悪鬼喰い

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悪鬼喰い

 楓きよらは神社の本殿の前まで来ると、グレーのチェスターコートのポケットからフィルム包装された饅頭を取りだして、賽銭箱のはしっこに置いた。  さすがに、地面に供えるのはためらわれた。  はぁっと白い息を吐き出し、瞼を閉じて、黒い手袋に覆われた両手をそっとあわせる。冷たい風が吹いて、切りたての短い髪が揺れた。  春の夜の肌寒さだけではない、どこか張りつめた神社の雰囲気と、これから身に降りかかる災いに、自然と体が震えた。   (もう、終わるんだ)  たった一人の肉親である兄を置いていくこと。彼を悲しませることに胸が締めつけられる。  それ以上に、目前に迫る死が怖くてたまらない。  いまここにある感情は、楓きよらの記憶はどこへたどりつくのだろうか。  人は死ぬと二十一グラム軽くなるという。  計測ミスと聞いたことはあるが、この体から消えるものはたしかに存在するのだろうか。  ぐるぐると同じようなことばかり考えて、気分が悪くなる。 (どうでもいいか。これで終わるんだ)  背後から圧迫されるような息苦しさを感じて、きよらは胸の前で震える両手を組んだ。指がうまく動かないので交差させただけになったが、それでもいい。 「お母さん、お父さん、どうかそばにいて……」  酸欠になってひくひくと体が揺れるたびに、頬をぬるい涙が伝いおちていく。  ひやりと背中を這う冷気は終焉の合図だ。  強く瞼を閉じたきよらを迎えてくれたのは、永遠の闇。  痛みも苦しみも感じない。 「お百度参り? それとも丑の刻参り?」 「うわっ!?」  正面から上がった声に、きよらは目を見開いて飛びのいた。段差でつまずかなかったのが奇跡だ。  ばくばくと激しくなる心臓をコート越しに押さえながら、きよらは賽銭箱のとなりで体育座りをしている人物を凝視した。  暗闇に目が慣れてきたのと、月明かりのおかげで、その人物の姿がゆっくりと浮かびあがってくる。  青年だった。  あちこちはねた黒髪に、よれた黒の開襟シャツ。安っぽいロングパンツとくたびれたスニーカー姿は、春の夜にはずいぶんと寒々しい格好をしている。  長身を無理矢理縮めて座っているためか、見慣れた体育座りがとても歪だった。 「……か、神様?」  きよらがたずねると、長い前髪の奥から覗く瞳がぼんやりとこちらを見つめた。  得体のしれない雰囲気と整った顔立ちに気圧されて、きよらはおもわず後退りする。 「俺が? そんなまさか」 「で、すよね」  密かに期待していたきよらは落胆し、その身勝手さに自己嫌悪した。 「最悪だな、私」 「最悪? あぁ、ごめんなさい。丑の刻参りとか人に見られちゃいけないんだったね。ごめんね」  青年は自分の膝に頭突きをするように、ぺこぺこと頭を下げた。  異様な雰囲気とは裏腹に、その仕草や喋り方は幼い。 「大丈夫です。丑の刻参りじゃないので。ただ、深夜の神社にお供え物をすると願いごとが叶うって、噂を聞いたから」 「あ、そう」  あっさりとした返事のあと、彼は白い饅頭を少しだけかじった。  きよらがお供えした饅頭だ。 (この人、本人の目の前で堂々と食べたな)  呆然と食事風景を眺めていると、青年が食べる手を止めて首を傾げた。 「どうしたの、悩みごと?」  不思議そうにする青年に、きよらは素直にうなずいた。  変な人だ。お供え物を食べられたことも、どうでもよくなってとなりに座った。 「聞いてくれますか」 「うん。その前に言っていい? 最近ね、ここにご飯捨てていく人がいるんだよ。もったいないなぁって思ってね、俺が食べてるんだ」 「それ、お供え物ですよ」 「そうなの? 俺いつから神様になったんだろ」 「いや、あなたじゃなくて」  変な人だと思ったが、面白い人だった。  青年はきよらと、半分以上食べた饅頭を交互に見て、まだ口のつけていない部分をちぎって差し出した。 「食べる?」 「あ、はい……ありがとうございます」 「どういたしまして」  饅頭の、餡子すらついていない小さなかけらを、きよらは一口で飲みこんだ。強い不安と恐怖のせいで、どれほど小さなかけらも喉に引っかかって、何度もむせる。 