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モラトリアム・プールサイド
開け放たれた窓は、清々しいほどの青空に通じていた。
夏の盛りの、青。入道雲どころか、雲ひとつない青。
二年C組の生徒たち三十五人は、毎日続けられる退屈な授業に飽き飽きしつつ、綺麗に整列された席に着いていた。
夏休みも迫る七月。エアコンなんて高価なものはつけてもらえず、暑さに耐えることも学習の一環とされている──のが、地方における中学校の現状。
黒板の前の男性教諭は、額の汗を拭いながら三平方の定理について語っていて。
窓際の席に縦一列で座っている女生徒三人は、数学のことなんて真剣に覚えようともしないで。
大きなあくびを隠そうともせず、チカは思う。
(寝よ……)と。
ノートをバタバタとあおぎながらマユは思う。
(冷房つけろ……)と。
サーヤは眼下のプールの塩素臭を感じて思う。
(プール入りたい……)と。
彼女たちはまるで三つ子のように全く同じ髪型──今日はミディアム・ロングの髪をハーフアップにしている──で、けだるい表情を浮かべていた。
三つ子コーデなのは長年一緒に過ごしすぎたせい。決してクローンではない。考えることは三人それぞれ違う。
サーヤの隣のタツミが、不意に落ち着かない様子で立ち上がり、ドタドタと教室から出ていった。大丈夫、いつものこと。
「え、ちょっ、タツミ君……!」
けれども彼の脇に控えていた学習支援員の若い男は、まだタツミの暴走に慣れていない。背筋をピンと伸ばし、慌てて後を追う。
三平方の定理の話は止まらない。黒板に白いチョークで描かれた直角三角形が増えていく。どの三角形も、内角の和は180度だ。
「ミミちゃんの代わりにきた先生さぁ」
生物室の掃除当番の最中に。箒を荒々しく動かしながらチヨが言う。
生物標本の容器を満たしているホルマリンか何かの独特なにおいが、半袖の制服の彼女らに絡みつく。
「超カッコいいよね……! 背高いしさ」
拭き掃除をしながらマユが言う。
「ゲンミツには先生じゃないよ、学習支援員だから」
タツミの学習をサポートするため、通称ミミちゃんこと美海子がこの前まで支援員として来ていたのだが、産休になったのだ。代わりに来たのが、大学を卒業したばかりのように若々しく、精悍な好青年の星 大地という男。
学習支援員は教諭ではないから、業務として勉強を教えることはできない決まりになっている。
ちりとりを持ってきたサーヤが言う。
「あだ名はホッシー? スター? マザーアース?」
サーヤは懐から、折りたたんだ三枚の半紙を取り出し、実験台の上に広げた。デカデカと墨汁で書かれたあだ名案。習字の授業でわざわざ仕込んできたらしい。
「ちょ、マザーアースって……!」
「ホッシーはちょっとありがちかな」
「長いのは呼びづらいから、スターにしよ」
「スターってニシキノみたいじゃん! 一周回ってニシキノにしようよ」
「誰? ニシキノって?」
星岡のあだ名が〝ニシキノ〟で可決されると、浮かれきったチヨが頬を赤く染めた。
「ニシキノ、彼女いるのかなぁ?」
「普通にいるんじゃない?」
マユが冷静な意見を出すと、
「「「探ってみる……?」」」
不意に訪れた悪だくみの気配。三人は魔法少女アニメに出てくるヴィランのように、クククと笑った。
その頃、星改めニシキノは。プールサイドの男子更衣室で、こっそりと紫煙をくゆらせていた。
基本的に学校敷地内は禁煙となっているのに──
*
翌日の放課後。チカ、マユ、サーヤの三人は人気のない空き教室に入り込み、対策会議を開いていた。今日は三人とも、フェイスラインにそって髪に編み込みを入れている。
「それで、ニシキノについて分かったことは?」
教卓に腰掛けたチカが、ノートを開きながら仕切る。マユが人差し指を挙げた。
