甘い毒。

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甘い毒。

 「ほら」  近衛に促されるがまま、椿は一口団子にかぶりついた。途端、口の中でほっとするような優しい甘い味が広がった。  「...美味しい、です」  少し元気を取り戻したのか、椿はあっという間に完食した。それを見た近衛は表情を柔らかくして見せた。  それから暫く、何となく気まずい沈黙が訪れた。同じベンチで肩を並べて座っている二人は、日本帝国、東京の中心の喧騒からかけ離れたみたいである。  涙が乾いた睫毛を瞬かせながら、椿はただ両足をぶらぶらさせた。近衛の言葉を待っているわけではなく、かと言って自分から何か話す気にはなれなかった。  心の渦巻きはうるさくて煩わしいけれど、自分の周りは静かなままがいいんだ。  さっきのことがあったせいで、誰かが声に出し話すのが一時だが、嫌いになったのかもしれない。  「椿をこんなことに巻き込んでしまって、本当に、申し訳ない」  不意に近衛の方から切り出した。  すぐ側から心苦しく胸に響く声に驚いて、椿は微かに身を固くした。それが近衛の声だとわかったのは、もう少ししてからのことだった。  「...いえ、近衛さんは何も悪くありません」  所詮あの時、自分が早く逃げていれば起こらなかった話だ。近衛さんに関する、“女性に対して手が早い”等々の嫌な話を聞かずに済む。  「公爵もちょくちょくベッドであんたの事を撫でているだろうな...?」  あの粘りっこい声がまだ耳にこびりついている。真の狙いは何なのか分からないが、記者はきっとわざとそう言ったのだろう。  「あの記者共は本当に遠慮がない、大人ならまだしも子供相手に...」  口惜しそうにそう言いながら、近衛は手で自分の顔を覆った。  周りからの圧力の中、未だ支那への対応が滞ったままで、いつまでも保留というわけには行けなくなり、やがて戦争を進めるか大陸から手を引くかの決断が迫ってくるだろう。  それに今の放心状態にいる椿を見る限り、彼女の将来に何かしら暗い影響を及ぼすのではないかと心配になってくる。  そうなったら全て自分の責任だ。  「...近衛さんにとって」  不意に椿がポツリと呟いた。独り言かのような静かな声に、近衛は反射的に少女を見つめる。    「...私は、お気に入りですか?」    数秒間、あるいは数分間。椿の問いで、白けたような恥ずかしいような沈黙が澱んだ。  椿は勇気を出して思い切って自分に聞いたのだろう、その細い肩が羞恥でガタガタ震えている。  しかし、あまりに唐突で訪れ、率直な一言に、一体自分はどう答えれば良いのか。  沈黙を変に意識すればするほど、近衛はますます返答に困ってくる。  椿の自分を見上げている潤んだ黒目がちの目を見ると、錯覚に紛れて甘ったるく感じる。  いかん、これ以上見つめていると理性の糸が吹っ切れそうだ。  「...私は、多分ですけど、」  固まる近衛の側で、先まで俯きがちだった椿は意を決したように、首を上げどこまでもまっすぐ近衛の視線に絡めた。  「近衛さんの事、好きになった...と思います」  直後、近衛の中に痛いくらいな胸騒ぎが生じた。心臓が何かしらの拍子で大きくバウンドをし、着地してすぐまた弾けるような感覚だった。  私はなんて事を言ったんだろう。  椿もまた、胸の動悸がみるみる高まっていく。同時に、呼吸が荒れ狂うように乱れ始めた。  こんな事言われたら誰だって引くだろう。まして妻子持ちで、自分の友達の父親に恋するなんて事、あり得るわけがない。  でも...  今じゃないと、もう二度と言えない気がする。  本当に自分は、どうしようもなく恋と言う新しい感情を抱いたのだから。冒険心のある自分は、恐る恐る一歩向こうへ踏み出そうとしている。  これが無に返せば、自分はこれから“恋”などできる気がしないのである。  しばらく経っても、何も返答が帰ってこない事に椿はすっかり気を取り落としてしまった。  何やってんだ私、奥さんがいるような人にこんなこと言って。近衛さんはやはり好きになってはいけない人だった。  椿は自嘲するような弱い声で、「あはは...忘れてください」とつぶやくと呟いたと思えば、近衛にいきなり肩を掴まれた。  「えっ」  キョトンとする椿に、近衛は厳粛な、それでいて強情らしい表情をむけた。  「...僕もだ。君に出会った時から、これは運命ではないかと言うほど、夢中になった」  心苦しいほど笑顔を見せた彼女は、自分の目には柔らかくて女性らしく映った。  椿の生き返った目に熱が帯び始め、その頬には無邪気な明るい期待で溢れていた。  近衛は無意識のうちに、年の離れた少女の体を優しく抱きしめた。  『諸君、覚えていたまえ。純粋な物に手を加える事は、一番危険だ』  京帝大時代、恩師の河上肇先生の言葉が脳裏に浮かんでくる。  『未熟な物に触れることも、それを汚す行為でありなすべき事ではない』  ついにこの線を越える時が来た。私は、越えてはいけない線を、近衛さんと踏み込んで行こうとしている。  椿は近衛の外套に顔を埋めながら、ぼんやりそう考えた。  本当に、私はなんて卑劣な人なんだろう。千代子さん、通隆、温子さんや昭子さんを裏切ってしまった。  ここまで来たらもう後戻りはできなくなる。  でも、少し大人になれた感じが、嬉しかった。  【作者:うーん、複雑ぅー やばい??】  
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