お別れ

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お別れ

 育児にも慣れてきた昼下がり―――突然、携帯電話が鳴り響いた。俺が最も恐れていた事態が起きたのだ。未来の自分が自分に指示する。   「ほのかが未来へ帰ることができるように準備ができた。帰るときは右側の赤いボタンを長押ししてくれ」    俺は渋々、ほのかに伝える。   「ほのか、未来のパパの所に帰るぞ」   「ほんと? 若いパパとママにはもう会えないの?」   「すぐ会えるよ。そのときまで、バイバイ」    めぐりさんも悲しそうな表情をしたが、無理に笑顔を作る。   「未来のパパとママによろしくね」    ふりかえりながら笑顔ちゃんが言った。   「またね」    それがほのかの最後の言葉となった。言われた通りに、ほのかに荷物を持たせてボタンを押した。それは一瞬の出来事で、ほのかが目の前から光と共に消えたのだ。ほのかは未来へ帰ってしまったのだ。  ぬくもりと想い出だけを残して、ほのかが未来へ帰ってしまい、もうこの世界にはいない。あまりこちらに長くいると、デメリットが生じるという話を未来の自分から聞いていた。こちらで、ほのかがケガや病気をしても戸籍がない。    未来を変える出来事が起こるとまずい。未来に早く帰らないと、ほのか自体が消滅することもありうるのだ。日本、いや世界の何かを大きく変えてしまう可能性もあるのだ。だからなるべく未来に早く返さなければいけないと説明されていたのだが、本当はもっと娘と過ごしてみたかった。   「さて、これからどうしますか?」    俺はめぐりさんに問いかけた。残された俺たち二人。自然と涙が流れていた。無表情な彼女も涙を流していた。そして俺たちは抱き合って泣いていた。こんなに泣いたのはいつぶりだったのだろう?  俺はどうすればいいのかわからなくなっていた。未来は結婚しているのだから、恋人になってもいいのだけれど。でも、現在の彼女が全く俺に対してその気がないのに、彼氏面、ましてや旦那面するのも気が引けた。   「また家政婦として毎朝伺います」    やっぱりそうだよな。彼女は、ほのかのためにここにいただけだ。俺に対する特別な感情が芽生えたわけではないことくらいわかっている。 「今までお世話になりました。これからもよろしくおねがいします」    彼女は深々と頭を下げた。家政婦と雇い主としてよろしくということか。わかってはいたが、少し彼女の淡白な振る舞いに寂しさを感じていた。   「ほのかちゃんにまた会いたいですね」    普段表情の変わらない新城さんが珍しく寂しそうな顔をした。きっと子供好きなのだろう。――ほのかが俺たち二人の子供ならば、俺たちが子作りしなければ存在しないということだよな……?   「もしよければ、恋人からはじめませんか?」    勢いで言葉を発してしまった。考えた末の言葉ではないので自分自身が戸惑ってしまった。一瞬、めぐりさんは動きが止まったが、    「私でよければよろしくお願いします」  相変わらず返事も礼儀正しい人だった。    あまりにも表情に出ないので、本当に俺のことをいいと思っているのかもわからず、確認をする。   「俺のこと好きですか?」   「好きですよ」    こんなにきれいな女性に好きだと言われるとは、想像もしていなかった。   「私の本当の名前は、愛沢みさきです。大学の研究室で働いていたのですが、ストーカー被害に遭い、人間不信になり、見た目も名前も変えて、家政婦の仕事をしながらしばらく身を潜めていました」   「みさきさんは……やっぱり……科学者ですか?」    はじめて彼女の本名を呼んでみた。そして、彼女が地味な格好をしていたという理由もはじめて知ることができた。   「はい。時間の移動について研究していました」    だから英語も堪能だったのか。理系の研究室では英語ができて当たり前と聞いたことがある。知的な彼女ができた。俺にとって人生で初めての彼女だった。    帰り道は勇気を出して手を握ってみた。本当はほのかにえない寂しさから誰かのぬくもりがほしかっただけなのかもしれない。お互い泣いたことで、得たものがあった。二人の距離が縮まったのだ。  同じ喪失感を味わった二人。滅多に見せることのない泣き顔。それをきっかけに座った時の距離が縮まった。極めて近い位置に座っても、違和感は感じられなくなっていたのだ。    二人は恋愛初心者で結婚しても結婚初心者だ。子供ができたとしても、父親、母親初心者だ。初心者ながら一生懸命生きていく。    そしていつかは……もう一度、笑顔がかわいい娘に会いたい。  俺たちは、めぐりあわせという縁によって出会った。彼女の心には俺がいて、俺の心には彼女がいる。未来は一日一日の積み重ねだ。すぐに何日も先に行くことはできない。だから、毎日を大切に二人で過ごそう。そして、彼女の心の傷を癒し、彼女を守ることが俺のさだめだと思っている。                    
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