桜花は一片の約束

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 ――あれ?  クラフト紙が表紙のシンプルな手帳。毎年わたしが気に入って使っているものだ。  書いてあるのは予定、やることリスト、忘れたらいけない連絡先などなど。今時、スマホの手帳アプリを入れてしまえば用のないもの、それが紙の手帳だ。  大体荷物が増えて重くなるだけじゃない、とカバンの中に口紅を常に3本は常備している佳苗に言われる。3本の口紅はどんな時に塗り替えられるのか、わたしはいまだ知らない。  中を覗いていつも通り、びっしり小さな文字で書き込んだ手帳には年末までの予定が漏らすことなく書かれていた。ああ、そんなこともあったな、と脳裏にかすめる。『2019』、これは去年の手帳だ。  そう思うとなんだかやさしい気持ちになって12月からぱらぱらとページをめくる。笑っちゃうような思い出、しみじみと味わうようなもの、切なくて胸がじーんと来るもの。  すべて、去年のわたしだ。  目をとめたのは、4月のフリーページだった。  薄い、紙よりも薄いそのひとひらを見つけた。  手帳を閉じる。  激しく胸は鼓動を打ち鳴らして、閉じた手帳をぎゅっと机に押し付けた。  うかつだった。どうして忘れていたんだろう? 確かに忘れてしまうことこそわたしの一番の願いだった。なのに、思い出してしまった。たったひとひらの桜の花びらで。  ◇  彼と出会ったのは記念公園を散歩しているときだった。春らしく麗らかな日で、同時に時々砂埃が舞った。わたしはそれをやり過ごしながら、ブルーシートを敷いて思い思いにお花見をする人たちを避けて花を見ていた。  中でも森林散策コースという細い道に入ったところにある一本のソメイヨシノがキレイだと売店の人に聞いて、それを目当てにやってきたのだ。  みんながお花見をしていた会場では花はこれでもかと花弁を散らしていたけれど、ここは林に覆われた日陰で、桜の花は十分保たれ、そこだけが暗い林の中、発光しているようだった。  桜は斜面にせり出すように生えていたので間近に花を見ることはできなかった。それだけが残念だった。  すると、その斜面から何かが登ってくる気配がした。  熊、というほど田舎ではない。この辺で猿などの野生動物を見たという話も聞かない。ザッ、ザッという不規則な音で登ってくるそれの正体を確かめようと、逃げたらいいのになぜかわたしは立ち尽くしていた。 「なんだ、まだ実がなってないじゃないか」  その、大学生かと思しき少年は舌打ちしそうな勢いでそう言い放った。そしてソメイヨシノの幹近くに腰を直に下ろすと、ため息をついた。 「誰だよ、こんなこと思いついたやつ……」  彼はゆっくり斜面の上を振り返り、そこにいたわたしは彼を見ないふりは今さらできっこなかった。でも、できるだけ平静を装うことに決めた。 「あ、ごめん。先客だった? 俺はもう行くからゆっくりどうぞ」 「あ!」  彼は不審そうな顔で、デニムの汚れを叩きながらわたしを振り向いた。  どうしよう。言おうか言うまいか、気持ちが逡巡する。やたら物知りっぽく思われるのも嫌だし、上から目線だと思われるのも嫌だと思った。  どうしたらいいんだろう……。 「あの、ここには一本しかありませんけど、向こうの開けた方には長い並木道もあるし、あちこちに桜が」 「ほんとに!? 助かる。無いと困るんだよ。行こう、案内して」  見知らぬ彼は見知らぬ手でわたしの手を掴み早足で歩き出した。彼は赤と青のツートーンの手袋をしていたが、アウトドアグッズのことはよく知らないし派手な色だなと思っていた。その感触は、ウェットスーツのようでもあり、ウールの手袋のようでもあり不思議なものだった。  とにかくわたしは彼に引きずられて暗い森林地帯からまた陽光の下に連れ出された。 「なんだよ、この日差し。聞いてないよ。念の為長袖で来たけどさぁ」  確かに彼はしっかり着込んでいた。気温は20度になるというのに、ぴっちり、上着の袖もまくらずに、そして極めつけはウエスタンハットのような帽子だった。それほど目立つ大きさではないとは言え、その帽子は流行りとは外れた異色のものだった。 「今日は、特にお花見日和ですって、ニュースで」  そのまま繋がれた手をいつ離したらいいのか気にしながらわたしは話した。なにしろ彼は目に映るものに興味を引かれていて、わたしの存在などすぐに忘れてしまいそうだったから。 「『お花見日和』。ふーん。あんた、名前は?」 「関口真桜(せきぐちまお)。真実の『真』に『桜』で真桜。