第十七話:神楽木家

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第十七話:神楽木家

 雨京さんとむた兄の間で、話は急速にまとまった。  唐突に『美湖を神楽木家へ連れて帰る』と宣言され、最初はとまどい引きとめようとしていたむた兄も、一度決めたら頑として譲らない雨京さんの姿勢に圧倒されて、最終的には折れた。 「ほんまはもう二、三日は安静やねんで!? おっちゃん、できるだけ動かさんよう静かに運んだってや!」  雨京さんが用意した付き人のおじさんにおぶさって移動する私のとなりには、治療道具が入った大きな風呂敷を背負ってあれこれとくちばしを入れるゆきちゃんの姿がある。  螢静堂を出て、静まり返った夜道を歩くこと四半刻。  急に冷え込んで冷たい風が吹き抜ける川沿いの通りを足早に歩きながら、私たちは神楽木家へと向かっていた。  雨京さんが同行させていた雇い人は計三人。  見るからに腕に覚えありといったいかつい風貌の用心棒が二人と、かぐら屋で下働きをしているというおじさんが一人。  私はそのおじさんにおぶられて、用心棒たちの後ろに隠れるようにして移動している。  隣には、寄り添うように歩きながら私の体調を気遣うゆきちゃんの姿がある。  最後尾を歩くのは雨京さんだ。  提灯を片手に四方へ気を配りながらも、堂々とした足取りで夜道を進む。 「雪子さん、美湖の傷は数日でふさがるのだろう?」  急な出立に不満たらたらなゆきちゃんの小言を断ち切るように、雨京さんが言葉を投げかけた。 「安静にしとればの話です、みこちんをあんまり振り回さんといてください!」 「分かっている。屋敷では当分大人しく療養してもらうつもりだ」 「ほんならうち、ようなるまでみこちんのそばにおりますから!」 「それは構わない、往診に呼ぶ手間も省けるのでな」  淡々と眉ひとつ動かさずに話を進める雨京さんに背を向け、ゆきちゃんはべっと舌を出して「能面!」と悪態をついた。  昔から威勢がよくて喧嘩っぱやいところがあったけど、成長した今も変わらないんだなぁと私は小さく苦笑する。  急な話で螢静堂には迷惑をかけてしまったけれど、ゆきちゃんは私の体を心配して同行を願い出てくれた。  雨京さんの言葉に不安を感じていた私にとって、こんなに頼もしい味方はいない。  ほどなくして神楽木家へ到着した。  重厚な門構えに、通りの向こうまで長く続く屋根つきの高塀。  大名のお屋敷にもひけをとらない広大な敷地には、よく手入れされた庭園が広がっている。  敷き詰められた美しい庭石の先にあるのは、大きな池。  色鮮やかな鯉たちが澄んだ水の中で尾ひれをなびかせ、びいどろのようにきらきらと光るさまは、それだけで目を惹き心奪うひとつの作品だ。  もちろん、そんな庭園の中心に立つお屋敷もこの上なく立派なものだ。  大きさ広さもさることながら、各部屋を美しく彩る絵画や骨董品、刀剣なども世に二つとない一級品ばかりだそうだ。  部屋数の多さにも驚かされる。  以前私が住んでいた長屋よりも一室がはるかに広い上に、そんな部屋が襖をあけた先に何室も繋がっているのだ。  迷路のようにあちこちに延びる廊下の先にはいくつかの離れや茶室があり、屋敷の奥には二つの大きな蔵もある。  むかし、浦島さんの絵草紙の挿絵を依頼された父が、竜宮城を描く際に神楽木家の外観を参考にしたことがあるほど、それはそれは豪奢かつ壮麗なお屋敷なのだ。 「うっわ! なんやこのお屋敷! 城か!? どこの殿様が住んどんの!?」 「すごいよねぇ、たしか今はここ雨京さんしか住んでいないんですよね?」  玄関までの道のりを歩きながら、私は雨京さんのほうを向いて語りかける。 「ああ。使用人を除けば私だけだ」 「あらら、妻子もちやと思ったらまさかの……! こないに広い屋敷、一人で住むんはもったいないですよ!」 「今後は美湖も住むことになる」  雨京さんがそう口にだすのとほとんど同時に、屋敷の中から女中さんがひとり飛び出して来た。 「お帰りなさいませ、旦那様。美湖様とお連れの方々もどうぞ中へ」 「ああ。太助、このまま美湖を離れまで運んでくれ」 「はい――お嬢さん、もう少しで部屋ですので。雪子さんもついてきてください」  太助と呼ばれた使用人のおじさんはこちらに振り返って声をかけると、私をおぶったまま草鞋をぬいで屋敷に上がり、まっすぐ続く廊下を歩いて行く。 