96人が本棚に入れています
本棚に追加
対談
覚えていたのは、訳が分からず昭和時代に飛ばされた自分が憲兵に追われ、開かれたドアに気づかずぶつかってしまったことだ。そこから全く記憶がなかった。
自分は死んだかと思うほど、周りはとても静かだった。大怪我してるはずが、今は何の感覚もない。
やっぱり私、死んじゃったのかなあ。
どうしよう...今頃お父さんお母さんはきっと心配でたまらないだろう。結衣にも申し訳ない事をした、突然消えた私を恨むだろうな。
椿の目尻から涙がポツリと枕に滴り落ちたのを、側で見守っていた近衛は見逃さなかった。
「起きたかい?」
若干高くも、よく通る男の声を聞いて椿はかっと大きく目を見開いた。
自分は死んでなどなかった。
ここは大きな和室で、自分は柔らかい布団の中に横たわっている。頭に包帯が巻かれてるらしかった。
そして視線を横にずらすと、声の持ち主の姿が視界に入った。
背が高く、高貴な雰囲気を纏ったその男は、まさに先の社会の授業で習った、近衛文麿その人だった。
「あっ!!」
近衛を見るなり椿は大きく叫んでしまった。褐色の綺麗な瞳が驚異に見張っている。
「どうかしたかね」
「教科書の人だ!」
起き上がろうとするが、頭に刺すような痛みが走る。
教科書の人...椿の言葉を心の中で噛みしめながら、近衛は椿の背中に手を当て、ゆっくり布団に倒した。
「急に起きると良くないよ」
全く、この少女は身なりも言葉遣いも、不思議そのものだ。
大きな、温かい手が服の繊維を通して背中をさすってくれたおかげで、椿はいくらか痛みを忘れることができた。
だがそのせいで自分の服が変わっていることにも気付いた。赤い半纏の中に白い女用のシャツという格好だった。
自分が気絶してる間、まさかこの近衛さんが自分の制服を脱がせてたのか。現に近衛しか見かけていない以上、椿がそう思うのも仕方がない。
自分は異性になど自分の体を見せたことがないし、ましてこんな大人にだ。
椿の頬がみるみる赤くなっていくのをおもむろに見ながら、近衛は少女を安心させるように言った。
「君の服なら女中が替えてくれた」
同性ならまだ大丈夫か...というより、自分の考えは全て、近衛は見通しだった。
恥ずかしすぎて布団を限界まで引き上げて、まだ赤い額だけが覗いている。
近衛は無意識に少女の仕草を可愛いと感じ、椿への興味が更に高まった。もっとこの娘のことを知りたい。
その時、いきなり椿のお腹がぐぅーっと情けない音を発した。胃の中が背中にくっつくほどお腹が減ってるし、何より和室に響き渡るこの音が自分が出したとは思いたくない。
しかも近衛が吹き出し、大声を上げて笑った。椿はお腹を抑えながら、酷く決まりが悪い思いに駆られた。
「笑うのやめて下さいよ...」
「2日も寝込んでいたからには、腹も減ったろ」
2日も目を覚まさず寝ていたのか...
「君が怪我したのは僕のせいだ。責任を持って、君が完治するまでここ荻外荘に居てもらうよ。本当にすまない」
涼しい目尻を下げて謝られ、椿はもはや何の文句も思いつかなかった。
「大丈夫ですよ。私だってこの時代に迷い込んで、色々怖かったから...」
椿は軽く頭を横に振って、物憂げに顔を曇らせた。
「...この時代に迷い込んだ、とは」
物問いたげに近衛は身を椿の方へ乗り出した。やっとこの娘から何か聞き出せると思った。
椿は少し眠いような、パチリとはしない物思いに沈んでいる寂しい目つきになった。
ちょうどその時、襖の向こうから軽く叩く音がした。
「食事を運んできました」
近衛ははっとして襖を開けた。外にいるのは近衛とそっくりの太い眉の、はっきりした顔立ちの女性だった。
「その子、目が覚めたの?」
椿の方に向けられた視線は、露骨な不快と敵意が滲んでいた。
「ああ。悪いが昭子、僕のもここに運んでくれないかね?」
これには椿も思わず近衛の背中を見た。昭子と呼ばれた女性も僅かに顔をしかめ、もう一度近衛に聞いた。気は確かなのかを確認したいように。
「私たちと一緒じゃなくて大丈夫ですか?」
「今日はこの娘と食べるつもりだ」
「は、はあ」
そう言って昭子は戸惑い気味に、一旦その場から姿を消した。
「あの、家族の方々?と一緒の方が良いと思いますよ」
椿は先ほどの昭子を怒らせたくはないし、初対面でなるべく角が立たないことを望んでいた。苦手な先輩と同じタイプだ。
