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弟と気まずい正月の予感
大晦日の朝、窓を通して差し込む清々しい朝陽の光が明るく照らされた部屋の中で踊った。
今日は1937年12月31日、今年最後の一日で、日本の国民にとって一番大切な日である。そんな中、氷室椿は昭和時代で新年を迎えようとしている。
その時の椿はまだ爆睡中で、夢の中でフライドチキンをむしゃむしゃ食べているところだった。
この時代に来れば、一番の好物が食べられない事が残念だと言う心理があった。
そんな椿は忍足で部屋に入ってきた人に気づかず、ジューシーなフライドチキンを夢の中で描きながら口から涎を垂らす椿の横でその人は呼びかけた。
「お嬢さん、お嬢さん」
聞いた事のなかった男の声だったが、近衛さんより低い。
泥棒が入ってきて、私の寝込みを襲おうとしているのか!
招かれざる客を確認するためにカッと両目を開くと、丸眼鏡を掛けた細い男性が自分を見下ろしているのではないか。
「うおっ?!」
寝起きなのに、椿はあまりの驚きについ太い声を出して、素早く部屋の隅に飛び退いた。
「だっ」
椿は慌てて自分の服装を見た。布団の中で姿勢を変え続けたせいで乱れてはいるが、どこか触られた形跡はない。
でも!そんな事より!この時代に来てから一回もこの男を見た事がないし、ましてここ安全な荻外荘でだ。
まさかガードマンの目を忍んで私の部屋に来たとでも言うのか?
「誰?!」
「ワオワオ、凄い瞬発力だね」
招かれざる客は悪びれもせず笑っている。勝手に部屋に入ってきた変質者のくせに、どうしてこんなに親しみを込めて挨拶をするのか見当がつかない。
「誰ですか??」
椿は枕元に置いてあった携帯を掴み、連写で眼鏡男の写真を撮った。万が一自分がこの人に殺されたら、証拠写真として残さないとと言う椿の考えだった。
てっきり男が怒って「それは何だ!」と怒鳴り散らして来るかと想像していたが、相手は興味を示しているようにクイッと眼鏡を軽く押し上げた。
「へー、それが兄上が仰ってたスマホって物なんだな?未来人って変わった物を持ってるな」
兄上って誰の事?ますますこの人の正体がわからなくなってきた。
「どなたですか??」
「俺の事を知らないのかー、そりゃ当然だもんな。ここでは嫌われてるし」
椿が問うと、眼鏡男は面倒くさそうに腕時計のバンドを弄りながら答えた。名前を言う気がないかと思えば、いきなり顔を上げて真っ直ぐ椿の目を覗き込んだ。
「近衛秀麿」
ひでまろ...近衛さんの下の名前と似ていて、先兄上と言ってたから、本当の兄弟なのかもしれない。
思い出せば、近衛さんも前自分にドイツに音楽家の弟がいると言った事がある。これでやっと辻褄が合う。
「えー、つまりあなたは近衛さんの弟さん..って事ですよね?」
「ご名答」
「はあ...」
椿は疲労感と共に本棚の横にもたれかかった。相手は変質者じゃないことが分かって良かったものの、椿にはどうしても理解できない事があった。
「てか、何で男性の身で勝手に私に部屋に来たんですか?」
「要は嫁入り前の娘の部屋に入るのはまずいと言うことだろうか」
「は、はい」
するとオメーのせいだろうがとでも言うように、秀麿が腕を組んで首を傾げた。
「あんたが中々起きてこないから、誰か呼びに行けって言われて俺が一番に行ってやったからさ」
「はあ...」
昨日夜遅くまでお節作りしてたから寝るのが遅くて、枕に頭を預けた瞬間もう夢の中に落ちたから、アラームを設定する暇もなかった。
「秀麿さん!椿は起きましたか?」
その時、廊下から千代子の大声が響き、あまりの大きさに椿も秀麿も飛び上がった。その声のおかげで椿の眠気もさっぱり消えた。
「はい!起きてます!」
秀麿の代わりに椿が声を張り上げると、声に安堵の響きがある千代子が急かした。
「椿さん、今日は掃き納めなので早く着替えて下さい」
「は、はい!すみません!」
千代子の足音が遠くなっていくのを聞いて、椿は秀麿の背中を押した。
「着替えるから外出てて下さい」
秀麿を部屋から追い出し、家で着る着物に手を伸ばした。早朝の部屋は寒気が張り詰めていて、それなのに顔に照らされている朝日が暖かい。
手早く帯を腰の辺りに結んで、椿は襖を開けて顔を洗うなり髪を梳かすなり、準備を急いで済ました。
その間、秀麿は整えられていく椿の姿を目で追った。先まで幸せそうな顔で涎を垂らしていた少女とは別人のように、未熟な可愛らしさと堂々さが共存している。
ドイツにいた時、日本から送られて来た兄の手紙の中にこの不思議な経験をした少女の事について綴られている。
兄の筆跡から少女を慈しむような感情が滲んでいたのは、何となく分かるような気がする。
「行こうぜ、秀さん」
「ひ、秀さん?!おいお嬢さんそれは良くない、せめて秀麿様だろ」
