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やがて空へと至るだろう
眠りはとうに忘れた。
埃が漂うカビ臭い廃墟の一室に、青褪めた夜光が割れた窓枠から射し込めば、見たくもない俺の輪郭が、瓦礫の中で浮かび上がる。
もう何日、こうして待っている事だろう?
百日を超えてから、数えるのを止めた。
――必ず、君を連れていくよ。
そう約束したのに。
まだ……果たせていない。
だから、今度こそは……
「負けるわけには、いかないんだ」
思わず漏れてしまった聞きたくもない声は、渇きのせいでヒビ割れていて。
更に醜悪さを極めていた。
ああ……俺はなんど失敗すれば気が済むんだ?
繰り返し、繰り返し、同じ過ちを犯す。
無駄に同じ轍を踏む。
際限なく愚かな行為ばかりを模倣する。
早く、終わらせたいのに。
意地になればなるほど、それは遠ざかるようで。
……やめよう。
考えても無駄だ。
焦っても仕方ない。
今はただ、息を潜めて待つしかないから。
俺は壁に背を預けて座ったまま、もう一度くたびれた外套のフードを目深に被り、頑丈さだけが取り柄のなまくらを枕代わりに抱いて、目を閉じる――
……。
…………静寂。
時折、風の通る音が聞こえるだけ。
高層階には、下界の喧騒など届かない。
けれど、君の声は届く。
「……ようやく、来たか」
風に混じって、微かに聞こえる甲高い音。
間違いない。
何度も何度も聞いてきた、君の声だ。
何日ぶりだろう?
あれから、会うのは何度目だったかな?
俺は何時間も動かずにいたせいですっかり凝り固まった身体をほぐしながら、ゆっくりと立ち上がる。
君の姿を探すために、ガラスの無い窓から外へ視線を飛ばす。
吹き抜ける高層の風。
遥か遠くまで見渡せる程の高さに居るが、残念ながら目に入るのは、相変わらずの死んだ世界ばかり。
高層ビルが積み木のように崩れ重なり、道路は目的地のない階段みたいに乱雑に折れ曲がっていて。
家屋は尽く焼け落ち、人類は俺を残して全員死んでいる。
それらは全て、俺の責任だ。
俺があの日、選択を過ったから。
「見えた」
見間違えるはずもない。
紛うことなき、君を見つけた。
廃墟と化した都市の中。
失くしものを探すようにうろうろと君はいつものように、あてども無く歩き回っている。
狼が全身焼けただれまま無制限に強大化したような、癌細胞の塊みたいな、その禍々しい姿。
肌は一切の毛がなく剥き出しの生肉みたいにてらてらと赤くぬめり、頭部は九〇度左に折れたまま固定されていて、見えているのか分からない真っ黒な三つの眼からは、ヘドロのような涙を流し続けている。
俺は、なまくらを長銃のように構えて、狙いを定めた。
障害物からその姿が見えた瞬間、息を止めて、トリガーを引く。
放たれるは閃光。
一条の熱線が、標的へと刹那に届く。
霊体破壊を目的とした、【霊子放射銃】だ。
可視光部分は副産物に過ぎない。
撃ち出された霊子が空気中の分子を崩壊させる事により、光子が解放されているだけ。
――不協和音の絶叫。
眼をひとつ抉られたくらいで、何を喚いている?
