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第五話:転機
(遅くなっちゃったから、かすみさん心配してるかな……)
無事にいずみ屋の前までたどり着き、ほっと一息ついて足を止める。
乱れた呼吸をととのえながら軒先に竿を立てかけ、戸口に立つと――店の中から何やら言い争う声が聞こえてくる。
「いい加減にしろよてめえらッッ!!」
それは、店の外にまでビリビリと響いてくるような肚の底からの怒鳴り声で、戸口にかけていた私の手を引っ込ませるには充分な迫力があった。
(一体何があったんだろう……)
中に入るのを躊躇し、ごくりと息をのむ。
そして、昨夜のかすみさんとの会話を思い出す――。
ここ最近、がらの悪いお客さんが増えていること。
その人達が騒ぎを起こすことも少なくないということ……。
(もしかして、また乱闘でも……?)
ばくばくと叩きつけるように警戒音をならす胸をトンと叩き、私は大きく息を吸い込む。
中にはかすみさんがいるはずだ。助けに行かなきゃ……!
意を決して戸を開き、のれんをくぐる。
「ただいま、かすみさん」
ざっと、店の中を見まわして状況を確認する。
中央に浪士風の男が五人。
そのうち三人は、私が店を出るまえに言葉を交わした常連さん達だ。
あとの二人は、初めて見る顔。
常連三人組とにらみ合うように向かい合っている。
その他のお客さんは、もともと少なかったのか逃げ帰ったのかほとんど残っておらず、店の端にぽつんと一人商人さんらしき男の人が残るのみだ。
そして、かすみさんはと言うと、対立する五人をなだめるように間に立っている。
「美湖ちゃん……おかえりなさい」
私を見るなり、かすみさんはこわばった表情でかすかに眉を下げる。
声は力なく震えていて、今にも崩れ落ちそうだ。
「そろそろ店じまいの時間だね、かすみさん。お客さん方も、もう遅いですし……」
普段と変わらぬ調子で、つとめて明るく浪士さん達に語りかけながら、かすみさんの隣に立つ。
「すまんが今、取り込み中だ! ガキはすっこんでろ!!」
常連さんと対立している様子の二人組が、思い切り眉間にシワを寄せてこちらへ一喝する。
そしてそれを合図に、再び口論が始まった。
「水瀬(みなせ)! 今から戻ればまだ遅くないかもしれん! 隊長が戻る前に帰って来い!」
「うるせぇな……俺はもう抜けたんだよ。放っとけや」
「黙れ! 自分が何をやったかわかってんのか!?」
――主張のぶつけ合いは続く。
止めに入ろうにも、一旦はじまるとその気迫と勢いに気圧されて、足がすくんでしまう。
どうやら両者の間にはずいぶんな温度差があるらしく、『戻ってこい』だの『戻る気はない』だのと会話は平行線をたどっていた。
……よく分からないけれど、せめてうちの店で争うのはやめてもらえないかな。
店の端で背中を丸めて顔を伏せ、関わり合いになりたくないといった格好で小さくなっている商人さんを見て、胸が痛む。
「――分かった! あとは、店を出て話そう!!」
困惑した表情でその場にたたずむかすみさんを見て、一瞬つらそうにぎゅっと目をつむった常連の浪士さんが、飛び交う怒号を裂くように声を上げた。
わざわざツケを払いに来てくれた、あのお兄さんだ。
「……そうだな、こういった話はもっと人のない場所でやらねば」
常連さんのうちもう一人が、いくらか冷めた様子であたりを見回して口を開く。
見たところ常連三人組は、因縁をつけに来た相手の対処を面倒に感じ始めていたようで、とにかく一旦頭を冷やして一息つきたい様子だった。
「構わんが、お前ら逃げるなよ」
「分かってるよ――店主、悪かったな騒がしくしちまって」
水瀬と呼ばれた三人組の中心らしき人物はかすみさんに向けて一瞥し、勘定だと言って少し多めの銭をこちらに差し出した。
「ありがとうございます……」
うつむき加減でそれを受け取ったかすみさんは、ぞろぞろと店を出る五人を見送ることもなく、ぼんやりとその場に立ち尽くす。
私は、幾度かこちらを振り返りながら申し訳なさそうに去りゆくツケのお兄さんを追いかけ、店を出たところでそっと声をかけた。
「お兄さん、さっきは仲裁に入ってくださって、ありがとうございました……!」
「いや、ごめんな、みこちゃん……迷惑かけちまって」
「いえ……」
こちらに顔を向けた浪士さんの表情は闇にまぎれてよく見えないけれど、声色はとても暗く沈んでいる。
