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あの恥ずかしい極まりない事故の後、椿達はもう一度先の草むらの方へ戻って確認しに行った。すると椿を待っていたかのように、草むらの側で青い目の猫が手を舐めている。
呆然と立ち尽くす椿に「ニャア」と嘲るような鳴き声を残し、猫は素早く逃げ去った。
結局大掃除もまともに出来ないまま、椿はふわふわする足取りで家に上がった。
昼食の間、未だに大人と中学生二人が浮かない顔をしているのを見て、千代子が心配げに聞いた。
「どうしたのです、三人とも」
一拍置いて近衛は椿と通隆に代わって妻に質問に答えた。
「いや、何でもない。ちょっと水が溢れて掃除した所が汚れただけだ」
だが、秀麿の方が観察上手だった。
視線を泳がしている兄、ギョッとしている通隆、そして火照る顔を押さえている椿を交互に見て、秀麿は眼鏡の向こうにある目を細めた。
「俺から見たら、何か人に言えない事があったように見えますけどね」
図星な事を言われて、三人とも心の中で竦み上がった。言える訳がない、ただの事故としても絶対に口に出さない方がいいと言うのは暗黙の了解だ。
ダメだ、まだ鼓膜を突き破れんばかりに心臓の音が大きい。他の人に聞こえてしまうのではないかと、椿は無意識に胸を押さえた。
落ち着こう、そう思うたびに瞼に先の光景が蘇って来る。
猫に驚いて逃げ出した椿が近衛とぶつかって、近衛のお腹の上で馬乗りになっていたところをちょうど通隆に見られてしまった。
でもよく考えたら、通隆が声をかけてくれた方がかえって良かったかもしれない。もし通隆じゃなくて他の人が目撃したら...
千代子夫人でも、秀麿でも、とにかく誰も良くない。どのみち椿の人生は終わりだ。このままの感じだったら、近衛と椿が自分から言わない限り三人以外の人は事故を知る由もなさそうだ。
しかも!あんな体勢だったし、まさにちょっとエッチな漫画とかにあるワンシーンじゃん...
椿は前結衣に見せられた少女漫画にもこう言うのがあって、椿と同じ状態の女子高生が前から来たイケメンに気づかず、そのままぶつかって押し倒してしまう状況。
あの時の椿も顔を赤らめていたが、結衣には「あんた純粋すぎんか?」と言われた事を思い出す。
だって、異性とそんなに近くなった事がないしなりたいと思った事もない。
近衛には好感を抱いているが、いきなり椿が作ったスキャンダルに巻き込まれて、椿をそう言う事を好む人だと思って嫌気がさすのでは。
そんなつもりは一切なかった。ただの事故...ただの事故だから近衛さんはきっと許してくれるはず...よね?
そう思って椿はチラリと近衛を見つめた。だが近衛は全く自分の方に目をくれなかった。
やっぱり嫌われたのかな...15歳の癖に猫にびびって、挙句にこんなトラブルを起こして...椿は今回のトラブルを作った張本人の自分を激しく責めた。
実の所、近衛も椿に対して自責に心が耐えなくなっているのだ。あの時すぐ椿から離れるべきだったのに、なぜか自分は動けずにいた。
勿論衝撃に押された理由もあったが、脳裏で「もう少しこうしていたい」と言う声が浮かんだのだ。
もう少し至近距離で少女の柔らかさを感じていたいし、もう少し甘えていたかった。
椿はきっと自分に早く離れて欲しかったに違いないが、大人の自分が先に反応できずそのままの状態で息子に見られてしまったのが、罪悪感と後ろめたさが渦巻く原因だ。
保守的な椿のことだから、絶対に自分を許せないだろう。
「まあ、それは良いとして...そろそろ準備した方が良いのではないでしょうか」
食器を置いてから千代子が聞く。若干疑い気味だがこの場で追及しないことにしたらしい。
「あ、ああ...」
近衛は妻に言われて、初めて思い出したような表情をした。椿も言われる初めて、今晩首相官邸で行われる予定だった新年を迎える晩餐会の事を思い出した。
「さあ!私たちも出席しなければいけないから!」
着替える為に家中を奔走する一同をよそに、椿はまだ一人その場で呆然と佇んだままだ。
「どうした、着替えないのか」
声をかけにくそうに近衛は椿に近づいた。二人の間にまだ気まずさが漂っているが、声をかけられて椿はハッとして答えた。
「これは家族の方々が参加するべき宴会です、私のような部外者は流石に...」
すると近衛はどことなく真剣な面持ちで、椿の褐色の目を覗き込んだ。少女は自分の視線臆せず、受け入れてくれた事が少し近衛を安心させた。
