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後日
いつも思うが、麻酔というのは恐ろしい。
言われた通りの十も数え切れぬうちに、何日も徹夜した時よりも強力な睡魔にあっという間に昏倒へと引きずり込まれ、その間に皮膚を切り裂かれ血を入れ替えられ内臓を切ったり貼ったりされたり、どれだけやりたい放題に体を蹂躙されていても何も気付かない。
そのまま死んでも気付かない。
もしも執刀医たちがとんでもないマッドサイエンティストで、あたしの体を機械にしたり映画に出てくる超人みたいに改造してても、抵抗もできずにやがて目を覚ましその完成体を受け入れるしか無い。
受け入れるしか無い。
目を覚ました時に、その目に映る現実を。
自分にはどうにもできない、どうにもできなかった、全ての事実を。
「アイカ!!」
あぁ、ユウの声だ。
またベルト持って来て怒られたりしてないかな。
あんなむさい男たちの血と汗と雑菌が大量に染み込んだ汚染物質、手術後の患者の前に出しちゃ絶対駄目に決まってんのに。
「アイカ!!」
相変わらずでかい声だなぁ。
でも、真っ直ぐで、温かくて、無骨なのに柔らかい、心地のいい声。
あぁ……あぁ、そうか……あたし、生きてるんだ。
「アイカ!!」
起きなきゃ……ユウが待ってる……起きないと……目を……開けなきゃ……。
「アイカ!!」
ゆっくりと瞼を上げるアイカに、ベッドサイドの椅子に腰掛けて手を握っていたユウが立ち上がり、また大きな声でその名を呼んだ。
「は、は……ひ……さし……ぶり……」
まだ上手く言葉が紡ぎ出せないが、それでもなんとか最大限に笑って軽口をたたき自分が大事無いことを伝えてみながら、少しずつ定まっていく視界の中で、ユウの顔に白い影のようなものがへばり付いているのをぼんやりと認識する。
「あ……れ……?
か……お……。
もし……か……して……」
負けちゃったの?
と冗談っぽく聞きたいが、舌が回らず息が続かず、そこで言葉を区切り深呼吸していると、ユウは首を横に振った。
そのまま無言でアイカを見詰めるユウの顔にある白い影が、彼の右目を覆う眼帯であることが判明するまでに数秒を要したが、その過程で、ユウの向こうで作業をしながら時々気の毒そうにこちらをちらちらと見る、あの若い看護師の視線も同時に捉えた。
何か察して口を開きかけたアイカだったが、その言葉を制するように、
「僕は勝ったよ。
そしてアイカも勝った。
ただ、僕の右目はもう二度とアイカを見ることもできなくなった」
早口で淡々と、ユウが告げた。
「え……」
「片目でもたぶんこれからもずっと負けることは無いし、隻眼のチャンピオンなんて漫画の伝説の男みたいでかっこいいけど、危険過ぎるから認めないって、医者にも協会にも言われたよ。
会長は号泣してたな」
「え……」
「あたしも試合の動画観たんですけど、あれ絶対わざとですよ。
なんか反則みたいな感じで完全に目を狙ってきてたようにしか見えなかったもん。
でもその後、相手が倒れるまでほんの二秒で、ドクターストップかかったのは相手の方で、そのまま試合終了になったんですよ。
あの人、あの後大丈夫だったんですかね、
医療従事者からすると相当危険な感じに見えたんですけど」
どうしても興奮を抑え切れなかった看護師が、話に割り込み経緯を説明しながらいつの間にか自分の感想を伝え始め、背後の医者に背中をこづかれて慌てて離れた。
「反則だろうとダメージを受けたのはこっちの油断なんだからそんなのはどうでもいいんです。
そもそもはルール無用でとにかく何をしようが戦って勝った者が正義、というのが格闘なんですから」
律儀に振り返って答えているユウの横顔を、アイカは麻酔とは別の要因から再び朦朧としてきた意識の中で見詰めていた。
受け入れるしか無い。
目を覚ました時に、その目に映る現実を。
自分にはどうにもできない、どうにもできなかった、全ての事実を。
だけど、それは自分のことだけだと思っていた。
ユウの身に何か起こるなんて、考えたことも無かった。
勝った、って、一体何に?
ユウは、ユウの体の一部を失ってまで、何に勝ったの?
それは勝ったことになるの?
もう二度と戦えなくなったら、これからはずっと勝つことなんてできなくなるのに。
格闘馬鹿が戦いを奪われて、一体何が残るっていうの?
呆然と天井を見詰めるアイカの瞳から、一筋の涙が伝い落ちた。
が、それをそっと指先で拭いながら、
「格闘馬鹿が戦いを奪われて一体何が残るんだ、とか思ってるんだろ」
ユウが小さく笑って言った。
目を閉じ無言で頷くアイカの頭を優しく撫でたユウは、
「別にリングの上だけが戦いの場じゃないし、格闘だけが僕の全てじゃないだろ?
今までずっと格闘一本で生きてきたのならなおさら、本当はできるのにやったことの無い、自分もまだ知らない新しい才能だっていくらでもあるはずだよ。
だから、これからは一緒にそれを探そう」
と、いつもと変わらぬ真っ直ぐな左目でアイカを見詰め、
「僕は何にも絶対に負けないよ、自分の人生にもね」
そう続けて微笑んだ。
再び伝い落ちる涙もそのままに、アイカはしばらく黙って目を閉じていた。
が、
「……いつもいつも、いちいちかっこつけすぎなんだよ、恥ずかしいな、馬鹿」
ふいに起き上がって思い切りユウに抱きついた。
諸々の医療器具が体から外れ、医者と看護師たちが大慌てで駆け寄ってきたが、アイカを抱き返す元チャンピオンの力強い腕は彼らの手では引き剥がすことができず、やがてさすがに変調をきたし始めたアイカに気付いたユウがその腕を離すまで、苛つきながら見守っていた。
終
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