この人は、誰かを気にかけることができる優しい人だ。
決して悪い人ではないと思う。
「おい、深門(みかど)ぉ! 何やってんだ! 早く来い!!」
「ああ、悪い……! みこちゃん、それじゃあな。かすみちゃんにも謝っといてくれ。本当にすまなかった!」
仲間からの呼び声にあわてて返事をすると、深門と呼ばれたツケのお兄さんはこちらに向かって大きく頭を下げ、先を歩く四人の背中を追いかけて闇の中へと姿を消した。
(どうなってるんだろう、一体……)
昼間、妙に羽振りのいい浪士さん達を見て、何かひっかかるものを感じた。
そして、先ほどの言い争いを思い返せば、彼らが何か大変な――人からとがめられ、追い立てられるような……よくない行為を働いたであろうことは想像にかたくない。
(あの時払ってもらったツケは……)
疑わしいことや腑に落ちないことばかりで自然とため息がもれる。
これまでよほど気を張っていたのだろう、右手には釣り桶をぶら下げたままだ。
「ほな、おかみさん……また来ますわ」
店の軒先から、のっそりとどこか疲れたような声が聞こえてくる。
視線を向けると、小さく頭を下げてこちらへゆっくりと歩いてくる商人さんの姿が目に入った。
店の端っこで身を縮めていたお客さんだ。
「ごめんなさい、お店騒がしくて居ごこち悪かったですよね……!」
あわてて駆けより、私は何度も頭を下げる。
「いや、災難でしたなぁ。今日みたいな事は、ようあるんですか?」
商人さんの表情に不満気な様子は一切なく、むしろこちらをねぎらうような優しい口調で私の肩をポンと叩いてくれる。
「あ……はい。たまにあるんです、最近は浪士さんが多くて……」
「ふむ。こんな時勢やし、店やっとるといろいろありますわな……菓子、うまかったですよ。また食いに来ますわ」
肩を落とす私を勇気づけるように、さっぱりとした口調で別れの挨拶を述べると、商人さんは軽く頭を下げて落ち着いた足取りで帰路につく。
その背中が暗い路地のむこうへと消えていくのを見送って、私は大きくため息をついた。
本当に、無関係のお客さんには申しわけなかったな。
お客さん同士の喧嘩やいさかいはたまにあるけれど、さっきのように顔も上げられないほど空気が張りつめることは少ない。
浪士という存在の怖いところは、刀を持っていることだ。
町人同士の喧嘩はせいぜい殴りあいで終わるけれど、浪士同士の喧嘩となれば、それはもう殺し合いだ。
互いに刀を抜くのだから。
昼間、彼らを見て感じた違和感は正しかった。
やっぱりあの浪士三人組には何か秘密がある……。
立ち止まってあれこれ考えていると、脇からポンと肩を叩かれた。
「美湖ちゃん、大丈夫やった? なんや、揉めよったみたいやけど……」
「あ、あさひ屋さん!」
声のほうへと目をやれば、向かいにある宿屋のおかみさんが立っている。
彼女は恐る恐るといった様子であたりを見回し、浪士の影がないことを確認すると、ほっと胸に手をあてて盛大に安堵の息を吐いた。
「すみません、なんだか突然言い争いがはじまったみたいで……ご迷惑をおかけしました」
いつもならこの時分、あさひ屋さんは表に出てお客さんの呼び込みを行っているはずだ。
今まで奥に引っ込んでいたということは、いずみ屋の騒ぎが商売に障ったということだろう。
となればもう、平謝りするしかない。
よくよく見てみれば、付近は静まり返って人通りもない。
普段であれば、仕事帰りの商人さんや旅の人の姿がちらほらと見える時間帯なのに。
……店の前を通る人たちを怖がらせちゃったかな。
さすがに、考える。
浪士の出入りを制限したほうがいいんじゃないか――。
そうして頭を悩ませていると、背後でガラガラと戸が開く音が聞こえてきた。
振り返ってみれば、のれんをかきわけて路地へと出てくる谷口屋さんのご主人と目があった。
彼はそのまま、こちらに向かって頭を下げる。
「美湖ちゃん、あさひ屋さん、こんばんは。いずみ屋さんは、今日も大変やったみたいやな……」
寡黙で職人肌のご主人は、ご近所さんとこうして世話話をすることなどほとんどない。
店の外で顔をあわせたのは、今日がはじめてだ。
「いえ。それよりも、うるさくしてしまって本当にごめんなさい……」
お隣さんには特に、声が響いて迷惑をかけてしまったはずだ。
そうじゃなくても谷口屋さんは浪士嫌いだというのに……。
「……いずみ屋さん、客は選んだほうがええと思いますよ」
ご主人は言いにくそうにもごもごと口を動かしたあと、眉根を寄せてこちらに視線を向ける。
