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第二十一話:談判
「お! お二人さん久しぶりだねぇ、とりあえず上がりなよ」
屋敷まで到着した私たち三人を迎えてくれたのは、何やら派手な着物を身にまとった男の人だった。
「香川くん、久しぶりじゃな! 慎太はおるか?」
目の前の男の人に一瞥して、坂本さんと長岡さんは履きものをぬぎはじめる。
「隊長さんなら先日から部屋にこもってるよ、せっかくだから案内させてもらおう」
「すまんのう突然……ほれ、嬢ちゃん挨拶しぃ。こん人は慎太の仲間の香川くんじゃ」
履き物をぬいで屋敷へあがると、坂本さんから軽く背を押され、香川さんの正面に立たされた。
「はじめまして、天野美湖といいます」
お互いの顔がよく見える距離だ。
じっとこちらを見据える視線から逃れるように、私は頭を下げる。
上から下まで、品定めするように全身を凝視されているのが分かる。
見慣れない客が来たと、警戒されているのかな。
「ちょいと子供っぽいけど、なかなかいいじゃないか。歳は十六、七くらいかね?」
「そうです、十七です」
私の顔をまじまじと見つめながら、にやりと口角を上げて香川さんは笑う。
「女紹介してくれとは頼んでたけど、まさかホントに連れてきてくれるとはねぇ! さすが坂本さん! 欲しかったんだよ、若い女中が!」
「えっ!?」
なぜだか思いもよらない方向に話を進める香川さんを見て、私は目を丸くして固まる。
どういうことなのかと、困惑しながら坂本さんの方に目を向けた。
「香川くん、こん子は女中として連れてきたがやない。慎太から聞いちょらんかのう? いずみ屋の騒動の……」
「いずみ屋……!? ああ、聞いた聞いた。たしかあそこの娘さんは、行方不明が一人と、負傷して療養中の子が一人だったはず……おまえさんはどっちだ?」
「負傷したほうです。行方不明のかすみさんの居場所が分かったので、伝えに来ました」
あまり時間はない。
一刻も早く中岡さんたちと話がしたい。
急ぐ私は、そう眼差しで訴えかけるように香川さんを見つめる。
「坂本さんらが一緒に来てるってことは、それなりに信頼できる情報ってことか……分かった。それじゃ、田中とハシも呼んでこよう」
「頼んだぜよ、香川くん」
「隊長さんの部屋は、この廊下のつきあたりにあるから。このまま三人で訪ねるといい」
そう言い残すと、香川さんは一人廊下を曲がって進路を変えた。
静まり返ってあまり人気のないこの屋敷のどこかに、田中さんや大橋さんの部屋もあるのかな。
なんだか昼間なのに、がらんとしていて寂しい雰囲気だ。
突き当たりの部屋の前まで来ると、軽く咳払いをして坂本さんが障子のむこうへ声をかけた。
「慎太、俺じゃ! 入るぜよ」
返事を待つことなくスッと障子を開け放つと、部屋のすみで書きものをしていた中岡さんがこちらを振り返った。
「おお、龍馬か。ちょうどお前に文を書いていたところだ。長岡くんもよく来てくれたな……」
立ち上がってこちらの面子を見渡す中岡さんは、私の顔を見つけると驚いたのか一瞬言葉につまる。
「中岡さん、お久しぶりです……」
「天野! どうしてここへ? 傷の具合はどうなんだ? もう動いてもいいのか!?」
坂本さんと長岡さんの間で縮こまって頭を下げる私に歩み寄ると、中岡さんは私の両肩をぐっとつかんで視線を合わせる。
「傷は、だいぶよくなりました。今日はかすみさんや水瀬たちのことでお話があって来ました」
「水瀬たちの……?」
「立ち話も何やき、中で話さんか」
坂本さんがそう言って一旦話を切ると、長岡さんが私の背を押してかるく微笑みかけてくれた。