「いや、僕はまだ君に聞きたいことがいっぱいあるからね」
戻ってきた昭子から食器を受け取りながら、近衛は平然な顔で椿の方に振り向いた。
心の中で不安を募りつつ、椿は近衛が自分の横の椅子に座ったのをただ見てるだけしかできなかった。
「終わったら呼んでください」
去り際に、昭子から冷たい一瞥を投げられ、またもや背筋がゾワっとした。
椿は改めて用意された食事を見ると、いかにも季節感を大切にしている日本料理だった。見た目は華やかであり、粒の大きい米が香ばしい匂いを発している。
椿はあまり歴史に興味はないが、先生から当時の人は食べ物に困っていたのを聞いたことがある。だとしたら、ここの家はかなり裕福であることが分かる。
飢餓感が押し寄せてきて、椿は耐えきれず箸を取りかけたが、近衛がまだ箸を動かしていないことに気付いて手を引っ込めた。
目上の人と食事をする時は絶対に先に食べてはいけないのだと、母から教わったことがあるのだ。
近衛はこの動作に少々驚かされた。この場において、教養がある自分達華族は良いものの、一般庶民なら必ず先に食べたに違いない。
なのにこの娘はとても飢えているはずだが、我慢することを選んだのか。
「さあ、頂こうか」
両手を合わす近衛を上目遣いで見ながら、椿も許可を得て箸を動かした。
鰤の刺身を摘んで口に放り込むと、舌触りは滑らかで、まろやかな味が口の中で広がった。
「う〜ん!美味しい!」
うっとりする美味しさに椿は悶絶した。
それからはガツガツと凄まじいスピードで食べる椿と(部活の大会で弁当を食べると同じ感覚で)、ゆっくり優雅な姿勢で少しずつ箸を進める近衛。二人の食事風景はまさに対照的だった。
「ところで、まだ君の名前を聞いてなかったな」
上品に緑茶を口に含んでから、近衛は椿に聞いた。
「むっ?」
口いっぱいに食べ物を突っ込んでいる椿の様子が、当の近衛にはリスにしか見えなくて、また笑ってしまった。
急いで飲み込むと椿はピンクの唇を尖らせた。食べて元気が出たおかげで、今はまともに近衛と顔を合わせることができた。
「なんですか」
「いや、なんでもない」
深まる笑意をごまかそうと近衛はもう一度緑茶を飲んだ。
ごちそうさまと箸を置いて、椿は真っ直ぐ近衛の目を見据えた。
「氷室です。氷室 椿」
近衛はゆっくりその名前を吟味した。氷室という苗字は華族の中にはない。
「椿、か...色鮮やかな花弁に葉、生命力に溢れている君と同じだな。良い名前だ」
「あ、ありがとうございます...で、近衛さん?ですよね」
「僕のことを知っていたの?」
近衛は思わず箸を止めて椿を見つめた。
「だって教科書に書いてありましたよ。そうだ、私の荷物はどこですか?」
「ああ、そのことだが...」
近衛は申し訳なさそうに袴のポケットから椿のスマホと充電バッテリー、それから小さくて運び易いものを取り出した。
「他のものは妻に燃やされたんだ。特に本に関しては、怖い顔で僕がみるべきではないと言っていたな。見つかる前に小さい物だけ持ち出せた」
「はあ...」
椿は肩を落として、近衛から生き残った私物を受け取った。
「私の制服は」
「あれは制服だったのか。まだあるから安心しなさい」
「...どうもありがとうございます」
椿の綺麗な顔に再び陰りがさし、長い睫毛が美しい影を作った。
別に落ち込んでいる訳ではなく、今が1937年なら3年後には正式に開戦する事は椿は知っている。
日本の未来は椿を含めて、おそらく教科書に目を通した近衛さんの奥さんもご存知のはずだろう。
この怪我が治れば自分は近衛家を後にし、正直そこからどうすれば良いのか分からない、元の時代に戻れる手段も分からない。
死ぬかもしれないし、それ以外の理由で自分は排斥される可能性が高い。
あれば少なくとも何年何月何日に起こる出来事を知ることが出来るが、教科書などを燃やされては、自分がこの世で生き延びる確率が更に減少したとも言える。
ああ、本当に不謹慎なことを考えた自分を呪いたい。
「うわあ、これはなんだあ、猫か」
横で近衛が自分のスマホをいじっていた。指で触れただけで、ロック画面から突然現れた飼い猫のみーちゃんに大層驚いているようだ。
「え!ちょっ」