「お嬢さんやて……」 「あはは……」  身にあまる厚遇を受けて、思わず乾いた笑いが漏れてしまう。  今後の神楽木家での生活が心配だ。  太助さんの案内で通された離れは、風通しがよく庭木のざわめきが耳に心地良い十畳ほどの部屋だった。  床の間には大輪の菊を描いた掛け軸と、素人目にも見事だと思える上品な活け花が飾ってある。  下座には文机が配置され、その上には何冊もの絵草紙が積み重なっている。  机の脇には画道具と玩具がたくさん。  そして畳んである布団の上には、山崎さんに預けておいた私の荷物が置いてあった。 「あ、これ……」 「新選組の隊士が届けに来たものだ。お前のもので間違いないな?」 「はい!」  結び目をほどいてざっと中身を確認してみる。  無くなっているものもなさそうだ。 「ならば今夜は早めに休め。しばらくはこの部屋で療養するのだ、余計な事は何も考えなくていい」  そう言って私の肩にそっと手を置き、雨京さんは静かに部屋を出ていった。 「旦那様はああ見えて、かすみお嬢様のことも、あなたのことも随分と心配していたのですよ。あなたが無事だと聞いて、屋敷に迎えると急ぎで準備を済ませまして……」 「ほんなら、この絵草紙や玩具も、あの人が用意しはったんですか?」  興味深そうに机の上のものをあさっていたゆきちゃんが、顔を上げて太助さんに尋ねる。 「ええ、旦那様自らお選びに。部屋のものはお好きなようにお使いください。必要な物は、私か女中に声をおかけくだされば手配いたします……それでは、ゆっくりお休みを」  深々と頭を下げながらそっと障子を閉めて、太助さんは部屋をあとにした。  残ったのは私とゆきちゃんの二人だけだ。 「みこちんのためにわざわざ用意したっちゅうわりに、おかしな品揃えやな。子ども向けの絵草紙ばっかや!」 「私、あんまり難しい字は読めないからかなぁ。雨京さん忙しいのに、気をつかわせちゃったね」  ぱらぱらと愉快そうに絵草紙をめくるゆきちゃんの隣に立って、中身をのぞき込む。  絵が大きく描かれて、読みやすく分かりやすそうなお伽の本だ。 「これだけあれば閉じこもりきりでもしばらく飽きんやろね! さ、布団敷いてそろそろ寝よか」 「うん、そうだね」  私たちは並んで寝床の準備をはじめる。 「みこちん、休んどき! 全部うちがやるよ」 「ううん、これくらいさせて。ずっと同じ体勢でいたら、なんだか体が固まっちゃったみたいで……動いてたほうが落ち着くの」 「あんま無理せんでな、寝る前にもっかい傷見せてもらうわ」 「うん! ありがとう、ゆきちゃん!」  布団を敷いて傷の手当てを終えると、ゆきちゃんはすぐさま床について眠りに落ちた。 「せっかくやしいろいろ話そ! よっしゃ! 気になる男のハナシ再開やー!」と上機嫌で横になったと思ったら、私の返答を待たずにすやすやと寝息を立てていたのだ。 (疲れてたのかなぁ……ゆきちゃん、今日は一日お世話してくれて、ありがと)  ここ数日、辛いことだらけで心身ともにぼろぼろだったけれど、ゆきちゃんと話している間はいくらかそれが和らいだ。  きっと、彼女が昔のままだからだろう。  場を明るくしてくれる。  嫌なことは忘れさせてくれる。  ――雨京さんは言った。 『余計なことは何も考えなくていい』と。  かすみさんを探し出すために自分たちが出来ることはほとんどないと。  まわりの人たちはたぶん、私が事件を忘れることで元気になれると考えている。  私にできることなんて何一つないと思っているのだ。  今回のいずみ屋の事件は、このまま誰もが記憶から消し去ろうとしていくのだろうか。  間違った対応の果てに店を失って、自業自得だと。  悪い客につかまって運が悪かったねと。  それで済ませて泣き寝入りするしかないのだろうか。  ――じゃあ、かすみさんはどうなるの?  もしも生きているとしたら、逃げ延びて自力でここへ帰ってくるのを待つしかないのかな?  水瀬や深門は?  まだ京にいるかもしれないのに、放っておくの? (中岡さんたちは、今どうしているだろう……)  引き続き水瀬たちを追うみたいだけど。  手がかりもなく、追跡も振り出しに戻った今、できることは少ないはずだ。  今この事件を忘れ去ろうとせずに向き合っているのは、きっと中岡さんたちと新選組だけだろう。  