「大丈夫? 何も持ってなくてごめんね。そこの手水、お腹壊すらしいから飲んじゃだめだよ」 「の、飲みませんから。もう大丈夫です」 「そっか、がんばったね」  ぽんぽんと軽く背中を叩かれるたびに、張りつめた体が解れていく。人の体温が、弱った心にこれほど染みるとは知らなかった。 「信じてもらえないと思いますけど、私、今から死ぬんです」  温かい大きな手に背中を押されて、するすると語り始めていた。  本当は恐怖で押し潰されそうな胸のうちを、誰かに聞いてほしかったのだ。 「へぇ」  青年は鳥居の先を見つめたまま、動揺したそぶりもなくうなずいた。  軽すぎる相槌に、きよらは笑った。 「一週間くらい前から、黒い人影みたいなものが見えるようになりました。昔からこの明るい髪色のせいでいじめられていたし、とうとう精神的におかしくなったかと思っていました」 「うん」 「でも、手を触れてないのにいきなりコップが割れるし、家の電話に、事故で死んだ両親の、苦しむ声が聞こえてきて……変なことがたくさん起きるようになって」 「うん」 「……家にいると私を育ててくれた兄と飼い猫に迷惑がかかるから、ここに来ました」 「そうだったんだ。おねーさんを殺そうとしているのは、あれのこと?」 「え……」  きよらが顔を上げると、朱塗りの鳥居の先にゆらめく影が見えた。  一人ではない。その後ろからぽつぽつと数が増えて、十、百と境内を取り囲むように増えていく。  人型をとったそれは、前に進むたびに、どろりと泥のようなものを垂らして向かってくる。  鼻が曲がりそうな腐臭と、耳を塞ぎたくなる呻き声に背筋が凍りつき、再び全身が震え始めた。 「やんなっちゃうね、この臭い。すごい腐ってるし」 「み、見えるんですか?」 「見えてるよ。おねーさんの両手と右目が腐ってるのはそのせいだよね」 「っ!」  前髪で隠した右目の奥が針で突き刺されるように痛んで、涙と血が交互に頬を濡らした。  壊死して黒く変色し、ミイラのようになってしまった両手は、すでに手袋の感覚すらなく、指がぴんと伸びたまま激痛と恐怖でかたかたと震えている。  そこでようやく、青年がきよらに向き直った。  右手が伸ばされて、そっと頭に触れる。 「痛いね。よく我慢できたね」  優しく、慰めるように撫でられて、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。呼吸も短く浅くなって、必死に抑え込んでいた感情があふれてくる。 「お、お医者さんに診せても、霊媒師に来てもらっても治らんくて……薬、効かんくて……兄ちゃんとミケちゃんと、お別れすんの嫌やぁ……っ」 「悪鬼の仕業」 「あ、悪鬼?」 「そう呼んでるだけ。死人、屍って呼んでたりもするから、絵本に出てくるような鬼とは違うよ。人間に害悪をなす存在なんだって」  おおざっぱな説明をして、青年は「よっこいしょ」と気合を入れて立ち上がった。  フィルムの包装紙をくしゃくしゃと丸めて、ズボンのポケットに突っ込む。 「饅頭をくれたお礼に、ひとつ約束をしようか」 「約束?」 「おねーさんが生きたいと願うなら、俺がおねーさんを助けるよ」  生きたい。  ほんの少し芽生えた希望に、ぱっと視界が明るくなった気がした。 「お礼って……コンビニで買った饅頭一個ですよ?」  恐怖とも違う、別の感情に声が震えて、すがりたくなる手を押さえるのに必死だった。 「約束をしているんだ。俺の力って強いらしいから、俺がただの化け物にならないために、困った人を救いなさいって約束」 「でも、助けるってどうやって。あなたも私みたいになっちゃいますよ!」 「きみからの返事はひとことでいい」  真っ直ぐな言葉に胸を打たれて、心が奮い立った。  凪のように穏やかな彼の目を、きよらは挑むように見つめ返した。 「生きたい」 「うん、それでいい」  青年は満足そうにうなずいて、波のように迫る鬼に向かって歩き出した。 「そこ、動かないでね」  青年は右手の人差し指の腹に噛みつくと、ためらいなく噛みちぎった。  ぞっと鳥肌を立てるきよらの目の前で、赤く濡れる傷口が輝き、またたく間に青年の右手には白い槍がにぎられていた。  どこかで見覚えのある白だった。 