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材質もわからない重厚な、しかし重さも軋みも感じさせない扉を開くとそこは一面に書棚が並んでいた。
草木も枯れ果てた岩山の奥の奥、神殿とも見紛うような建物であったことは確かなのだが、それでも内側がここまで広大であろうはずはない。薄明るいそこは繰り返しになるが一面の、まさに見渡す限りの書棚だった。
だが侵入者は臆さない。むしろこのくらいは当然だろうと開き直る。何故ならここは悪魔の巣窟、いや、神の御所なのだから。
「おや、お客さんかな? 珍しいこともあるものだ」
声のほうに視線を向けると、そこには小さな丸テーブルと二脚の椅子。そしてひとりの女がいた。
ひとつ結びの三つ編みの黒髪にゆったりと厚ぼったい衣服で身を包み、材質の知れない武骨な眼鏡の奥から上目遣いに男に向けられた表情には笑みが浮かんでいる。しかしそれはとても、不敵で、冷笑的な。
彼女はいつから居た? 最初からそこに? そんな気配は、いや、そんなはずはない。そもそもそこには視線を向けたはずだ。
「へえ」
女が面白そうに上げた声で我に返った男は慌てて背筋を伸ばす。
「勝手に入ってしまい申し訳ありません。一応声を掛けたのですが」
嘘だ。実際には黙って物音ひとつ立てずに忍び込んできた。だが女は知ってか知らずか肩を竦めて愛想笑いを浮かべただけだ。
「まあ私は御覧の通り本に没頭していたし、使用人も何人も居るわけじゃないからね。誰も気付かなかったかも知れないかな。気にしなくてもいいさ」
女は手に持っていた分厚い本を掲げるように見せた。男も教養は決して低くないのだが、その文字を読むことは出来ない。
「ありがとうございます」
ともあれ女の気さくな言葉に内心胸を撫で下ろす。
「私はライオットと申します。修行の旅の途中道に迷ってしまいまして」
もちろん嘘だ。が、女は疑う素振りも見せずに笑顔のまま頷く。
「なるほど、こんな朽ち果てた山脈の奥地ではさぞ困っていたことだろうさ。今日は泊まっていくと良い。今お茶でも入れさせよう、こちらにかけるといい」
勧められるままに席に歩み寄りつつ男も作った笑みを浮かべる。
「ご厚意痛み入ります。ところでお名前を伺っても?」
一瞬の沈黙。
女は笑みを崩す事無く口にした。
「ああ失礼。最果て図書館の司書。もう少し俗っぽく言うと、まあ、あれだよ」
思わせぶりな溜め。
「私が【賢女】だ」
この世界にただ【賢女】とだけ名乗るものはひとりしか居ない。
それは伝承にある世界創世の四女神。それもほとんど人の世に姿を現すことのない、彼女たちの中でも最も知られざる神。
だからその言葉に弾かれるように抜剣して袈裟に斬り下ろした。もちろん、男が女へ、だ。
絶妙に椅子の背もたれや背骨には届かない切っ先で、左肩から鎖骨と肋骨と肺腑の片割れに心の臓まで、まとめて刹那の一撃で振り抜ける。
一拍置いて、木目の見えていた厚みのある丸テーブルに深く紅いクロスが広がっていく。
女は唖然とした表情で崩れ落ちかかり、辛うじて丸テーブルに手を掛ける。
「なっ……けふっ……かっ、ひゅっ……ぜ」
血を吐き傷口から息を漏らしながら、言っている間にもみるみる顔色が悪くなっていく女に向けて、男は無表情に応じる。
「私の名はライオットではありません。本当の名は、ラインハルト。ラインハルト・フォン・ワッツフォード」
その名を聞いて【賢女】は微かに何かを思い起こすように視線を彷徨わせ、目を見開いた。
「せっ……かっはっ……いじょ、のっ……!」
「はい、元【聖女の勇者】です」
