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第十二話:崩れ落ちる日常
「これだけあればなんとかなるかな」
階段を上がってすぐ右手に位置するかすみさんの部屋のすみで、私は額に浮かんだ汗をぬぐった。
自室の押し入れも含めて、見つけた桐箱は六つ。
揉紙も父の持ち物の中にたくさんあったので、まとめて箱の中に詰めておいた。
少し前まではわずかながら室内に光を取り入れてくれていた障子の向こうも、今はほの暗く不気味な灰色に染まっている。
(もう陽が沈んじゃった……)
闇の中ひとりぽつんと座っていることにふと寒気を感じ、桐箱を抱えて立ち上がる。
たいした重さではないとはいえ、それなりに幅のある六段重ねの箱は積みあげると私の目線の高さを越える。
これでは前が見えない。
(このまま階段をおりるのは危ないな……二回に分けて運ぼう)
おぼつかない足元に不安を感じて、部屋の前の廊下にいったん箱を置く。
――ガッ……ガリッ……
「ん……?」
階段の下、おそらく土間の方から何かを削るような音が聞こえてくる。
ガラン……!
続けざまに、固いものが転がる音――そしてそれからガタガタと戸を揺らす音。
(誰かが中に入ってくる……!)
そう直感すると同時に、冷たい刃物を勢いよく突き立てられるような衝撃が体の芯を突き抜けた。
こめかみから頬をつたって流れる汗が数滴、廊下に落ちて跡をつくる。
ばくばくと警鐘をならす鼓動が不安と恐怖を倍増させ、足をふるわせながら思わずその場にへたり込んだ。
(どうか新選組の人でありますように……!)
そうだ、巡回に来るって言ってたじゃないか。
きっと新選組だ、大丈夫だ!
破裂しそうなほどに打ちつける心音を押さえ込みながら、私はおそるおそる階段の下をのぞき込む。
「アレ以外は全部回収したはずだよね?」
「たぶんな……つうかわざわざ二階なんぞに隠すんじゃねぇよ、無能ッ」
勝手口のほうから土足で上がり込んできたのは、新選組ではなく例の浪士たちだった。
飢えた野犬のようにぎらついた眼を吊り上げながら、廊下のすみに置いてあった火鉢を蹴り倒すのは、たしか水瀬と呼ばれていた男だ。
きょろきょろと用心深くあたりを見回しながらそれに続くのは、私やかすみさんとも親しかった深門さん。
他に仲間の気配はない。
ずかずかと迷いなく、二人は灯りのともった店内へと進んで行く。
(かすみさんが危ない……!)
ふるえる足に力を込めて立ち上がり、壁に寄りかかるようにして階段を降りる。
音をたてないよう、一歩一歩慎重に。
店内のあかりが差し込む距離まで降りると、ぼそぼそと中で交わされる会話が耳に入ってきた。
「昨日はさんざんな目にあわせてくれたな……新選組に密告するとはよぉ」
「もともと奴らとつながっていたのか!?」
もれ聞こえる声に耳をすませながら、壁に背中をくっつけてそっと中の様子をうかがう。
のれんの奥――私がいる場所から二間半ほど離れた位置に、浪士二人は立っている。
こちらに背を向けているので私の視線には気づいていない。
かすみさんはそれに相対するように立ちはだかり、彼らにけわしい表情を向けている。
浪士たちをへだてて、一瞬私とかすみさんの目があった。
「お帰りください、これ以上店を荒らされては迷惑です」
かすみさんは持っていた絵を手の甲で払うように、強めにぱしぱしと叩く。
そしてちらりと、本当に一瞬だけこちらに視線を流した。
あの追い払うような動きはもしかして、はやくここから出ろという意味……?
