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官邸の玄関に足を踏み入れ、右に曲がると何処となく見た事がある階段に出会した。普通は立ち入れない所に、他の人達も興味深そうに周りを見ている。
「あれ、ここ見たことあるかも」
しばし階段を眺めていると、近衛が説明した。
「あれは組閣の記念写真を撮る場所だ。これは“令和”にもあるのか?」
「ありますよ、テレビでよく見ます」
実物は初めて間近で見るので、椿は周りに事情を知らない人がいないかを確認して、そっとスマホのシャッターを押した。
「首相官邸の観光ツアーに参加してるみたい」
椿は朗らかな笑顔を保ったままあちこちの撮影に取りかかった。その活力に満ちた後ろ姿を見ながら、近衛が悲しげな口調で呟いた。
「令和はさぞ平穏な時代だろうな...」
「ん?なんか言いました?」
振り返ると近衛が微かに表情を歪めていることに気付いた。しかし次の瞬間はそれが完全に消え去った。
「いや、気にするな」
これまで何度か憂い顔の近衛を見かけたことがあったが、その度に椿はこの人に少し休んで欲しい思うのだ。
「高貴なる公家生まれが故、気が弱い近衛は暴走する陸軍を抑える事ができなかった」
ふと社会の先生が言っていた言葉が椿の耳に浮かんで来る。元々その先生は現代史専攻だったため、この時代に関しては詳しすぎるほど説明してくれた。
近衛には言えない事だが、その時の椿は声だけ聞いて内容が全く頭に入ってこず、外で部活をする事だけを考えていた。
「陸軍が全て悪いのですか?」
その時、歴史好きでよく揶揄われる、クラスメートの村上が手を高く挙げて質問した。
「そうとは言い切れない。陸軍に圧されて、近衛が中華民国の和平を蹴らなければまず日中事変は起きなかった。次の日独伊三国同盟も組まれないはずだった」
眼鏡をメガネ拭きで拭いて、初老の先生は再び口を開いた。
「要は、表面では良いようにもてはやされて裏では陸軍に上手く利用された、その近衛は太平洋戦争を起こした張本人ともいえる」
「ホールへ行こう」
近衛の言葉にパチッと回想から覚めて、椿は「はいっ」と答えてその後ろを追った。
社会の先生が言ってる事は間違ってる。椿は未だに頭の中で響く先生の言葉を振り払った。
例え近衛さんが優柔不断で、見通しが甘い人だとしてもそれは人間的で良いじゃないか。責任とか関係ないじゃないか。
...その人柄は、どこか影があって繊細で、尖った角がない丸く立派な岩のように洗練されている。今の椿にはそう思えるのだ。
「ここが今晩の祝宴会が開かれる大ホールだ」
重厚そうな扉を押した先に、明るい光が差し込んでいる広大な空間が椿たちを出迎えた。
天井には優美な曲線を称えた装飾があり、足元には赤い絨毯が敷かれている。
白いテーブルクロスを敷いたり、準備をしている人が多くいる。テーブルの数を見る限り、今晩は恐らく来客がたくさんいらっしゃるだろう。
次に案内されたのは総理職務室だった。天井が高く周りには本棚がいくつも置いてあるので、公務をこなすにはもってこいの場所のように思える。
だが、近衛が椿たちといれるのもここまでだ。
「僕はまだこれから大臣らと話し合わないといけない事があるから、戻るまでここで待機していてくれ」
近衛はそう言って、扉を押して外に出た。
残った六人は円卓に座って、それぞれ残された四時間をどう潰せば良いのか考えた。
秀麿は自分への待遇が悪いと文句を言い、昭子は顎を反らせつつ黙っている。
そして通隆は本棚に置かれている本の中から興味がありそうな物を探している。過ごし方はそれぞれめっちゃ自由。
大晦日の宴会を目前としているのに、首相の近衛さんはまだ会議をしなければならないのか...この日だけでも少し休んで自分達ともっと喋っていたかった。
そう心の中で思っている椿の側で、温子がお腹に向かって「あっ、蹴った」と言った。
「この子はきっと元気が良い男の子だわ」
千代子が温かい表情で温子のお腹を摩った。興味を唆られて椿も椅子を引いて温子に近づいた。
「男の子ですか?」
「そうよ」
温子が自ら椿の手を引いて、自分のお腹の上に添えた。すると分厚い衣服を隔ているのに、ドクンドクンと小さな振動が伝わってくるようだ。
「へえ...凄い」
椿の身内で赤ちゃんを抱えた親族がいないから、こうして妊婦と接する事もなかった。
「この子の名前はねえ...夫の護貞と決めたけど、護煕にしようと思うわ。ヒロ、ママだよ〜」
温子がこの上にないほど微笑ましい表情で、お腹の中にいる赤ちゃんに優しく語りかけた。
言葉で言い表せないが、椿の心に柔らかな愛がそよ風のように流れていく感じで、陽だまりのような感情が込み上げてきた。
「温子さんは凄く素敵なお母さんだね」
椿がそう言うと、温子も千代子も瞬きして素直そうな椿の笑顔を見つめた。昭子でさえ敵意のない視線でまっすぐ椿を見据えている。
「椿ちゃんもいつか誰かと結婚して、それでお母さんになる時が来るわ」
「そこまで考えた事がないんだよなあ」
大人になった自分が子供を抱いている姿があまりにも想像する事ができず、椿は恥ずかしそうに頭をかいた。すると、千代子が一瞬通隆の方を見て、目を細めながら何故か口元を押さえた。
「そうなの?昭和でも向こうの時代にいても椿
ちゃんはとても男の子にモテていると思うわ」
令和の時代において椿は一回も男子から告られた事がなかったが、かと言って誰と誰が付き合ってるか興味がない。ましてそれを羨ましく思った事もない。
それでいて親しい男友達は多くいたが、さすがに恋愛の相手として考えた事がなかった。
「それは絶対にねえわー...てか、昭和でもってどう言う事?」
「気付いてない?うちのミミが...『それはやめなさい』
ミミって何??ますます困惑する椿の前で、千代子が慌てて温子を制した。
首を傾げる椿に、温子が「やってしまった」と言う表情を浮かべ、罰が悪そうにコホンと空咳をした。
「な、何でもないわ。あはは...」
「ここにトランプがあるよ」
キョトンとしている椿の横から、こちらの会話の内容を何も知らない通隆がテーブルの上にトランプの箱を置いた。
「良いわね!これで時間が潰せるわ」
気分転換に、嬉しそうに温子が手を叩いた。他の人もトランプができると聞いて、少し時間が潰せそうだという安心したような顔をした。
「ババ抜きでもする?」
椿が言う前に、行動が早い千代子が早速カードを配り始めた。暇を持て余していた秀麿も昭子も集まって配られたカードを手に取っている。
「椿さんはこう言うのに強い?」
「えっ、まあまあと言う感じです」
椿は自分のカードを見たら、初手ジョーカーかよ...やっちゃったなあ...
「さあ、私から時計回りに引こうか」
千代子がそう言い、左の温子からカードを一枚を抜いた。
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