後ろから困惑した秀麿の声が聞こえるが、椿はそれを無視して軽やかなステップで団欒の場へ向かった。
「おはようございます!」
バッと襖を開けて椿は明るい声で皆に挨拶した。お節料理を一段ずつ下ろしている近衛、千代子と通隆が食器を配ったりしている。
「おはよう。ちょうど良い時に来た」
近衛の暖かい黒い目で見つめられ、椿も曇りなく笑顔を浮かべた。部屋一面に開いた窓から射し、テーブルの上も眩しかった。
「遅起きしやがって...」
明らかに寝不足な通隆が腫れぼったい目で、椿を恨めしそうな目で見る。いつもエネルギッシュな椿はそんな通隆を押し退けて自分の席に着いた。
「あんたは昨晩手伝わなかったでしょ」
椿の言葉を聞いた千代子がくすくすと笑った。椿が来てから物静かな通隆でさえ、少しアクティブになる。この様に椿と通隆の駆け引きが面白く、見るのが好きだ。
「あの、どうして俺の事を秀さんと呼ぶのでしょうか...」
先からずっと椿に無視されてすっかり気弱になっている秀麿が、おずおずと椿に尋ねた。椿は手を洗いながら上の空で答えた。
「だって、秀麿さんって呼びづらいから」
「よっ、呼びづらい?」
何だか少女にプライドを傷つけられた感じがして、秀麿は一人しょぼくれてしまった。一方近衛は椿に来訪した弟の事を説明した。
「秀麿とは先に会っただろうが、彼は正月帰りの為今朝未明にここに着いた」
椿は額に手を当てながら秀麿を睨み、近衛もまた微かに責めるような目つきで弟を見据えた。
「もうまじで、びっくりしましたよ!目が覚めたら知らない男の人がいて!」
「本当にすまない、何せ呼び止めるのももう遅かったからな」
「はっ、は?」
目の前で二人に散々悪口を言われた秀麿は耐えきれず、声を仰け反らせて噛み付いた。
「俺は!あんたらがやりやすくなるためにこの人を呼びに行ってやったんだぜ?」
しかし、それでも椿と近衛は変わらず冷めた目で見て来る。
「えー、それなら女性の方が良かったのにー、もしかして私の寝込みを襲おうとしてたんですか?」
椿はわざとらしく胸を隠し、片方の目を瞑ってべえっと舌を出した。「生意気な小娘」と吐き捨てて、秀麿はツンと顔を背けた。
「チッ、あんたの見栄えない体なんて見たくもないし!」
「エッ、やっぱそう言う目で見てるんだ!近衛さん、この変態を何とかしてください!」
「おい変態はないだろ!」
大晦日の朝からわいわい騒いでいる二人を見て、近衛は久しぶりに本当の意味で幸せな“家族”を感じた気がした。
令和の時代からやってきた椿がいてくれるから、今の屋敷はこれまでになく活気付いているのは事実だった。
椿が持つ活力は自分にだけではなく、彼女といる全ての人を元気にする力なのだ。その優しい力に自分はいつしか温もりを求めて、少女に甘えていたのではないか。
...元々出逢うはずのなかった二人を、神様は如何なる理由で引き合わせたのか、不思議だ。
近衛はしばしそう考えていると、妻の千代子に呼ばれた。
「あなた、温子たちが来られた様ですよ」
チラリと外を見やった千代子が伝える。その名前を聞いた椿はバッと立ち上がった。
「温子さんが来られたのですか?」
「ええ、そうですよ」
「出迎えます!」
玄関に出ると、帽子を斜めにかぶって、見事に黒いコートを着こなしている女性が立っている。椿はその女性に親しみを込めて名を呼んだ。
「温子さん!」
「椿ちゃん!」
温子は椿を見て、輝く様な美しい笑顔を浮かべた。そのお腹が前見た時より膨らんでいる。もうすぐ子供が生まれて来そうなほど大きい。
椿は付き添いの御者から丁重に荷物を受け取り、温子を上に上がる手伝いをした。
「ありがとう。椿ちゃんとは半月ぶりだね、学習院はどう?」
「一日しか行ってないけど、友達が出来て楽しかったよ」
「よかったわね!椿ちゃんはきっとやっていけるわ!」
半月ぶりに再会したから、楽しく温子とお喋りしていた椿は不意に後ろから空咳が聞こえた。
振り向くと、鮮やかな色の着物を着た昭子が立っているのではないか。その瞳には前見た時と同じように、冷たさの下に嘲りの色を隠している。
その瞬間、椿は再び身の毛が総立ちする感覚がした。
「これ、私の部屋までお願い」
昭子は荷物を椿のもう片方の腕に降ろし、家の中に姿を消した。
元々温子の荷物でさえ重かったのに、この上にまた昭子のトランクが二つ上乗せされたから、細い椿は膝が崩れそうになった。
「大丈夫?助け呼ぼうか?」
「ううん、温子さんは先に行ってて」
なお心配そうな温子を家に入らせ、椿は荒い息を吐きながら引き戸を閉めた。
温子が来てくれたのは凄く嬉しいけど、正月だから長女の昭子も帰って来ることを椿はすっかり忘れていたのだ。
何だか激しく気まずい正月になる予感がして来たなあ...
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