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土佐の脱藩浪人・坂本龍馬は伏見の定宿である『寺田屋』で、三日目の夜を独りもんもんと過ごしていた。
もんもんと言ってもけして邪なものでなく、普段から本能で行動しているような男なので、久方ぶりに脳を長い間稼動させると時にこういった症状が出るのである。
「どうしたもんかのぅ」
実はこの男。
今現在とても気になるお相手がいるらしく、口から漏れるのは溜息ばかり。
忍ぶ恋とは随分遠い距離に位置する人間かと思いきや、人は見かけによらぬこともある。
「どうしたもんぜよ・・・・・」
好きならば悩む前に一思いにこの気持ちを伝えたいところなのだが、如何せん今は幕府から名指しで追い掛け回されているし、龍馬の思いついた案件も二つの藩がいがみ合っている為に宙に浮いた状態である。
そういった事で憂さを晴らしたくとも現状ではなかなか洛内に入る事もままならない故、身も心も非常に困った状況に陥っているのだった。
こんな時に思うのだ。
あの笑顔が見たいと。
それが己に向けられるものではないと分かっていても。
「会いたいのぅ。さなぁ~、佐那~・・・・」
佐那とはただ今龍馬が懸命に薩摩と手を結ばせようとしている長州の人間であった。
彼と出逢ったのは龍馬が長州へと赴いたときの事。
龍馬の持ちかけた案件を難しい表情で聞いている桂の背後で、かの人は座していた。
その表情は桂を慕い尊敬している様子でもあり、何というかその眼差しには彼を愛おしむような感情すら含まれているようであった。
変に察しの良い龍馬はこの二人の関係に気付いてしまう。
と、同時に自身に芽生えた感情にも気付いてしまったのだった。
『ありゃりゃ~?』
長州藩の代表である桂と差し向かって重大な話をしている最中に、龍馬はとんだ的外れな言葉を吐いてしまった。
「こじゃんと綺麗なお人がおるなぁ。桂さんの所はぁ~・・・」
「は?」
今まで真面目な話をしていたかと思えば、いきなりの話題変更で桂は少々間抜けな声を出してしまう。
「わしの故郷の男共言えば皆毛深うて、綺麗言える男はおらざった。ま、元々が泥まみれになって働いちゅー野郎ばっかりやき、仕方ない言えばそれまでだけんどぉ」
そこまで一息で言うと、今度は胡坐を掻いたままの状態で器用にも畳の上を滑るようにして佐那の前まで移動した。
流石にこの動作には龍馬を除くその場にいた人間総てが目を見開いた。
当然だろう。
この日この場に集まったのは国の大事が懸かった大切な話し合いだからだ。
遠路遥々長州までやって来た龍馬を藩の代表である桂らは一応歓迎し、出来うる限りのもてなしはしているつもりであった。
なのにこの有様は何なのだ。と皆一様に心中抱いた感想である。
そんな彼らの感想など物ともしない龍馬はとことん器の大きい存在であるといえよう。
場の空気が読めない、と言う欠点があったとしても。
「げに綺麗だなぁ~。おまん名はなんちゅう?」
「さ、佐那です。柳井佐那・・・」
「佐那っちゅうがか!まっことええ名前じゃぁ」
龍馬の逞しく日に焼けた腕にその先にある掌でおもむろに掴まれた佐那の腕とではとんでもなくその太さに違いがあり過ぎて今にも折られんばかりだ。
しどろもどろに動揺する佐那を目にし、桂は怒りを露にして龍馬の手から奪い返すと、指先を彼の顔面に突きつけ語気荒く言い放った。
「坂本さん。貴方は長州に何をしに来たんだ。此度の話は無かったことにさせてもらう!」
元々色白の桂の顔は真っ赤に染まり、ぜいぜいと先ほどの落ち着き払った態度とは想像できない呼吸の乱れようである。
怒り狂った桂は佐那をしっかりと抱きしめたまま部屋を後にし、その取り巻きたちも後を追って行く。
独り取り残された龍馬と言えば、ほんの少しの間呆然としていたが事の重大さに気づき、自身の頭を掻き毟る。
『わしゃ何という馬鹿なことをしたがか!』
龍馬はこの時ようやく己の失態に項垂れたのであった。
余談であるが。
それ以降も龍馬はしつこく桂との面談を試みた。
会うことを了承してくれたは良いものの、桂の他に数名の男がいるだけであった。
何より室内を取り巻く空気がとにかく重い。
その理由はというと・・・・。
「桂さん」
「何ですかな。坂本さん」
「えぇとぉ。彼は・・柳井くんは・・・今日もおらんのやか?」
淡い期待を抱いて、目の前の男に尋ねてみる。
すると、途端に男は眦を吊り上げ大きな掌でもって勢いよく畳を叩いた。
「坂本さん。私に二度同じ事を言わせないように」
見せた笑顔はその実、般若のようであったと当時の状況を書き残した龍馬の書面にはそう記されていた。
おわり
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