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制服のサイズを計った次の日にはもう制服が家に届き、予想外の早さに椿は狼狽えた。更に学校で使う物や教科書も配布されて、改めて学習院に行く現実を突きつけられた。
やばいまじでやばい!!
超難関の授業の進度についていけそうにないし、通隆以外他の子と仲良くなれなかったらどうしよう。何より自分の出身を聞かれたらどう弁解すれば良いのか。
色々考えたら椿は痛くなった頭を抱え、激しい不安がお腹の中で渦を巻いているのが気持ち悪い。
「まじでどうしよう...」
外国のお菓子を頬張りながら椿は教科書のページをめくっていった。予め近衛から一回目を通しておくようにと言われたので、椿はこうして朝から教科書と格闘して来た。
「そうか椿も学習院に入るのかー。しかも僕のクラスに」
隣で同じように勉強している通隆は余裕そうに、鉛筆を回して教科書を見てる。
「めっちゃ怖いけど...」
椿が言うと通隆は不思議そうに目を瞬いた。椿に同情するより、むしろ椿の不安を不可解に思っているようだ。
「どうして?」
やはりこの気持ちは理解されぬものか、椿は「はあ...」とため息を吐き、頭を机の上に倒して通隆を見上げた。
「あんたは慣れてるから良いかもしれないけど、私は怖いんだよなあ」
「何が怖いの?」
「一、旧制の中学校に馴染むかどうか。二、友達が作れるかどうか。三、勉強についていけるかどうか」
何かの宣言をするように、椿は指を順に折って道
隆に自分の考えを伝えたが、やはり少年は首を傾げたままだ。
「友達なら大丈夫だろ、学校には華族の付き合いで仲が良い幼なじみがいっぱい居るんだ」
「あんたと違うんだって...」
「でも、椿は良い人からきっとできると思うよ」
皮肉屋の通隆が褒めてくれたのか、椿はすぐ頭を上げ笑顔を見せた。
「おー通隆君、そう言うのは珍しいね」
「だが、勉強の面では落第かもしれないな」
また「お前は勉強ができない」と言う釘を刺され、椿は笑顔が固まってしまった。
「あんたって奴は...」
いつもなら文句を言うのだが、今の椿にはその気力さえ残ってなかった。代わりに窓の外を見ると、柔らかな雪が羽のように静かに荻外荘に降り続けている。
今日は1937年12月29日、椿がこの時代に来て半月が経った。
「トクさん!箱をこっちに運んでくれる?」
障子の向こうから千代子の呼び声が聞こえる。もうじき正月を迎えるので、夫人と召使達はその準備に急いでいる。
流石は華族、お手伝いさんの人数が半端ない。最初「お顔を洗って差し上げましょうか」と言われて、椿はギョッとして首を横に振った。
「じ、自分でできます」
「そうですか..」
落胆したように召使いの女性が背を向けると、小さく呟いたのだった。
「前働いてた家より楽ね...」
この時代の貴族は何でも召使いにしてもらうのが普通らしいが、近衛家ではどうやらあまり浸透していないようだ。
それで椿も正月の準備を手伝いたいと申し出たが、千代子が柔らかな笑顔で「椿さんは明日から学校だから、勉強を頑張ってください」と言われ、こうして子供二人が部屋に待機させられた。
「ねえ、通隆」
外の雪景色を眺めながら、椿はふと通隆の名を呼んだ。
「何だい?」
通隆は顔を上げ、雪に照らされた椿の横顔を見つめた。何だか感じが違う、物思いに沈んでいるような表情だった。
「誰かを会話をする事で、胸がドキッとする感じって、分かる?」
一体椿は何が言いたいのやら、通隆は眉をしかめた。
どうして誰かと話して、それで胸がそうなるのさ。そしてその誰かとは誰なのさ。
「すまないが、それは分からない」
「そっか...」
椿は肩を竦め、昨日のあの感覚を思い返した。瞼に鮮明に蘇る、あの時の胸の高鳴り。
心の底から突き上げてくるような、頭が上せるぐらい熱い思いがは何だったのだろう。
そして通隆には、椿がときめいた相手がまさかの自分の父親だと言う事が想像できるはずがない。
誰かを愛し、恋愛をしたこともなかった15歳同士は、この感覚を解せるはずがなかった。
「どうしたのさ、胸が痛いんか」
自分が無意識に胸元を抑えていることに気付いて、椿は慌てて手を離し勉強に取りかかった。
「ね、Never Mind!(気にするな)」
椿は咄嗟に英語の授業で習ったフレーズを言って、自分の思いを誤魔化そうとした。
「ふーん、頭悪い奴が英語で格好付けやがって」