女は震える体を起こし椅子の背もたれに身を預ける。絶えず血を吐きながらそれでも辛うじて呼吸を整え、男、ラインハルトを見据える。
「……な、ぜ?」
「神を殺すために」
「そ、れは……はっ……きみ、がはっ」
若い娘の断末魔とも言える対話に、しかしラインハルトは表情を揺るがせないまま、ぐっと奥歯を噛み締める。
「ええ、私が何か【聖女】の気に障ることでもしたのでしょうね。けれども…それであの街は滅びました」
瀕死の【賢女】と視線を交わす。
「多くの人々が街を捨て、流浪の生活を余儀なくされた。でも、私が刻印の力を剥奪されなければあんな事にはならなかった! 決してさせなかった!!」
この世界には四人の女神に認められ刻印を施された四人の勇者が居る。勇者の力はひとりで人の世を揺るがすほどの偉力を誇るが、その一方でそれは本人の血肉ではなく所詮【気紛れな神の恩恵】に他ならない。
当のラインハルトが良い例であるように、それは強大でありながらもまったく不確かな力だった。
【賢女】は最早口を開くのも億劫だというように無事な右手の指で自分の顔を指し首を傾げてみせる。
「なぜ貴女を、ですか?」
ラインハルトの問い返しに【賢女】は頷く。
「私の目的はもちろん貴女だけではない。全員です」
努めて冷静に、しかし強い意志、いや、殺意をもって答える。
「【聖女】はもちろん、【賢女】である貴女も、【魔女】も、【徨女】も、勇者を生み出す四人の女神を私は殺す。この世界は私たち人間のものだ」
「ばっ、かはっ、はっ、がっっ」
前のめりに言葉を吐き、吐こうとして紅いテーブルクロスをさらに広げ、女は細くなるばかりの息と最期の気力で【元勇者】を見上げる。
「そん……こと……だれ……もっ」
「成し遂げても、誰も幸せにはなれない。とでも? そんなことは無いさ」
最後まで聞く気は無かった。テーブルに突っ伏して無防備に晒された彼女の首筋に、男は無慈悲に剣を突き立てる。
「少なくともただひとり、この私は満足出来るのだから」
女が確かにこと切れる姿を見届けると男は足早にその場を後にした。
あと三人。
いかに超常の力を有していようとも神は殺せる。
この世のものであるならば不可能ではないのだ。
「なーんて、彼は思ってるんでしょうねえ、今頃」
無人となった凶事の現場に、本棚の陰から白髪の若い執事が滑るように現れた。
真っ赤に染め上げられた丸テーブルと、自身の血の海に沈んだ【賢女】を憂鬱な顔で見下ろす。
「言っときますけど、ボクは掃除しませんからね」
無慈悲な通告に血溜りから彼女は起き上がった。
「酷いヤツだなキミは。どうしてそんなことを言うんだい?」
不満げな彼女に執事は答える。
「むしろどうしてこんな茶番の後片付けをボクに申し付けようと思ってたのかそっちが聞きたいですよ」
「やはり執事は目の前で働いてこそだろう?」
「ノーサンキューです」
「つれないなあ」
「そういうことはつれることをしたときに言って貰えると嬉しいですね」
「それってつまりそのときも私は仕事を断られるのでは?」
「そこに気付くとはやはり【賢女】……」
「嫌味かい」
「さすが察しが人並みではないです」
「神様だからね」
軽口を返しながらも、はぁ~っと深い深いため息を吐いて自分の血でぐちゃぐちゃの椅子に腰を下ろす。
見ればその衣服にすら傷は無く、テーブル周りの死で満ちていた空気もなく、ただただ黴臭さに近い静寂があるばかり。
「なんのためにキミがいると」
執事はテーブルに白いクロスを敷き白磁のポットとカップを並べる。
「気分でしょ」
「まあそうなんだけど」
彼女は苦笑を浮かべ、執事は肩を竦める。
「さておき、なんであんな茶番をしたんです?」
「一応親切のつもりだったんだけどねえ」