スマホは近衛の手にすっぽり入って、落ちる心配はないものの、別の意味で壊れるのではないかと心配した椿は、近衛を止めようにも良い言葉が浮かばない。
「写真が黒白ではないのが不思議だ。猫を抱いてるのは椿か」
「は、はい」
氷室さんとかじゃなくて名前で呼んでくれたことに呆気を取られつつ、椿は頷いた。
ひやひやして近衛を見ていた椿だったが、近衛の指が偶々上に滑らせたせいで、パスワード画面が出てきた。
「…ん?」
真剣そうに近衛はスマホを睨み、何と適当に数字を打ち始めたのではないか。
「やめてください」
流石にもう見てられず、椿は素早くスマホを奪った。
「違うパスだったら永遠に使えなくなる...」
目を丸くしている近衛をよそに、椿は正しいパスワードを打ち込んで近衛に突き返した。
ロックを解除すると、老眼なのか近衛はアプリの小さな文字を読もうと画面に近づいた。
「あまり近いと目がやられますよ」
激しい運動をするとまた傷が痛むので、椿は軽く近衛の目とスマホをより遠くへ引き離した。
今自分は歴史の人物と一緒にスマホを見ているなんて、何ともおかしく、想像したこともないことだ。
そして近衛の指が写真の所に触れ、今までこの携帯でとってきた写真が全部二人の前に広げられる。
笑っている家族の集合写真、結衣と撮ったプリクラ、大会で三位を獲った時の、椿に輝くような笑顔。
「この人たちは誰だ、君と似ている」
「はい、私の家族です。こちらは私の母で、勉強しないと怒る人なんですけど、とても優しんです」
「ほう、椿は勉学が嫌いかな?」
不意に近衛が揶揄うような口調で椿に聞くと、少女も自然と口角を吊り上げた。
「そりゃあんま好きじゃないですよ、体を動かすのが好きです」
「そうか、学生の頃の僕はどっちも上手くいっていたが、本を読む方が好きだ」
「えー頭いい!羨ましいなぁ」
最初は近衛と会話を弾ませていた椿だが、思い出の写真を一枚ずつめぐっていくうちに、近衛は椿の声が段々震え始めていることに気付いた。
家族が恋しい。自分が居た時代に戻りたい。そういう思いが椿の頭の中を埋め尽くしていく。
「大丈夫か?」
溢れてくる涙を堪えようと、椿は唇を白くなるほど噛んだ。
しかしやはり止めきれなかった。どうしようもなく、硝子のように光る涙が止め処なく溢れ出した。
「家に帰りたいです」
気づいたら、椿は近衛の肩に頭を乗せていた。自分の思いをただ静かに聞き、時折ハンカチで涙を拭ってくれる。
柔軟で包容力があるというか、近衛の聞き上手さに椿は浸っていたのだ。
「俄かに信じられないが、君は椿の花を触れただけの動作でここに飛んできたのだと」
「はい、本当に怖かったです...」
先よりはマシになったが、まだ少女の目が潤いを帯びている。
近衛は少女の涙に濡れた幼い横顔を見ながら思った。
本当に違う時代から来たのであれば、全く違う環境に残された上、憲兵に追われたのだったら、どれほどこの僅か15歳の少女にとって恐ろしいことか。
近衛の自分を哀れむ眼差しを感じて、椿は無理に笑顔を作って見せた。
「大丈夫です。きっと何とかなります!」
自分はこの時代に属さない、もしかしたら戦争が始まる前に命を落とすかもしれない。
「ならばこうしよう、君が帰る方法を見つけるまでここに滞在するのはどうだ」
近衛の本心からの提案に、椿は慌てて頭を横に振った。
「そんな訳にはいきません!大体、私のような部外者がこれ以上近衛さんに迷惑をかけたくないです。気持ちは有り難いですけど」
泣き疲れたのか、ふと薄明の眠気が椿の瞼を重くさせ、再び意識が朦朧としてきた。
そして近衛の言葉を最後まで聞くことがなく、大人の肩に寄り掛かったまま眠ってしまった。泣き疲れたのか、近衛の優しさが心地良かったのか。
その時、近衛の妻の千代子と昭子が様子を見にきて、襖を開けた途端この曖昧な光景に息を呑んだ。
椿と自分の夫がこんなに親しくなっている事を、千代子は複雑な気持ちになっているし、昭子はと言うと椿への敵意が更に高まった。
「その子を布団に戻しましょうか」
やっとのことで千代子は話せるようになった。
「いや、しばらくこのままにしておくれ」
正直この場にいる誰も、近衛の肩に頭を乗せたまま、静かな寝息を立てている椿を起こしたくなかった。
「この娘は、僕たちが想像もできないほどの苦労をしてきたから」
最初のコメントを投稿しよう!