皮肉を言っても椿は食いつかず、周りを拒絶するように一心不乱に教科書を読んでいる椿を見て、通隆も再び鉛筆を動かした。
時は夜中の12時ごろを回り、皆が寝静まっている頃、緊張で瞼が張り詰めている椿は布団から出た。
お手洗いに行くわけではなく、これ以上寝れそうにないし、どこか心を落ち着かせることができる場所を探しているのだ。
部屋から出た途端、夜の凍てつくような空気にブルッと身を震わせた。暖かい上着を羽織って椿は部屋を後にした。
椿が足を運んだのは屋敷の客間だった。襖を開けた先には大きな池が広がっていて、ここの景色が一番良いと思った椿はよくここに来た。
足音も立てずに入ると、何と先客がいたのではないか。その人は煙草の煙を燻らせながら、静かに月を見上げている。
椿は一瞬胸が締め付けられた感覚を覚え、そっとその背中に声をかけた。
「近衛さん」
近衛は背後で少女の声を聞きつけ、こんな時間にと意外な思いに駆られて後ろに振り向いた。
「椿、起きてたのか」
「はい、何だか眠れなくて...」
椿は自然と近衛の隣で腰を下ろし、膝を抱えた。
「帰ってきたの気づきませんでした」
「殆どの人が就寝した時間だからな」
近衛が吹き出した煙が朝霧のように、夜の空へ立ち上っていく。
不思議とそれは煙草の匂いっぽくなく、薄荷が混じっていると思うほど爽やかなだった。それを吸い込んだら体がすうっと洗われた気がした。
それぞれの考えにふけて、二人はしばらく黙り込んで青黒い空に輝く星々を見上げた。
今の東京なら、空一面に星が輝く所を見たことがないのに。こんな光景が珍しい、空に見惚れている椿の瞳には煌めく星々が浮かび上がって来た。
「近衛さんは今何を考えているのですか?」
ふと椿が近衛に問いかけた。大体ここに来たのは同じ理由じゃないかと思って、椿は聞いてみた。
「この国のことだ」
近衛は物憂げに手すりにもたれかかった。椿はと言うと、脳裏で社会の授業で先生が近衛について言っていた事を思い出した。
「あくまで先生個人的な意見だが、近衛公は総理大臣になるべきではなかった。優柔不断な彼は、政界のトップを務めるはずがなかった」
私には何も分からない。何も分からないから理解できるはずもない。
恐らくこの人には自分が測り知れない、国を挙げた重い問題をその肩に抱えているのだろう。
しかし近衛はこれ以上何も言おうとせず、空咳をして今度は椿に聞く。
「僕の問題はどうでも良いが、椿はどうして起きたんだい?」
「えっと、私は明日?か今日の学校の事ですね...」
そう小さく呟きを溢し、椿はさっと膝の中に顔を埋めた。近衛は少女の本音を聞いて、思わず口角を綻ばせた。
「椿でもそんな悩みがあるのか」
自分を面白がるような近衛の口調に、椿は不満げに朱色の艶々した唇を尖らせた。
「そりゃ、馴染めるかどうか不安です」
いきなり昭和時代に落ちて、近衛家で自分を匿ってくれたのはまだしも、普通な人が入れない学習院に入れてくださったのだから。
お嬢様しか居なさそうな私立学校に、自分のような庶民公立中学校出の部外者が通じるものか。
「でも椿は明るい子だから、すぐ馴染むと思う。何より通隆がいる」
「はー、通隆とおんなじ事言ってますね」
椿が自分の息子と仲良くなれたと聞いて、近衛は嬉しく思った。こんな短い間で、自分を含め家族の皆がこの子と親しくなっているのか。
「よし、頑張ります...」
椿は大きな欠伸をすると同時に、急に鉛のような重たい眠気が瞼を重くさせた。
近衛と話す事で、落ち着かなかった気分が人里を離れた湖のように静まった。恐らくそれは言葉だけではなく、近衛自身が持つがそうさせたのだと思う。
「もう遅いから寝なさい。今日は早いから」
煙草の先をとんとんと叩いて、近衛は椿を振り返った。しかし少女は畳の上で大の字になって眠ってしまったのだ。
「やれやれ、こんな所で寝たら風邪が引くぞ...」
呆れながらも近衛は椿の体を軽々と抱き上げ、部屋に向かった。
少女の無垢な白さが月光に照らされて、反射しているのではと思うほど眩しかった。
また昨日の感情が突き上がってくる感覚がして、近衛は慌てて視線を椿から剥がした。
やがて椿の部屋に辿り着いて、近衛は布団に少女の体をゆっくり倒した。
「おやすみ、椿」
近衛が慈しむように椿の名を呼ぶと、椿の顔に微かに幸せそうな笑みが浮かび上がった。
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