「……火葬場」  焼けた両親の骨の色だ。  青年は、突然走り出した鬼たち相手に悠然と、半身を左前にして槍を構えた。  ふっと吐息をこぼして、左足に重心が移動した瞬間、青年の姿が消えた。  まるで箏爪で絃を弾くように凛とした音が響き渡り、鬼の波を薙ぐ光が走った。  残響とともに、鬼がひとつ残らず煙のように消え失せる。  ゆらりと空にのぼる煙に見惚れていたきよらの前に、いつの間にか青年が立っていた。  眉を八の字に垂れて、ひどく悲しそうな顔をしていた。 「吐き気をもよおす、まずさ」  べぇっと舌を出して目を潤ませる様子はまるで子供のようだ。  すべてが一瞬で、あまりにも呆気なく終わっていた。おぞましく、そして美しい光景にただ魅了されていた。 「……俺が、怖い?」  現実味がなく、ぼんやりとしているきよらに気がついて、青年は寂しげに微笑んだ。  白い槍の穂先が、ざりざりと石畳を滑る。  反応を待つ彼に、きよらはぽつりと、 「きれい」 「え?」 「その槍もあなたも、きれいでした」  青年は息を呑んで、右手に持った槍に視線を落とした。 「きれいとか言われたの、初めてかも、です」  青白かった肌がほんのりと赤く染まって、槍に落とした視線が泳いでいる。  我に返ったきよらは、照れくさい空気に顔が熱くなった。  不意に、地面を削っていた穂先が浮いて、きよらの視線もつられるように持ち上がる。  青年は穂先をこちらに向けて、投擲した。 「え?」  殺されると、体中に緊張が駆け巡ったが、槍は白い残像を残して顔の横を通り過ぎた。 「な!? ぎゃああ!?」  慌てて背後を振り返ると、そこには赤黒い鬼が一体、頭部を槍に貫かれて膝をついていた。  顔と思われる場所は、真っ黒で何もない。想像していたような角さえなかった。  やがて、鬼の体は貫いた槍ごと煙のように漂って、空にのぼった。 「あ、ありがとうございます! まったく気づきませんでした」 「ねぇ」  青年の左手の指先がかすめるように右頬に触れて、うっかり鼓動が高鳴った。 「おねーさんも、きれいになったね」 「へ!? あ!?」  はっとして右目に触れたが、手袋にさえぎられて、変化はわからなかった。  焦れたように、左手の手袋の指先を噛んで引き抜けば、その下にあらわれた白い手に、じわりと目の奥が熱くなった。  鼻をすすりながら、今度は自由に動く左手で、右手の手袋を引き抜いた。  干からびた流木のような両手が、見慣れたもとの手に戻っていた。 「うそや、戻ってる! 信じられへん! ほんまに? 夢やないよね?」 「これでお饅頭のお礼になった?」 「はい……はいっ、本当にありがとうございます!」  きよらは首がもげそうになるほど激しくうなずいた。 「何かお礼をさせてください」 「礼はいい。だって、そういう約束だったでしょ」  きよらは簡単に引き下がれなかった。  饅頭ひとつで命を救うなど普通は考えられない。自分の約束を守るためには、理由は何でもよかったのだろう。  誰かとの約束を守るためにきよらを助けたのだとしても、彼は命を救ってくれた恩人だ。 「あなたに出会わなかったら、私はとっくに死んでいました。礼はいらないと言うならば、わかりました。引き下がります。だから、いまからすることはお礼じゃなくて、私が勝手にしたいことです」  ハンカチなんて用意する余裕もなかったので、服の袖を伸ばして涙や鼻水をぬぐって、戸惑う様子の青年を見据えた。 「何か私にできることはありませんか? ご飯が必要なら、お金はそんなに持ってないけど、私の全財産を使ってあなたの好きなものを買いましょう!」 「え、ほんと?」  青年の表情に喜色がにじんで、きよらは一瞬だけ怯んだ。  そして、勢いで全財産などと叫んで、勝手に竦みそうになる自分を恥じた。 (馬鹿だな私。死んだら、お金も何もなかっただろ。何をためらうことがあるんだ)  きよらは青年にうなずいて見せた。  ぱっと顔を輝かせた青年は、そのまま口を開きかけて、なぜか迷うそぶりを見せた。 「でも、どうしようかな……ちょっとだけ考えさせて」 「あ、はい。存分に考えてください!」  青年は右手でぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜ始めた。  