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タヌキ
その日は生憎の快晴で、猛暑であった。
まだ七月にも入らないというのに、蒸し焼かれたコンクリートから生じる蜃気楼が、昨今の異常気象を如実に物語る。四月には雪なんて降っていたし、五月には蝉が鳴き始めた。桜は狂い咲きをし、日本からは実質、春が消えたと言っても過言ではない。この分だと、今年度、残暑が猛威を奮った直後に寒波が訪れたとしても、最早誰も疑問に思うまい。
アヤメは公園のベンチに腰掛けて、ぐったりと空を仰ぎ、上衣の胸元にぱたぱたと生温い風を通していた。
そんな折。
ふと、視界の端に、異様なシルエットが映りこんだ。
「?」
黒っぽい、丸っこい塊。この陽気に似つかわしくなく、地べたに膝を折って蹲り、腹部を抑えている――あれはまさか。
「え!? ちょっと、大丈夫!?」
慌てて駆け寄る。見覚えのあるランドセルの少年は、小さく唸った後、その喉からヒュウと掠れた吐息の音を滲ませて、頭を振る。大丈夫ではない、という意思表示のようで、アヤメはすかさず少年をベンチまで誘導した。
立ち込める熱気の中、コンクリート付近に子供が蹲っていることの危険性は、理解しているつもりなのである。何故倒れていたのか、熱中症だろうか、など色んな考えが一瞬のうちに脳内を駆け回った後に、取り敢えず手近な自動販売機からスポーツドリンクを購入して、手渡した。
少年は消耗した表情でそれを受け取り、こくん、と喉に通す。顔色が戻ることはなかったが、頭の位置が先よりも正常に近い位置へ持ち直したので、恐らく僅かながらに回復してはいるのだろう。
一体どうしたの、と尋ねようとしたところで、腹の虫が鳴った。
「……」
キュルキュルキュルキュルゥゥ……と。
アヤメではない。少年の腹だ。
「もしかして、お腹空いてる?」
「……」
少年は控えめに頷いた。
マジでか、とアヤメは困惑する。大阪のおばちゃんのように飴ちゃん袋を常備しているわけでもなし、食べ物など手元には……あっ。
そういえば、と思い当たるところがあって、アヤメはごそごそと鞄の中を漁る。そうして、奥の方へ追いやられていた大豆製のスティック菓子をひとつ、少年へと手渡した。
人から貰ったものだが、誰に貰ったのかよく覚えていない。しかし消費期限は特に問題ないので、この場においては有難い品物であった。
少年は躊躇なくそれを口に放り込む。
そして。
「おいしい」
と言った。
それを耳にして、アヤメは、あれっ?と目を丸くする。
――失語症のはずでは?
という疑問が浮かんだのである。
「マスターは嘘つきなんだ」
少年は流暢な母国語でそう語った。
「それに、失語症のひとでも、短い単語くらいなら話せるひとだって、いるよ」
へえ、そうなのか。それは知らなかった。彼は物知りだ。
ではなく。
「ええっ」
一歩遅れてやってきた驚きに、アヤメは更に目を丸くさせる。そんな素振りは全く見られなかったし、嘘をつく意味だって理解できない。何のためにそんなことを、と思考を巡らせたところで、はたと一つの可能性に思い当たった。
頭の中で、先日のマスターのキリリと引き締まった人相と、穏やかな微笑を思い出して、そこに『嘘つき』という単語を書き加えて上塗りする。すると、カウンターの死角でニヤケ面を隠しきれないマスターの裏の顔がありありと浮かんだ。
あの男、とんだタヌキだ。
きっと、からかわれたのであろう。それを理解して、アヤメは顔を赤らめさせた。
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