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バク少年
少年は、獏を飼っている。
珈琲豆の芳ばしい香りが漂う夜の喫茶店、その一番奥のカウンター席。常に花瓶を置いて人払いをしているそこは、夜になると訪れる小さな来客を心待ちにしていた。
「獏を飼っている?」
事の次第は、最近店に顔を出すようになったばかりの女性客による一言であった。何故奥の席が、いつも予約されてしまっているのか、そこに何があるのか、気になって尋ねたところをマスターが答えたのであった。
「そう、獏」
というのは、悪夢を食べるあの獏のことか。
頭の中に、幼い日に夢想した、上顎から伸びる長い鼻や、白と黒の縞模様、ずんぐりむっくりとした丸い身体に短い四肢、といった姿を思い浮かべる。
「そうだね。その獏だ」
マスターはさらりと肯定した。
「で、その獏を飼っている少年のために、いつも席を空けているんだよね」
コポコポと珈琲をカップに注ぎながら、腑に落ちない回答を寄越すマスターの向かい側。花のとなりに腰掛けたアヤメは、なんとまあ胡散臭い話だと鼻で笑って、ず、とストローを啜る。カクテルの気分ではなく、今日はアイスティーだけを注文したのだが、こんな場所に『少年』が訪れるというのなら、案外、アルコールを入れなくて正解だったのかもしれない。
花瓶の下には、立て掛けるようにして、何枚もの手紙が重ねられていた。全てが丁寧に封の成された便箋で、色合いも落ち着いていて、バーの雰囲気も相まって、妙に、絵になる。興味本位で、これは何か、と尋ねようとしたところで、カランコロンとドアの鈴が鳴った。
「やあ、バク。いらっしゃい」
「……」
喫茶店は、夜になるとバーに変わる。その時間に、本当に『少年』が現れて、我が物顔で花瓶の席を占拠したものだから、アヤメは思わずストローから口を離して、じっと見つめてしまった。けれど、少年は気にした様子もなく、また、飲み物を頼むようなこともなく、花瓶に立て掛けられた美しい手紙達を手に取って、ハサミを片手に、丁寧に開封していく。
随分と、痩せこけた少年であった。
ぬっと背が高くて、一目には中学生に見えたものの、しかし手に持ったランドセルがその年齢を如実に表していた。名札の校章は近隣で見掛けるものであり、そのとなりには、3―2の数字。氏名の記入はない。
壊れ物を扱うようにして大切に取り出された便箋は、室内の温かな色のライトに照らされて、心做しか嬉しそうに笑んでいるようにも思えた。たかが紙と、それを包むだけの紙、されど、人の思いの綴られたものであるから、こんな風な慈しみをもって接せられるのであれば、手紙としては本望なのだろう、なんて柄にもない感想を抱く。
紙は紙、それ以上でも以下でもない。
普段のアヤメならば絶対に思わないことを思わせる、少年の所作には、胸の内の深いところに知らず顔を出し、そのまま沈んでしまうような感性を、表層心理にまで引きずり出す、不思議な引力があった。
「手紙はね、願い事が書いてあるんだ」
読み耽る少年の代わりに、マスターが説いた。
「悪夢を食べてください……って。来るひと来るひと、彼を面白がって、うちに手紙を置いていくんだよね」
誰が。
九歳の少年を相手に、そんな世迷いごとを。
アヤメは嘆息して、少年を窺い見る。真剣な眼差しで、それを読んで、目を通し終えたら、指先で小さく折り畳んで。
小さく、小さく、折り畳んで。
ランドセルの中にしまった。
そのとき、ふ、と耳元に息を吹きかけられたときのような、ざわりとした感覚に見舞われる。
あ。とアヤメは反射的に耳朶を押さえ、違和感を胸に、少年に声を掛けていた。
「それ、獏にあげるの?」
ランドセルを指差す。それまでアヤメを見向きもしなかった少年は、ここに来て初めて隣の席の存在に気付いたかのように、小さく口を開けて、こちらを振り向いた。
瞳の色が青かった。
「……」
綺麗な色だな、と思う。