「ここまでけっこう歩いたから疲れたでしょ、美湖ちゃん」
「――ああ、すまん。布団を敷いたままだった……天野、座って休んでくれ」
長岡さんの言葉を耳にするとすぐに、中岡さんは部屋の中央に広がっていた布団を手際よくたたんで押し入れに突っ込んだ。
「きれいなお部屋ですねぇ……」
私はその場に腰をおろして周囲を見わたす。
文机のまわりに数冊の本が積み上げられているほかには、私物らしきものもほとんど見当たらずこざっぱりと落ち着いた部屋だ。
「慎太は持ち物が極端に少ないきのう。綺麗っちゅうより、味気のうてつまらんじゃろ」
「布団敷きっぱくらいが生活感あっていいよねー。もっとごちゃっとしてる方が落ち着くよ」
二人はさらりと中岡さんの部屋にダメ出ししながら、私の隣に座る。
口ぶりから察するに、よほど気心が知れた仲なんだろう。
じゃなきゃ、ちょっとヒドイ。
「俺は、使う予定のないものをごちゃごちゃと部屋に置いておくのが嫌いなだけだ」
ふんと息をついて坂本さんたちをひと睨みすると、中岡さんも私の隣に腰をおろす。
仲良しだから軽口も許されるんだろうなと思っていたけど、どう見ても機嫌を損ねている。
とりあえず、話題を変えてみよう。
「中岡さん、火傷の具合はどうですか?」
そう私が尋ねると、中岡さんはいくらか表情をゆるめて口をひらく。
「たいした傷じゃない、心配しないでくれ。あれから何度か長岡くんにも診てもらったが、問題なく治っている」
「うん。少しばかり痕が残るかもしれないけど、それもじきに薄まっていくだろうしね。心配はいらないよ」
お医者さまにそう言われると、安心できるな。
ほっと胸をなでおろす。
「よかったです、大事にならなくて……」
「ああ。だが、あの夜の出来事を忘れるわけにはいかないぞ……天野、水瀬たちについて何か分かったのか?」
「あ、はいっ……! そうなんです!!」
今日はそれが本題だ。
中岡さんの言葉をうけて懐の文を握りしめたところで、大きな音をたてて部屋の障子が開いた。
「天野ッ!! いずみ屋のおかみさんの居場所が分かったって!?」
「詳しくお聞かせいただけますか?」
田中さんと大橋さんだ。
そのうしろから、あくびをかみ殺したような、けだるそうな香川さんの顔がのぞく。
「今からその話をするところだ、三人とも入ってくれ」
中岡さんが目線で座るようにうながすと三人は無言でうなずき、部屋の中央に陣どる私たちの輪に加わった。
ぐるりと七人が車座になれば、さすがに緊張感が増す。
大橋さんが人数ぶんのお茶をそれぞれに配り終えたところで、皆の視線がいっせいにこちらを向いた。
「嬢ちゃん、さっきの文を見せてやっとおせ」
「はいっ! 今朝、神楽木家の離れの柱にこんなものが投げ入れられまして……」
隣に座る坂本さんが、あまり固くなるなと優しく背を叩いてくれたことで、いくらか肩の力がぬける。
私は、中岡さんたち四人の顔を順に見回しながら例の文を畳の上に広げた。
「これは……」
中岡さんが文を手にとると、隣に座る田中さんが首をのばして中をのぞきこむ。
「矢生(しき)一派の潜伏先だと……?」
「ご丁寧に地図までつけて、何なんすかねこりゃあ……」
「確かな情報なのですか? かすみさんもそこに……?」
文は回し読みされながら中岡さんから田中さん、大橋さんの手へと渡ってゆく。
ひそひそと交わされる会話を耳にしながら、坂本さんと長岡さんは「しきじゃったか」「やぎじゃないとは思ってたよ」と妙に納得した顔でうなずき合っている。
「確かな情報かどうかは私にも分かりません、誰がこれを書いたのかも。ちなみに、文はこの刃物にくくりつけられていたんですが……」
