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大晦日に起こったとんでもない事故
「皆揃った訳ですし、食べましょうか」
美味しそうなお節料理を前に、七人が手を合わせ「頂きます」と言った。
いや、これ超まずくないか...?
この時の椿の席は秀麿と通隆に挟まれているが、不運なことにその対面に昭子が座っているのだ。
せっかく作った料理を楽しみたいのに、昭子の冷たい視線を真正面から浴びているせいで食事の味はおろか、箸すらまともに出せない状態である。
昨日の夕食会も耐え難かったが、米内のおっさんがいてくれたおかげでなんとか凌げた。
が、この場は喋る事すら許されてない感じだ。椿が何か言えば、向こう側にいる昭子の鋭い一瞥で黙らされるように。
「この卵焼き美味いな」
不意に近衛が口をもごもごさせながら言った。椿はこれを聞いてつい箸を止めて心底嬉しく思った。
「それ思ったわ!甘くて柔らかいよね!」
明るい声で温子が手を挙げる。妊娠しているから限られた料理しか食べられないが、どうやらこの卵焼きが一番お気に入りらしい。
「卵焼きは椿さんが作ってくれましたよ」
千代子が感心するような眼差しで椿を見つめた。一同が「確かに」と卵焼きに手を伸ばす。昭子ですら微かに頷いているし、椿は照れてストレートの髪を弄りながら説明した。
「あんまり料理を作った事がないんですけど、弁当に入れる卵焼きだけ出来がいいんです」
卵焼きの美味しさは素材の味を生かしたシンプルな味付にあるけど、日本全国でその好みが異なる事を知っていたが華族一家の口に合って良かった。
「料理を習いたければ、青木さんについて行くと良いぞ。僕としてはこれからも椿の手料理を楽しみたいものだ」
柔和な笑顔を見せた近衛にサラッとそう言われて、椿は思いっきり顔を赤くした。ええ、近衛さんの為に頑張ります!!と思いながら顔を綻ばせた。
「ありがとうございます!」
まだ近衛の嬉しい言葉の余韻に浸っていた椿の甘い考え事が、対面の昭子の刃のような視線に鋭く斬られた。その目にははっきり「調子に乗るな」と語っている。
再び背筋がゾワッとして椿はすぐ顔を下に向け、黙って食事を進めた。
椿が喋ってない間、秀麿がドイツであったナチスによる嫌がらせを近衛に訴えたが、「今はそういう話をしたくない」と一蹴された。政治の話をこの場に持ち込んだら場が白けるだけだ。
それ以上食らいつこうとする秀麿は微かに眉をしかめたが、「兄上、本当にどうにかできないのか」と意外にも冷たく溢した。
そして昭子の監視のもと、椿は何とかお節料理をよく味わいながら食べ終える事に成功した。
次に千代子が大掃除の役割分担をすると言って、丁寧に書かれたリストを持ち出した。
「温子は私が面倒見るから、他の人は以下指示された所をお願いしますね」
この場においては立場関係なく、使用人達と椿は勿論のこと、総理大臣である近衛も有名な音楽家の秀麿も掃除を手伝うのだ。
「秀麿さんと昭子は玄関から遠い順に、各部屋の掃除をお願い」
「はい」と言って昭子は掃除道具を持って叔父と一緒に奥の方へ行った。
昭子がいなくなった瞬間張り詰めた空気も消え、椿は再びまともな呼吸が出来るような気がした。
次に千代子は夫を玄関の掃除に配置させ、最後は椿と通隆を床や廊下の掃除をさせた。
「通隆くん、競争しよう」
室外に面する屋敷にある広い廊下の端で、椿は挑むかのように隣で雑巾に絞っている通隆に言った。すると少年は嫌そうに顔をしかめた。
「嫌だ」
「どっちか速いか試そうじゃないか」
いつも通隆に勉強の出来なさを揶揄われていたから、ここばかりは自分の得意を活かせなければ、そういう椿の思いだった。
