【1937年】昭和の日本にトリップしてしまった

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【1937年】昭和の日本にトリップしてしまった

 「このようにして、近衛公は戦争を防ぐ手段を全て失ってしまったわけです」  初老の先生が眼鏡を上に押しやりながら、眠気を誘う声でそう言ってるのを氷室椿は聞き流していた。  これ以上聞いても頭に入ってこないので、椿は窓の外に目をやった。  外は雪の欠片が散っている。空の上は分厚い黒い雲で覆われていて、かなり天気が優れないことがわかった。  東京で降り落ちた、今年初の雪だ。  椿は中学校の陸上部に属していて、そこそこ足が速く練習は全力で励むが、この天気じゃ今日は部活ができそうにない。  そして学校のチャイムが鳴って、今日最後の授業の終わりを告げた。  「はあ...」  最近は部活で走る以外、何もかもつまらない。生活は単純で新鮮味に欠けている。まだ長い人生を歩んできたわけじゃないが、この世はもう飽きた。  教科書を閉じる前に、椿はチラッと先まで勉強していたページを見やる。  白黒の肖像画の中にいる、およそ50代前後の男性も静かにこちらを見返している。  涼しい目元に厳粛な雰囲気を称え、髭の下にある薄い唇をキッと結んでいる。男の潔い、清らかな気高さが椿の目を引いた。  「椿!一緒に帰ろうよ!」  ボーッとそれを眺めていると、同じ部活の友達の結衣がバンと椿の肩を叩いた。  「オッケー」  「なーに、今日テンションがちょっと低いみたいね」  結衣が揶揄いながら椿の頬を指で突っついてくる。  「そりゃ、今日部活ができないからよ」  半分正解で、半分自分でも分からない虚しさに満ちた答えだった。  「この天気だしね...あ、ちょっとお手洗い行ってくるから外で待ってて」  そう言って結衣がトイレに行った。椿は靴箱から運動靴を取り出し、校庭に出た。  出た途端、刺すような寒さに椿はぶるっと身を震わせた。今は12月の半ばを過ぎて、真冬中でもあるのだ。  「寒っ!帰ったら母さんにシチュー作ってもらお」    言われた通り友を待つために椿は外で待った。校庭にある大きな木には、目が覚めるような赤い椿が咲いている。その葉っぱの上に既に幾らか雪が積もっている。  元々自分の名前と同じだから、椿はこの花にある種の好感を抱いていた。  しかし、雪が降る中でこの鮮明な赤さは見たことがなかった。派手であり、一方とても儚く見えた。  椿はその紅の花弁に触れたいと言う衝動に駆られ、思わず指が赤い椿の花に触れてしまった。    その瞬間。  自分が逆さまになったように、椿はとんでもない反転感に襲われた。  「え?!」  目を開けたままにすると景色がぐるぐると渦巻き、それが更に椿の吐き気を誘った。  自分の足が宙に浮いた。体も言うことを聞いてくれない。  もはや何が起こってるか分からず、椿はただ目を閉じたまま鞄を抱いて、この息苦しさが早く消えることを願った。  しばらくすると、椿の足がやっと地面についた。  不慣れな無重力から解放され、椿は安堵と共に感じた気怠い脱力感に、地面にへたり込んだ。  今日は早く寝よう。寝不足でこう言う恐ろしい感覚になったに違いない。  そう思って椿は目を開けた。だが、目を開けたことでとんでもない光景を目にすることになった。  「は?!」  椿は思わず大きく目を見開き、頓狂な声を上げた。  教科書で見たことがあるような建物だが、そこは東京駅に似ていた。  それから道行く人々の身なり、とても自分が生きている時代の服装じゃない。男女とも、皆時代劇や映画の中で見たようなモダンレトロの服装だ。  全体的に見ても、ここは明らかに自分がいた時代じゃないことがすぐにわかった。  「あの!すみません!」   冷え切る空気の中、椿は震えながら側を通りかかった和服の女性に声をかけた。  「はい、なんでしょうか」  見慣れない制服姿の、短い髪の椿には少々驚きながら女性は応じた。  「今は令和ですか?」  「令和ってなんです?」  女性が疑わしげに眉をしかめる。周りの人もしばし足を止めて、この不思議な少女をまじまじと観察した。  スカートの丈が短いし、そこから長い白い脚が剥き出しになっていることに不快を感じた人もいるようだ。  「あ..じゃあいまの年号はなんですか?」  「昭和12年ですよ」  簡単に頭の中で計算すれば、今は1937年と言うことになる。  