手拭いにくるんで懐に入れておいた諸刃の短刀を、彼らの前に差し出す。
「これが柱に……? 文の書き手は屋敷内に侵入したということか?」
中岡さんは短刀を手に取ると、鋭く目を細めて険しい表情を浮かべた。
「分かりません、塀の上に登ってそこから投げたかもしれませんし……探しても人の気配は見つけられませんでした」
「知らぬ間に、ですか。相手はいつでも屋敷内に侵入できる輩のようですねぇ……」
大橋さんが難しい顔をしてそうつぶやくと、皆が腕を組んで首をひねりはじめた。
「つうか、マジで誰が書いたんだろうなコレ。おかみさんを助けたい奴か、矢生たちを潰したい奴か……」
「――仲間割れっちゅうことはないんかのう?」
それぞれが考え込んで言葉少なになったところで、ふと思い付いたように坂本さんが口をひらいた。
その発言に一理あるとうなずき返したのは、中岡さんだ。
「それも考えられなくはない。あの三人は、はた目に見てもうまが合うようには見えなかったからな」
「そうっすねぇ、べったりつるんでるとこは見たことねぇっす」
「パッと見バラバラで行動してたわけだ。んで、矢生ってどんな奴だった? 俺、話したことあったかねぇ」
香川さんがお茶をすすりながら首をひねると、中岡さん大橋さんはわずかに眉を寄せてうつ向く。
「実は俺も、かろうじて名を覚えている程度だ。ほとんど記憶にない」
「私もです、水瀬や深門はよく挨拶してくれたので覚えているのですが……」
全員が、顔を見あわせて黙りこんだ。
「あの、私もそうなんです。彼らは三人でよくいずみ屋に来てたんですけど、その、矢生っていう人の顔だけ思い出せなくて……」
確かに存在する人で、顔も見たことがあるはずなのに。
誰一人どんな人物だったか覚えていないなんて、奇妙な話だ。
「いずみ屋でもそうだったってことは、矢生はどこにいてもパッとしない奴だったってわけか……」
「なんでそんなヤツが親玉なんだよ。あいつら一体どんな関係なんだ」
やれやれと首を振る香川さんに同調するように声をあげて、田中さんは苛立たしげに頭をかく。
「待てよ……? 矢生が一派の中心人物だと明言できるということは、この文を書いた人間は少なからず奴らの内情を知っているわけだ」
ふと切り出した中岡さんの一言に、一同はっとする。
そう言われればそうか。
はたから見ていて一番目立っていたのは水瀬だったし、彼の意見で他の二人が動いているようにも見えた。
矢生なんて人は、居ても居なくても気にならないほど薄い存在だった。
そんな人が一派の親玉だなんて、第三者の目線からでは分からない。
知っているのは彼ら自身かよほど近しい仲間だけだろう。
「そうなると、仲間割れの線が強そうですねぇ」
「まぁ、オレらをおびき寄せる罠かもしんねぇけどな……そのへんは行ってみねぇと分かんねぇ! 中岡さん、どうします?」
ばしっと手のひらに拳を叩きつけて、田中さんが勢いよく立ち上がった。
進退を問うておきながら、すでに体のほうは行動する気まんまんのようだ。
いてもたってもいられないといった風に、うずうずしているのが分かる。
「真実にしろ罠にしろ、確認するために動く必要があるな。反対意見はあるか?」
中岡さんがそう言ってそれぞれの顔を見渡すと、全員が静かに首を振った。
異議なし。
――よかった。
小さな紙切れ一枚を握りしめてここまで来たけど、ちゃんと話を聞いてもらえた。信じてもらえた。
矢生の話も聞けたことだし、あとは現場に行って文の内容が本当のことなのか確認するだけだ。
「ほいたら、突撃で決まりじゃな」
「動くなら早い方がいいし、今夜あたりどう?」
