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ここはヨガスタジオであり、パーソナルジムだ。
オーナーは入会申し込みの際、「きちんと運動することが痩せる近道ですよ」と話をする。
このジムにはトレーナーが3人いる。三人のトレーナーは、それぞれ個性的だった。タイプの違うモテタイプといったところだろうか。
キャラが被らないように三人の男を選んだあたりが経営方針が透けて見えた。
いくつになっても男と女は男と女だ。
歳をとったら、女でなくなる……ということはないと言うことだろう。
中流中年既婚女性は、子育てがとりあえず一段落すると、今度は自分のことを省みるようになる。 しかし、ようやく手が空いたと思っておしゃれをしようとすると、変わり果てた自分の体形に気がつくのだ。もしくは健康診断で注意されたりと、現実は厳しい。
田口弘子もその一人だった。
夫は自分の趣味と仕事ばかりで、私とは用事がなければ会話もない。用事があってもLINEやメールで済ませるのだ。
なんでこんな人と結婚したのだろう。
弘子は冷たい目でリビングのソファーで寝転ぶ夫を見た。
こんなはずじゃなかった。
弘子は小さなため息をついた。
比較的裕福な層が集まるこの町は、そんなに広くない。ジムに通うと自ずと知り合いと会うことになる。
「あら、奥さん。お久しぶり」
「あら奥さんも通っているの?」
そんなことがよく起きていた。
最近毎日のように田口弘子は定岡というトレーナーを予約している。
「……先生、ああ。もうだめ」
汗が田口弘子の頭から、顔から、背中から噴き出している。
「まだまだ!はい、腹筋を使って」
「うううう」
田口弘子はうなる。苦痛で顔がゆがんでいる。
「田口さん、やせたいんでしょ。ファイト」
定岡はハッパをかける。
「痩せよう。もっとキレイになれます。はい、逃げない逃げない」
定岡はいう。 田口弘子は(あああ……)と声にならない声をあげながら体を動かす。
床に寝そべり、脚をあげる。
きつい……
田口弘子はバテる寸前だった。
「はい、お疲れ様でした!」
定岡が時計を見て、終了を告げた。
田口弘子はやっと終わったとグッタリしながらも、測定に向かう。 毎回少しずつ体重が落ちてきている。嬉しくて嬉しくて仕方がない。 ここに通い始めたときは、自分にとってどのトレーナーがいいのかわからなかった。
相田先生と緒方先生にも習ったけど……やはり定岡先生が一番だわ
田口は心の中でつぶやいた。
初めてこのジムに来た時最初に受付でロッカーの使い方を教えてくれたのは相田だったから、田口弘子は最初に相田を指名した。
清潔感のある出で立ち。韓流アイドルのように甘いマスク。切れ長の二重の目でじっと相田に見つめられると、ここがどこだかわからなくなるくらいのイケメンだ。
「弘子様、こちらです」と笑顔で言われ、田口弘子はおもわずきゅんとした。
もう何年も下の名前で男性に囁かれたことはない。
若い頃は男の子たちが弘子ちゃんとか弘子と呼んでくれていたなと思い出した。
合田の挨拶は完璧に田口弘子の心に刺さっていた。
相田は甘い顔で「さあエクササイズを始めましょう」と指示した。
弘子はうっとりとしながら「はい」と答えてしまった。
キツイ……キツイ……無理、無理。
弘子は相田に訴えたかったが、相田に嫌われたくなかった。できないやつと思われたくなかった。
弘子はハアハアいいながら、相田の要求に応えようと足をあげ、ウエストをひねる。 頭の地肌から、脚の毛穴から汗が猛烈に出る。 ようやく休憩になり、田口弘子はタオルで汗をぬぐうことができた。
汗は止まらなかった。
このジムのいいところは、ヨガマットの代わりに使用するバスタオルは無料で貸してくれるところだ。
運動する本人は運動できる格好でくればよい。 もちろんマイヨガマットを持っている人は持ってきている。
田口弘子は何か月続くかわからないジムのためにわざわざヨガマットを買おうとは思えなかった。多少動きづらかったり、よれてしまうかもしれないけれど、バスタオルのほうが汗も吸い取ってくれるし、衛生的と考えていた。
ジムに通い始めて最初の4キロはスルスルと落ちていった。しかし今は停滞期にぶち当たった。
田口弘子はどんなに相田のトレーニングがきつくても泣き言を言わなかったのに、停滞する体重がつらくて測定のたびに毎回泣くようになっていた。
「どうして?どうしてこんなにやっているのに……」
弘子がメソメソする。
「大丈夫ですよ。もうすぐ、もうすぐ停滞期が終わりますから」
