春の夜は名残り

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春の夜は名残り

 思えばはじめからそうだったのだ。  気がつくのに遅すぎただけ。  目の前をふわふわとしたものが漂っている。  花だ、と思った。花びら。どこから飛んできたのだろうと辺りを見回した。けれど、どこにも花など咲いてはいない。  ベランダの、ビーチサンダルの足下に落ちたそれを指先で拾い上げる。  薄桃色をしていた。  梅のような桜のような──しかし季節はもうその咲き頃を過ぎていた。  引っ越し作業もあらかた片付いた頃合いを見計らったようにふらりと現れた闖入者は、市倉の顔をまじまじと見て、言った。 「なんなのその恰好!」  市倉は眉を上げた。  まあ確かに。  確かにそうだ。  ま、そうかもしれないが。  玄関先で仁王立ちの佐凪(さな)を、戸枠に寄りかかった市倉は腕組みをして見下ろした。 「こないだとは全然違う!」 「そりゃ家だからな」 「家だからって、もうちょっとまともな感じになんないの⁉」  至ってまともである。  この愛用するスウェットの上下の、なにがいけないのか。  市倉は佐凪に言い返そうかと思ったが、思っただけでやめておいた。 「お兄ちゃんがよくても私は嫌だからね、とっとと着替えてきて!」 「はいはい…」  これ見よがしに盛大にため息をついて、市倉は着替えの入った箱を探しに部屋の中へと入った。  着替えて出てきた市倉を上から下まで眺めてから、佐凪は、とりあえず納得したように頷いた。 「まあまあだね」 「どうも」  ジーンズにコットンのニット──いささか伸びきっているが──は、お気に召していただけたようだ。市倉は段ボールだらけのリビングを横切り、まだ手付かずのキッチンに入った。 「何か飲むか?」  時刻はそろそろ昼になろうかというところで、朝からばたついていた身としてはここらで一息入れたい気分だった。 「ねえ、──お兄ちゃんは?」  家の中を興味深そうにあちこち覗いていた佐凪が廊下の奥から言った。 「今日は学校」  佐凪が好みそうなカフェオレと自分の為にコーヒーを淹れていると、佐凪がリビングに戻ってくる。  まっすぐに自分の方に来た佐凪に市倉はカップを渡した。  カップの中身を見てから、佐凪は顔を上げた。 「テーブルは?」  リビングにはいまだ開封されていない段ボール箱が壁近くに積まれてあるだけで、椅子もテーブルも、家具らしきものは何もない。キッチンのシンクはリビングに背を向けて壁に備え付けだ。その反対側の間仕切りも兼ねているカウンターが、唯一の物を置ける場所だった。今そこには市倉の携帯と車のキーが置かれている。 「まだ。昼過ぎに匡孝を迎えに行って、そのまま買いに行くことにしてる」 「ふうーん」  佐凪はカウンターに寄りかかり、カフェオレを飲んだ。市倉も自分の物を飲む。小さく落ちた沈黙に、窓から暖かな風が吹き込んできて、外で遊ぶ子供たちの声が部屋の中を通り過ぎた。 「一緒に行くか?」  くす、と佐凪が笑った。 「行かないよ、私も用事あるし」  そうか、と市倉は言った。  佐凪がカウンターの上にカップを置く。 「何時に迎えに行くの?」 「13時半」  市倉は携帯の時計を確認した。11時58分。車のキーを持ち、財布を探した。 「じゃあ時間まで俺に付き合うか?」  え、と佐凪が不思議そうに市倉を見た。その驚きに満ちた目が匡孝によく似ていて、市倉は内心苦笑する。 「何か食いに行こう」  部屋の片づけは後でいいだろう。  佐凪を促して玄関の方へと歩かせた。  佐凪に初めて会った時、匡孝と良く似ていると思った。顔だちは匡孝のほうが柔らかく、佐凪の方が鋭い印象だ。