「誕生日は四月二十日。血液型O型。二十三歳、独身。趣味は川釣り。この近所のA大卒……やっぱり今年の三月に卒業したばっかりだったみたい。教員免許は持ってるけど、教員採用試験には受からなかった」
目を剥いたサーヤが、隣の机の上に座ったマユを見やる。
「え……その情報どうやって調べたの……?」
マユはスマホを掲げてドヤ顔をした。
「Face◯ookに鍵かかってなかったからね。ニシキノ自身が公開してる情報なら良いっしょ」
「マユ……恐ろしい子……」
「恐ろしい子……」
こういう頭を使う案件ならマユが一番頼りになる。それが分かっていて、実はチカもサーヤもほとんど調べてこなかったのだ。ただ厳密に言えば、どこで情報を得ればいいのか、二人ともよく分かっていなかったというのが正しい。
「でも、彼女はいるかどうか分からなかった。交際ステータスは〝交際中〟じゃなく〝独身〟にはなってたけど。細かいとこまでプロフィール書かない人も多いし」
「タツミ君は……ニシキノのこと何も知らないって言ってたし」
教室ではタツミの隣人であるサーヤが、唯一の調査事項を報告する(補足すると、タツミは「知らない」と言いながらいつものように教室から出ていったのだが。彼の頬はリンゴのように赤く染まっていた。熱でもあるのかな、とサーヤは思った)。
「あ、あと喫煙者っぽいね。Face◯ookに載せてた写真に、タバコの箱が写り込んでた」
マユがスマホの画面に写真を表示し、二人に見せる。そこには確かにニシキノが写っていた。大学の友人と川釣りへ行った後らしい。焼いた魚を食べる彼の胸ポケットに、タバコの箱がしっかり入っていた。
チカがドン引きして「うわぁ」という声を上げた。
「えータバコ吸うの……? やだなぁ。アタシ、タバコの臭い嫌いー」
それまでニシキノの身辺調査に意欲的だったチカ。一気に熱が冷めたようにしゅん、となった。チカは熱しやすく冷めやすい。
「アタシもー」
「アタシもー」
正直そこまでニシキノのことが気になっていたわけじゃないマユとサーヤも、嫌煙に同意して。
その場はお開きになった。
一方。ニシキノはタツミのことについて、担任の教諭──頭髪が薄くメガネをかけた中年男性──と話し合いを持っていた。
タツミの学習意欲や、習熟度、態度のことなど。
正直帰りたい、とニシキノは密かに思った。
放課後なのに、大人たちは帰ることができない。
何故だろう。
*
次の日のチカ、マユ、サーヤは、ニシキノのことなんて忘れたように。いつもの日常へと戻っていた。
今日は三人とも、ナチュラルに見えるようミディアム・ロングの髪の毛を下ろしている。ヘアスプレーでゆるふわ感を出すのを忘れずに。
今は漢文の授業の真っ最中だ。特徴的な話し方をする女性教諭が、黒板に書いた『三国志』の抜粋文にレ点や一二点を書いていく。
ニシキノはタツミがまた教室を飛び出さないよう、彼の動線上に立って、その時が来るのを待っていた。昨日、担任教諭に釘を刺されたから──
しかし今日はどうしたことか、タツミは熱心に黒板を書き写し、立ち上がろうとはしなかった。
実を言うと、彼の心の書は『三国志』で。尊敬する偉人は諸葛孔明なのだった。
逆にニシキノが落ち着かない様子になり、教室の後ろのスペースに移動したかと思うとそわそわし始めた。
三つ子たちはそんなニシキノをみて、顔に出さずフフンと笑った。
そんな三つ子たちの顔色が変わったのは、帰りの会のこと。
担任から「進路希望の〆切は明日だぞ、忘れるなよ! 第三志望まで高校名を書いてくるように!」とのお達しがあったので、三人は軽い気持ちでお互いの進路希望を見せあった。
チカは普通科があるC県立高校が第一志望。
マユは進学校のE県立高校が第一志望。
サーヤは商業科のある実業高校が第一志望。
お互いの進路を見て、三人はなんだか胸がチクッと傷んだ。
(((別々になっちゃうってこと……?)))
