第十四話:炎上

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第十四話:炎上

 現場に駆けつけると、不安が現実のものとなって目の前に広がっていた。  いずみ屋の格子窓からはもくもくと大量の煙が立ちのぼり、すでに火が回りきっていると思われる店内側は大きく焼けて炎が壁を覆っている。 「ひでぇ……」  絶句する私をそっと背中からおろし、パチパチと家が焼ける音に顔を歪めながら田中さんがつぶやいた。 「どこに行ってたんや美湖ちゃん……! なんやその人らは!?」 「やっぱり浪士どもとつるんでたんやな!!」  戻ってきた私を見るや、水桶を手にした同じ組の人々が血相を変えてこちらに走り寄り、私たちを取り囲む。 「すみません、助けを呼びに行っていて……! それより、いつから火があがったのか分かりませんか!? かすみさんは……!?」  私がここを離れた時点ではこんな大事になるような気配はなく、煙ひとつ上がってはいなかった。  ということは、中岡さんたちと合流してここに戻ってくるまでの四半刻ほどの間に何かが起こったことになる。 「うちらが火事に気付いて消火をはじめたんは、あんたが走り去ってしばらくしてからや」 「かすみちゃんがまだ中におるんかは分からん、何度か声はかけてみたんやけど返事がないんや」  そう答えてくれるのは、あさひ屋のおかみさんとご主人だ。  顔面蒼白で、声は震えている。 「私、中を見て来ます……!」  ぐっと強く拳を握り、目の前で音を立てて炎上しているいずみ屋を見上げる。  燃えているのは全体の六割ほどだろうか。  店舗として使っていた一階の正面部分には、ほとんど火が回りきっているようだ。  かすみさんが立っていたあたりの場所はすっかり炎に食いつくされ、あちこちから凄まじい勢いで火の粉と灰が舞い上がっていく。  私はいても立ってもいられなくなり、震える足を奮い立たせて土間のほうへと走る。  幸い勝手口のほうにはまだ火が回りきっておらず、そこからかろうじて奥の様子をうかがうことができた。  破壊された戸口に手をかけて、向かいから吹き抜ける熱風に目を細めながら、ごくりと息をのむ。  土間から続く居間の手前まで炎は迫って来ていた。  あたりを覆う濃い煙のおかげで視界はにごりきっている。 「かすみさん!! 中にいる!? 助けにいくよ!!」  かすみさんがまだ店内にいるかは分からないけれど、もし取り残されていたとしたら炎に囲まれて逃げ場を失っているはずだ。  私が助けにいかなきゃ――!  意を決して足を踏み出したその時、背後から強く肩を引き寄せられた。 「危険です、およしなさい」  声の主は大橋さんだ。  振り返った私と視線がかち合う。  丁寧な言葉づかいながら、この人の発言には有無を言わさぬ拘束力がある。  叱咤され縮こまる飼い猫のようにびくりと足を止めた私を、大橋さんはそのまま後ろから抱き抱えるようにしてずるずると土間から引きずり出した。 「かすみさんがいるかもしれないんです! 行かせてくださいっ!!」  ばたばたと大橋さんの腕の中で暴れ回ってみるものの、きつく拘束するように体に回された両腕はビクともしない。 「おめぇはそこで待ってろ、オレらが見てくる」 「俺は一階を探そう、ケンは二階を頼む。あまり無理して奥へ入るなよ」  田中さんと中岡さんはそう言葉をかわしながら、私のほうを見て『大丈夫』と力強くうなずいてみせると、持っていた水桶をひっくり返して頭から中身を浴びる。 「そんな! 危ないです! 私が行きますっ!!」  わめきちらす私を一瞥して大橋さんに後を託し、二人はいずみ屋の中へと駆け込んで行った。  あとには点々と、足跡になった水滴が残るのみだ。 「中岡さん、田中さんっ!!」  二人にもしものことがあったら、私はどうすればいいの。  あの浪士たちはすごく狡猾で逃げ足が早い。  きっともうとっくに脱出しているはずだ。  中に残っている人がいるとすれば、かすみさんだけだ。  危険を冒してまで二人に捜索してもらうわけにはいかない。 「天野さん、表の通りに出て待ちましょう。じきに火消しが来ますから、それまでは出来る範囲で消火を手伝うしかありません」  我を忘れてじたばたともがく私を冷静にあしらいながら、大橋さんは表通りに向かって私の手を引く。  