相田はニコっと笑って弘子を慰めた。
「もう4キロも……こんなに痩せたじゃないですか、すごいですよ、弘子さん」
「相田先生……私、私、もっとやせられるのでしょうか」
「こんな優秀な生徒さんははじめてですよ、痩せられますよ、大丈夫。僕を信じて」
弘子の目に涙が浮かんだ。
本気で体重を落とそうと考える者にとって、停滞期はつらい。 ましてや、弘子のように三ヶ月で15キロを目標にしていたら、自分自身にかけるプレッシャーも半端ないのだろう。
相田は弘子の両手を握りしめ、「弘子さん、頑張りましょう。僕が一生懸命指導しますから」という。
弘子は手を握られて若返るような気がした。男の人にこんな気持ちになったのは何年ぶりだろう。
弘子は停滞期のことを考えると悲しかったが、つらいと訴えると、相田が慰めてくれるのでちょっぴり心は浮足立った。
床でのきついエクササイズが終わり、田口弘子は床に敷いていたバスタオルを片付けた。今度はバランスボールでの動きだ。
相田は田口弘子の後ろに回り、背中の筋肉の動きを指導する。 相田は弘子の脇腹のあたりをやさしく触りながらここを意識するようにと指示する。その触り方はけしていやらしくはなかったけれど、弘子は喜びを感じていた。
「はい、いち、に……」
弘子はつらくなってきて、目をつぶる。 汗が目に入る。 でも先生の掛け声は止まらない。
ううう、目がしみる……
弘子は目の汗を拭こうと目を開け、タオルを探す。
タ、タオルください……相田先生がいない…… 横で指導していたはずの相田の姿はなかった。
相田の声がする方を見ると、弘子がさきほど使っていたバスタオルを足で操り、相田は床を拭いていた。
田口弘子は愕然とした。 なんか無性に嫌になった。 私が使ったバスタオルで…… 私がいたところの床を拭いている。
なぜかわからないが、涙が出た。
弘子は途中でバランスボールから降りて相田をみつめた。
汗はまだまだ噴き出てくる。 涙か汗かわからなくなるくらいだ。
弘子の視線に気が付き、相田が戻ってきた。 弘子は無言でバランスボールに乗ると、またエクササイズをつづけた。 もう相田に対するほのかな恋心は消えてなくなっていた。
田口弘子は次からは相田の予約をやめ、明るくて裏表のなさそうな緒方を指名することにした。
「田口さん、おはようございます!」
緒方は大きな声で挨拶をする。 弘子は入り口に入った途端、声をかけられ、ビクッとした。
私の予約が嬉しかったとの意思表示なのかもしれない。
弘子は前向きにとらえ緒方に会釈をする。
ロッカーに荷物を置いてスタジオに入ると、緒方はまるで忠犬ハチ公のように田口の準備ができるのを待っていた。
「15キロですか、目標は……。で、いまは4キロ減ったと。あー、停滞期ですかね」
緒方の声がスタジオの中で響く。
なんで声がこの人は大きいのか。若いってデリカシーがない。
エクササイズに取り組んでいる他の人たちが弘子のほうを振り向いた。 ニヤッと笑われたような気がして、弘子は嫌になった。 子どもの学校が一緒のママたちかもしれなかった。
弘子はうんざりした。
「弘子さん、そんな痩せなきゃいけないようには全然見えないですけど……」
「腰回りとか、お腹周りとか…本当ひどいんです!」
「そんなことないですよ」
緒方はジーと弘子のボディラインを見つめた。
大型犬に見つめられているような気がする。
僕と遊んで、遊んで。
黒く濡れた瞳でジッと見つめられるのは、悪い気はしないけど……
「そんなに見ないでください」
田口は笑いながら応えた。
「いや、別にいやらしく見てるのではなくって……見るのも仕事なんですよ」
緒方も顔を赤くして答えた。
「じゃ、始めましょう。まずは身体をあたため、ほぐしていきます」
田口は緒方に言われたとおり、身体を動かしはじめる。
「はい、次は……あ、ちょっと待ってくださいね」
緒方は関係者以外立ち入り禁止の張り紙のある部屋からレジュメを持って出てきた。
え……
田口は少し驚いた。
プロなんだから、そこは覚えてるもんじゃないの?この仕事、初めてなのかしら。
緒方は二十代後半くらいだろうか。皮膚のハリが違っている。
あの頃、私もあんなに頼りなかったのかしら。若いから覚えてないのかもしれない、しかたないのかしらね。
弘子はそう思うことにした。
緒方はレジュメを見ながら、田口に指示を出す。
「はい、こんどは足を開いて…後ろに片足引いて……あ!!!すいません、その前に腕をですね……」
弘子も汗をかいてはいるが、指示をしているだけの緒方も額から汗がにじんでいる。
なんだか頼りないけど、大丈夫?