「そんな事はない、椿には是非来て欲しい」
「え...良いんですか?」
椿は嬉しく思って、恥ずかしそうにはにかんだ。一方どうしようもない不安も感じた。
今華族一家と生活しているだけまず前代未聞だし、まして一般国民なら絶対行った事がない。首相官邸にある晩餐会に参加する事も通常ではありえない。
全然身分が違うし、誰も見かけた事のない椿は
絶対人の興味を引く事だろう。皆の前で紹介される事は免れない。色々椿の出を聞かれると面倒だから、目立ちたくないのが本望だ。
「椿ちゃん!ちょっとこっちに来てよ!」
温子に手招きされる椿は一度近衛に振り返った。「本当に行って良いのだろうか」と言う感情をその目から読み取り、近衛は肯定的に頷いた。
「早くー!」
素直に温子の後ろについて行った椿を見送り、近衛は時計を確認した。
午後二時を差し掛かっているが、渋滞や官邸での準備を考えたら早めに出た方がよさそうだ。
椿が温子に連れられたのは温子が使っていた部屋だった。先に母親の手伝いを加えて華やかな着物を纏った温子が楽しげに言う。
「これ私が小さい頃に着た事がある物だけど、椿ちゃんに合うと思うわ」
クローゼットから温子が出したのは、鮮やかな椿が彩る赤い着物だった。金の粉が施されているらしく、太陽の光に照らされるたびに煌めいた。
「すっ、凄い!けど、似合わないと思うよ」
自分の名前と同じ花が散る晴れ着を見て、椿は思わずその美しさに目を取られた。しかし、同時にこの派手な着物に自分は似合わないだろうと思った。
「何言ってるのよ、着てごらんなさい」
千代子も嬉々として言ってくるから、椿は仕方なく部屋着を脱いだ。
驚くほど鮮やかな紅の着物前に品のある良い黄色の帯を結んで、椿の化粧は温子自らが施した。
暫くして晴れ着姿の椿が出来上がった時に、千代子も温子も喜んでいるように手を叩いた。
「椿ちゃんとても似合っているよ、見て」
鏡の前に立つと、色彩の強い紅の着物を着た少女が一瞬自分だとは分からなかった。
少女の小さな顔は化粧の清楚な作りに、唇に付いた紅が椿の花弁のように赤い。
自分は一回も化粧した事がないから、なるほど化粧したらこんな感じになるのか。
一方、温子と千代子が椿の事を褒めちぎっては、完璧にするまで意見を出し合った。
「椿ちゃんは元が良いから、そんなに飾らなくても良いわ。髪もそのままで良いし」
「そうね、何か頭に飾った方がいいわね...温子、確かこれとセットだったヘアピンがあったよね」
「そうそう!」
温子が引き出しを引いて、中から椿のヘアピンを取り出した。
それを軽く椿の前髪に留めて、「これで完成!」と言わんばかりに大きく微笑んだ。前高島屋で会ったおばちゃんみたいに、とても満足しているように見える。
「準備はよろしいですか?」
部屋の外から秀麿の声が聞こえる。男性陣の着替えは早い、女性みたいに飾らなくても良い。
椿は時々男子の便利さを羨ましがったが、やはり女の子の方が楽しいと思う時が多かった。
「良いわよ!行きましょうー!」
まるで遠足にでも出掛けるかのように、楽しそうにしている温子の後に椿が部屋の外に出た。秀麿は一瞬別人を見たかのように、椿をガン見してしまった。
椿の明るい面影が微かに残っているものの、何も口に出さずその場にいるだけなら誰だって、実の年齢とはかけ離れた大人っぽい印象の淑やかな美人に見えるだろう。
「秀さん見ないで、いくら私らしくないとしても」
そう言う椿が近衛と通隆がいる部屋に行った。背の高い近衛はダークスーツを着こなし、通隆も昨日の夕食会で着たのと少し違う黒い服を着ている。
先見た秀麿のを含めて、今回の晩餐会において男性陣は礼服、女性陣は和服と言う形式だと分かった。
「おお、皆素敵な着物で」
近衛は皆の事を褒めたが、三人の中で一番目立っているのは間違いなく椿だった。
少女はその綺麗な着物を見事に着こなし、誰よりも美しい。目眩を感じるほど。
その美しさは心の奥まで温められるようで、一方誰の追随を認めない特別な印象を他の人に与える。まさに高嶺の花と言うのだろうか。
「なーにお父さん、私らの美しさに見惚れたのですか?」
温子の揶揄う声を耳にして近衛は考え事から覚め、同じように笑いながら玄関の方を見やった。
「そうかもしれないな。昭子が待ってるから早速行こう」
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