坂本さんが、地図に記してある矢生一派の本拠地をピンと指ではじく。
長岡さんもその勢いに乗ったというような力のあるはずんだ声で、中岡さんたちに意見を求めた。
「あの! 私も今夜行くべきだと思いますっ!! はやく行かなきゃ、かすみさんが心配ですし……!」
中岡さんが口をひらくよりも先に、はいっと手を上げて緊迫した輪の中に意見をねじこむ。
「は? もしかしておめぇも来る気か?」
「もちろんです! かすみさんを助けに行きます」
田中さんは一瞬あっけにとられたような顔をしたあと、ぐっと眉間にシワをよせて私をにらむ。
「足手まといになっから来んな、おかみさんはオレらの手で助けるから心配しねぇで待ってろ!」
「嫌です! 私が行かなきゃいけないんです!! 置いていかれても、一人で助けに向かいます!!」
「はあぁぁ!? 何しに行くか分かってんのか? 相手も武器持ってるし、向こうで何があるか分かんねぇんだよ! 怪我すんぞ!!」
そうすごむと同時に半身をこちらに乗り出して、田中さんは畳を踏み抜かんばかりの勢いで強く足を踏み鳴らした。
ビリリと、震動がこちらに伝わる。
こんなに怒りをあらわにするのは、本気でこちらの身を案じてくれているからなんだろう。
乗り込もうとする場所に危険が待っていることは、痛いほど分かっている。
だけど私は、もう逃げたくないんだ……!
「私は、文を届けるためだけにここに来たわけじゃありません。一緒に事件を解決するために来ました! 邪魔はしません!! どうか私も連れて行ってください!!」
深く頭を下げて、懇願する。
「気持ちは分かる。だが、ここから先は命の危険もある。あとは俺たちに任せてくれないか?」
「……」
火がついた心を、そっと冷たい水で洗い流すように。
中岡さんは落ち着いた声で私を諭しながら、ねぎらうようにそっと肩をたたいた。
――けれど、その言葉に頷くことはできない。
心が折れそうな日々の中、なんとか前を向いて立っていられたのは、自分の足でかすみさんを助けに行くんだという使命感があったからこそだ。
ここで身を引いたら、この先ずっと自分の無力さを責めるだろう。
気持ちを言葉にしたいのに、喉の奥がきゅっとしまってうまく声が出せない。
中岡さんの目が、田中さんの目が、大橋さんの目が。
「お前はここで待っていろ」とはっきり物語っているから。
ついていくのが迷惑なら、本当に一人で乗り込んでしまおうかと唇をかんで考える。
そんな思い詰めた顔でうつ向く私の背を、誰かがふいに優しく叩いた。
「こん子は行く気じゃ。決意は固い! 連れてってやろうや」
坂本さんだ。
てっきりここにいる全員が私を連れていくことに反対しているものだと思っていたから、思わぬ助け船に目頭が熱くなる。
「いざとなったら一人でも行くって言ったしね、そばに置いてたほうがいいと思うよ」
間をおかずに長岡さんも、坂本さんの意見に同意して声をあげてくれた。
「嬢ちゃんの面倒は俺たちが見る。無茶はさせんき、仲間に加えとおせ」
心配はいらないと、畳の上に置いた刀に手を添えて笑ってみせる坂本さん。
そんな姿を隣で見上げながら、心の中でありがとうとつぶやく。
無理を言っているのは自分でも分かっているから。
こんな状況でもあえて私の気持ちを汲んでくれることが、どれほど有難いか――……。
「勝手に話を進めるな。そもそも龍馬たちを巻き込むつもりはないし、これは俺たちの手で解決すべき問題だ。仲間うちだけで動く。手助けはいらん」
中岡さんが、ぐっと目を細めて坂本さんに言葉をぶつける。
突き放すような厳しい口調だ。
「仲間うち? ほお……ほいたら俺たちは、仲間ではないっちゅうことじゃな」
