前日

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病室に差し込む西日がベッドにかかり始め、横になっている女への気遣いか、ベッドサイドの椅子から立ち上がった男がそっとカーテンを閉めた。 「ありがと……でもそろそろ練習に戻ったら? 前日だからっていつも通りやった方がいいんじゃないの?」 と笑いかける女に、 「できることは全てやってきたよ、僕の方は問題無い。 それよりアイカの方が心配だし大事だ」 振り返った男が真剣な眼差しを向ける。 「ふ、ふ、嬉しいけどね……。 でも結局これって、あたしやユウの頑張りでどうにかなるものじゃないじゃん。 どうせあたしは寝てるだけなんだし、ユウだって祈ったり励ましたりしてるだけじゃ退屈でしょ。 いちばん頑張るのはオペをするお医者さんたちだよ」 「僕が祈るのも励ますのもアイカの力になる、絶対。 それに、病気と戦うのは患者本人で、医者はそれを助ける係なんだよ。 本人に治す気がなければ、治るものも治らないって聞いたことがある」 「別に治す気が無いわけじゃないよ。 ただどうせ戦うなら、あたしだってユウみたいに病気を直接ぶん殴ったり蹴っ飛ばしたりしたいなぁって思うから」 そう言ってアイカは笑うが、その痩せ細り引きつった笑顔は、ユウが知っている、共に溌溂(はつらつ)と暮らしていた頃のものでは無く、ユウは拳を握り締めて病に対する己の無力さを呪った。 「僕だって……できるならそうしたい。 でも僕にできることはリングの上での殴り合いだけだから……。 だから明日は……相手を病魔だと思って木っ端微塵にぶっ倒してくる」 「あ、は、は、そうだね、それがいいよ。 だから今日はもう最終調整してきなって。 どうせもう時間だよ」 時計から病室の入口に目を移すと、恐らく看護師のものと思われる足音が近付いてくるのが聞こえ、ユウは大きく息を吸ってしばらく(とど)めた後、呼吸と共に不安や苛立ちを吐き出し終えると、 「……絶対に勝って帰ってくる」 低くも強く決意を口にした。 「あたしだって負けないよ。 また二人で海とか山とか行きたいもん……って、うわっ!? く……くるしい……」 ふいに固く抱きしめられたアイカがくぐもった声を漏らすが、ユウは離すことなく、もしかしたら最後になるかも知れない、温かく柔らかいアイカの愛おしさをその身に深く染み込ませていた。 「引っ……張らないで……て……点滴取れる……」 無駄な細胞などただの一つも無い、細身ながらも戦うためだけに作り上げられた野生の肉食獣のようなユウの身体に抑え込まれ、アイカが力なく抵抗していると、 「あの……ちょっと……やめてください」 部屋に辿り着いた看護師が、恋人同士の大事な時間を邪魔してはいけないと思いながらも、度が過ぎていると判断して駆け寄ってきた。 「はぁ……ったく……現役チャンピオンと寝たきりの病人なんて、絡むには高低差ありすぎだって……」 やっと解放されたアイカが笑いかけるが、ユウはそのまま振り返ること無く看護師の脇を足早にすり抜け、 「絶対に勝って帰ってくる」 背中越しに言い残して病室から去って行った。 「またまたかっこつけてるなぁ……すみません、格闘馬鹿なもんで何かと粗暴で」 「いやいやいや、格闘馬鹿どころか、あのユウ・クロウでしょ? 格闘技とか全然興味無いあたしでも知ってますよぉ、無敗のイケメン王者。 本当に強い人って顔を殴られることなんて無いからイケメンなんですよねぇ、きっと」 若い看護師が、確かにまるで無知であるような底の浅い意見を伝えながら、羨ましげな顔をする。 「あはは、そんなにイケメンかなぁ、付き合い長くてもうよくわかんないや。 それにたぶんこの帰り道で泣いてると思いますよ。 振り返らなかったのも、泣き顔見られたくなかっただけだろうし」 「えぇー!? そうなんですかぁ!? 信じられないなぁ……」 看護師はユウが出て行った入口をしばらく眺めていたが、しかしやがて振り返り、さっきまでとは異なる真剣な目をアイカに向けると、 「……これからのスケジュールを説明します」 と手元のファイルを開いた。 「はい」 とうとうこの時が来たなと、ベッドに横たわったアイカは、すっかり見慣れた天井のカーテンレールの小さな汚れを見詰めた。 あたしだって、ただ死を待つためにここにいるわけじゃないんだ。 絶対に元気になって、ユウの試合だって本当は全部最前列で見なきゃいけないんだから。 あたしだって、負けない。
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