「昨日ざっと隠してたもんは回収したが、短刀がひとふり見つからなかったんだよ……てめぇらが持ってるな?」
「存じません、お引き取りを」
これまでさんざん柔らかくツケや客のわがままを許してきたあのかすみさんと同じ人物だとは思えない、冷たく突きはなすような言葉と顔つき。
それは、店主の顔だった。
何がなんでも自分の店を守るという、覚悟を決めた人間の――。
のれん越しに、かすみさんのほうへと合図を送った。
人差し指で外を差して「人を呼んでくる」と口の動きで伝える。
それを見届けたかすみさんは、わずかに顎を引いてうなずくようなしぐさを見せた。
正確に伝わったかどうかは分からないけど、ここは私が助けを呼びに行くしかない。
武器ももたず非力な私が浪士たちに立ち向かっても、勝ち目はない――。
幸い彼らはかすみさんが盗品を発見して保管していると思い込んでいるようなので、しばらくは会話を引き延ばすこともできそうだ。
(待っててね、かすみさん――!)
無事を祈りながら別れぎわに一瞥し、私はそっと土間のほうへと向かった。
戸の一部が何やらくりぬかれたように破壊され、あたりに木片が散らばっている。
何をどうやったのかは分からないけれど、こうも簡単に戸を破られてはこちらとしても、どうしようもない。
言葉にならない怒りと焦りが奥底から噴き出してくる。
それでも立ち止まるわけにはいかないと、私は歯を食いしばって外へと駆け出した。
外はすっかり、深い藍色に染まっていた。
これからすぐに空から色が消える。墨をぶちまけたような闇に町全体がのまれていく。
ぼやぼやしている時間はない、一刻もはやく誰かに助けを求めなきゃ。
「あさひ屋さんあさひ屋さん! すみません、かすみさんが大変で……」
まずは目の前のあさひ屋さんの戸を叩いた。
普段ならまだ表に出てお客さんの呼び込みをしている時刻なのに、今日に限ってきつく戸締まりがされている。
「話をきいてくれませんか、お願いします!」
本当はもっと強く戸を打ち大声を張り上げたいところだけど、向かいのいずみ屋に聞こえてしまえばかすみさんの身に危険が及ぶかもしれないので、ぐっと声をしぼって嘆願する。
「……うちは厄介ごとは御免や。ただでさえ新選組がここらをうろつくようになって迷惑やのに……他をあたってや」
閉ざされた戸の向こうから、忌々しげにしぼり出すおかみさんの声が聞こえてくる。
「かすみさんが浪士と一緒にお店の中に取り残されているんです! 大事になる前に協力してくれませんか!?」
「新選組の人も一緒なんちゃうの? その人に頼み。うちらはもう何もしてあげられへんよ」
「あの人はもう帰ってしまったんです……! それで、近所のみなさんに助けを……」
戸をたたく手を止め、口をつぐむ。
シンと静まり返った戸口の先には、もう人の気配を感じない。
『これ以上何もしてあげられることはない』と、昨夜も同じように言われたことを思い出す。
もう話を聞いてもらうことすらできないのか……。
「……お騒がせして申し訳ありませんでした」
これ以上ここで粘ってもどうにもならないだろうと頭を下げて、いずみ屋の隣に位置する谷口屋さんへと走る。
谷口屋さんとは、ご近所さんの中でも特に親しくさせてもらっていたから、きっと力になってくれるはずだ。
「谷口屋さん……あの、助けてください! かすみさんが……」
あさひ屋さんと同じく、早々とのれんをおろして戸締まりを済ませた谷口屋さんの戸をたたく。
「……ごめんな、美湖ちゃん。もういずみ屋さんに手貸せへんのよ……うちらの組で話し合うて決めたことや。全部あんたらが招いたことやからね」
申し訳ないと苦しげな声色ながら、ピシャリとこちらの懇願をはねつける。
「話し合ってって……そんな」
「あんたら、もうずっと前から浪士どもをかくまってつるんどったんやろ? 誰にでもええ顔して、ツケで食わせ放題……客はぜんぶあんたんとこにとられていくし……」
ぶつぶつと、恨みごとのような言葉が頭上から降り注ぐ。
上を見上げると、格子の窓からキッとつり上がった目でこちらを睨むおかみさんと目があった。
「みぃんな思っとるよ、あんたらがはよう出てったらええて。周りの助言もろくに聞かんと、浪士どもに甘い顔ばっか見せて……自業自得や。もう何があろうとうちらは知らんよ、助けんよ。どこに頼んでも一緒や」
つい先日まで笑顔であいさつを交わしあった谷口屋さんのおかみさん。
ほがらかで面倒見の良かった彼女が、今目の前で私に向けている瞳の奥にあるのは、敵意と拒絶だけだった。
たった一晩で、こんなにも人は変わってしまうのか。
こうなったのは、悪い噂ばかりが尾ひれをつけて広まっていったせい?