「そうは言ってない。これは、うちの隊の問題だと言っている」
「いずみ屋の女将さんが絡んじゅう以上、もはやおんしらだけの問題ではなかろうが。おんしらの目的は矢生一派の捕縛かもしれんけんど、嬢ちゃんは女将さんの救出を目的に動いちゅう」
坂本さんがそこまで話すと、大橋さんが静かに口をはさんだ。
「私達も、当然かすみさんの救出を最優先に動いています」
大橋さんは鋭い目でまっすぐとこちらを射抜き、抗議するようなまなざしで私たちを見すえる。
「そりゃ、あいつらと一緒におかみさんもいるとなったら、当然それを助け出すのが最優先っすよ」
「だがそれは俺たちだけでも可能なことだ、こちらはすぐに人数を揃えられるからな……わざわざお前たちを危険に晒す必要はない」
田中さんの言葉にうなずきながらも、中岡さんはあくまで私たちの同行を許可しない姿勢だ。
このままじゃ、話はずっと平行線で終わってしまう。
「えーと……ひとつ聞いてもいいかな」
そんな停滞した空気を破るように、長岡さんが大きく咳をする。
「何だ? 長岡くん」
意見に耳をかたむけようと、中岡さんが姿勢を正して長岡さんに注目する。
それに合わせて、皆いっせいに同じ方向へと視線を集中させた。
「この中に、自分の家族が悪党に捕らえられてじっとしていられる人はいるの?」
その一言に。
場はシンと静まりかえった。
「……いずみ屋のおかみさんは、美湖ちゃんにとってどんな人だったか、聞かせてくれる?」
長岡さんが優しい声で、私にそう促す。
――本当は、さっきの一言だけで胸がいっぱいで、視界は涙でにじんでいた。
それは私の思いを、深く理解してくれている言葉だったから。
まさか、のほほんとしてどこかつかみ所がない長岡さんが、こんな台詞を言ってくれるなんて思ってもみなかったけれど。
「……かすみさんは、私のお姉ちゃんです――」
ぽろりと一粒、涙が頬をつたう。
続けて幾すじも、止めどなく。
――顔を上げられないけれど、皆が真剣に私の話に耳をかたむけてくれているのは分かる。
長岡さんは、私に話をする機会をつくってくれた。
それは単なる身の上話をしろということじゃない。
“説得”をしてみせろという意味だろう。
「私は、二月ほど前に父を亡くしました……母も幼い頃に病で他界していましたから、ほんとならそれで身寄りなく天涯孤独になるはずだったんです」
父の顔が頭をよぎる。
机の前で背を丸めている姿、病にふせて布団の中で筆を握っている姿――思い返せば、絵を描いている場面ばかりが浮かんでくる。
「私たち親子は長いこといずみ屋に下宿していて、かすみさんとは家族同然の付き合いをしていました。絵師の仕事が忙しい父の代わりに、かすみさんが私の面倒を見てくれていたんです」
声がふるえて、うまく喋れない。
一言声を出そうとするたびに、楽しかった日々の光景が頭の中に広がっていく。
「父の死後しばらく、ふさぎこんで部屋の中に閉じこもっていた私に、かすみさんは毎日笑顔で接してくれました。これからもずっと一緒にいるから心配しなくていいよ、と」
『だって美湖ちゃんは私の妹だものね』――。
そう言って笑ってくれた優しい面差しが忘れられない。
私が落ち込めば、大好きなお菓子をたくさん作って心配そうに部屋まで運んできてくれた。
嬉しいことがあったら一緒に手をとって喜んでくれた。
些細なことでも抱き締めて、大袈裟なくらいにほめてくれた。
「父がいなくなった寂しさは、次第に薄まっていきました。日々の生活の中で自然に立ち直って、また心から笑えるようになった――きっと、かすみさんがいてくれたからです。家族がいたから。まだ自分は一人じゃないと感じることができた……」