次弾充填前に、ヤツの口から攻撃が此方に届く。
いつもの事だ、慌てはしない。
俺は、すぐに窓から飛び降りた。
直後、俺が居た部屋を正確に、霊子光線が焼き払う。
熱せられたバターのように、鉄筋コンクリートが瞬時に溶解した。
「来い。今日で何もかも、終わりにしよう」
地上三〇階からの自由落下。
全身を凶悪な風圧が揺さぶり、フードが外れ、伸び放題の黒髪が後ろに流れる。
俺が通り過ぎた階層が、次々に溶かされていく。
ヤツの思考回路が、重力加速度にすら対応できない幼稚なもので助かった。
「あの時の間違いを、精算させてくれ」
斜めに傾ぐビルの外壁へと急接近。
壁を蹴って落下ベクトルを変更する。
ヤツは無作為にぶっ放しながら、暴虐な速さと足取りで、民家を踏み超え俺との距離を消していく。
彼我の相対水平距離は、凡そ七km。
一分後には、近接戦闘へと移行するだろう。
「しかしまさか、祈る対象を間違え続けていたとはな」
空中で狙いを定め、撃つ。
霊子光は、疾駆するヤツの手前に着弾。
「俺たち人類はずっと、聖なる神に祈っていたつもりで」
狙いを外した訳ではない。
そこに配置しておいた、罠を発動させるためだ。
「――曲津神に祈らされていたなんて、どうして誰も気づかなかったのだろう?」
五階建てビル屋上に括られた、広告看板裏の球体。
俺の放った霊子光が突き刺さり、球体は爆ぜる。
「いや、本当は誰か気づいていて、警鐘を鳴らしていたのかも知れない。大多数が、気づかなかっただけで」
球体の中身が周辺四〇mに飛散した。
高層ビルが折り重なる合間の一本道。
「たった一言。されど言霊。ひとつ間違うだけで、結果は一八〇度、変わってしまうんだな」
ヤツは予測通りそこを通過しようとして、罠にかかる。
それまで順調だった足取りを突如もつれさせ、転倒。
「高天原――これを高曲原と読ませられていた。いつの間にか。何の違和感もなく」
四肢を痙攣させながら、起き上がろうともがいている。
無駄だ。
霊体の感覚を狂わせる神経毒――聖水を入れておいたのだから。
「住所を間違えば当然、間違った場所に届くよな」
俺は左袖口からワイヤーを、前方の傾いた高層ビル外壁へと射出。
落下運動から円運動へとシフトし、ブランコの要領で、最大跳躍が期待できる前方四五度付近にてワイヤー固定を解除し、ヤツへと真っ直ぐに、飛ぶ。
「天津神に祈っていたはずが、ずっと曲津神に届いていた。送っていた。騙されていた」
なまくらを近接戦闘形態へ移行。
流体金属が右腕に巻き付き、刀の形状を取る。
「だから君はあの日――世界を救おうとして、逆に滅ぼしてしまって」
ヤツの、残り二つの眼が、俺の視線と交差した。
どうやら狙い通りに跳べている。
「あらゆる疫病、災害、戦争、貧困による死が蔓延していたあの世界を――君はその身を捨てて、救おうとしたね」
直径五〇cmくらいの巨大な眼。
その中心になまくらを突き刺し、捻って抉り抜き、痛みで暴れまわる体長二〇mの巨躯に潰されぬよう、距離を取る。
「だから今度は、今度こそは、俺が君を救ってみせるよ。例えこの身が滅びようとも」
傷口からヘドロを噴出させ絶叫する、狂気に囚われし獣。
それでもまだ神経毒が効いているのか、動きは鈍い。
「もっと、違和感を大事にしておけば良かった」
ワイヤー移動で近くのビルに着地。
最後の眼を【霊子放射銃】で射抜き、腰にくくりつけた【波動崩落手榴弾】を掴んで投げる。
「あの儀式は、何かオカシイと思っていたんだ。誰かを犠牲にして、自分たちだけ助かろうなんてさ」
以前つけた足の傷へ、上手く入った。
即座に起爆。
「儀式を推進した彼らも、俺も、今になって思えば……見えない糸で操られていたような気がする。あの当時は霊障なんて、無視していたからね」
ヤツの左膝付近が千切れ飛び、砂塵と化す。
物質波の共鳴により、分子構造を崩壊させる事に成功。
「苦しいかい? 今、楽にしてあげる」
のたうち回る獣に、もう一つプレゼントを。
なまくらを大砲形態に移行させ、エネルギー充填開始。
「さようなら」
充填完了後、間髪を入れずトリガーに手をかける。
けれどこんな時に過るのは、あの時最後に見せた、君の笑顔で。
「くっ――! どうして……いつも!」
想い出が、邪魔をする。
愛した日々が、その分だけ降り積もった想いが、焼き焦がされ灰となった今でも、この胸を締め付けてきて。
「ごめん、ごめん……ごめんね……」
撃ちたくない。
けれど、撃たなければ彼女は――
「早く、終わらせたいのに……!」
あの獣の中で、永遠に、苦しみ続ける。
人類を滅ぼした大罪を、一身に背負い続けたまま。
「別れが、怖い……」
このトリガーを引けば、今度こそ本当に、君と別れなければならないから。
