官邸にて

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 「いったいな!」  打たれた腰を摩りながら椿は西園寺の背中に拳を振るった。老人はなおぶつぶつ文句を溢しながら歩き去っていった。  「つ、椿ちゃん凄いね。あの元老相手に」  不服げに腕を組んでいる椿に、先に反応が戻った温子が声をかけた。続いて護貞もハッとして、妻と同じ感服な目で少女を見つめた。  「いや、これ以上見てられないじゃん?いくら地位が高い人とはいえさ」  「椿さんの勇気は称えられるべき物であります。本当に凄かったです」  椿は肩を竦めて二人を振り返った。三人の背後で、近衛は未だ体を小さくして、棒の様にその場で立っているままだ。  皆の前で西園寺に侮辱されて、反論しようとしても体が強張っていうことを聞いてくれなかった。「逆らってはいけない」と言う弱気が自分を引き止めた。  その皆の中に、自分が一番弱い所を見せたくない椿がいるのに。しかも今まで西園寺と会った事もなく、ましてその地位の高さを知らず、椿が前に立って自分に助け舟を出したのだ。  自分はいい歳をした大人の癖に、こんな幼い少女に庇われるなんて面目がなさ過ぎる。しかし、これはもう終わった事で隠しようがない。  「近衛さん大丈夫ですかー?」  ふと焦点の合わない瞳の前で、椿の細い手がひらひら振っている。  彼女はきっと何も言い返せなかった僕を軽蔑しているに違いない。そう思って近衛は椿の表情を見るのが怖く、ただ目を横に逸らした。  「そろそろ来客達を案内しませんか?皆さんずっと玄関に居たら寒いですし」  自分を罵る言葉を言われるかと思えば、椿はわざわざ近衛の視界の真ん中まで移動して、悪戯っぽく微笑んだ。  その顔からは全く自分を馬鹿にしている感情が読み取れない。ただいつもと同じ陽だまりの様に 暖かく自分に話しかけているだけだ。  ああ...椿を疑う自分が悪かった。こんな良い娘を疑うなんて、僕もどん底に落ちたもんだ...  「あ、ああ。そうだな」  やっとの事で現実に戻った近衛が慌てて来客の皆に声をかけた。   「皆様、お越し頂き誠にありがとうございます。どうぞ、こちらにおいでください」  先のホールに向かう近衛の後に続いて、来客達がぞろぞろ付いていく。男女問わず互いに賑やかな会話を弾ませながら。  椿も案内役として近衛の後ろで歩いていると、横から米内が人々の間からスッと体を滑り込ませてきた。そんな米内に椿が気さくに話しかけた。  「ヤッホーおっさん」  「先君の周りで騒ぎがあったみたいだが、西園寺さんと何かあったのか?」  若干心配げな表情をしている米内に対し、椿は形の良い眉を吊り上げ頭を横に振った。  「何でもないよ」  「なら良かった」  あの元老と問題を起こしたら、幾ら近衛と一緒にいる親しい人でもどんな結末が待っているのか知れない。何も問題が無かったと聞けば、とりあえず安心出来るところではある。  「てか思ったけどさー、おっさん海軍なのに軍服じゃないの?」  歩きながら指を音良く鳴らしている椿が聞くと、米内は自分の蝶ネクタイを整えた。少し借り物感がある漂白仕立てのタキシードだった。  「この場まで軍服を着る必要がない」  「へー、これもかっこいいけどさ、白い軍服がもっと似合ってる気がするけどな」  自分より頭一つ分高い米内を見上げて、先の護貞の様にサラリ言うと、褒められた事に米内は猫の口を良い角度に吊り上げた。  「ふふっ、それはありがとう」  まあ、服を褒められて嬉しく思わない人はいないって事かな。よし、これからは近衛さんの服装を沢山褒めるぞー!  やがて近衛に従って、椿達は先ほどの赤い絨毯を敷いた広大なホールに入った。  一つだけ違うのは、円卓の白いテーブルクロスの上に銀色に輝く食器や、出来立ての年越し料理が乗っている。  そういえばこの長い時間の間に何も食べてないなあ。椿はこっそり料理を覗いて、何の美食があるかを確かめたくて堪らなかった。  「皆様、指定された席までお願いします」  よく見たら、現代の予約席の様に円卓の上に白い札で人の名前が書かれている。  「椿ちゃんは私達とね!」  横から温子が楽しそうに椿の腕を自分の腕と絡め、上座に当たると思われる扉から一番離れている席を指さした。  ワオ、マジでガチで凄い!こんな嘘みたいな体験した事もない!椿の期待で満たされる胸がドキドキして、大人しく温子に引かれるままついて行った。  先見かけた大臣らの席は自分達と程よく近かった。こちらと同じ、向こうも自分の家族を連れている。  偶然米内の席が椿の右隣にあり、「良かったら後でトランプゲームに参加してよ」と予約を入れると、既に自分のグラスに酒を注いでいる米内が快く応じた。  そんな椿と米内のやりとりの親しさを見ていた温子が、横目で中年の海相を見ながら椿に聞いた。  「ねえねえ、あの海軍さんと前からのお知り合いなの?」  「全然そんな事ないよー、友達なってからまだ3日にも経ってないし」  ごく自然に返すと温子がしばし椿の綺麗な髪を見つめた。未来の日本からやってきて沢山不安を抱えているのに、この子の交友範囲と言ったら凄い物があるわ。  椿の両隣には温子と通隆がいて、円卓の対面には近衛が座っている。昭子さんじゃなくて良かった...と椿は独り胸を撫で下ろした。  来客達がそれぞれ席に着いたのを確認して、近衛が立ち上がって注目を集めるべく大声を張り上げた。  「皆様、ようこそいらっしゃいました。今年、昭和12年も残すところあと僅かとなりました」  なんの原稿も持たずに、近衛の頭の中に文字が浮かんでいるかと椿は大きく目を見開いた。  「今年は日中事変など、色々な事がありましたが、どうにか無事一年を過ごせましたのも、皆様の多大なご支援の賜物であり、大変感謝しております」  何でこんなに流暢にスピーチできるのさ。自分なら同じ原稿を何回読んでもきっと詰まるところがあるのになあ...  初めて見る近衛の知られざる能力を目の当たりにして、椿は「やっぱりこれは才能かな」と感心したように頷いた。  「来年も何かとご迷惑をおかけするかもしれませんが、本年同様にご指導ご鞭撻のほど、どうぞ宜しくお願い致します。年末に向けて、ますます寒さも厳しくなりますが。どうぞ良いお年をお迎えください」  総理による新年の挨拶が終われば、ホールいっぱいに割れんばかりな拍手が響いた。そんな中、椿も一生懸命手が痛くなる程拍手を送った。  近衛は可愛らしい顔を輝かせている椿をチラッと見て、自分もまたにっこり笑顔を返した。  「では、年越し蕎麦を頂きましょう」  【作者:言うの忘れてしまいましたが、椿さんの身長は164㎝といったまあまあの高身長です。どんな服を着てもスラリとしていて、見栄えがあります(*^o^*)】  
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