中岡さんと田中さんが心配で、何度も何度も勝手口のほうを振り返った。  ドサドサと何かが燃え落ちる音が響きわたり、噴火するように空に向かって火の粉が飛び散る。  端から次第に炎にのまれ、ゴウゴウとうなり声をあげるいずみ屋を見つめながら、私はただただ茫然としていた。 「かすみさん……」  ぽつりとつぶやいて立ち尽くす。  あの時、置いていかなければよかった。  一人ぼっちにするべきじゃなかった。  こんなことになってしまうなら、死に物狂いであの浪士たちに立ち向かうべきだった――!  後悔と自責の念で頭がいっぱいになる。  強く歯噛みしすぎて唇から血が流れ落ちるのも気にとめず、私は叫び出したい気持ちを必死で抑えていた。 「天野さん、大丈夫ですか? せめて少しでもできることをしましょう」  大橋さんは私を勇気づけるように強めに背中をさすると、そっと水の入った桶をこちらへ手渡す。 「火消しが到着するまでの時間かせぎにすぎませんが、動きましょう。せめて延焼を最小限に……」  その言葉にはっとして、いずみ屋の周辺を見渡す。  そうか、延焼――。  火事は火元だけの問題じゃない。  次々に燃え移って被害を拡大させていくんだ。  これ以上周囲の家々に迷惑をかけるわけにはいかない。 「すみません! ぼうっとしている場合じゃなかったです!」  水桶をひっ掴んで、火の勢いの強い格子窓付近に水をかける。  いずみ屋の左手には細い小路が延びており、隣の家屋との間にはわずかながら距離がある。  こちらにはまだ炎は届いていない。  右手には谷口屋さんがあり、さらにそこから隙間なく店舗や家屋が軒をつらねること六棟。  不運なことに右手側の火の勢いが激しく、容赦なく立ちのぼる炎は谷口屋さんの側面を侵食し、焦がしはじめていた。 「燃える……うちの店が……」  燃えうつる炎を見て血の気を失ったくちびるを震わせながら、私のすぐ隣でそうつぶやくのは谷口屋のおかみさんだ。 「あ、あの……」  もう何を言っても遅いのかもしれないけれど、せめて謝罪の言葉だけでも告げようと口をひらきかけて、止める。  目を見開き殺意すら感じる表情で、谷口屋の奥さんがこちらを睨んだからだ。 「あんたのせいやろ……何や、また性懲りもなくぞろぞろと浪士ども引き連れて戻って来て! その人らが助けてくれるん? アホちゃうか!? そんなわけない!! どうせまた利用されて捨てられるだけや!! なんで分からんの!?」 「そんなこと……」 「まだそんな、信用ならんよそ者と付き合うつもり? 呆れてものも言えんわ……なぁ、みなさんよう分かったやろ! いずみ屋はうちらが思った通りの厄介者や! 薄汚うて忌々しい浪士どもの仲間や!!」  ざわざわと、火消しに動いていた人々が眉をひそめて何かをつぶやきながらこちらに目を向ける。 「今度は何を企んどるんや」 「はよう失せろ」  恨みがましい言葉たちは、バチバチと店が焼ける音にまぎれてあちこちで聞こえてくる。 「天野さん、二人が戻って来ましたよ」  大橋さんに声をかけられてハッと顔を上げると、勝手口に面した小路から中岡さんと田中さんが出てくるところだった。 「ゲホ、ゲホッ……くっそぉ、煙吸い込みすぎて気分悪ぃぜ」 「天野、ざっと確認することしかできなかったが、一階にも二階にも人の気配はなかった」  大きく息を吸い込んでむせるように咳をする田中さんの隣で、中岡さんが左手を押さえながらこちらに顔を向けた。  よく見ると腕の一部が赤く焼けたようにただれている。 「どうしたんですか、これ!? 大丈夫ですか!?」  あわてて駆け寄る私に、中岡さんは心配ないといったふうにこくりと頷くと、近くに置いてあった水桶に腕を浸す。 「途中、柱が倒れこんで来てな。避けたんだが一部がかすってしまった。なに、大したことはない」 「ごめんなさい、こんなことに巻き込んでしまって……」  中岡さんのかたわらに座りこみ、涙をこらえながら頭を下げる。 「今回の件はこちらの問題でもあるんだ、気にしないでくれ。それよりあとは消火だな」 「そうっすねぇ、幸い風は強くねぇし広く延焼するこたぁねぇと思いますけど……」  中岡さんが腕を浸している桶の前にどかりと腰を下ろし、田中さんは水を汲み上げて煤で黒くなった顔を洗う。 「あの、中を調べてくださってありがとうございました。