  日向が次に出勤するのは来週の月曜日だと教えられ、理央は電話が鳴ったので店を出た。  ――あとで電話でもしてみようか。  会えないとわかると、話すこともないのに日向の声が聞きたくなった。  電話なんてしたら、きっと大げさすぎるほど驚いてくれる。そして喜んでくれる。想像しただけで可愛くて、思わず顔がにやけた。  日向はまだ自分を好きでいてくれている。そこに甘えている。頭では最低なことをしていると理解していても、日向からの好意は心地よくて可愛くて、理央を簡単に嬉しくする。 「応えてやれたらいいんだろうけどな……」  ビニール傘をさし、水溜まりを蹴とばさないよう慎重に歩く。  今日の雨は霧雨で、傘をさしても顔が湿っぽくなる理央の嫌いなタイプだ。おまけに夜は視界が悪く、ある程度の距離から目を凝らしても、まるで電話ボックスには誰もいないように見えた。  いや、実際、電話ボックスには誰もいなかった。ただその前に、理央のよく知る人が傘をさして立っていた。 「理央」  ああ、今日はツイていない日なんだな――。  先生の顔を見てそう思った。  謝るのも違う気がした。だからと言って反対方向に走って逃げるわけにもいかなかった。 「じゃあ行こうか。いつもはどこのホテルへ行くの? この裏手あたり?」  そう言って歩き出す先生の手には手綱が握られていたんだと思う。理央の足は、しっかりと先生の後ろをついて歩きはじめた。  先生に自分を好きになってほしくはない。先生は自分のようなやつを好きになるような、そんな人じゃない。先生が自分のことを好きになったらと考えただけで、ショックで落ち込みそうになる。  日向にはそう話したことがあるが、怖くて動けなくなる――を追加する。 「慣れてるんじゃないの?」  ベッドに座る先生の前に膝立ちになり、ネクタイを解いてワイシャツに手をかけた。手が震え、その肌が見えたときには膝が震えた。  目の前に本物がいる。誰かを代わりにしてまで欲を満たしていた対象の本人が、今目の前にいる。そのはずなのに、怯えた体は言うことを聞かない。 「キスはいらない」  客との行為をなぞっていたら、先生に髪を掴まれた。ほっとしたが、その手は理央の頭をぐっと下に押し、視界は上質な革のベルトでいっぱいになった。 「まどろっこしいのは好きじゃないんだ」 「……は、い……」  具体的に言われなくても、何を言っているのかわかる。理央は頭を撫でられながら、先生のベルトに手をかけた。  無反応だとしても、ズボンの合わせ目には触れられなかった。できるだけ先生に触れないようにベルトのバックルを外した。  その間も、先生の手は理央の頭を撫で、頬を撫でる――。 「あ……」  これまで先生に頬を撫でられたことはなかった。あるのかもしれないが、理央の記憶に残っているのは、日向に撫でられたことだけだった。 「……、俺……」  一度思い出すとダメだった。 「理央?」  可愛いカフェ店員の笑顔は、中年男性との時間だけでなく、憧れの先生との時間をも邪魔してくる。 「……俺、先生のこと好きで、自分でも引くくらい拗らせて、……先生と似た背格好の人と寝てた」 「そう。いつから好いてくれてたの?」 「好きになったのは、……えっと、中学二年とか……その辺り」  理央が告白しても先生は動じなかった。 「僕も好きだよ」  鳥肌が立ち、喉が詰まった。 「だけど、そんな風に好きなわけじゃないから安心して」 「え……?」 「本当に手のかかる子だな」  よく知る顔で笑われて、幼い子供をあやすように抱きしめられた。 「あ……な、に……?」 「バカ息子がいつまでも懲りないから、灸をすえに来たんだよ」 「う、そ……」 「嘘なわけないよ。僕のことを好きなんて言っておきながら、泣くほど怖かった?」  堪えていた涙が溢れ、柄にもなく嗚咽が漏れた。 「こ……怖かった……」 「ごめんね。けどこれで懲りただろう?」  髪を撫でられながら、理央は先生の肩にしがみついた。 「理央、泣き止んで?」  先生は理央の涙が止まるまで、ずっと髪や背中を撫でていてくれた。こうしていると、中学でいじめられたときにタイムスリップしたみたいだった。 「俺、ずっと先生を好きだと思ってたけど、勘違いだったのかな……」  理央がそう言うと、先生は「若い子は極端だな」と言って笑った。 「勘違いはやめてよ。僕は理央が可愛いんだから。こんなお節介を焼くくらいね?」 「せ、先生は父さんのことが好きだったから、俺に優しくしてくれるんだと思ってた……」 「はあ?」 「ちがっ、た……?」  理央が固まっていると、今度は噴き出して笑われた。笑いすぎて先生の肩が震えている。 「ごめん……」 「いや、面白い想像だけど、もし仮にそうだとしても、理央をあいつの代わりにするなんて、そんなこと有り得ないよ。僕をバカにするのはやめてほしいな」 「ごめん、なさい……」 「理央が誰かの代わりなんて、有り得ないんだよ。理央だって、それは身に染みてわかってるだろう?」 「……うん……」  誰かを誰かの代わりにすることなんてできない。いつだってその誰かは頭にいて、誰かを代わりにしようものなら、まるで罰のように虚無感を味わう。  頭の中に住み着いて離れない『本人』じゃないと、満たされることなんてない――。  理央が落ち着いたのを見計らい、先生はベッドから立ち上がった。 「じゃあ理央は先に出て」 「え?」 「一緒にホテルから出てくるのを見られたりしたら言い訳が効かないからね。外で待ち合わせして、それから食事でもしよう」 「あ……、俺、会いたい人が――」 「これから?」  理央が何度もうなずくと、また先生に笑われた。 「わかった。じゃあまた研究室でね」 「ちゃんと、これからは家にも帰るから」 「うん、待ってるよ」
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