椿、学習院に入学する用意を

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椿、学習院に入学する用意を

 それからの日々は、椿は荻外荘で勉強とはかけ離れて、ゆっくり休養を取った。もっとも、安静にすれば大して問題のない怪我だった。  その間、部屋にはよく温子と通隆が訪ねてきては、楽しいお喋りに興じることが多かった。  温子は椿と似て、体を動かす方が好きで音楽を聴くのが趣味だった。椿も好きな歌手とかいるが、好みのジャンルが違えども二人は音楽の楽しさを共有できた。  「レコードかけて良いからね!遠慮しないで」  近衛が椿に与えた部屋にはレコードの機械があった。温子曰くこの機械は最新式の物で、雑音は殆ど混ざっておらず歌手の歌声が聴けると言う。  「久々に歌ってみるね」  レコード盤を置き、身篭っている温子は無理にならない程度で、曲に合わせて歌を歌い始めた。  その声があまりに高く綺麗で、一つ一つの音程をしっかりとって、気持ちよくなった椿はいつしか温子の歌に聴き惚れた。  一曲が終わると、椿は熱心な拍手を温子に送った。もしこの時代にカラオケって物があったら、こんな美声なら必ず高得点なのだろう。    「凄い!ミュージカルに出ようよ!」  椿が興奮気味に叫ぶと、温子は恥ずかしそうにはにかんで見せた。  「ありがとうね、でも私より兄の方が歌が上手なのよ」  「アメリカで留学してる方の事?」  「そう。元々、あんまり真面目に勉強してないと聞いたから、途中で退学するかもしれないわね」  何があったんだよ、会った事のない文隆さんは遊んでるのかい!と椿は内心遠くアメリカにいる文隆にツッコミを入れつつ、温子と明るく微笑みあった。      そして通隆は椿と違って歴史が大好きだが、時々皮肉屋の15歳だ。通隆が持ってきた歴史の本の字体は少し現代と違うが、読めないことはなかった。  「あーもう飽きた」  椿は本を閉じ、無造作に畳の上に寝転がった。そうするといつも通隆が眼鏡の向こうから、得意げな目でこちらを見てくる。  「椿って頭悪いなあ」  「また私をディスって...」  腕を組み、椿はこの自慢げにしている男子をどうやり返そうか考えた。  「ま、足だけは僕より早いだろ?」  「そうよ!あんたがここの庭を一周したときに私はもう日本一周するのさ」  「ふんっ、嘘つけ」  お互い大口を叩き合っては睨み合う二人だったが、大抵どっちも耐えきれず笑い出す事が多かった。  近衛はと言うと公務で忙しく、椿とはここ半月ほど会ってない。  もうすぐ1938年だと言うのに、椿が毎年楽しみにしてるクリスマスの日でも家にいなかった。一国の総理だから、多忙なのは仕方がない。  近衛がいないのは寂しいけど、その分椿は他の人と仲良く過ごすことができた。勿論夫の所に帰った昭子以外の人と。  しかしどうして昭子さんだけ、最初から私に強い敵意を示すのだろう、と椿は度々思った。  昭子と言葉を交わしたこともないから、悪く思われる理由が分からずただ戸惑う一方だった。  こいつは目障りで邪魔だ、と思われたのかもしれない。  この怪我が治れば、私はすぐにでもここを後にしなければならないのに...  ある日、椿は屋敷に訪れた医者に怪我の具合を診られた。  温厚そうなその医者から、幸い傷ができたのは目立たない所で、痛みがないならもう運動してもいいと言われた。  「ありがとうございました」  椿は遠ざかっていく医者の背中に深く頭を下げた。今度近衛ご夫妻が揃っている時に、ちゃんとお礼を言おう、そう決めた椿だが、同時に冷たい風が胸を吹き抜けた気がした。  私が完治するまで、近衛さんは責任を持ってここに滞在させてくれたし、怪我が治った以上もうこれ以上ここに留まる理由はないのだ。  ふらっと玄関の外に出ると、12月下旬の冷たい空気が肌に刺さってくる。池の周辺を散歩していたら、樹齢が長そうな木に咲き乱れている深紅の椿が視線を誘う。    「ワンチャン...」  椿はその木の下に行って、そっと花弁に触れた。  「私を元いた家に戻して」  ここに来た時と同じような感覚を期待したのだが、何分待っても何も起こらなかった。  「はあ..だよね...」  細い腕を戻し、椿は力のない笑みを作った。  やはり、一旦ここに来たら帰れる訳がないのだ。椿は項垂れて、一人言いようのない絶望感に打ちひしがれた。  ちょうどその時、駐車場に黒い車が滑り込んできた。今この屋敷には私と女中のトクさんしかいないのに、誰だろうと椿は木々の間からその様子を見た。  ところが、その車から出てきたのは近衛だった。大分忙しかったのか、髭の剃り跡が荒い。表情が憔悴しきっているし、大きな背中を少し丸めている。  