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「そうですね、ハインツ・シュテルン親衛隊大尉は初の来日でございます...」
今、客間で椿達を混じって来客達と食事を取っているところだ。
色々ドタバタしてる中で椿は出来上がった料理で客間に運び、ドイツ人と小柄の大島と言う人はこちらに全く声をかけてこないので、それがかえって都合がよかった。
この場で話しているのは近衛と、あのドイツ人と通訳役の大島という人だけだった。
三人が話してる政治の内容はとても椿には分からないし、途中で口を挟みたい気もなかった。その気持ちは他の皆も同じ思いだ。
果たして自分たちはここにいて良いのか、こんなにも肩苦しい夕食会は初めてだ。言いようのない緊張感に、椿はせっかくできた美味しいご飯が喉に通りにくい事に気付いた。
ああ、今頃花子は猫を撫でて楽しいひと時を過ごしているだろうな...私をもここから連れて行ってよ、羨ましい限り...!
「少年」
今までずっと一言も喋れなかった海軍の、名前は確か米内と呼ばれた人が椿を呼ぶ。完全に椿の事を男の子と勘違いしているようだ。
米内は空になった杯を椿のほうに差し出した。この場にいる誰よりも多く飲んでいるはずなのに、顔は他の大人達と比べてこの人だけ白いままだ。
「もう一杯注いでくれるかい?」
「え..やるな」
椿は思わず地声で本音を言ってしまった。同時に話に興じている三人以外、皆がこちらに顔を向ける。
本当に口を聞いてはいけない雰囲気なのか、それに声を低くするのを忘れちゃったし。椿の顔がポッと火がついたように赤く染まり、焼酎の瓶を掴んでどばどば杯の中に入れた。
「えー、先のは気にしないで下さい」
“少年”の面白い反応をおもむろに見て、米内は「ありがとう」と言ってぐびっと酒を一気飲みした。
先注いだ酒が一瞬でなくなったのを見て、あまりの呆気なさに椿は目を見張った。父さんと母さんは酒に弱いからそんなにお酒を飲んでいる時を見たことないし、ましてこんなに飲める人も見たことがなかった。
一方米内は相変わらずおっとりした顔で、黙々と箸を動かしている。
こんなに飲んで大丈夫なのか、逆に米内さんの体調が心配になってきた。
「12杯目だよ...?」
誰に聞く風でもなく、椿はただそう呟くと、屋敷に来てから無口だった米内は不意に箸を置いた。
「今日は調子が良い」
米内が自ら言葉を返してきた事に驚き、椿は体ごとそっちに向けた。ずっと正座で足が痛いしついでに足を伸ばした。
「調子の良し悪しとかあるんですか?」
間も無く初対面の海軍の将校と椿の会話が始まろうとしていることに気付き、他の人は密かに聞く耳を立てた。どうせ近衛たちがしている政治の話よりこっちの方がずっと聴きたいのだ。
「そうだな...でも基本限界はない」
「強いなあ...わっ、違う僕の父さん母さんはお酒弱いから僕も飲めないと思います」
椿は熱々の緑茶を少し口に含み、体の中でじんわり温かみが広がっていく感じがした。
「それは人それぞれじゃないか?少年が大人になれば飲めるかもしれんぞ」
「大人ね...」
ちゃんと未成年は飲酒してはいけない事を分かってるじゃないか、椿はこないだ近衛がワインを勧めてきた事を思い出した。令和の時代にこんな法律があるなんて少しばかり不可解を感じているらしい。
暫くお互い黙って料理を口に運んでいたら、米内が先に沈黙を破った。
「君の年頃になれば、想う女性もいるだろう」
「はひ?!」
突拍子もない事を言われ、椿は緑茶を噴き出しそうになった。米内のおっさんは何を考えているんだ...