ニシキノは、プールの更衣室でタバコ休憩をとっていた。もう恒例になろうとしているが、いつ上の人に見つかることやら。
学生だった頃に戻りたい気持ちがあった。
何も考えずにヘラヘラと過ごして、たまにきちんと講義に出ていれば良かったのに。
それなのに。〝社会人〟とやらになった途端、色んな責任を押し付けられて、理不尽に責められ、不条理な勤務時間で働かされる。
せめて教員採用試験に受かっていればよかった。学習支援員は教員じゃない。
自分自身が落ちこぼれだと思わないようにしていたが、かつての大学の仲間たちが順調にステップアップしているのをSNSで見ると、尋常じゃない吐き気がする。
〝社会人〟とやらになってから、喫煙量が二倍、三倍と増えていた。そろそろ限界かもしれない──
そうしているうちに、プールの方から甲高い声が聞こえてきたのだ。聞き覚えのある三人の声。
「……何で二人ともついてきてんの?」
「え、アタシただ涼みにきただけなんだけど」
「アタシは青春しにきただけ」
「青春……ってなんだっけ?」
「……っていうか今、夏だし」
「青夏……?」
チカ、マユ、サーヤの三人は、お互いの顔が見えるよう円を描くように向き合って立った。
静かに時が流れていく。
彼女らはお互いに劣等感を抱いていた。
凡庸ですぐ恋愛に走ってしまうチカ。
頭が良すぎてほとんど無趣味のマユ。
勉強嫌いでおふざけばかりのサーヤ。
(分かってる。
アタシはちっぽけな存在で、将来は何者にもなれないから)
(分かってる。
アタシはちっぽけな存在で、将来は何者にもなれないから)
(分かってる。
アタシはちっぽけな存在で、将来は何者にもなれないから)
(いつもキラキラ輝いて見えるマユとサーヤに)
(いつもキラキラ輝いて見えるサーヤとチカに)
(いつもキラキラ輝いて見えるチカとマユに)
(((アタシの人生を託そう────)))
「────多分、」
「アタシら、」
「同じこと、」
「考えてる」
「うん、多分」
「そうだと思う」
「『自分の人生なんか』」
「『良くなりそうも』」
「『ない』って」
「チカとマユは勉強苦手なアタシと違って、行きたいとこに行けるっしょ?」
「アタシなんか全然……何したいかも分かんないし。サーヤとチカは得意な分野で活躍しそう」
「いやいや、アタシは本当平凡な暮らししかできなそうだし……マユとサーヤのことうらやましく思ってて」
そこまで意見をぶつけさせてから、彼女らは口を噤んだ。
三人の少女たちは、未来を互いに託し合おうとしていたのだ──
ぬるい風が彼女らの紙を揺らして通り過ぎる。
しばらくして三人は、おもむろに手を握り合い。
「「「ずっと一緒だよ」」」
そうして──静かに泣いた。
プールの底に塗られた水色が、水面に映り込んでゆらゆらと揺れて。
反射した光が彼女らを包み込んだ。
三つ子の心が互いにリンクして、そのまま溶け合い。
一つになろうとしていた。
その光景を、ニシキノはプールサイドの向かい側からじっと見ていた。彼女らはニシキノの存在に気づいていなかった──否、もしかすると初めは存在を認識していたけれども、意識の中から追いやってしまったのかもしれない。
三分が経過したあたりで、彼女らは手を繋いだままバチャンッ、とプールへ飛び込んだ。深く沈み込む。沈み込む。
上がってこない、とニシキノが身構えた瞬間。
三人は水からプハッと顔を出し、キャッキャと声を上げた。
──ニシキノはそっとプールを離れた。
無意識のうちにポケットを探って、タバコを切らしていることに気づき、脳内のニコチンが薄れゆくことによる苛立ちを覚えて……逃げるように学校を後にした。
空は嫌味なほど青く、知らんぷりで笑っていた。
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