涙で顔を上げられなくて、中岡さんたちがどんな顔をしているのかわからない。
私の言葉が途切れると、まるで周囲に誰もいないかのような静けさがその場を支配する。
かすかに外から漏れ聞こえる雨の音が、爆発しそうに熱を帯びた頭の中にやたらと響く。
「……あの夜、私は一人いずみ屋から逃げ出しました。水瀬たちと対峙しているかすみさんを置きざりにして」
ぐっと、爪がくいこみ血がにじむほど強く、拳を握りしめた。
「逃げたわけじゃねぇだろ、おめぇは助けを呼びに……」
田中さんが戸惑いがちに言葉を挟む。
私はそれにかぶせるように口を開いた。
「逃げたんです!! 私は逃げた!! ずっと考えないようにしていたけど!! かすみさんを助けるためにいずみ屋から脱出したんだって、無理矢理自分に言い聞かせてた! だけど本当は怖くて、足がすくんで、諦めただけなんです! 水瀬たちに立ち向かうのを……自分の力じゃどうしようもないからって、とにかく助けを呼ばなきゃって、誰かにすがった!! 見つかるかどうかも分からない第三者に!!」
――本当は、ずっと頭の片隅にあったんだ。
自分はかすみさんを置いて逃げ出しただけの臆病者なんじゃないかっていう思いが。
そう考え出したらもう、頭がどうにかなってしまいそうで、無理矢理気持ちの奥深くに押し込めて蓋をしていた。
認めてしまうのが怖かった。
「だから私は、かすみさんを助けに行かなきゃいけないんです。味方を連れて、ちゃんと迎えに来たよって目の前で手を差しのべたい!! じゃなきゃ、あの夜逃げ出したままの嘘つきになっちゃうから……!! 助けに戻るって約束を果たさなきゃずっと、自分を責め続けてしまいます! もし無事にかすみさんが戻って来ても、とても顔向けできません……!!」
私の中の、ほとんど全部。
まだ誰にも話していなかった、気持ちの奥の不安と焦りと強烈な自責の念を、ありったけ吐き出した。
もう、被害者ぶって周りに心配をかけながら、不安や恐怖から逃げ回るのは嫌だ。
私は一度逃げ出した。
ずるくて弱くて情けない臆病者だ。
ずっとずっと、後悔している。あの夜のこと。
最後に見たかすみさんの表情。
かすみさんは大切なものを守ろうと、必死に立ち向かっていた。
いいかげん私も、覚悟を決めなきゃいけない。
あの時のかすみさんと同じように、逃げ出さず戦う覚悟を!!
「お願いします、どうか私も一緒に連れて行ってください! 絶対に邪魔はしませんから!!」
深く深く、頭を下げる。
涙で顔はぐしゃぐしゃだ。
とても上を向いて話をできる状態じゃない。
「……天野」
ポンと、背中にあたたかい手のひらが触れた。
低くて落ち着いた、優しい声。きっと中岡さんだ。
「あの、私……ちゃんと言い付けは守るし、みなさんのそばを離れません。もう一人で無茶もしません。だから……」
みっともなく、ぐすぐすと鼻をすすりながら中岡さんに頭を下げる。
もうだめだ、どうしたって涙が止まらない。
「ああ、分かった。もう泣くな」
中岡さんは子供をあやすような声色で、そっと私の涙をぬぐってくれた。
「ごめんなさい、私……」
こんなに情けない姿をさらしてしまったら、なおさらついてくるなと言われてしまいそうだ。
私はぎゅっと身を縮めて震える唇をへの字に結んだ。
「お前なりにいろいろと抱えこんでいたんだな、よく話してくれた」
涙をこらえてしかめっ面になっている私を見てかすかに目を細めると、中岡さんは私の頭に優しく手をおいた。
そして、難しい顔をして黙り込むそれぞれの顔を見渡して口をひらく。
「今の話を聞いてなお、天野の同行に反対する奴はいるか……? 俺は、折れることにする」
――折れる?