考えごとをする時の癖なのかもしれない。 「あの、そういえば、あなたのお名前は?」 「うーん、カバネって呼んで」 「カバネさん」  本名ではないだろうが、謎の多い青年には名を名乗れない事情があるのだろうと、勝手に納得する。 「明るくなってきた」  カバネが海の方角を見て、ぽつりとつぶやいた。  夜が明けかかっていて、空が薄明るく染まっている。  まさかもう一度、日の光を見ることができるとは思わなかった。 (太陽の光って、こんなにも安心できるんだ)  爽快な気分になって、生きていることを実感する。  昨日が最後の命と覚悟を決めた先に待っていた、思いがけない人生の続きに、なんだか気がぬけてしまった。 「生きてる……」 「生きてるって感じるの」 「あ、はい。死ぬと思っていたから」 「それはいいことだね。ほとんどの人は生きてはいない。そこに存在しているだけって感じだから。きみは精一杯生きて――」  言葉が途切れて、隣に並んでいたカバネが小さく呻いて背中を丸めている。  きよらは自分よりも大きいカバネを支えようと、丸まった背中に手をそえた。 「どうしたんですか!? もしかしてさっきの鬼に何か……」  カバネは長身を折り曲げて、心配するきよらを見上げた。 「お腹すいた。あんなまずい鬼じゃ、いっぱいにならない」  深刻そうに眉根を寄せて、ついにはしゃがみこんでしまったカバネに、きよらは安堵して笑った。  きよらはカバネと一緒に、神社の近くにあるコンビニに向かった。  死を覚悟して、それでもその瞬間まであらがう気持ちで購入した饅頭は、昨日と同じ棚に陳列していた。 「ふわふわでおいしい」  コンビニの駐車場内で、ピザまんにかじりついて満足げに頬を緩めていたカバネは、はっと目を見開いて、慌てて遅れた礼をした。 「ありがとね、おごってもらっちゃって。えっと名前……」 「楓きよらです。礼はいいんですよ、私が勝手にしたいことなので」 「良い人。きよら様」 「いや、あの、きよらでいいです」 「じゃあ、きよら」 「はい」  カバネはピザまんの、まだ食べていないところをちぎって、きよらに差し出した。 「半分こね」 「でも、それはカバネさんのものだから」 「ほら、おいしいよ」  不気味な夜を思わせる陰鬱さと色気、それを裏切るような無邪気な笑顔のちぐはぐさに魅せられて、ピザまんを受け取る手が緊張で震えた。  出会ったばかりで何も知らない。とても不思議で、とても魅力的な命の恩人。 「おいしいね」 「はい!」  温かいピザまんは、饅頭のかけらを食べたときとは違って、するりと吸い込まれるように喉を滑り落ちていく。  危機が去った安堵で、よりおいしく感じた。 「でも一個だけでいいんですか? 二個以上買っても、まだ大丈夫ですよ」 「うん。本当はいっぱい食べたいけど、ここで全財産使うと、きよらと一緒にはいられなくなりそうだし」 「えぇ!? い、一緒にってどういう!?」  かぁっと顔が沸騰するように熱くなって、心臓がどくどくと激しく暴れている。初恋すら知らないきよらにとって、異性であるカバネの発言は心臓に悪かった。  カバネは手についたピザソースを舐めとりながら、混じり気のない眼差しできよらを見つめた。 「いまのきよらはね、フタがなくなったビン? みたいなものだから、霊力が外にあふれたままなんだ。良いもの以上に悪いものを引き寄せるよ」 「……ということは、今日みたいなことが今後もあるってことですか?」 「うん。だから俺がそばにいたら、集まってくる鬼を退治できるし、俺は俺自身の約束を守れる。あと、きよらにご飯おごってもらえる」  カバネはにっこりと笑ったが、きよらは再び襲いくる災いに顔を青くして、頬を引きつらせた。 「これからよろしくね。きよら」 「こ、こちらこそ、よろしくお願いします」 「できればお家に泊めてもらえないかな? 玄関でも眠れるのでお願いします」 「お願いしま……えぇ!?」    しばらく平穏な日々は戻ってこないと悟り、きよらはこれからのことと、財布事情に目を潤ませた。  まずは、兄になんて説明しよう。
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