「ちょっ、想う女性って?」
元々米内は面倒くさい事を嫌って口数が少ないが、今は椿と話せば楽しい気分になっている。
近衛家の召使いであるこの少年からは、どこか謎めいても惹きつけられる物があった。
「好きなおなごはいないのか」
「普通それ聞きます?」
椿が言いたいのは初対面でこんな踏み入れた質問するかって事だ。こう言われて米内は愛嬌のある微笑を口元に湛え、椿の色白の顔から目を離した。
好きなおなご...男子じゃないから好きな男性と言った方が相応しいが、椿はチラリと近衛の方を見やった。
「随分と保守的じゃないか、そういう男はモテるぞ」
「は、はあ...」
千代子が次男を慰めるような眼差しで見ると、通隆が「別にモテたいと思ってない!」と目で訴えた。
ならこの場を借りて、物知りそうなこの人に聞いてみようかな。そういう思いで椿は少し米内に近づいた。
「おっさんさ」
「ん?」
「分かる?その、こう...」
椿は白シャツの前を掴んで、微かに血色の良い唇を歪める。あの時の感覚が鮮明に蘇ってくる。今近衛さんとこの場にいるだけでも、胸が熱くなっているのだ。
「誰かを見た時に、胸が締め付けられる感覚って」
これを聞いた米内は「成る程」と杯をテーブルに置き、初めて硬い表情を浮かべた。
「それは少年が運命の人と出会った時だ」
「運命の人...」
まるで映画のセリフのようなその言葉に、椿は瞬きした。
確かに、椿がトリップした先の昭和時代に近衛と出逢ったのだから、何かの縁かもしれない。
元々平行線にいなかった二人を、神様はどういう理由で引き合わせたのだろう。
その時、椿の目はドイツ人の杯がぐらぐらして、今にも落ちそうになっているのを捉えた。
近衛と米内を隔てて、杯から酒がドイツ人の軍服に溢れる寸前、椿は持ち前の瞬発力を使って杯を掴んだ。
「Oha!(ワオ!)」
ドイツ人が対面にいる少年が溢れかけた杯を止めてくれたのを感謝するように、腕がもげそうなほど椿の手を振った。
「Toll!Dank,Jungle!」
「これは凄い!ありがとう、少年!と言っている。君、良くやった!」
椿は知らなかったが、腕を向こう側へ伸ばした際に体が米内の右腕に密着していて、男子の胸板があるはずの所に柔らかい膨らみの感触を感じた。
米内は今回日本の海軍を代表して、心底日独の接近を嫌っていたがドイツから来た大尉を迎え、そして予めその変な嗜好も聞かされた。
米内は椿の照れたような笑みを盗み見して、次に近衛の慈愛に満ちた目を見た。
成る程な...勘がいい米内は独りでに頷いて、もう一口酒を呷った。これで“少年”の正体の謎を解いたと言える。
それからは近衛ら三人の会談と同じように弾んでいる椿と米内の会話は、外国の話までに及んだ。
「海軍に入ってから中国やロシアへ良く行くようになった」
「中国はパンダ、ロシアはめっちゃ寒いってイメージしかないなー」
椿が言うと米内は不思議そうに首を傾げた。このただの召使いがまさか海外に興味があるとは思わなかったし、そしてその国に対して自分と違う印象を持っているのが驚きだ。
「中国はパンダかい?」
「そーです、上野動物園とかにいますよ。めっちゃ可愛い」
椿の言葉遣いはこの時代の子と違う事は、喋るとどうしても岩手の方言が出てしまう自分と何処か似ている。方言を気にしすぎのは駄目だが、この子と喋ると何だか親しみを感じる。
時が夜7時に差し掛かったところで、ドイツ人の大尉がホテルへ戻りたいと言い出しここでやっと夕食会も終わりだ。
「行ってらしゃいませ」
再び玄関に出て来客らを送り出し、皆で頭を下げた。誰もが明らかにほっとしている様子だ。近衛に至ってはネクタイを緩ませているし、椿も大きく伸びをし、冷たい夜の風を浴びた。なんて言う解放感だ!
「氷室少年」
去り際に、米内は椿を呼び寄せた。近衛はそんな米内の元へたたっと駆け寄る椿の後ろ姿を複雑な思いで見つめた。椿が誰とでもすぐ仲良くなれるのは喜ばしい事だが、椿と米内が話すと見て唐突に言いようのない焦燥感に駆られた。
「君の名前を教えてくれないかな?」
名前...椿は一瞬本名を言いそうになるのを慌てて飲み込んだ。この人から見た私はまだ男子だ。太郎?それとも父さんの名前を借りて秀樹に?
椿の躊躇いを悟った米内が猫に似た口元を綻ばせた。
「その変装に実に似合ってた、君の本名が聞きたい」
バレてましたか...椿は開き直って米内に実名を告げた。
「椿です、下の名前」
「椿さんか、君はとても良い反射神経をしていた」
米内は白い手袋を脱ぎ、手を椿の方へ出した。握手を求められてる事に気づき椿もまた大人の手を握り返した。
「会えて良かったよ」
「そりゃこっちもよ、おっさん楽しそうな人だし」
一方無意識にその会話を聞いていた近衛は、言いようのない苦い物が込み上げてくる感じに囚われた。自分より遅く椿の事を知ったのに、どうしてこうも親しく会話をするのか。
荻外荘から去っていくベンツを視界から消えるまで全員で見送って、千代子がぱんと手を叩いて皆に呼びかけた。
「さて、片付けましょう、明日も正月を迎える訳ですし」
「やったー!お正月ー!」
はしゃぐ椿の横で、通隆は固めた髪を元に戻そうと頑張っている。
「自分では難しいから後で洗って差し上げますね」
「自分で洗える!」
女中に自分の体を見せまいと体をよじらせる通隆の肩を掴んで、トクさんが家の方に戻っていく。
「椿さんも後でいっらしゃいな」
「はーい」
椿もそのまま皆の後に続いて家に入ろうとしたが、近衛がじっと自分を凝視している事に気付いた。
「近衛さん!家に入らないですか?」
椿の澄んだ声が自分の名を呼ぶのを聞いて、近衛は夢から覚めたように我に返った。先程米内にも見せたあの柔かな笑みとぶつかって、どう言う訳か一瞬にして自分の憂が消え失せていった。
「勿論入るよ」
正月が楽しみで飛び跳ねている椿の後に玄関に入り、近衛はそっと引き戸を閉めた。
【駄作者から】
米内光政さんを登場させてみました!(*´꒳`*)とても温厚そうな外見のおじさんです、興味がある方は是非調べてみてくださいね!
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