これを聞いた椿の顔が次第に青ざめていくのを、女性が心配そうにその目を覗き込んだ。  「大丈夫ですか?」  「え、ええ..」  椿は自分を落ち着かせようと頭に手を当てた。  「疲れてるだけだ。これはきっと夢なんだ」  どうせ結果はわかってるが、真偽を確かめたくてスマホを取り出すも、圏外と示していて勿論通話などできなかった。  だが、椿がスマホを取り出したことで周りの人が騒ついた。武器だと思って子供を庇う母親もいるし、皆が一歩後ろに下がって恐怖の表情を浮かべた。  すると、どこかから「憲兵!」と呼ぶ声がして、椿は反射的にその方向をに向いた。  見れば、そんなに遠くない距離から二人の軍服姿の男がこちらに近づいてきている。  ドキュメンタリー映画の中の憲兵は、いつも手荒な手段で無実な人を捕まえるのが大好きな集団だと言う印象が、しっかり脳に残っていた。  「ねえウッソでしょ...」  椿は思わず白目を剥き、スマホを素早く鞄の中に突っ込んで、一目散に憲兵たちとは反対方向へ駆け出した。  自分の姿があまりにも目立ちすぎて、自分と違う物を恐れる当時の日本人の目を引いてしまった。  そして訳わからない方法でこの時代に落ちた早々、こうやって憲兵と追いかけっこするのか。あまりにも気が滅入る。  捕まったら多分殺されるだろうな。椿は深い後悔を感じながら走り続けた。  あの恵まれた時代を飽きたと思う自分が万悪だった。    人力車や自動車の間を縫うように走り抜け、椿は少しでも憲兵を巻けるように積極的に大通りに出て、倒せる物があったらなんでも倒した。  憲兵たちも意外と椿の足が速く、しかも巧みに倒された障害物に足を取られたが、なおしつこく追いかけてこようとする。  時々後ろを振り返って全速力で走っていた椿だったが、その横に止まった車のドアがいきなり開いたことに気づかず、前を向いた途端顔面衝突してしまった。   激しい痛みと共に、頭が思いっきりドアの硬い角にぶつかったせいで悲鳴を上げ、同時に髪の間と鼻から温かい液体が流れたのを最後の記憶として残し、椿は気絶した。   その直後に、車の中から出てきた近衛は地で崩れている少女に気づき、慌ててその呼吸を確認した。   まだ息はあるが、すぐに医者を呼ぶ必要がある。知識豊富な近衛はすぐそう判断した。  「運転手、この娘を近くの病院に」  近衛は運転手にそう呼びかける。まだ若い運転手は不思議そうに瞬きしながら頷いた。  椿の学生鞄は見慣れない形なのを、近衛は首を傾げた。その他においても、この娘の格好は周りと違いすぎる。  懐からハンカチを取り出し椿の血で汚れた顔を拭いてあげると、汚れの下から何とも幼げな、雪の白さを思わせる顔立ちが現れた。  女性の生肌に触れることを少し躊躇ったが、近衛はこの状況なら仕方ないと思ってよいしょと少女の軽い体を抱き上げた。  そのすぐ後に先の二人の憲兵が駆け込んできて、先まで怒り満面だったが、近衛を見た瞬間ギョッとした様子で敬礼をした。  「しゅ、首相殿」  面食らっている二人の憲兵を近衛が笑って宥めた。  「僕は軍人でもないから、敬礼はしなくていいよ」  「は、はっ!失礼ですが、俺たち先までこの小娘を追いかけてました」    背の高い方の憲兵が近衛の腕の中に意識を失っている椿を一瞥して、「小賢しい小娘だ、ざまあみろ」と思いながら状況を説明した。    「君の話からすると、この娘は特に悪い事をしたように思えないね」  近衛は肩を竦めて、椿を車の中に入れようとすると背の低い憲兵が咎めた。  「やめでください!そいつの穢れた血が首相殿の服を汚してしまいます!」  「僕がこの娘に怪我をさせたから、僕に責任がある」  責任重大そうに言う近衛に、憲兵二人は口を噤んでしまった。  「それに、この娘は穢れた血ではない」  近衛の笑顔の向こうに、冷たい光が射したのを二人の憲兵は更に身を縮めた。  相手は誇れ高き日の国を率いる首相だから、下手にきついことが言えない。かと言って自分達の職柄で、怪しい者を見逃したくない。  憲兵二人の顔からそう読み取って、近衛は微かにため息をついた。  「ならこうしよう、この娘の怪我が治ってから君たちに尋問させる」  「お願いいたします」  やっと納得してくれたのを、近衛は満足そうに頷いて椿を車の後部座席に入れた。
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