その後ろに控えめに立っていた弟の拓巳は上のふたりとはあまり似ておらず、どちらかと言えば父親似なのだろう、背も匡孝よりも高く体格もよかった。  匡孝の祖母は、穏やかでしっかりとしている人だった。  普通ならば、あの年代にとって──嫌悪があればどの年代でも関係はないが──受け入れがたいことであると思うのに、同居の許しをもらいに行った市倉を、温かく迎え入れた。 『あら本当に、さあちゃんの言う通りだったわね』 『そうでしょ、おばーちゃん』  どうやら自分の与り知らないところで噂のネタにされていたようだと思った。  とにもかくにも最初が肝心なのだ。  市倉は匡孝が驚くほどにしっかりと決め込んだ服装で、頭を下げた。 『市倉です。どうぞよろしくお願いします』──と。 「詐欺よね」  騙された、と佐凪は長いスプーンでパフェをざくざくと掻き回し、下のほうから掬って口に運んでいる。  随分と面白い食べ方だなと市倉はそれを眺めていた。  普通は上から食べるものだろうに。 「おばーちゃんはがっかりするだろうなあ」  底から掻き出したコーンフレークを、ぱくりと食べる。  どうやら家での市倉の姿がまだ佐凪の頭から離れないらしい。そんなにも落胆せずともよかろうと、市倉は苦笑した。 「悪かったよ」  今度来るときは連絡してから来いと言うと、ふん、と佐凪はせせら笑った。 「思ってないくせに」  市倉は肩を竦めた。 「ばれたか」 「あっちが本当でしょ」  およそ中学生とは思えぬ大人びた目をしていた。 「そう、あれがいつもの俺だよ」  目の前のサンドイッチを齧る。ふた口ほどで食べ、コーヒーで流し込んだ。佐凪もパフェを食べることに集中して、手元に視線を落としている。  ざわざわと騒がしいコーヒーチェーン店の昼食時、席を取れたことが運がよかったと思えるほどだった。今日は春の連休の中日、窓の外にはいつもよりも人の多い見慣れた駅前が見える。  結局最寄駅を変えることなく、引っ越し先は以前よりもわずかに駅よりの場所に落ち着いたのだった。匡孝の通う専門学校はここから電車で30分ほどの距離にある。  今日は昼で終わるようだ。 「がっかりしたか?」と市倉は苦笑した。 「べっつに」  唇を尖らせて、わざとらしく言う佐凪はやはり中学生の女の子だ。  ちらりと市倉を上目に見て、顔を顰めてみせた。 「でもおばーちゃんをがっかりさせないでよ」 「ああ」 「うちにくるときは、ちゃんとしといて。ちゃんとカッコよくして来て」 「ああ、そうする」 「分かった?」 「分かったよ」  いまいち信用できないような顔で佐凪が押し黙る。  まだ何か言いたそうにしているので、市倉は佐凪が言い出すまで待つかと、もう冷えたコーヒーを啜った。  肩を少し過ぎたばかりの髪を指先で弄ぶ。小さな手だな、と匡孝が言っていたことを思い出す。 『…佐凪はさ、気が強いんだけど寂しがり屋で、ちっちゃいときはいつも手を握っててやらないと寝なかったんだよ』  気の強さは心細さの裏返しだ。兄がひとりで自分たちの世話をしてきたその姿を間近で見てきたのだ。自分がしっかりしなければと、兄の為に、佐凪は強くありたいと思っているのだろう。 「あのさ…」  ぽつりと佐凪が言った。  市倉は顔を上げた。  こちらを見る佐凪の視線とぶつかる。 「お兄ちゃんは…ああ見えて頑固だから」  頷いて、市倉は目でその先を促した。  佐凪はふっと視線を逸らして、俯いた。  テーブルの上には、パフェのグラスの表面から落ちた水滴が点々と散らばっている。 「だから、寂しくても辛くても、あんまり…自分からは言わないから」  そっぽを向いたまま佐凪は水を飲んだ。 「そうか」市倉も水を飲んだ。  