信じられない答えに、私は目を見開いて中岡さんを見上げる。
「そうっすね、オレも中岡さんの意見に従いますよ」
「私もです」
「俺も。まぁちょっと心配だけど、なんとかなるでしょ」
田中さん、大橋さん、香川さんと続いて首を縦に振る。
坂本さんと長岡さんはパッと晴れやかな表情になり『満場一致!』と手のひらを打ち付けあって喜んだ。
「え……!? 本当にいいんですか!?」
私はあたふたと取り乱す。
思いはありったけぶつけたけれど、特に不安要素がぬぐいさられたというわけじゃない。
「つまり、共感を得られたっちゅうことじゃろう」
坂本さんが、腕を組んで満足げにうんうんと頷く。
「そうだね、美湖ちゃんの言葉からは十分な覚悟が伝わってきたからさ……こりゃ、放っといたら一人で突撃するっていうのもハッタリじゃないなぁって」
長岡さんがそう補足すると、ほとんど全員が同意するようにこくこくと深くうなずいた。
「言い分は分かった。一人にしといちゃ危なっかしいし、オレらと来い。けど、現場はたぶんおめぇが思ってるよりはるかに危険だぜ」
「分かっています。矢生一派が三人だけとは限りませんし、何か罠があるかもしれません……できる限り注意を払って、慎重に動きます」
田中さんの言葉にうなずきながら、私は気丈に胸を張ってそう答えた。
するとそれに続いて大橋さんが、こちらにまっすぐ視線を合わせて口をひらく。
「どんなに気を張っていても、ふとそれがゆるむ瞬間が訪れます。緊張はそう長時間続きません。あの晩あなたが刺された時もそうです。衆人環視の中、誰も止めに入ることができなかった――何より気を付けるべきは、そういった一瞬の気のゆるみです」
続けて、さらりと中岡さんが言葉をつなぐ。
「重要なのは出来る限り隙を作らぬこと、だな……これは、あらかじめ肝に銘じておくだけでは弱い。大橋くんの言った通り持続しないからな。そこで今回は、人数でそれを補う」
いつしか輪の中央へとそれぞれが膝を寄せ合い、前のめりになって意見を出しあっていた。
私は手拭いで涙のあとをふきながら、目まぐるしく交わされる議論に必死に耳を傾ける。
「けんど、大人数じゃと目立つろう。人選は最小限に抑えんとのう」
「そうだな。まずは、突入するまでの段取りを練ろう」
「相手が屋敷の中っちゅうことは、何隊かに分けて要所を囲んでいく形が妥当やち思うぜよ」
「ああ、ひとまず四隊と考えて配置しよう。まずここと、ここは必須だな。現場を見てみんと正確には分からんが、このあたりからも出入りできるかもしれん……」
坂本さんと中岡さんが地図に目をおとし、詳細に記された矢生一派の本拠地周辺を指さしながらあれこれと意見を出し合う。
いつもならすすんで自分の考えを主張しそうな田中さんや長岡さんは、珍しく黙って二人の話に聞き入っている。
こういう話に口を出せるほど頭が回らない私も、同じく静かに見守るしかない。
思いきり泣いたせいで目は真っ赤だし、別人のような鼻声にもなった。
おかげで今は脱力しきっていて、難しいことを考える気力なんてとてもわいてこない。
ひとまず気持ちが落ち着くまでは、じっといい子にして座っていよう。
作戦会議はそのまま休みなく続き、昼すぎには終わった。
話をまとめたのはほとんど中岡さんと坂本さんだ。
二人の会話は、横から言葉をはさむ隙もないほどの速度で途切れなく進んだ。
どちらかが投げ掛けて、どちらかが返す。
その繰り返しで、どんどん作戦が決まっていった。
まるで羽根突きのように軽快なやりとりだった。
「さて、決定事項を書き出すと、こんな感じかな?」
途中から筆をとり、こまごまと決まりごとを書きつづっていた長岡さんが、中央に紙を広げる。
ざっとまとめると、作戦はこうだ。
まず部隊を三隊にわける。