私はどちらともつながりを持っているし、会おうと思えば会える。  ただ、どちらかに頼ろうと考えるなら片方との接触を断たなければならない。  彼らは仲がよくないそうだから……。  中岡さんたちも、山崎さんたちも親切にしてくれた。  どちらも悪い人たちじゃない。  ――でも、選ぶとしたら悩むまでもなく中岡さんたちだ。  彼らは当事者だから。  裏切られ、大切なものを盗まれている。  犯人を捕まえるまで解決しない問題を抱えている。  忘れ去ることなんてできないはずだ。  逆に新選組は当事者ではない分、今回の事件も取り扱う多くの案件の中のひとつに過ぎないはずだ。  いずれ優先順位が下がって、忘れ去られてしまう可能性だってある。  何より、私は中岡さんたちに恩を感じている。  あの人たちを信じたい。力になりたい。 (……よし、決めた)  近いうちに、中岡さんたちとちゃんと話をしよう。  水瀬一派が捕まるまで、私も一緒に事件を追わせてほしいと頼むんだ。  こうして一人で考える時間ができると、かすみさんと交わした最後の会話が頭をよぎる。  別れ際の、決意の表情も。  店も絵も、なにもかもが燃えてしまった。  私たちが大切にしていたもののほとんどが。  だけど、かすみさんだけは失いたくない。  きっとまだどこかで生きているはずだ。  だから、早く動き出さなきゃいけない。  一人でも、かすみさんを探しに行くんだ……!  寝返りをうとうと動かした半身に、痛みが走る。  早く怪我を治さなきゃ。  このまま寝ているだけじゃ、頭の中が爆発してしまいそうだ。 「みこちん! あさげやでー!」 「ゆきちゃん……おはよう」  朝から元気いっぱいなゆきちゃんの声が耳の奥まで響き渡り、私は目を覚ました。  ぼやけた視界でまばたきをしながらあたりを見回すと、二人ぶんの食事が部屋の中央で美味しそうに湯気を立てているのが目に入る。 「みこちん、起きれる? 布団のとこまでお膳運ぼか?」 「大丈夫、起きるよ」 「ほんまに? まだ傷痛むやろ。無理せんでな」 「うん、はやく良くなりたいしね。よく食べて寝て、体もできるだけ動かすようにしてみるよ!」  明るく声を張り上げ気合いを入れた私は、布団から出てお膳の前に座る。  本当は動くたびにちくりと脇腹が痛むんだけど、気にしない。 「殿がじきじきに料理してくれはるんかと思てたら、食事は女中さんが用意するんやてー。ちょい残念やな」  いただきますと手をあわせ、ゆきちゃんは白いご飯にお漬物をのせながらつぶやく。  朝餉の内容は、ご飯に味噌汁に焼き魚にあげだし豆腐。  そして扇形の雅なお皿に盛り付けられた色とりどりのお漬物。  一見質素な見た目ながら、一人では食べきれそうにないと思えるほどの量がある。 「雨京さんは朝から忙しいからね……殿って、雨京さんのことだよね?」 「そ。態度といい、この屋敷といい殿っちゅう感じやん。そもそも殿は自分で食事作ったりするん?」 「するよ。前にお父さんとここに遊びに来たとき、ご馳走になったんだ。すっごくおいしかった!」  父の「茶漬けが食いたい!」との熱望に応えて雨京さんが作ってくれた鯛茶漬けは、私たちが想像する粗末な猫まんままがいのものではなく、一杯で何両もするようなきらびやかで神々しい逸品だった。  雨京さんは、ねっからの料理人だ。  そのこだわりは並大抵のものではないと、かぐら屋で働く人々からたびたび耳にする。  一品一品最高のものを、手間を惜しまず細部にまでこだわり抜いて完成させる。  けれど、その労力を自分や家の人間の食事にまで割くことは滅多にない。  そこまでこだわり抜くのはさすがに無理な話だ。  あの日父や私に腕をふるってくれたのは、客人に対するおもてなしの気持ちからだろう。 「雨京さん自身は、かぐら屋の板前さんが作ったまかないを食べるみたいだよ」 「うわ、まかない作る人責任重大やな。こんなまずいもんが食えるかー! とか言って皿ぶん投げられたりしそうや」 「そこまではないけど、いろいろ指摘されたりするのは当たり前みたい。だからまかないって言っても全力なんだって」 「へぇ~、気が抜けんなぁ」  相づちをうちながら、ゆきちゃんはどこかうわの空といった様子で、せっせと箸を動かしている。  話よりも食べることに集中しはじめたみたいだ。  