少年は徐ろにランドセルのロックに指を掛け、豪快に冠を開いて中身をアヤメへと見せつけた。対して、獏のひみつ道具のようなものの中身を猪突に向けられたアヤメは、それ、そんなに簡単に他人に見せても良いものなのか、と面食らった。が、見せてくれるというのなら、付き合わないのも大人げのない話。ありがとう、と一言添えて覗き込み、そこに空洞があったことに、ひゅっと息を飲み込んだ。
ランドセルの中の手紙は、消えていた。
「おや、もう食べちまったのかい。相変わらず早いなあ」
マスターは呑気に笑っていた。
「えっ。食べっ……えっ」
アヤメは滝のような汗を流した。
「……」
そして、少年は、悪戯が成功してご満悦なのか、ホクホクとした笑顔になって、ぺん、と高い椅子から飛び降りる。もう用は済んだとばかりにランドセルを背負って、無言のままにドアの向こうへ消えていった。
カランコロン、と鈴の音だけが響き渡る。
「……マスターの親戚か何か、ですか?」
見てはいけないものを見た気がしたが、雑念を振り払い、気を取り直して、アヤメは世間話を続けることにした。
「いや、知り合いの子でね。偶にふらりと遊びに来てくれる。うちじゃちょっとした名物さ」
「へえ」
人間を名物呼ばわりは如何なものか、と思う。偉人とかならともかく、小さな子供を相手に、ここの常連客は何をしているのか。確かに、あんなマジック、子供の見世物としては上等だとは思うけれど。
マスターの曰く、獏少年の家はこの店の近所にあり、仕事に忙しい母親の帰りを待つことに飽きたときに訪れる、とのことである。それを聞いて、一先ず彼は幽霊やその他の怪奇の類ではなく、実在する人間、ということのようであると認識したアヤメは、つい安堵の息を零した。
オカルトは苦手なのである。良いものも悪いものも、摩訶不思議に該当するものであれば何でも苦手だ。そういう類のものを人生に一度でも目にしてしまった日には、翌日からその『良く分からない存在』に一生涯怯えて生きていかねばならないのである。
「失語症なんだ」
「えっ」
さらりと、マスターが爆弾を落とした。
「だから、人から手紙を貰うのが嬉しいらしい」
「……へえ」
「お嬢さんも、悪夢を見たら、一筆したためてやってくれ」
摩訶不思議。
獏という呼び名よりも、そっちの方がよっぽど大変ではないか。怪奇に出会した御伽噺よりも現実的で、また、アヤメにとっては実際に遭遇率の低い一大事だ。
手紙を書けば、少年が喜ぶというのなら、書いてあげたいものだが。しかしアヤメは嘆息して、首を横に振ったのである。
「……残念です。お役に立てそうにありません」
「おや、忙しいのかい?」
「それもありますが、私、夢を見ないので」
「へえ!珍しい人も居たものだ!」
シン、と雪が注いだような感覚が、心に染み渡った。
珍しいことでもないだろうに、と胸中で独りごちる。まるで異端者かのような扱いを受けて、アヤメは口を尖らせた。
しかし、マスターは構いもせず、愉快げに続けた。
「大抵の人は、夢を見るものさ。覚えていないだけで、一晩のうちに幾つもの夢を見る」
「覚えていなければ、見ていないのと同じでしょ。私がおかしいわけではありません」
「いいや、おかしいね。君が忘れているわけではなく、本当に夢を見ない人間なんだとしたら、それは大変に希なことなんだ。だって、考えてもみてごらんなさい。世の中、夢を見ない人ばかりなら、どうなってしまうと思う?」
問いかけられて、言葉に詰まる。
別に、誰かが夢を見ようと、見まいと、世の中の営みには何の影響も及ぼさないという考えであった。しかし、そこに何か問題が含まれているかのようなマスターの口振りを鑑みて、もしや、自分が知らないだけで、睡眠障害だなんだと言ったような問題が起こりうるのではないか、と、チラリ考えたのである。
しかしながら、マスターは事も無げにこう続けた。
「世の中、夢を見ない人ばかりなら、獏がお腹を空かせてしまうじゃないか」
「ご馳走様でした」
ウンザリしてしまったアヤメは、それ以上の何を言うこともなく、代金を置いてそそくさと店を出たのであった。
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