4月生まれなんです」  ハッとする。  知らない人に名前の言われや誕生月をぺらぺら話すなんてどうかしてる。手を繋いだりしてるから、心が緩むのかもしれない。 「俺は春来(はるき)。3月の頭に生まれたらしいよ」 「三寒四温の頃?」 「『三寒四温』? なんのこと? 真桜は古典でも専攻してんの?」 『三寒四温』、寒い日が3日、温かい日が4日。春の兆しだ。でもそういう四字熟語を知らない人も多い。特に理系の男の子なんかは疎そうだ。春来を見ていると、とても同じ文系の子とは思えなかった。 「お! 真桜、あれじゃないか? 『桜色』って言うけど真っ白だな」 「今日は快晴だから、特に白く見えるかもね」  彼はまた気がはやってしまったようで、わたしを掴む手にぐっと力が入る。そしてそのまま男の人の歩幅でどんどん並木道に近づいて行く。  風が、誰かのため息のような微風が、ようやくしがみついていた花びらを風に舞わせる。  うわっ、と強い風がそのあとからついてきて、わたしは目を伏せた。  ひとしきり風が止んで、気がつくと彼の手はなくて、その彼は並木道の真ん中で両手を広げていた。 「……春来くん?」  ゆっくり目をこちらに向けると、わたしを見てにっこり笑い、ゆっくり、両手を下げた。 「真桜、すごい。俺、桜に」  彼のした動作に周りの人は奇異な目を向けて通り過ぎたけれど、彼はお構い無しで上機嫌だった。 「初めてだ。青い空、砂埃を飛ばす風、それに舞い散るソメイヨシノ。花の中心が紅いから、花がたくさん集まると薄紅色に見えるんだな。よくわかった。だれもこんな体験、してないんじゃないかな」  青い空に春来の笑顔がよく映えた。  デニムのポケットからくたびれた500円玉を出すと、春来は売店で飲み物を買ってくれた。ベンチはどこもいっぱいで、わたしたちは芝生に直に座ってペットボトルのキャップをひねった。 「いいもの見れた。真桜のお陰」 「よかった、そう言ってもらえると。でもほら、実がほしいって言ってなかった?」 「……ああ、でも無理だろう? まだ花盛りだからな。それよりいいものが見られたし」  ふうん、とよくわからないわたしは適当な相づちを打った。  目の前には並木道だけではなく、うねるように穏やかな丘も並んで、所々に桜が枝を広げていた。 「ソメイヨシノってのはさ、江戸時代に交配されて作られた品種なんだ。なんでだろうな? 河津桜とかさ、他にも桜はいろいろあって、紅色がはっきりしてるものも多いのに、日本人の心をガッツリ掴んだのはソメイヨシノなんだからさ」 「詳しいんだね」 「あー、ちょっとなにかで読んだだけ。それでさ、ソメイヨシノってキレイなんだけど種で繁殖できないんだ」 「繁殖?」 「種を撒いても出てこないってことだよ」  小学生のころ、校庭に赤くてしぼんだ実がぽろぽろ落ちていて、みんなで『さくらんぼ』だと拾った。でもとても食べられそうになかった。先生たちも「拾っても食べたらいけない」と言った。それと関係があるんだろうか? 「ソメイヨシノの実って、さくらんぼって言えないほど小さいよね」 「つまり、繁殖能力より花を咲かせる方に能力を全振りしたわけだ。あ、さくらんぼだと思って食べるなよ? 青梅と同じく青酸化合物入ってるから腹壊す」  なるほど、先生たちが言いたかったのはそのことだったのか。確かに小学生に『青酸化合物』は理解できない。 「じゃあ、なんでその実を?」  んー、と春来は眉根を寄せてうなった。考えている。なにをそんなに迷っているのかと心配になって、別に言わなくてもいいんだよ、と言いかけた。 「研究をさ、してるんだ。植物の研究。そこで俺は桜をテーマにしている研究室に所属しててさ、まあ、なんていうかジャンケンに負けてここに来たわけだ」 「……うん」 「えーと、ここからが話すのが難しいところなんだけど、俺たちの住んでるところにソメイヨシノはほとんどないんだよ」 「北国なの?」 「そう思ってくれていい」  通りで服装が重装備なはずだ。チラッとのぞく手首が女の子のもののように青白い。北海道なのかな、そんなに寒いとこなんだ、と思った。 「そういうわけで、俺たちの住んでるところでも咲くソメイヨシノを作ろうと研究してるんだ。ただ、だれかのミスで実が足りなくなって、ジャンケンってこと」  わたしはちょっとおどけたふうに話す彼の言葉にくすくす笑った。 「そうなんだ、研究ってよくわかんないけど大変なんだね」 「まあな、これも下っ端の仕事だから仕方ないけど」  と、頭の中にある考えが過ぎった。それは桜前線のことだった。桜前線に乗って旅をすると、南から北までずっと開花した桜が見えると。 