困り果てている、という表情だった。
「はい。さすがに私も、そうした方がいいんじゃないかと考えていたところで……」
「そうすべきやと思うで、美湖ちゃん。浪士なんぞ店に入れても、なんも得にならへんよ。損するだけや。先代はんは客を選別するんを嫌うお人やったけど、こんな時勢やからねぇ……このままやといずみ屋の評判まで落ちてしまうで」
あさひ屋のおかみさんが力強くうなずきながら、悩む私の背を押す。
そうしてくれと、頼みこむような勢いだ。
ご近所さんにとっては、付近の店に浪士が出入りしているだけでも不安なのだろう。
続けて、谷口屋のご主人も口をひらいた。
「うちの女房が、えらい浪士嫌いでな……姿を見るんはもちろん、声を聞くのもいやや言うて」
「はい、それは知っています。お昼にも少し話をしましたから」
おかみさんは普段から、浪士嫌いを公言している。
『寄り付く浪士は追い払え』を口癖に、強気な態度でそれを実践し続けている人だ。
きつい対応にも見えるけれど、「そのくらいやらなければ店を守れない」と、おかみさんの主張に賛同するご近所さんも少なくない。
数年前までは、いずみ屋寄りの接客をするお店も多かった。
お客さんの事情を詳しく探るようなことはせずに、身なりで判断することもなく、来るもの拒まずといった姿勢のお店。
しかし時代の流れで京に浪士があふれてくると、ツケで飲み食いしたり、酔って暴れまわったりする輩が頻繁に目につくようになり、店側の対応も変わっていった。
最初は恐る恐る、浪士の来店やツケを断るようになり。
その結果どこかで騒ぎが起こると、組の寄合をひらいて結託し「徹底排除」を叫んだ。
きっぱりと「浪士は相手にしない」方針に切り替えた店舗がほとんどだ。
店をかまえる人間たちは何より揉め事を嫌うから、こうなったのは必然と言える。
つまり、のれんをくぐった者は誰であろうと無条件にもてなすという姿勢は、もう古いのだ。
いずみ屋先代である、かすみさんの父晴之助さんの教えを守って、貧しいお客さんこそ大切にもてなして来たいずみ屋は、この界隈では浮いた存在になってしまっている。
いつまでも変わらずにいることは難しいのかもしれない。
どこかで新しい流れに乗らなければ、まわりから取り残されてしまう。
「お店に戻って、かすみさんと話をしてみますね。ご近所さんをこれ以上不安にさせないように、私たちも考えをあらためます」
そうして頭を下げると、目の前の二人はいくらか柔らかい顔つきになって、うなずいてくれた。
「ほんなら美湖ちゃん、かすみちゃんにもよろしゅう言っといてな」
「おやすみ、美湖ちゃん。夜は物騒やから、戸締まり忘れんようにな」
「はい。わざわざありがとうございました!」
二人は互いに一言ずつ挨拶を交わすと、足早にそれぞれの店内へと戻っていった。
人気のない小路に、冷たい夜風が吹き抜ける。
もう長月のはじめ。
薄着でいると夜は肌寒さを感じてしまう。
――さて、私もお店に戻ろう。
話に夢中で、無意識のうちに持ってまわっていた釣り竿と桶を、ようやく戸口におろす。
ぎゅっと握りしめていたからか、桶を持っていた左の手のひらには真っ赤なあとがついてしまっている。
今日は慌ただしい一日だったなぁ……。
まずは、かすみさんと話をしなきゃ。
私は、いずみ屋の屋号が入ったのれんをくぐり、店内へと戻っていった。
「かすみさん、今日は大変だったね。のれん外すから、店じまいにしようね」
店の端――壁ぎわにそっと寄りかかり、四方を彩る華やかな肉筆画をぼうっと見つめているかすみさんに声をかける。
「……美湖ちゃん」
「ん? なに?」
かすみさんの声は思いのほか強く力のこもったもので、てっきり疲れ果てて脱力しているものだとばかり思っていた私は、軽く驚きながら返事をする。
「やっぱり私、このままじゃだめだね。お店を守れる気がしない」
「えっ……」
戸締まりをする手が、止まる。
かすみさんの方を振り返ると、店の中央あたりに立ち、感慨深そうにぐるりと店内を見回す姿が目に入る。
「お父様が大切にしていたこの店を、細々とでも続けていけたらと思ってたんだけど……今の私じゃ力不足みたい」
「ちょっと待ってかすみさん! たまたま今日はこんなことになっちゃったけど、大丈夫だよ! 浪士さん同士の喧嘩が心配なら、出入りをお断りさせてもらうとかすればいいじゃない……!」