「お帰りなさい!」  出迎えようと椿はたたっと近衛の方に駆け寄った。近衛は久々に見る椿の暖かな笑顔が、自分の疲れを吹き飛ばしてくれた感じがした。  近衛もまた口元を綻ばせ、何重も巻かていた包帯が消えた椿の白い額を見る。少女の嬉々とした表情に、人を惹きつける可愛らしさがあった。  「ただいま。先あそこで医者とすれ違ったのだが、大丈夫か?」  「はい、痛みはないし、運動してもいいと言われました」  椿は明るい笑顔を保とうと努めたが、近衛はその目に寂しい影が過ぎったことに気付いた。  「実は、今から椿に一緒に来て欲しい場所がある」  外出というのであれば。椿は自分の格好を見下ろした。  白いシャツの上に制服の上着を羽織って、下にズボンと言ったタフな服装だった。部屋着ならまだしも、これで外に行けと言われたら少しまずいかもしれない。  「服はそれでいいよ」  近衛はそう言いながら、椿のために車のドアを開けた。  「失礼します...」  椿が後部座席に座った後、近衛も乗り込んでくる。  「高島屋へ頼む」  近衛が短くそう伝えるだけで、運転手はエンジンを入れてその場でUターンした。  「高島屋って!あの有名な百貨店ですか?」  知ってる名前を聞いて、椿は子供のように顔を輝かせた。  「そうだ。“令和”にもあるのか?」  近衛も笑いながら椿を見る。公務の後に、椿と二人だけで出かけるのが安らぎのひと時であると感じていた近衛だったが、椿が喜んでくれたのは殊更嬉しいのだ。  「母と何回か行ったことがあります、華やかな店だけど香水の匂いがキツイんです」  「それは楽しそうだな」    「令和の日本はさぞ良い国だろうな」  近衛はその言葉を飲み込んだ。本当は、自分がこれ以上総理としてこの国を良い方に導ける気がしないのだ。  日中戦争の勝利を願う国民や軍部を、自分はそれを止めれないのは明らかだ。  椿と近衛を乗せた車が東京の街を駆け抜けていく。路面電車、色鮮やかな着物を着込んだ男女の姿を追おうと、椿は窓ガラスに顔をへばり付けてしっかり目を開けた。  同じ日本と言っても、一昔前の東京は現在と全く趣が違う。まさに昭和レトロと言うのか、椿は異世界にいる錯覚を覚えるほどだ。  「先から聞きたかったんですけど、何か高島屋に用がありますか?」  椿は窓から目を離し、隣にいる近衛に聞いた。  「千代子と話し合っていたのだが、椿を学習院に入れようと思う」  「が、」  それを言われた瞬間、椿の頭の中に色んなワードが飛び交った。  皇室ーーー超難関ーーーお金持ちーーー学習院?!  「学習院?!」  椿の絶叫に驚いた運転手が一瞬ハンドルを手放しかけた。嘘だろと椿は思わず近衛の顔を二度見したが、大人の表情は真剣そのものだった。  「が、学習院って、あの皇室の方々が行かれる学校のことですよね?」  仰天したように大きく見開かれる椿の綺麗な目を横目で見ながら、近衛は冷静な調子で続けた。  「そうだ。僕も千代子も、是非君に近衛家にいてほしいと思うんだ。家に帰る方法を見つけるまで」  空いた口が塞がらないほど、椿は信じられない目で近衛の目を見据えた。対して近衛は当たり前だと言わんばかりに、生真面目な表情を浮かべた。  すると未来への不安から救われたように、椿の両目から抑えがたい喜びの涙が溢れ始めた。    「そのため、君はまだ学生だから学校に行った方が椿のためだと考えた」  「で、でもっ、私貴族じゃありませんよ。それなら他の学校でも」  椿は嗚咽を堪えつつ、自己分析をするように言った。一方近衛はただ頭を横に振って、目を細めた。  「それは安心しなさい、一般庶民もたくさんいるよ」  驚きのあまり、椿は視線を所在なさげに泳がした。近衛に何も言えないほど、椿は言葉に詰まっているのだ。  「通隆の組に空きがあると聞いた。年が開くと面倒だから、制服が届いた翌日に来るよう言われたんだ」  やがて車がキキーッというブレーキ音を立てて、見上げるばかりの重厚そうなデパートの前に止まった。  「着きました」  運転手が回り込んできて後部座席のドアを開けた。近衛が先に外に出て、まだ中にいるショックで動けない椿を呼んだ。  「制服のサイズを測りに行こう」  近衛が伸ばした厚く広い手を見て、椿の脳はやっと再び働き始めた。  「うわお...こんなことある...?」  近衛に問いかけるように椿は呟いた。昭和時代にトリップした自分は、現代では考えられない凄いことをこれから体験するのだ。  「ああ、あるよ」  椿の柔らかく白い手を引き寄せ、近衛は少女を外へ連れ出した。
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