かすみさんも水瀬たちもすでに脱出したんでしょうか?」 「恐らくな、その後の行方は分からないが……」 「こんな時に頼る場所はかぐら屋しかないですから、水瀬たちから逃げ切れたとしたらきっと、かすみさんはかぐら屋を目指しているはずです」  そうであってほしい。  別れ際のかすみさんの顔が脳裏をよぎっては、ぎゅっと胸がしめつけられる。 「あとでかぐら屋へ行ってみよう、俺たちも付き添う。それより新選組が来る気配がないのが気になるな……」 「あ、そういえば。見回りに来ると言ってた時間は過ぎてるはずなんですが」  なにかあったのだろうか。  どちらにせよ、いずみ屋が火事に遭っているという話はすぐに向こうにも伝わるはずだ。 「こねぇでくれた方がいいぜ、多分ここに来るまでの間に何かあったんだろ。浪士と見りゃ片っ端から因縁つけてくる奴らだからなァ、またどっかで追いかけっこでもしてんじゃねぇの?」  田中さんは舌打ちして不快そうな表情でそうつぶやくと、そっぽを向いて地面に唾を吐き捨てた。  ゴホゴホと咳をしながら調子が悪そうに喉を押さえている。  中岡さんも田中さんも、具合が悪そうだ。  無理をして店内を探索してくれたんだろう。 「お二人はこのまま休んでいてください……私は消火を手伝ってきますね」  二人の前に新しく水を張った桶と、懐から取り出した手拭いを置いて小さく頭を下げる。  そのまま立ち上がった私は、駆け足で火消しの列へと加わった。  私や中岡さんたちを遠くから睨み、ぼそぼそと陰口をたたく人は大勢いるけれど、今は構っていられない。  大橋さんのほうを見ると、私なんかよりももっと他人事のように事態を割りきっているようで、どんな心ない言葉を耳にしようが気にもとめず、せっせと水桶を運んで消火にあたっていた。  火消しが到着したのは、それからほどなくしてからのことだ。  それまでいずみ屋周辺を取り囲んでいた組の人々と入れ替わるように、手際よく火消し衆が現場に散らばる。  燃えさかるいずみ屋にはあちこちから梯子がかかり、竜吐水で勢いよく水が撒かれ、本格的な消火活動が始まった。  いずみ屋を囲む三棟の家屋は、延焼防止のために柱を引き倒されながら破壊されていく。  火のまわりが特に早かった谷口屋さんは真っ先に作業が進められ、すでにその大半が崩れ落ちていた。  火事の現場では当たり前のことなのかもしれないけれど、こうも簡単に見慣れた家々が潰されていくのは、あまりにも忍びない。  じわじわと肝を握りつぶされていくような絶望を感じる。  これはすべていずみ屋が原因だ。  それだけは逃れようのない事実だ。 (これから、どうすれば……)  自分のこれからを考える前に、迷惑をかけた人々へ償いをする方法を考えなきゃいけない。  ただただじっと、人だかりの中で消火を待ちながら、心の奥で焦りと不安が広がっていく。  そっと視線をうつせば、隣に立つ田中さんや中岡さんや大橋さんも言葉なくその場にとどまっている。 「あんたのせいや……」  ふと背後で、生気をなくしたか細い声が小さく漏れた。  ――ドンッ!  次いで、鈍く重い衝撃が背中を突き抜ける。  誰かが激しくうしろからぶつかってきたような…… 「谷口屋、さん……?」  振り返った先に一瞬見えたのは、何かどす黒く染まったものを取り落として狂ったように叫ぶ谷口屋のおかみさんの姿。 「ごめん……なさい……」  謝ろうとして口をひらく。  かすれたような力のない声がわずかに漏れた。  背から脇腹にかけてのあたりが、やけにぬるりと生暖かくて気持ちが悪い。 (血が出てる……? 刺された?)  体の力が抜けて立っていられなくなった私は、ドサリとその場に倒れこむ。 「てめぇっ! 何してやがる……! おい! 天野ッ!! 大丈夫か!?」 「止血しろ! すごい血だ!! はやく医者に……!」  ばたばたと周りが騒がしくなる。  叫び声とわめき声が、嘘みたいにゆっくりと遠くから聞こえてくる。  なにもかもが、急速に自分のそばから遠ざかっていくようだ。 (かすみさん……)  まぶたの奥で、見慣れた笑顔が浮かんで消える。  私の意識がぷつりと断ち切られたのは、それからすぐのことだった――。
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