中岡さん、田中さん、大橋さんがそれぞれ隊長をつとめ、一隊三人ずつ隊士をつれて行く。
ちなみに私と坂本さんは田中さんの隊に入り、長岡さんは中岡さんの隊に組み込まれた。
地図によると周囲は林になっているとのことなので、屋敷の北に大橋さんの隊を配置する。
東には中岡さんの隊。
西に出入口はなく、崖状に段差があり逃げ場にはならないと考えられるけれど、念のため三人の隊士を配置する(実質四隊目)。
南に位置する戸をやぶって突入するのは、田中さんの隊に決まった。
つまり、坂本さんと私も最前線にいられることになる。
それぞれの隊は目立たないように別々にここを出発して、敵の潜伏先付近で合流する。
合流の時間は、四ツ半と決まった。
時刻までに到着しない隊があれば四半刻ほど待つけれど、それをこえてなお現れなかった場合、人数をばらして集まった人間のみで突入する。
「で、俺は留守番――と」
ぬるくなっているであろうお茶をすすりながら、香川さんがつぶやいた。
「万一のことを考えて、ここにも幹部を残しておきたいからな。すまんが香川、頼んだぞ」
「はいよ、隊長さんらも気をつけて」
「おっしゃあ!! 気合い入れていくぜ!!」
香川さんの言葉がまだ終わらぬうちに、田中さんは大きく膝をたたいて立ち上がる。
「必要な隊士は十二人っすね! 頑丈なヤツら選んで、ざっと説明して来ますよ!」
具体的に作戦が決まり、はやる気持ちを抑えられない様子の田中さんは、そのまま勢いよく部屋の外へと飛び出して行ってしまった。
なんだかもう本当に、嵐のような人だな……。
「では、俺は装備を揃えておくとするか……龍馬も来ないか? 少し話がある」
続いて中岡さんも立ち上がり、文机の下にたたんであった外套を羽織る。
「おう、行く行く。ほいたら、嬢ちゃんらはしばし休憩っちゅうことにしとくかの!」
「あの、私にもできることがあれば――……」
手伝いたい、とわずかに身を乗り出した。
けれどその申し出を断るように、坂本さんはやんわりと手のひらをこちらに向ける。
「怪我の具合も心配やき、謙吉に診てもらいや」
明るく笑って長岡さんに一言「たのむ」と言い残すと、坂本さんは中岡さんの背につづいて廊下へと出て行ってしまった。
部屋に残ったのは、長岡さんと大橋さんと香川さん、そして私の四人だけだ。
「それじゃ美湖ちゃん、傷の手当てでもしよっか」
「あ、はい……お願いします」
熱気がうずまいていた空間に、開いた障子の隙間からひやりとした空気が流れこんでくる。
心の中で張りつめていた糸が、ゆるやかにたわんで地に落ちた。
……何はともあれ話はまとまってくれたし、あとは夜を待つだけだ。
「私たちは席をはずしましょうか……終わったら声をかけてください」
ためらいなくその場で帯をほどきはじめた私を見て、大橋さんが障子に手をかけた。
よく見れば湯飲みと急須をのせたお盆を持っている。
いつの間に片付けてくれたんだろう。
てきぱきとして気が利く人だなぁ。
「出てくならちゃんと閉めとくれよ、すきま風は冷えるし」
「いえ、あなたも出るんです」
座布団の上にあぐらをかいたままあくびをしている香川さんの襟首をつかんで、大橋さんは強引に部屋の外へと引きずって行く。
「せっかく目の前で女が脱ごうとしてくれてるってのに……!」
「診察です、部外者がいても邪魔になるだけでしょう」
「おまえはいつからそんなに枯れた男になっちまったんだよ!! 目をさませハシ!!」
「あなたこそ目を覚ましなさい」
ぴしゃりと勢いよく障子が閉まったあとも、廊下の向こうで二人が交わす言葉がこちらまで響いてくる。
私と長岡さんは、顔を見合わせてくすりと笑った。
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