「ねえ、桜前線を下ってみたら?」 「桜前線?」 「ほら、気象庁が発表する桜の開花予想の。南から北に向かって咲いていくじゃない。ここはいま、散り際だからもうちょっと南に行けば」 「もう散ってる?」 「そう。もっと南下して行けば上手くすると実が手に入るかもよ」  するっとわたしの首の後ろに手が回って、彼の頬がわたしの頬に吸い付くように重なった。 「行けるかも! ありがとう。一度、研究室に戻らなくちゃいけないけど提案してみるよ。ほんと、ありがとう!」  どういたしまして、とわたしが曖昧にそう言おうと笑った瞬間に、ピピピッと電子音が鳴った。 「ヤバい」  ガバッと春来は立ち上がり、和んだ空気は一瞬にしてほつれた。わたしは瞬間的に手を伸ばして、彼の帽子の縁に張り付いた花びら1枚を摘んだ。 「これ、付いてて」 「お、ありがとう。あっちに持って帰るわけに行かなかったから助かる。同じ花なのに微妙に遺伝子の塩基配列が違うんだよなぁ。どこかで混じってもいけないし」  じゃあな、と彼は軽やかに出会った森林散策コースの方に走り出した。待って、となにも考えずに声に出す。その声は思っていたより大きかったようで彼は急ぎながらも振り返る。  帽子がひらりといたずらに風に飛ぶ。 「うわっ」と彼は手を伸ばしたけれど帽子は遠のいて、わたしの近くに落ちた。 「真桜、その帽子、捨ててもいいから」  足が絡みそうに不格好な走り方で彼は走り去った。わたしは追いかけるのをやめて、転がってきた帽子を手に拾った。西武映画に出そうな不思議な……。  帽子を手に取った頃、彼の姿はもう見えなかった。  わたしはさっき彼に付いていた薄い花びらを一枚、手帳のフリーページに挟んだ。  ああ、これはもうきっと会えないってことなんだ。  帽子の製造年は『2120』。2120年だ。  彼の話していたのはきっと、未来の日本の話なんだろう。桜がなかなか咲かないなんて、どんな世界なんだろう?  がんばって長生きしたって、どんなに手を伸ばしたって、届きそうにない。  帽子を胸に抱いて、これは誰にも知られないようにしなければいけないと思う。公園のゴミ箱に捨ててしまおうかと考えて、やっぱりできない。そのまま。  学生寮のクローゼットに、UNIQLOの袋に入れてそっとしまった。誰にも知られないよう、タグの部分を切り取って。  ◇  どんよりと黒い雲が立ち込める。この週末の荒天で、今年の桜は散ってしまうと天気予報は告げた。確かに雨雲レーダーの予想は濃い青色の部分が通り過ぎて行く。  強い風と雨に晒され、桜の花びらはすべて水浸しになって散るに違いない。その前に公園に行って見てこようかと思ったけれど、何度同じことを考えては思いとどまる。  100年後の世界のことを考えているなんてわたしはバカだ。  あの後、今後100年のうちに起こるかもしれない地球の環境変動についての本を読み漁った。でもそんなことをしても無意味だった。どの本も「かもしれない」で終わっていたからだ。  警鐘が聞きたいのではなく、わたしの知りたいのは彼の記録だった。  あるわけない、まだ生まれてもいない彼の記録。 「先輩、なにか急な買い物ですかー? 今日はやめた方がいいですよ。台風並みの風が吹くって」 「いいの、いいの。ちょっとした用事があるの。レインコートも着たし、ブーツもちゃんと履いたから」  じゃあね、と寮の後輩に手を振ってビニールに入った少し大きな包みを持ってわたしは外を歩き出した。ニュースで警戒を呼びかけていただけのことはある。傘は用をなさない。  それでも行き先は公園なので、多少雨に濡れてみっともない格好になっても問題ないだろうと考えていた。そんなことより、今日、という予感に間違いはないだろうか?  公園には誰もいなかった。禁止されている場所取りのためのブルーシートが飛ばされ、花びらがティッシュペーパーの切れ端のようにたくさん張り付いていた。  足元のレインブーツは濡れた芝生の切れ端がまとわりつき、前髪はハリを失って目の前を覆った。  彼と出会った森林散策コースまであと少し。  林の中に入ってしまえば、すこしは風雨も弱まるだろう。  森林散策コースという名の通り、道は土がむき出しで気を付けないとすぐに滑りそうだった。慣れていない水たまりの多い泥の道の中を、足元だけをよく見て歩く。  ここで転んでうっかり斜面に落ちたりしたら? それほどの落差はないかもしれないけど、無傷というわけには済まないだろう。それに、助けが来るのもいつになるか――。 「きゃっ!」  足元しか見ていなかった。まさか前に障害物があるなんて考えもしなかった。