それとももしかして、こちらが気づかなかっただけで、もうずっとこの人たちは――……。
悪い方向にめぐる考えを断ちきるべく、ぶんぶんと左右に頭を振る。
そして折れそうになる気持ちをふるい立たせながら、なんとか声をしぼり出す。
「これまでご迷惑をおかけしてすみませんでした……! ですけど、今だけ話を聞いてください! かすみさんが大変なんです! お願いですから一緒に来てください……!」
謝罪の言葉をのべながら、止めどなく涙があふれてくる。
いつの間にかこんなにも、取り返しのつかない程にミゾができてしまった。
あさひ屋さんとの間にも、谷口屋さんとの間にも。
それがもはや覆せないことだとしても、どうか今だけは力を貸してほしい――!
かすみさんの命がかかっているんだ!
窓の向こうのおかみさんに頭を下げる。
額を地に擦り付けて頼み込む。
「……もう誰も助けんよ、関わりとうないんや。はよう消えて」
「今回だけでいいんです! お願いします……!」
「周りを見たらええよ、うちらはもうあんたらに手は貸さん、耳も貸さん。ただはよう出ていってほしいと願うだけ。どこに頼んでも同じや」
暗い格子の隙間からもれてくるのは、呪詛のような言葉だけだ。
ふるえながら顔を上げて見慣れた通りを見わたせば、そこに広がるのは、軒並み立てこもるように戸を閉ざす店舗と家屋――。
見えなくなるほど先の通りにあるお店まで、早々と店じまいをして固く戸締まりをしている。
昨夜の騒ぎで、周辺の店舗まで新選組の取り調べを受けたことが影響したのだろうか。
浪士に襲撃され、新選組に取り囲まれ。
そして今後も監視の対象となったいずみ屋の評判は、今や地におちた。
多くの人が、この店を避けて通るだろう。
実際今日は、目に見えてこの界隈の人通りが少なかった。
とばっちりを受けて、お客さんが呼び込めなくなったお店もあるはずだ。
――そう考えると、当然なのかもしれない。
こうして私たちが拒絶され、疎まれるのは。
「……本当にすみませんでした」
格子窓の向こうにもはや人影はないけれど、私はもう一度地に額をぶつけるほどの勢いで深々と土下座をする。
そして立ち上がり、冷たい闇の中シンと静まり返った大路に背を向けて走り出した。
もうご近所さんは頼れない。
誰も私の話に耳を傾けてはくれない。
涙をぬぐって、顔をあげる。
(新選組の屯所の場所は知らないから、かぐら屋を目指そう)
ここからは少し距離があるけれど、仕方がない。
他に頼れる人がいないんだから。
この時間なら雨京さんもいるはずだ。
店内に一人で残っているかすみさんが心配でたまらない。
早く人を呼んで戻らなきゃ。
不安ばかりがつのって気持ちが折れてしまいそうだけど、山崎さんの話ではもうじき新選組がいずみ屋の様子を見に来てくれるはずだ。
私がその場にいなくとも、そうなればかすみさんは助かる。
かぐら屋までは、走れば四半刻もかからないだろう。
入りくんだ路地を全力で走り抜ける。
狭い小路は家屋からもれる明かりもわずかなもので、放るように地べたに置いてある桶や材木に何度もつまずいた。
けれどそんなことをいちいち気にしてはいられない。
ひざや腕のあちこちをすりむきながら、一心不乱に突き進む。
いずみ屋から離れるにつれ、ぽつぽつとすれ違う人が増えていく。
人が提げる行灯のやわらかい灯りにいくらかほっとしながら、私は走る。
遠くで聞こえる犬の声だけがやたらと高く響き、月は雲に隠れて行く道を照らす光もろくにない。
不気味で、恐ろしく、寒気のする夜だ――。
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