「言っておくが、最初から勝負は決まっている」
通隆は冷静に分析するような目で椿を見やり、「雲泥の差だ」と言わんばかりに首を横に振った。
「えー、やろうとやろうよー!あんたがどれぐらい速いのか見たいし」
「結局僕の恥を見たいだけじゃないかよ...」
椿はニヤニヤしながら、走りやすくする為に着物の裾を上げた。その拍子に華奢であると同時に筋肉質の白い脚が露わになった。
「そ、その格好はやめろよ...」
通隆は一瞬椿の綺麗な脚に目を取られたが、すぐ目を逸らせた。一方椿は普通と思っているように肩を竦め、通隆の隣でしゃがんだ。
「こうやって服の邪魔がないとより走りやすくなるからよ」
「女子の癖にはしたない...」
「いいえ、これはまじで走りやすいのよ」
言い聞かすような通隆の口調に椿は唇を尖らせ、早口でスタートを告げた。
「行くよー、一、ニ...」
「おいっ、いきなり始めるなよ!」
通隆も慌てて地面に膝をつけて、雑巾の上に置いた手に体重を少しかける。
「お?勝負する気あんじゃん?...三!」
“三”と数えた瞬間、椿は勢い良く地面を蹴って、雑巾を下に廊下の突き当たりまで突っ走った。
椿がゴールしたのはあまりにもあっという間だったから、通隆は呆気に取られ、もはや勝負する気すら失せて後からのろのろついていった。
「イエーイ、勝ちー!」
勝ち誇ってピースする椿を見て、通隆は痛む膝をさすりながら自分の運動神経を呪った。
「...だから勝負したくなかったんだ」
ちょうどその時、近くの草がカサカサと音を立てた。何がか中で蠢いているみたい。
「何あれ?」
椿と通隆は草の中に潜む何かを見ようと、手すりに身を乗り出した。しばらくすると、草と草の間にある暗い影の中から、光る青い魂のような物が浮かび上がってきたのだ。
「おっ!お化けっ!!」
その不気味な物を目にした途端、椿は全速力でその場から逃げ出した。通隆をその場に残して来たことも忘れ、椿はとにかく必死に走った。
お化けに襲われると言う恐ろしい思いに駆られて、椿は後ろばかり振り返っているせいで横から出てきた近衛に気づかなかった。
その近衛も飛び出してきた椿にギリギリ気付いたものの、避ける余裕なんてなかった。
「わっ!」
前に進むつもりで走っていたが、唐突に大人の体とぶつかってしまった。全力疾走してきた勢いで、椿は近衛を床の上に押し倒してしまった。
大人の男性の胸板の上に乗せた顎から伝わってくる、力強い鼓動が聞こえる。
そして椿の全身をあの好きな雨上がりを連想させる匂いが包んで、離れなきゃと思っても体が動けずにいた。
近衛もまた自分の上に乗った椿をどうするべきかわからず、ただその荒い呼吸に耳を傾けていた。
あまりにも突如の出来事が起こったから、お互いがまるっきり放心状態だった。
椿はやっとのことで我に返り、バネのように体を起こした。
「ごっ、ごめんなさい!!私っ、前見てなくてっ」
その拍子に椿の着物の前がはだけて、細い血管が見えそうなほど透き通った肌が覗いた。
羞恥心で顔が焦げそうな程になっている少女に声をかけたくても、喉が詰まって声が出なくなった。
「あれは猫だったよ!何逃げ...」
後を追ってきた通隆はこの光景を見て、思わず言葉を呑んだ。
髪を振り乱した椿が父の上に倒れ込んでいるし、着物の裾が太腿の付け根まで上がってもう少しでいけない所が見えちゃいそうだ。
何とも淫らな光景に、通隆は何も見なかった事にしようにも、開いた口が塞がず棒のように突っ立った。
「ねっ、猫だったんだね...」
虚しい椿の呟きも、気まずい死んだような沈黙に呑まれた。
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