歪な関係だったけど、獣の姿でも、君を感じていられた。
けれどもう、武装はかき集めるだけ集めて、これしか無い。
このなまくらも、そろそろガタが来ている。
今が、最後のチャンス。
「もう、負けるわけには……いかない!」
一度も勝てた試しのない、自分の弱い心に。
俺は息を止め、震える指で、トリガーを……引く。
内蔵しておいた【原子消尽砲】は、狙い違わず、ヤツの胸部に着弾。
局所型核融合炉が展開され、地上に太陽が現れたみたいに、膨大な熱と光が撒き散らされる。
なまくらは、勝手に変形して俺を守る盾になった。
――やがて、光は収束し、夜が戻る。
俺は結果を確認すべく、少しずつ薄目を開けて。
「あっ――」
間抜けな声が、漏れた。
煙を上げて本当のガラクタになったなまくらを捨て、変わり果てたヤツの姿を瞼に焼き付ける。
巨躯は頭から真っ二つに斧でかち割られたように裂けていて、あれだけ頑丈だった体組織はほとんどドロドロに溶けていた。
「ようやく、終わった……のか」
俺はその場に座り込み、呆然と、動けなくなる。
……。
…………。
そのまま、どのくらいの時が過ぎたのだろう。
俺は不意に訪れた朝日の絶対的な光量で、意識を取り戻す。
宵闇の天幕を切り裂いた陽光は、紫紺から橙に至るまでの無限階調を以て大空を染め上げ、流れる雲の陰影を用いて荘厳な絵画を描く。
俺は、熱が引いた爆心地へと降り立ち、亡骸へと歩み寄る。
長かったようで、短かったこの戦いも、これで終わった。
後は君のそばで、俺も眠るだけ。
「俺なんかと一緒に眠るのは嫌かも知れないが、どうか許してくれ」
この広い世界に、一人きりになってしまったから。
一人の時間は好きだったけれど、孤独は、やはり寂しくて。
「――ん? これは……」
残骸の中に、何やら不自然な球体を見つける。
直径二mないくらい。
俺は近づき、手を触れた。
冷たい感触。
触った場所からボロボロと崩落し、その中身を晒す。
「なっ――!?」
君が、居た。
在りし日の綺麗な顔立ちのまま、揺り籠みたいな球体の中で、眠る君が。
一糸まとわぬ姿で、身体の半分以上を獣の細胞に絡め取られたまま。
恐る恐る、血の気のないその頬に手を触れた。
熱は、無い。
息をしていないし、鼓動も止まっている。
もう既に――
「あぁ……神様、ありがとう」
それでも、嬉しかった。
最後に、君と会わせてもらえた事が。
君の姿を見せてもらえた事が、何より嬉しかった。
堪えていた涙が、溢れてくる。
もう抑える事はできない。
俺は君に抱きつき、子供のように泣き崩れた。
泣いて、泣いて、泣き続けて……。
――不意に訪れた激痛に、身を捩る。
「ぐぅぁッ――!?」
球体から――獣の残りカスから、俺に向かって、槍のように鋭く尖った体組織が、突き刺さっていた。
「あ、いッ……づぁ……!」
歪で醜悪な造形物が、全身に、深くめり込んでいく。
痛みで思考が遮られ、意識が保てない。
「ふ、ふはは……あはははははは」
けれど、笑えてきた。
この期に及んで、この獣はまだ生き延びようと足掻いているようだが、もうこれ以上再生などさせるものか。
最後の武装――【終極】を起動。
俺の肉体を触媒に、霊子連鎖崩壊波動を放出し続ける災厄兵器だ。
最後にはこうして、俺に喰らいついてくると思っていたさ。
だから、心中の準備をしておいた。
俺の肉体が消費され、青白い炎を上げて少しずつ消失していく。
同時に周りの物質にも、青白い炎がついた。
君の、真っ白なその指先にも、綺麗な栗色の髪にも……。
――どうやら俺は、精神的にも既に、かなり良くない状態らしい。
ありえない幻が見える。
空から眩い光に囲まれた君が、此方へ手を伸ばしているように、見えるんだ。
「俺は、君の傍に逝っても良いのかい?」
「……もちろん」
幻聴まで。
「ごめんな」
「良いのよ。むしろ私の方こそ……」
顔を曇らせてしまった。
「君は悪くない」
「なら、あなただってそうでしょう?」
今度は困ったように笑う。
「そんなことは……」
と否定すれば、返ってくるのは穏やかな笑みと、この台詞。
「あるわよ。いつも言っていたじゃない。『お互い様だ』って」
「……そうだったね。ありがとう」
「此方こそ、沢山の想い出を、ありがとう」
こうしていつも、俺は君に丸め込まれていたね。
全て、持っていこう。
この想いは灰となり、天に昇る。
もう一人には、しない。
この星はもうダメだけれど、もし仮に、他の惑星に転生できるなら……
来世も、再来世も、そのまた次の世でも、俺は君を、見つけてみせるよ。
――永久の愛を、ここに誓おう。
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