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二人がときめいた瞬間
椿は近衛の後に続いて、「タカシマヤ日本橋店」という大きな看板を掲げている建物の中に入った。
正面玄関に足を踏み入れた椿は、目の前の壮大な景色に感嘆の息を漏らした。
「凄い...!」
広い吹き抜けには、大理石の柱が並んでいて天井には煌めくシャンデリアが飾られている。
現代においても、中々思い切ったこのデザインを見たことがない。
「ほら、行くよ」
荘厳な内装を全て一望しようと、棒立ちする椿を近衛が急かす。
ここには多くの人で混み合っているが、皆が近衛を見て「近衛首相殿だ!」「あの身長は絶対間違い無いわ!」と手を叩いて喜んでいる。
ここにいるのは紳士淑女ばかりで、自分の格好があまりに場違いすぎると思った椿は近衛の後ろに隠れようとしたが、それでも人々の好奇心に満ちた目から逃れられなかった。
「でも...あの子は誰かしら?」
「新聞で見たことがない顔だから、近衛さんのご子女と言う訳ではなさそうね...」
すぐ近くでおばさんたちがそう囁き合っているのを、椿は出来るだけ無視した。何だか椿と近衛に関係する悪い噂が立ちそうな感じがする。
「これはこれは近衛さん!ようこそ高島屋へ!」
騒ぎを聞きつけた店のオーナーらしき男性が、明るい表情を浮かべながらこちらに近づいてくる。顔見知りのようで近衛は挨拶がわりに片手を上げた。
「お邪魔するよ。今日はこの子の制服のことで来た」
近衛が言うとオーナーははっとした表情で椿を見た。
「学習院へですか?ですがこの子『それは君が聞くことではないだろう』
椿を疑うような口調で喋るオーナーを近衛がぴしゃりと遮る。
ヤベッ、株が下がっちまった、オーナーは自分の失態を悟り、すぐ椿と関わることを言うのやめようと決めた。
「大変失礼致しました!では、こちらへ」
エレベーターの前に着くとオーナーは別の店員に呼ばれた。
「失礼、閣下。私はここで行かなくては...」
近衛が頷くとオーナーは後頭部のハゲた場所が見えるほどお辞儀をし、急ぎ足でその場から立ち去った。
レバーのような物の横で立っていた従業員が椿たちに気付いて、慌てて扉を開けた。
「7階まで頼む」
近衛と椿が乗ったら扉が閉まって、従業員がレバーを回し、その直後エレベーターがゆっくり上昇し始めた。
「へえ...エレベーターって手動なんですね!」
新しい発見に目を輝かせている椿の様子を、近衛も愉快に思った。
「“令和”は手動じゃないのか?」
「電気を使って、ボタンを押すだけで行きたい階に行けるんですよ!」
「ほう...」
令和って本当に不思議な時代だ。これまで椿の話を聞く限り、令和は昭和よりも遥かに発達していることが分かった。
その頃の日本は、「先進国」と呼ばれていてアメリカなど大国と並ぶほど凄い所だとか。
7階に着いたエレベーターの扉が開き、椿たちが来ることを事前にわかっていたのか、カウンターの向こうにいる従業員たちが一斉に頭を下げた。
「後は頼むよ」
近衛と離れて、椿は一人の従業員と更衣室に入った。
それにしてもこのおばちゃんはよく喋る人で、椿のウエストを測るときは「あんたほっそいわね!」と何度も言ったが、椿と近衛の関係について聞く事はなかった。
そして自分に合ったサイズの制服を試着した時は、おばちゃんは大きく微笑んだのだった。
「近衛閣下!見てください!」
状況が掴めず椿はおばちゃんに引っ張られるがまま、ソファで新聞を読んでいる近衛の前に立たされた。
新聞から目を上げると、恥ずかしそうに頭をかいている椿の姿が近衛の目に飛び込んできた。
「この子、とても似合ってますよね!」
学習院の深紺のセーラーが椿の細い体を包み、更にスカートから伸びた両足は長くて白い。まるで椿だけのために造られた服かのように、誰からの目でもそう見える。
女が見ましても初々しい美しさに、近衛でさえ思わず見惚れていたのだ。
「ほんとっ、この子お顔立ちが可愛らしいですし、20年ここで働いて来ましたけど、こんなにぴったりなのはこの子が初めてでございます!」
おばちゃんが感動したように椿のことを褒めるし、近衛の視線に晒されているから椿はただ顔を紅潮させていた。
「あー、もう戻っても良いですか?恥ずかしいっす」
恥ずかしすぎてもはや声にならない椿の呟きが、勢い良いおばちゃんの声にかき消された。
「閣下!一つ提案ですが、この子にもっと他の服を試着させたいです!」
もはや近衛の返答を待たずに一人暴走しそうなおばちゃんに、近衛は微かに期待を寄せながら「好きなようにしてくれ」と答えた。
「ありがとうございます!」
その後は、おばちゃんはあらゆる洋服や着物を持って来ては椿に着せた、ずっとその繰り返しだった。
「ジャーン!どうですか?」
ファッションショーのように、椿は服を着たたびに更衣室のカーテンを横に引かれ、その姿を外にいる近衛に見せられる。
色んな服装の中に、おばちゃんは特に赤色の服を多く選んだ。
何着目か忘れたが、椿が着るには少々早すぎる、背中が大きく開いている赤いドレスを着た時は、おばちゃんはやっと満足したように頷いた。
「これで分かったわ、お嬢さんのカラーは赤ですね!」
おばちゃんの言葉に近衛も同意した。椿から発せられている眩しい光を覗き込みように、穏やかに目を細めている。
椿はあの花の名前と同じ、生命力に満ちている。そして少女には、自分が羨望しているあの明るさ、前向きさを持っているのだ。
やっと解放されるのか、椿は硬くなった肩を回し台から降りようとすると、近衛がとんでもない事を口走った。
「先試着した服を全て買い取る」
近衛さんの頭は大丈夫なのかと椿は目を丸くしたが、おばちゃんは近衛が自分のセンスを認めてくれた事を大喜びした。
「ありがとうございます!」
椿が着た服を包装するために、大急ぎでおばちゃんは走り去った。
「全部買うって、そんな事しなくても...」
呆れるように言う椿の横で、近衛は至って真剣な面持ちで財布を出した。
「どれもとても似合ってたじゃないか。僕としては、是非椿に綺麗な服を着てもらいたいと思う」
「は、」
そう言われた瞬間、椿の胸が高く弾んだ。胸の底から、何かが芽生え始めた感覚が伝わってくる。
自分はその未知な感情が分からない。言葉で言ったら甘く、そして一瞬の息苦しさに陥る感覚だった。
何なの...怪我が治りたてだから、こんな変な感じがするの?
その感覚に戸惑いつつ、椿は更に火照た顔を背けて小さく呟いた。
「なんかすみません、ありがとうございます...」
椿には知る由もなかったが、この時近衛もまた胸の激しい動機を覚えたのだった。
この少女は間違いなく自分に大いなる影響を与えると言う予感は、間違いがなかった。
真冬の東京駅で出会った、未来からやって来た少女。
椿と出会った時、近衛は人生において大きな部分を占めるピースを見つけたと直感したのだ。
しかし同時に、重い罪悪感が心にのしかかった感覚も伝わってくる。
自分はこのピースを取るべき資格はない。自分の欲でこの若い芽が潰れてはいけない。とんでもない罪を犯す事になるかもしれないのだ。
家族のことも、そして椿の将来のことも、全てがこの思いで崩壊する。
そして、お互いに知られることがなく、椿と近衛はお互いに心のときめきを覚えた。
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