斜面側に転んだわたしの手を、見慣れた赤と青の手袋が。 「こんな日に出歩くなよ! しかもこんなところを歩いて。落ちたらどうするつもりだったんだよ!」 「……ごめんなさい」  その顔を見た。  不思議と昨日会った人のような顔をしていた。  あれから1年、わたしはハタチを過ぎて大人と呼ばれるようになった。彼は、まだ、去年と同じあどけなさの残る顔。  踏み外した足を注意して持ち上げて、道に引き上げられる。痛いところは、と聞かれて首を振る。痛いところは、それは胸の奥の小さな場所だけだ。 「あ、ごめんなさい、帽子、落としちゃった」 「まだ持ってたのかよ? いいんだよ別に。わざわざあれを分析するようなやつはいないよきっと」  彼は汚れてしまった手袋を外して、わたしの汚れた裾を叩いてくれた。 「わざわざ帽子を持ってきてくれたってことは、気付いたんだろう? 俺はここの人間じゃないんだよ。俺の住んでいるところは――詳しくは言えないけど空はいつもこんな感じ。俺たちはガラスを張った温室みたいな街で暮らしている。だから俺、こんなに白くて気持ち悪いだろう? 最低限の紫外線を浴びることは義務付けられてるんだけど、必要以上の紫外線は危ないんだ。この前のアラームは紫外線の」  そうなの、とか、なるほど、とか、なんにも言葉は出てこなかった。青白い彼の手が、わたしの裾を汚す泥を叩いていく。泥まみれになって。  それを見てわたしは恍惚とした気持ちになっていた。 「桜の実、見つかった?」  やっと屈んでいた彼が目を上げると、以前は気が付かなかった極端に薄い茶色い瞳と目が合った。 「見つかったよ。それで、『ご褒美』をお願いしたんだ。本当は禁止されてるんだけど、大学のデータベースにこの前の日付け、時間、場所、真桜の名前なんかを入力して、今年、ここに現れる予想日を」  うん、うん、と今度は小さな女の子がするように声に出して小さく何度も肯定した。涙なのか、雨なのか、顔はもうぐちゃぐちゃで髪は顔に張り付いていた。 「バカだなぁ、お前。いつ来たって良かったんだ。こっちから割り出してるんだから」 「だってまた桜の散り際に会えるかもしれないって、会えなかったら忘れようって」 「覚えてるほど長い時間、一緒にいなかったじゃないか。忘れて、新しい恋人でも」 「でも忘れられなかったの! 楽しかったの! この街に来てずっとなんだか自分ひとりのような気持ちだったのに、あなたに会えてから……会えてから、自分はひとりじゃないって。それからこの街が好きになったの」  バカだな、とわたしの裾を叩いて手を汚してしまったことを忘れてしまったらしい彼は、右手で顔に張り付いた髪をはらって、親指で涙を拭った。そうして「嫌だったらそう言って」と今度は断りがあって、頬と頬が長い間重なった。 「実はさ、この前真桜に会ってから俺はまだ半年」  照れくさそうに彼はにやっと笑った。思ってもみなかったし、そんな裏技を使ったのかと思うと少しムカついた。わたしなんか忘れそうで忘れられなくて、花びら1枚取っておくような、そんな1年を過ごしたのに。 「わたしだけ歳取っちゃったってことじゃない」  ハッと気づいて、口を噤む。  そうだ、ここは2020年。そもそも彼の住んでいる年代とは違うんだ。 「……そうだな、俺、まだ大学生だからなにも約束してやれない。もっとずっと研究をがんばって、せめて助教授クラスになれば時間を超えるライセンスがもらえるかもしれない。その時はいちばんに真桜に――って、今度は俺だけがオジサンだ」  そっと名残惜しく思いながら頬を離して、覚悟を決めて触れるだけの口付けをした。 「大丈夫、わたしのストライクゾーン、広いから。でも、心変わりしちゃう年齢までにはまた会いに来て? そっちで割り出してくれるんでしょう?」  彼は自分の唇にそっと触れてから、その指先をわたしの唇につけた。 「がむしゃらにがんばる」  そこで例の電子音が鳴って、わたしは手を繋いだ。 「春来ががんばってくれたら、明日にだってわたしたち、また会えるってことでしょう? それって素敵じゃない?」 「いつか――ひとりにしないって約束するよ」  ◇  いつか。  それは果たされる希望の薄い約束の言葉だ。  でもわたしは信じている。彼がまたわたしに会いに来る。  その後のことまで考える余裕は今はまだない。もう一度会えたことだけで心がいっぱいだからだ。  週明け、見事に桜はバケツの水を撒いたようにアスファルトに散っていた。
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