執事はカップに紅茶を注ぎながら眉を顰める。
「親切ぅ?」
「言い方」
「ハ。」
「神の苦言を鼻で笑うとは偉くなったものだね」
「違います、ボクが偉くなったんじゃなくて貴女の威厳が亡くなったんです」
「誤字ではなく?」
「誤字ではなく」
「ったく可愛くないなー。本当に親切だよ」
「はいはいかみさますごいですねー。そのこころは?」
「なんて敬意の無さ。まあ彼は最初に私の元に来るという幸運を成し遂げたんだよ? 接待のひとつもしてやるのが人情というものだろう」
「接待て」
「だって彼が最初に本命の【聖女】のところに行ったら」
執事は健康的に日焼けした生足金髪の【聖女】の姿を思い描く。
「ぼっこぼこでしたでしょうね物理で。あの細い生おみ足で心折れるまで蹴たぐり回されてたと思います。しかも心折れたあとでビンタしてくるタイプですあの人」
「だろう?じゃあ【魔女】だったら」
豊満とはかけ離れたスレンダーな肢体をしかし持て余す【魔女】はその名の通りの女だ。
「……あーまあ干からびてるんじゃないです? もし勇者の席が空いてたら逆に突っ込まれるかも知れませんけど」
少し言い淀んだその間を汲めない【賢女】ではなかった。
「だろうね。じゃあ【徨女】」
「にはそもそも会えないのでは」
想像もなにもなく即答。
執事はお茶会以外で【徨女】を見たことは一度も無く、かの彷徨う少女がどこにいるのかは【賢女】ですらも知らない様子だった。
「なるほどどこに向かっても悲惨……」
「うん。彼は最初にここに来なかった場合、恨みの本命に成す術なくぼっこぼこにされるか男として尽きるほど搾り取られて心砕けるか目的の相手を一生見つけられないか」
「えげつない」
「それを思えばどうだろう。決して負けられないであろう彼の戦いの幕を落とすのに、私の接待は完璧だったと思わないかい?」
自信満々に言う【賢女】の姿を見ながら執事は首を傾げる。
「うーん……それ初戦のナメプで殺れると思いこまされて後続の女神に酷く蹂躙されるっていう、むしろ悲惨な結末が待ち受けているのでは?」
「あっ」
【賢女】の短い感嘆に執事は全てを理解した。
「あーあ、惨いことを」
「いやいや、いや、そこはなんとか」
「いやいやなんとかならないでしょ神様さん。というかそもそも神殺しなんて可能なんです?」
執事の根本的な問いに【賢女】は肩を竦める。
「出来ないよ。少なくとも出来ない理由はあれど私はそんな手段は知らない」
「貴女が知らないのならこの世界にそんな手段は存在しないんじゃ……」
こんなでも創世神にして賢の字を冠するモノの発言である。しかし彼女は首を横に振った。
「私たちの摂理の内側でならそうだろうね。でも彼はね」
心底楽しそうな笑みを浮かべる。
「この最果て図書館の中ですら、もしかしたら『だからこそ』なのかも知れないけれど、私が世界に介入したことに気付けたんだよねえ」
「へえ」
感嘆の声は素直なものだった。
「それはなかなか見どころが……あるんです? わかりませんけど」
後に続く言葉は酷く懐疑的だったが【賢女】は力強く頷いた。
「私がしたことは幻術とか超スピードとかそういうチャチなものじゃあ断じてない。彼は事実そのものを改ざんしてそこに私を置いた、その前後に発生した本来誰も感じられないはずの齟齬を知覚したんだよ。十分には認識出来なかったようだけどね。あれは【元勇者】どころか現役の【勇者】にだって出来ることじゃない」
「ええと……なるほど凄いことは分かりましたけど、それはつまり、どういう?」
わっかんねーなって顔でカラフルなマカロンを皿に盛る執事。
「君だって言ったじゃないか死んでる私に対して、茶番だって」
