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 いや、本名を教えたことはないんですけど。 「私の顔に何かついてる?」 「え?」 「理央さん!」  聞き覚えのある爽やかな声だった。その声が耳に入ってきた途端、動悸がして、理央の体は発作でも起きたように呼吸が浅くなった。  顔に愛想笑いを貼りつけたまま見た先には、目を丸くした日向が立っていた。 「知り合いかい?」 「いいえ」  反射的にそう答えていた。 「人違いですよ。僕、若い人に興味ないし」  おっさんの方を向いて笑い、二人の他に誰も存在しないかのように振る舞った。すれ違うときも日向の顔は見なかった。 「今日、木曜日ですよね。急がないと満室になっちゃわないかな」 「木曜なのに満室?」 「サラリーマンの飲み会は意外と木曜日が多いって聞いたから。だったら、俺らみたいにちょっと遊ぶ人も多いかなって」  日向は立ち止まったままだった。後頭部に目がついていないので、日向がその後どうしたのかは知らない。振り返ってこちらを見ていたのか、そのままどこかに歩き始めたのか。  アルバイト先に来る客が男と歩いていたくらいで、カフェの店員は何も思わないだろう。遭遇してショックを受けたのは理央だけに違いない。 「どうかした?」 「え? どうしようもないですよ?」  日向とはカフェ以外で会いたくなかった。猫を被っている姿以外、日向には見せたくなかった。一緒に歩いていた男と理央の関係には気づかれなかったとしても、男に媚びているところなんて見られたくなかった。本性を隠していた罪悪感と、幻滅されたんじゃないかという懸念――。  ベッドで全裸になったあとも、理央の脳裏には日向の驚いた顔がこびりついて剥がれなかった。 「もう、サイアク……」  気もそぞろになっていたせいで、男への対応に粗相があった。高い駄賃を渡しているのに、相手が心ここに在らずとあれば、おっさんも面白くなかったのだろう。頬を叩かれ、随分と無茶をされた。意識が遠のきそうになる中、男が何も言わず部屋を出ていったときには安堵の息が漏れた。 「はあ、アホらし……」  理央は気持ちを切り替えることもできないまま、フロントからの退室時間の内線を受けて部屋を出た。おっさんがホテル代を払っていかなかったことに悪態を吐く気力も残っていなかった。
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