女中さんが作ってくれたというこの朝餉はそのままお店に出せそうなくらいおいしいから、箸が止まらなくなるのも分かる。  私も、おしゃべりを止めてしっかり料理の味をかみしめよう。  こうして寝床と食事を当たり前に用意してもらえる現状に感謝しなきゃ。 「みこちん! うち、ちょっと兄ちゃんとこ戻ってくるわ」  朝餉の膳を片付けて私の傷の消毒を終えると、ゆきちゃんは手鏡を片手に身だしなみを整えながら、そう切りだした。 「あ、うん。いつまでもここにいるわけにはいかないもんね……ゆきちゃんも診療所のお手伝いとかあるだろうし」 「また夕方ごろにはこっち戻るよ、ちょっと心配な患者がおってな……」 「そうなの? だったら行ってあげて。私は一人でも大丈夫だから。むた兄によろしくね」 「うん。ほなちょっと、いってくるわ! 安静にしとってなぁ!」  離れの障子を開けて、ぱたぱたと廊下を走っていくゆきちゃんを慌ただしく見送る。  一息ついて見上げた空は、雲ひとつない見事な青だ。清々しい。  髪を撫でていくかすかな風が心地よくて、このままここに座りこんで眠ってしまいたくなる。  ……暇、だなぁ。  今までだったら、この時間はいずみ屋の手伝いをしていた。  それが終わったら釣りに出かけて、そのあとはかすみさんと一緒に夕餉の支度をして……。  今思えば毎日何かしらやることがあって、それなりに楽しく忙しく日々を過ごしていた。  暇だなんて思ったことはほとんどなかったなぁ。 「美湖様、お体の具合はどうですか?」  陽当たりのいい縁側で、雨京さんが用意してくれていた絵草紙を枕にうとうとしていた私は、優しく肩を叩かれて体をおこした。 「あ、女中さん!」 「わたくし、やえと申します。雪子さんがお出かけになって美湖様が退屈しておられるのではと思いまして」  やえと名乗った女中さんは、私の目の前に座ると両手をついて頭を下げる。  きりりとつり目がちだけれどきつい感じは受けない、凜として落ち着いたお姉さんだ。  歳はたぶん、かすみさんより少し上くらいかな。 「退屈です、傷の痛みももうほとんどなくてすっかり元気ですから、ちょっとお外を歩いてみようかなぁとか――」 「なりません」  私がすべて言い終える前に、やえさんはうっすらと微笑んだままこちらのささやかな訴えを両断した。  嘘がバレたかな……実際はまだ少し傷も痛むし。 「ちょっとだけ……かぐら屋のまわりをぐるっと散歩するくらいは……」 「美湖様を外に出すことはならぬと、旦那様から仰せつかっております。それに――」 「そ、それに……?」 「怪しげな男が付近をうろついております。危険ですので、当分は離れでお過ごしくださいませ」  やえさんは廊下に散乱した読みかけの絵草紙をかき集めて積み上げながら、離れに戻るよう目線でうながした。 「その、怪しげな人というのはどんな人でした!?」  まさか、水瀬たちがここまで追って来たなんてことは……。  嫌な汗が背筋を伝う。 「浪士風の男の二人づれです。美湖様のお知り合いだと言い張っておりましたが、信用ならず追い返しました」 「知り合い!? すみません、もう少し特徴とか……」 「名はたしか、田中さんと陸奥さん。美湖様の忘れ物を届けに来たと釣竿を持っていらして――」 「知り合いですっ、その二人!! 釣竿も確かに私のものだと思います! 前に会ったときに忘れていってしまって……!」  田中さんと陸奥さん!  わざわざ訪ねてきてくれたんだ!!  私は思わず立ち上がって、はるか向こうに立つ門のほうへ背伸びをする。 「本当にお知り合いであったとしても、会わせることはできません。今後、浪士との関わりは一切断つようにと旦那様が」 「……でも、あの人たちは悪い人じゃないんです。まだ近くにいるかもしれません、私ちょっとだけ会って話して来ます!」 「なりません、離れにお戻りください」  駆け出そうとする私の手首をつかんで、やえさんが制止する。  力が強い。  もがいてもびくともせず、私はその場から一歩も動けなくなった。 「新しい釣り竿をご所望だと、旦那様にお伝えしておきます。お体が癒えましたら、わたくしと共に釣りに出かけましょう」  淡々と、だけれど有無を言わさぬ調子でこちらにそう言い聞かせながら、やえさんは絵草紙を抱えて離れにつづく廊下へと私の背を押した。  ――そうだ、思い出した。  