弘子はちらっとみた。
「す、すいません。じゃ、こんどは床に寝てもらって……やっぱり、あ、えっと寝ないでください!」
田口は緒方の指示の通り動こうとするが、うまく体が動かせない。最悪だった。 その上スタジオ内に小さな笑い声があちらこちらで聞こえる。
田口弘子はまるでバカにされているかのように感じた。
「すいませんでした!」
緒方はエクササイズの時間が終わってから田口に頭を下げた。
「ああ、もういいから。大丈夫だから」
田口弘子は大人のスマイルを浮かべる。
緒方のような男性を可愛いという奥さまたちもいるんだろうけど……。私にはいまは……必要ない。
弘子は年上として緒方を軽く慰めると、スタジオを後にした。緒方はドアのあたりで田口が去っていくのをみていた。
弘子がダイエットする理由は体調とか病気ではない。夫以外の好きな人ができたからだ。いま、彼に会える状況ではなかった。黒田浩司は北海道に転勤になったのだ。 弘子は黒田に会えないうちにこっそり痩せて綺麗になりたかった。
不倫の定義があるなら、それはどこからだろう。 肉体的つながりが不倫だというならば、弘子と黒田浩司の間にはまだ何もない。会社以外で、たわいのないおしゃべりと食事を数回しただけだ。
黒田は弘子の職場の上司だ。お互い家庭があり、子どももいる。安易に肉体的つながりを持つのは危険だった。それは弘子もわかっていた。
弘子は黒田と付き合うことになった時、パートを辞めた。それぐらい黒田との付き合いが大事だった。
黒田は弘子に宣言していた。
「田口さんとは、したくないんだ……肉体的つながりを持ってしまえば、この恋の行方は終わりに向かってしまうから」
私のことがほしくないの? 欲しくて欲しくて仕方ないって思わないの?
弘子は不満だった。
寝なければ不倫じゃない。そう言い逃れするためか。
はたまた私の身体に魅力がないためか。
それともプラトニックラブを貫きたいのか。
全く弘子にはわからなかった。
いまさらプラトニックを求めてどうするのか。
付き合うと決めたら、行くところまで行きたかった。
私がおかしいのだろうか。
弘子は、黒田は潔くないと思っていた。
弘子は黒田が欲しかった。寝たかった。その一線を越えて、私を求めてほしかった。
「君を大事にしたいんだ」
黒田はよくラインに書いてよこす。
私と寝ない理由を美しい言葉で表現する理由はなに? 奥さんや子どもが大事だから? 私とはメル友ってこと? 好きだというのは嘘なの?
弘子の心の中は嵐のようだった。
子どもがいても奥さんがいても、私を抱いて……
危険を乗り越えても、私を欲しがってほしかった。その覚悟をしてほしかった。
だから弘子はこっそり北海道に会いに行こうと計画していた。
3ヶ月後、私はあなたに抱かれにいく。ぜったい抱いてもらうのよ。 だからこのジムに通っている。痩せさせてくれなきゃ困るのよ……私には時間がないのだから。
弘子は可愛い系の緒方でなく、次からはもう1人のメガネをかけた彼を次に指名しようと決めた。 メガネの彼は、そうそう、定岡って言っていたっけ。
もう彼に頼るしかない。
トレーナーに男の色気も可愛いさも必要ない。ただ私を痩せさせてほしいのだ。
定岡は弘子を見て、メガネの縁を指で持ち上げた。 高校の時にいた真面目なクラス委員のようだ 。
「今、停滞期ですね。タンパク質はしっかりとってますか?」
「低糖質に食事してみましょうか」
「mctオイル使ってみましょうか」
弘子のために定岡はさまざまな提案する。
その提案がタイミングよく身体に効いて、今は8キロほど痩せてきたところだ。夏までに間に合いそうでほっとする。水着を着て、彼を誘惑することを考える。
「あー、ちょっと全身を測定させてもらってもいいですか?」
定岡は弘子のウエスト、二の腕、太もも、ふくらはぎ、足首を計測し、パソコンに片っ端から入力した。それから弘子の理想の体型と比べてみせた。
「順調に落ちてきてはいますが……、足首、ふくらはぎがね。バランス悪いですね」
「そうなんです! 昔から足首が太くて……嫌だったんです」
弘子は高校生のときから足首がない脚を気にしていたが、どうやったら足首ができるのかわからないまま今に至っていることを思い出した。
「そうですか。ちょっと足の裏見せてもらっていいですか? 」
定岡に言われ、弘子は足の裏を見せようと靴下を脱ぐ。
「あー、やっぱり。うん、ちょっとやれば足首作れますよ」
定岡は弘子の土踏まずを押し、それからメガネの付け根を指で押し上げた。
「どうします? 足首作りますか」
「は、はい、よろしくお願いします」
弘子は前のめりで返事をした。
……あとひと月半。
私は私史上最高の身体で、あなたに会いに行きます……
黒田のことを胸に抱き、弘子は今日も定岡についてエクササイズをする。
定岡先生、私、あなたから離れません。
あなたから離れることができないんです。
私の身体を美しく直してくださいね。
私にはあなたが必要なんです。
弘子は定岡に熱のこもった視線を送る。
定岡は弘子の視線に気がつき、パソコンから顔をあげて微笑んだ。
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