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20
ひとりでホテルを出て、来た道を戻る。心臓の鼓動が速まっているせいで、つられて理央の歩幅は大きくなっていた。
今すぐ日向に会いたい。
外はまだ雨が降り続けていた。あんまり速く歩くと、靴についた泥水が跳ね返ってズボンの裾が汚れる。いつもは気になるのに、今はそんなことなんてどうでもよかった。
ラブホテルの前の通りを歩くと、コンビニ帰りの日向に遭遇したことを思い出した。さらに来た道を戻れば、日向に客と歩いているところを見られて落ち込んだことを。電話ボックスまで来ると、日向から電話がかかってきたときのことを思い出した。
そして、日向のマンションのエントランスまで来て、当の本人はゼミ合宿へ行っていることも思い出した。
「そうだ、電話……」
慌ててメモを取り出したが、メモを見なくても、日向の電話番号は頭に入っている。
理央は電話ボックスに入り、公衆電話の受話器を持った。今の理央からは、スマホを使うなんて頭は抜け落ちていた。
「これ、どうやんだろ……」
公衆電話の使い方がわからない。自分が電話ボックスの中に入るのははじめてだった。中は強化ガラスに弾かれた雨音が反響していて、理央の焦りを助長してくる。
とりあえず小銭を入れて、間違わないよう何度もメモを見ながら番号を押した。やがて鳴りはじめた呼び出し音はやけに小さく、理央は息をひそめて続きを待った。
『……はい』
電話口から警戒した日向の声が聞こえた。
「ひな、た?」
名前を呼ぶと、やや間が空いて、『理央さん?』と驚いた声が耳に入ってきた。鼓動がどくんと跳ねた。
『っ、どうしたの? 電話番号、取っててくれたんだね』
日向は心底驚いているようだった。
『非通知でかかってきたから誰かと思ったよ。そんなに俺に番号教えたくなかったの?』
日向が笑う。受話器から聞こえてくる日向の声は、会って話すときよりもやや高く感じる。
「非通知……? ああ、公衆電話ってそうなんだった……」
『え、公衆電話からかけてるの?』
「……今、下にいる」
『下? って、うちのマンションの下?』
電話口でも日向は表情豊かだった。戸惑っているのが伝わってくる。
「そう。お前ん家の前の、公衆電話」
『え? なんで?』
「……会いたくなって……」
『……すっ、すぐ下りる!』
「下りるって、お前、合宿行ってんじゃ――」
『さっき帰ってきた!』
電話の向こうから移動する気配が伝わってくる。
『すぐ下りるから待ってて!』
そう言って電話は切れてしまった。理央は受話器を戻し、居ても立ってもいられなくてマンションのエントランスまで移動した。
「理央さん!」
日向は本当にすぐに下りて来てくれた。エレベーターから出て来た日向は、エレベーターホールとエントランスの間にあるオートロックのガラス扉が開く時間さえもどかしそうだった。扉が半分も開かないうちに、体を滑り込ませて外に出てきてくれた。
「どうしたの? なんかイヤな人にでも当たった……?」
さっきまで泣いていた目元を見て、日向は驚いたようだった。
「理央さん?」
「突然、ごめん……」
理央はいつの間にか日向に身を寄せ、その肩に顔を埋めていた。
「ううん。それはいいんだけど、とりあえず入って?」
手を引かれるまま、日向の後ろをついていく。久しぶりに入った日向の家は玄関から見てわかるほど散らかっていた。
「本当にさっき帰ってきたばっかりで、汚くて悪いけど」
日向が靴を脱いで部屋の中に消えていく。理央は靴を履いたまま、玄関から動かなかった。
「理央さん、どうかした?」
「今日」
「ん?」
「連絡が来て電話ボックスに行ったら、先生がいて、先生とホテルに行った……」
日向の顔を見ていると、うまく言葉が出てこない。
「え……、あ、よかったね。じゃあ今日はその報告に?」
理央は日向の言葉をすべて聞き終わる前に首を振った。
「……けど違った……」
「違うって何が?」
「何を好きっていうのかわからなくなった。先生の代わりにおっさんを物色してたはずなのに、いざ本物とホテルに行ったらそりゃもう怖くて……」
何を言っているんだろう。最終的に何をどう言うつもりなんだろう。自分で話しているはずなのに、唇はちっとも理央の感情を言葉にしてくれない。
「何かにつけてお前のことばっか思い出すんだよ。そういや、前におっさんに殴られたのもお前のこと考えてたときだったなって思って……」
日向が玄関に戻ってくる。
「その前も、客からベッドで可愛いって言われるたびに、可愛いってのはあのカフェ店員みたいなやつを言うんだよって、ホテルに行く前にちょっとだけ話したお前のことを思い出しては心ん中で悪態ついて……」
話のゴールが見つけられない。これでは、日向を困らせるだけだ。
「悪い、何を話したかったか、見失った――」
理央は言葉を続けられず、俯いて首を振った。論理的な説明は苦手じゃないのに、こんなときに限って、頭の中は言いたいことで溢れてぐちゃぐちゃだ。
「……触っていい?」
答えないでいると、日向の手がそっと理央の頬に触れた。
「俺がいっぱい好きだって言っても、嫌にならない?」
「……た、ぶん」
「この間は? 俺、好きだって言ったけど、嫌じゃなかった?」
「嫌、では……」
「キスしたのは?」
じわじわした質問に、内側を暴かれるような感覚になる。頭の中で見え隠れする簡単な言葉が声に出かかって喉でつっかえる。
「理央さん?」
「嫌じゃなかった――」
理央がそう絞り出すと、唇に吐息がかかるのを感じた。唇に、日向の唇が当たっていた。
「ダメだ……、俺、嫌じゃなかったって言われただけなのに、すごく好きって言われてるように感じる。ちょっとアブナイね――」
そう言って離れようとする日向の首を捕まえ、今度は理央から唇を押しつけた。唇の隙間から潜り込んできた日向の舌に応え、息を吐きながら深く唇を重ねる。
薄く目を開けると、日向の熱っぽい目がじっと理央を見つめていた。
「……お前、やっぱ可愛い……」
笑いたいのに、喉が震えて上手くいかなかった。
「いつ会っても可愛い……」
「……もう、どの口で言ってんの?」
心臓がうるさいくらい鳴っている。
「俺、たぶん、日向が好き、なんだ……」
「たぶん?」
「たぶ――、あ……」
日向が見たこともないほど甘い顔で笑っていた。
「ねえ、理央さんがいいなら、俺、もっと理央さんに触りたい」
――息が、できなくなるかと思った。
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