診療所で雨京さんから言われたんだ。 「浪士と付き合うのはやめろ」と。  その言葉を受け入れなかったから私はこうして、神楽木家のすみに閉じこめられている。  やえさんはきっと、私が勝手な行動をしないように監視しているんだ。  それから夕方近くまで、やえさんが読み聞かせてくれるおとぎ話を、死んだ魚のような目で聞きつづけた。  抑揚の少ないお経のような読み聞かせはまさに苦痛。 『安静に』と布団に横になるよううながされ、寝てしまうのは失礼だと思ってなんとか目を見開いていたけれど、最終的に私は睡魔に負けた。  目をさますと、薄暗くなった部屋の中央にぼんやりと明かりがともっていた。  いつの間にか陽が落ちてしまったらしい。 「みこちんよう寝るなぁ、もうすぐ夕餉やで」  布団のそばで絵草紙をめくっていたゆきちゃんが、笑って顔を上げる。 「ゆきちゃん、帰ってきてたんだね。おかえり!」 「うん、ただいま。兄ちゃんがみこちんのこと心配してたで。順調に回復してて元気そうやって伝えたら安心したみたいやけど」 「そっかぁ。うん、自分でも良くなってきてるの分かるよ。昨日に比べて痛みも減ったし……」  私は帯をといて着物をはだけさせ、背中から脇腹のほうへとのびる傷口を確認する。  生々しく表面が膨らんだ患部からはまだわずかに血がにじんでいるけれど、大部分は厚いかさぶたでふさがっている。  見るかぎり、そこまで深い傷ではないみたいだ。 「せやね、完全にふさがってしまえばひとまず安心やけど、しばらく安静にしとかなあかんよ。治りかけに傷口がひらくこともあるし」 「う……やっぱりそう? だけど、もう散歩くらいならできそうだよ」 「散歩なぁ。殿に許してもらえたら、やな。みこちんのことしばらく外に出さんて言うてたし」 「うん……」  今朝までは、傷が治ったら自由にあちこち動けるものだと思っていたけど、このままじゃそうはいかないみたいだ。  雨京さんをなんとか説得できたらなぁ。 「せや! 夕方ごろ、うちの診療所まで田中さんらが訪ねてきたんよ。一度ここにも寄った言うてたけど、来た?」 「来た! それで、追い返されたみたい……螢静堂にも行ったんだね! ゆきちゃんお話できたんだ、いいなぁ」 「いいなって何や!? みこちんやっぱ田中さん好きやな! あ、もしかして連れの男前さんの方か!?」 「連れって、陸奥さん?」  男前と言われて、陸奥さんの顔を思い出す。  私には面倒くさそうな視線しか向けてくれなかったけれど、たしかに整った顔立ちだったと思う。 「そ。無口な人やねぇ、田中さんと足して二で割ったら丁度ええわ……あ、そんでな! 二人から文を預かって来たんよ」 「えっ!? ほんと!? 見せて見せて!!」  ゆきちゃんが懐から取り出した紙切れにとびついて、中を確認する。 『うしみつどき かぐらぎけの くらのうらでまつ』 「丑三つ時……蔵の裏?」  中央に大きくそう書かれている。  その隣には何かを書いて、太い線で上から消した跡がふたつほど。 「最初、陸奥さんが書いててんけど、みこちんは難しい字は読めへんって教えたら、田中さんが交代してな……なになに? 蔵? 神楽木家の?」 「丑三つ時かぁ、もしかして夜中に忍びこんでくるつもりかな? 危ないよね……」  大きな字で堂々と書かれた待ち合わせの約束にふたたび目を落として、笑顔が引きつる。  もし家の人にばれたらどうなるんだろう。 「なんや、あの二人めっちゃ熱いな!! よっしゃ! わくわくしてきたっ!! みこちん、殿たちにバレんように頑張ろうな!! 密会や、密会!!」 「ええ……!? 大丈夫かなぁ……」  ゆきちゃんはものすごく張り切っているけれど、私としては不安だらけだ。  ――とはいえ、これはめったにない絶好の機会でもある。  田中さんたちと話したいことはたくさんある。  中岡さんたちのその後のことも気になるし、水瀬一派の情報が何かつかめていないかも聞きたい。  なにより今は、外出を禁じられていて会いたくても会いにいけない状況だ。  向こうから訪ねてきてくれるなんて、こんなにありがたいことはない。  ――よし、会おう!  絶対に家の人にはバレないように!! おまけ。神楽木ファミリー。太助さんはどこ!? 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