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幸せの種
「芽、まだかな」
今朝から暇を見つけては、小さな植木鉢の前にしゃがみこんでいる我が子に、彼女は苦笑した。
「昨日植えたんだから、一日で芽は出ないわよ」
呆れて何度もそう言うのだが、幼い娘は頑として植木鉢から目を離そうとしない。今朝は起きると真っ先にベランダに飛び出し、幼稚園から帰ってくれば手を洗うより先に植木鉢を覗きこむ始末。
「ずっと見てても変わらないでしょ」
聞いているのかいないのか、娘は相変わらず、そこから動こうとしない。三時のおやつに大好きなチョコレートを出してあげたのだが、それにも見向きもしない頑なさには驚いた。
まあ、好きなようにさせておこう。そう思い直し、彼女は自分の作業に集中することにした。そのうち飽きるでしょう、きっと。
しばらくパソコンと睨み合っていたが、ふと時間を見ると夕方五時を過ぎたところだった。そろそろ夕飯の支度をしなければ。チカチカする目を一瞬閉じると、彼女は立ち上がった。
さすがに飽きたのか、娘はリビングの卓袱台のところ座っていた。一生懸命に何かを描いている。何を描いてるのかと尋ねると、植木鉢、と絵を描きながらの無邪気な返事。
「あのね、芽が出たら、どんな花が咲くかなって思って」
なるほど。じっと待っていても芽が出ないので、自分の中で想像を膨らませていたのか。
彼女は、娘が見せてきた不格好な種を思い浮かべた。
昨日、幼稚園から帰ってきた娘が、手のひらに小さな種を乗せていた。小指の爪ほどの、焦げ茶色の種が一つ。先生が、たぶん芽は出ないだろうと捨てようとしていたのを見つけて、もらって来たのだと言う。
家で植えてもいいか、と少し遠慮がちに尋ねてきた娘に許可を出すと、その喜びようはクリスマスプレゼントをもらった時のようだった。
幸いにも、ベランラに使っていない植木鉢が残っていたし、ガーデニングが趣味という隣家のご夫婦が土や肥料を分けてくれた。70代前後の明るいご夫婦で、日頃から何かと娘を可愛がっては、お菓子をくれたりする。 昨日も、回りきらない舌で一生懸命に説明する娘の話を、孫を見ているような優しい眼差しで聞いてくれていた。
一心不乱にスケッチブックと向き合っている娘を見て、彼女は我が子の成長を感じた。
この子は信じている。どんなに不格好な種でも、きっと芽が出ると。
大人たちが諦めても、この子は諦めない。それは幼さからかもしれない。けれど、そんな純粋な想いは、植物にも届くかもしれない。
「きれいな花が咲くといいね」
微笑みながらそう言うと、娘は顔を上げて満面の笑みで頷いた。
本当に、きれいな花が咲くといいな。
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