弱気な言葉を吐き出し続けるかすみさんの表情は、その発言とは裏腹に、強い意思を宿している。
それが逆に、私を不安にさせる。
「お客さんをこちらで選ぶこと――できるのはできるよ。私が店主だもの。でも、疑い出したらキリがないよね。何をもってよくないお客さんだと判断すればいいの? もう、はじめから見た目だけで浪士さんを突っぱねてしまうのが正解? そんなやり方でいいの?」
「それは……」
そうすべきだ、と断言しようとして、言葉につまった。
あさひ屋さんや谷口屋さんと約束した手前、私はかすみさんにそれなりの妥協案を示してみせるべきなんだろうけど……。
浪士であるというだけで、無条件に突っぱねるというやり方で、本当にいいのだろうか。
もしそうなったら、田中さんや橋本さんをお店に呼ぶこともできなくなってしまう――。
うつむく私を見下ろして、かすみさんはふたたび口をひらいた。
「でも、このままでいるわけにもいかない。もともと浪士さんそのものを良くないと思っている人は多いからね……付近を通る浪士さんが増えてきたっていうだけで、ご近所さんは不安みたいだし」
「うん、そうだね」
ついさっき、ご近所さんの生の声を聞いたばかりだ。
ここで何の対処もしないわけにはいかない。
「――それで私、しばらくいずみ屋を閉めようと思うの」
「え!? しばらくって……いいの!? どのくらい!?」
「まだよく分からないけど、一月か二月か……もしかしたら一年以上」
思いもよらぬかすみさんの決意に、私は言葉を失い、わなわなと唇を震わせた。
そんな私の不安げな様子を見かねてか、かすみさんはそっとこちらに歩みより、ぎゅっと母のように抱きしめてくれる。
「前から、兄さまに言われてたの……私のやり方じゃ店をつぶすって。店主としてのイロハを教えるから、しばらくかぐら屋で働いてみろって」
「かぐら屋……」
かすみさんの実家は、高級料亭である『かぐら屋』を営んでいる。
かぐら屋はわずか二代でその名を上方に広げ、あちこちに支店を出し、今や京の料亭番付でも必ず名が上がるほどの一流店だ。
豪奢な店がまえと、当代一の料理人と謳われた店主の腕が創りだす華やかな料理の数々は「芸術」と評される。
とにかくすごいお店なのだ。
私も何度か行ってみたことはあるけれど、まるでお城のようなきらきらとした内装に緊張してしまい、料理の味もよく覚えていない。
出されるものすべてが、ものすごくおいしかった! と月並みな感想だけが頭に残っている。
現在、本店のかぐら屋を継いでいるのはかすみさんの兄、神楽木雨京(かぐらぎうきょう)さんだ。
「……なんだか最近は、いろいろと考え込んじゃってモヤモヤしていたから、これがいい機会だと思って兄さまのところで鍛え直してもらうつもりよ」
「かすみさん……」
そう言われてしまっては、私からは何も反論できない。
何より、それでかすみさんがすっきりするなら――今後のいずみ屋がいい方向に向かうなら、間違っていない選択だと思うから。
「だから、美湖ちゃんも一緒にかぐら屋に行こう。兄さまも、美湖ちゃんのことは気にかけてくれてるから」
「そうなの……!? いいのかな、私なんかがついて行っても」
「もちろん。なにより私が、美湖ちゃんと一緒がいいもの」
そう言って微笑んでくれるかすみさんを見て、じわりと涙がにじんでくる。
あまり会う機会のない雨京さんが私の事を気にかけてくれていたことも、意外だった。ありがたかった。
「たしか兄さまは明日の夜まで支店を回っているそうだから、明後日話をしに行こうと思うんだけど、美湖ちゃんも一緒に来てくれる?」
「うんっ! 行く!」
トントン拍子に話が進む。
私はかすみさんの話を静かに耳に入れながら、異論はないと要所要所で相槌をうつ。
きっともう何日も前から、かすみさんはこの選択を頭の中心に据えて悩み抜いてきたんだろう。
ぐらついていた気持ちにやっと決心がついた――そんな様子だった。
「ごめんね、突然で。でも、いずみ屋を守りたいと思って決めたことだから」
「分かってる! 大丈夫だよ! 私も手伝うから、一緒に頑張ろう!」
「二人だと心強いよ、ありがとう美湖ちゃん」
「うんっ!」
――そう、きっと大丈夫。
二人なら、どこへ行ったって。
こもっていた熱気がいくらか冷め、心地よい静寂が広がる店の中心で。
私達は、決意を込めて大きくうなずき合った。
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