「ええ。貴女がわざわざ刃物で死んでいるので、もしかして掃除をさせられるのではってぞっとしましたね」
「それだよ」
「いえ全然わかりませんけど」
「えーとだね、世界には基本仕様として因果律という仕組みがあって、事実のほうを変更した場合前後の事象、たとえば記憶やなんかも事実に沿うように強制力が働いて自動修正されるんだよ」
カップを手に取ってお茶をひと啜り。
「だから君のように『私が事実を改ざんして生きていることになる』ことを知っていたり、その事象を目の当たりにして『私が事実を改ざんした』と理解したりすることは出来ない。普通はね」
「へえ、そうなんですか」
「そうなんですよ」
かじったマカロンをお茶で流し込み、ぺろりとくちびるを舐める。
「ところが彼はどういうわけか因果律の強制力を超えて私の行為を知覚したわけだ。神が何をしたのか知覚も出来ないような奴に神殺しなんて出来るわけないからね。これは素質の片鱗はあるのかなと思ってもいいくらいには凄いことなんだよ」
「はあ……なるほど」
めんどくさくなってきた執事は適当に相槌を打った。
「で、どうするんです?」
「どうするとは?」
「何か悪さするんでしょ? いつもみたいに。いつもみたいに!」
「私は生まれてこのかた悪さなんてしたこと無いよ失敬な」
「つい先日ですけど、隻眼隻腕隻脚の女の子に刻印と引き換えに猫と寿命折半させてましたよね?」
「あ、あれは妥当な代償だと……」
「そりゃ確かに人知の限度を思えば安いとも言えますけど。彼女は【賢女の勇者】なんでしょ? 他の勇者に比べてペナ重くないです?」
「そのぶん猫に由来する超常の身体能力も与えてるしセーフじゃないかな」
「どうかなあ……」
「まあ勇者に与える能力もペナルティも個々の裁量だから良いんだよ適当で」
「そのうち自分の勇者におしり刺されますよ」
「……ソウダネー」
空気が重かった。
「で、どうするんです?」
一周回ってきた。
「そうだねえ。せっかくだから神を殺せそうなところに預けてみようか」
「なんでまたそんなリスクを……って、そんなとこあるんですか?」
「あるさ。ほら、たまに遊びに来るあいつだよ……」
「あー、【反英雄】ですか」
「そそ。あの一等ヤバい自殺志願者に預けてみるの、面白そうじゃない?」
「面白いですね貴女のおつむがですけど。そういえば、あの人なんでここに出入りしてるんです?」
「酷い言われようだなあ……そうだね、しいて言えば、そう……腐れ縁? みたいな?」
「腐れ縁で揺るがされる構造の世界に同情しか出来ないんですけど」
「まあぶっちゃけ万が一英雄部隊の誰かが神殺しを達成して【反英雄】や四女神が死んでもこの世界は大丈夫だよ」
「ちなみに【あなた】がお亡くなりになった場合ボクは」
「それは残念だけどゲームオーバー、Death!」
「あっはい今すぐ彼を殺ってきてもいいですか」
「だめ」
「ええ……」
「彼のことはしばらく私に任せたまえよ。なぁに、悪いようにはしないさ」
「悪い予感しかしない……って、何立ち上がってるんですか」
「そりゃ彼の後を追うのさ。ちょっとした旅行だよ」
「ここを空けるんですか!? なにかあったらどうするんですか!!」
「なにかあったらすぐ帰ってくるよ」
「ほんとですかあ?」
「大丈夫だって。神様だし」
「不安過ぎる……」
神を殺す。その、決して負けられない人生を賭けた戦いの初戦に勝利したはずの彼が、だがしかし、なにもかもうやむやにされるまで半日もかかることはなかったという。
そして、彼の長い永い戦いが始まる。
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