水は微かにレモンの味がした。 「教えてくれてありがとう、」  ぴくり、と佐凪の肩が震えた。 「ま、知ってたかも知れないけどさ」  途端に口の端を持ち上げて笑う佐凪の頬は赤く染まっていた。名前を呼ばれて照れているのが一目瞭然だった。  市倉は笑いをかみ殺してまた水を飲む。腕時計を見れば、いい頃合いになっていた。そろそろいいだろう。 「出ようか」  トレイを持ち上げて立ち上がると、佐凪がつっと寄って来て、市倉の服の袖をくいっと引いた。何かと思って振り向くと、精一杯顔を近づけてきた佐凪が、市倉にだけ聞こえるように口元に手を添えて──囁いた。「ねね?」 「…ベッドはもちろんひとつだよね?」 「……」  見下ろすと、してやったりという顔をして佐凪は笑っていた。  これはこれは。  その頭をくしゃくしゃに掻き混ぜると、佐凪はぎゃあ、と声を上げた。 「バカッ!なにすんのよおっ!」  振り上げられた手を軽くかわす。 「この耳年増め」と言って市倉は笑った。  初めて匡孝の祖母の家に行った時、市倉は匡孝の弟の拓巳と10分程ふたりきりになった。  ほかの3人が台所で食事の支度をしている賑やかな声の中、傍に寄って来た拓巳が市倉に向かって言った。 『あの、聞いときたいんですけど』  何?と問いかけると、意を決したように拓巳はまっすぐに市倉を見た。 『姉ちゃんが…兄ちゃんははじめからそうだって言うんだけど、あなたは、違いますよね…?今までは、お…女の人、だったんですよね?』  市倉は頷いた。 『そうだね』 『じゃあなんで、こんな──いや、嫌だとか、そういうんじゃなくて、どうして兄ちゃんなのかなって。好き、な、気持ち?…変わったり、また女の人好きになったり、したら』拓巳はそこで息をついた。上手く言えない考えを整理しようと、唇を噛み締めている。  大丈夫だよ、と市倉は言った。 『俺はね、あんまり元々──人に執着しない性質(たち)でね』拓巳がじっとこちらを見つめている。市倉は微かに自嘲するように笑った。『女性と付き合ってても面倒だと思うばかりで、長続きしたためしがなくて、はじめから興味さえないことだってあったかな』  物にも人にも執着がない。  物心ついた時からずっと家族の縁も薄かった。  いずれ手離してしまうものだという思いは、いつも重しのように市倉の中にあった。  一歩踏み出せない足枷。  ぐるりと張られた境界線に、勘のいい女性はすぐに気づく。  だから大抵相手のほうから去っていくのだと言った。 『ひどいっすね』 『だろ?』  顔を顰めた拓巳に、市倉は同意した。 『でも、君のお兄さんは、ずっと、頭から離れなかった』  最初は、どこからだっただろう。  何度やっても赤点ばかりのテスト。呼び出した時の曖昧な返事。  好きだと言われ、戸惑って、素っ気なくもしたのに。  なのに、遠ざけようとしても笑ってくれるのが嬉しいと思っていた。  放課後の教室、廊下ですれ違うその瞬間、話しかける視線、バイト帰りの夜道…  けれど、覚えているのはもっと前だ。  花が舞っていた。  ひらひらとどこからともなく落ちてくる。  立星での最初の授業の日、校門を入ってすぐのところにいた生徒に話しかけた。  ──ちょっと聞きたいんだけど。  振り向いたその生徒の、その顔を知っている。  それよりも前の、あのとき。  そうだ── 『ただ、好きなんだ』  その存在を傍から離せないほどに。  そう言うと、拓巳の顔が呆けたようになり、そしてみるみる真っ赤に染まった。 『他の誰にもそんなふうに思ったことなんてない。俺は君のお兄さんが好きだよ』  心配しなくていいよ、と市倉が言うと、拓巳は真っ赤な顔で俯いて小さな声でうん、と頷いていた。 ***  13時半過ぎに匡孝が駅の改札から出て来た時、市倉と佐凪はロータリーに停めた車の横に立っていた。 「佐凪?」  驚いた顔をして、人波を抜けて匡孝が駆けてくる。  佐凪が大きく手を振った。 「お兄ちゃんおかえりー」 「なに、どうした?──せ、…(まもる)さんごめん」  佐凪を見て、それから車に寄りかかる市倉に目を移す。  その時、佐凪の目が一瞬きらりとひらめいた気がしたが、市倉は気づかないふりをする。 「昼前にうちに来たから、一緒に昼飯食べたんだよ」 「えっそうなの?佐凪、来るときはちゃんと連絡してこないと──」 「いいでしょ、行きたかったんだもん」 「さーなっ」  悪びれずに返した佐凪に、匡孝が声を上げる。いいから、と市倉が言うと、匡孝は諦めたようにため息をついた。  ふふ、と佐凪が笑った。 「じゃあ私帰るから」  えっ、と匡孝が言った。 「帰るの?用事があったんじゃないのか?」 「あったよ。でももう済んだし。じゃあまたね、お兄ちゃん──」そこでくるりと市倉を振り返り、満面の笑みで言った。「も、またね」  目を丸くした匡孝にひらりと手を振って、さっさと改札口目指して、佐凪は走り出していた。  その姿が見えなくなった頃、匡孝が振り向いた。 「用って…?」  なんとも言い難い顔をしている匡孝を見て、市倉は肩を竦めてみせた。 「数を確認しに来ただけだよ」 「数?」  首を傾げる匡孝に微笑んで、車に乗るように促した。 ***  夜、少し開けた窓から暖かな風が入ってくる。  閉じたカーテンが揺れている。  傍らで眠ってしまった匡孝の目尻に唇を押し当てると、市倉の背に縋っていた手が、ぱたりとシーツの上に落ちた。  どこからか風に乗ってくる甘い匂い。  春の香りに誘われるように、市倉は匡孝の髪をかき上げて、その額に口づける。抱き合った後、いつまでも離せない体をさすって、自分の胸の中に抱き込むと規則正しい匡孝の呼吸が心臓の辺りを湿らせた。  もうきっと離せない。  拓巳の心配は杞憂に終わるだろう。  思えばはじめから──そうだったのだ。  気がつくのが遅すぎた。  あのときから、あの一瞬で、引き寄せられていた。 『春休み?』  驚いたようにこちらを見た目。  どうして声を掛けたのか自分でもよく分からないまま、市倉は、自分が笑っていたのを思い出す。 『高校生?』  気がつけば言葉が出ていた。 『はい…そうです』  その声が、その顔が、いつまでもなぜか記憶に残っていた。  だからあのときすぐに分かったのだ。  ああ、彼だ、と。  ひらひらと舞う花びらの中で振り返る彼が、あのカフェで声を掛けた高校生だと。  ──何ですか?  そして記憶と同じ声で、匡孝はそう言った。 「……」  柔らかな髪に顔を埋めると、甘い香りがした。  あの花の名残りのようだと思った。  消えてしまいそうだ。  確かめるようにきつく抱きしめる。意識のない体はどこまでも柔らかく温かかった。市倉は唇で耳のかたちを辿り、細い首筋を撫ぞった。  ちか、と思わず呟いた。  なめらかな肩口にかかる吐息がくすぐったいのか、腕の中の体がわずかに身じろいだ。 「…ま……ん…」  匡孝が言い慣れない名前を呟く。 「…悪い、起こしたか?」  返事の代わりに首に手が回される。  薄く開いた目に見つめられ愛しさが込み上げる。  どうしようもなくなる熱を押し当てた。  今日は結局テーブルを買っただけで終わった。ベッドは今度の休みに見に行くことになった。  だが。 「……っん…」  佐凪の言うように、家具を無駄に増やすこともないなと、その唇を塞ぎながら市倉は思った。
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