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3 夢守人黒姫、登場
桜の花びらが、水面に落ちる音が響く。
白いもやの立ち込める空間……ここは、白昼夢。夢と現の世界―人間でいう現実世界の事だ―の間にあり、人間の言葉では空想や妄想といった形で呼ばれている空間だ。
私はそこで、気配を感じ取った。
「ミチビキバナよ」
私は頭に手をやり、髪の毛を一本引き抜く。するとその髪の毛は桜の花に変化し、ふわりと宙を舞う。この花が、私を呼ぶ夢へと案内してくれる。
行かなくては。また、夢が囚われている。
早く行かなければ、私を呼んだ人間が『陰獣』に全ての夢を喰われてしまう。
夢を喰われた人間は、夢の世界と現実の世界の境目を無くし、精神を病む。そして、苦しみもだえ、夢への飢えを強く感じながら、死に至る。
陰獣を滅する『昇華』の能力を持つ者、通称〝夢守人〟。その夢守人である私の使命は、夢を守ること。
そして、夢の秩序を乱す悪魔『夢魔』がばら撒く青い花『夢花』から生まれる怪物――陰獣を倒すことだ。
しかし夢守人は、夢の秩序を乱すことの無いように、人間の夢へ勝手に入ることは許されていない。人間から「呼んで」もらうことにより、夢の世界へ行くことが出来る。
私を呼んだ人間は、ずっと悪夢に苦しんでいたのだろう。そして『桜の花びらの誘い』の術を知り、夢守人である私を呼んだのだ。
「……彼女の仕業か」
夢花の種子を撃ち込めるのは、彼女しかいない。私の脳裏に、一人の青い髪の少女が浮かぶ。無邪気な笑みに狂気を隠した、夢魔の姫。人間の夢を支配し食い散らかす、夢魔の中でも極めて凶悪な存在。
そして、私にとっては因縁の相手であり、最も憎むべき宿敵。
私は沸々と胸の内に湧き上がる怒りを抑えるため、右手首に付けた組紐の腕輪を見た。黒と赤の組紐に付けられた、十字の御守りを左手で握りしめる。
――行かなければ。
私は立ち上がり、ミチビキバナの後を追った。
◆◇◆
オーディション会場から逃げ出したあたしは、台本を抱えて、暗闇の中を走っていた。あの、大きな舞台に向かって。
しかし、いつしか疲弊したあたしは、その場に倒れた。遠くには輝く大舞台。抱えた台本が、吸い込まれるように舞台へ消えていく。思わず手を伸ばす。だけど、
「あそこはアナタの居場所じゃない」
直接頭に響く囁きに、手を伸ばす力が、抜ける。そして、足首を白い手がつかんで、後ろに待ち構える深い穴へと、引きずり込んだ。
深く暗い穴に落ちていくあたしを、誰も助けはしない。どれだけあがいても、その手を掴む存在は現れない。助けを求めるあたしの手は、ただただ空虚を掴むだけだ。
「お前は何者でもない、何も出来ない、ただの人だ!」
痛烈な言葉があたしの身体を引き裂く。だけどその声は、間違いなく、自分の口から、零れ落ちていた。あたしをすべて否定する、自分で掛け続けた、呪いの言葉。
そう、あの声は……常にあたしを否定していたあの声は――他ならぬ、あたし自身なのだ。
演技が下手だと罵られ、オーディションに選ばれなくなって、引退させられた自分を納得させようとした言葉。ううん、自分の思い通りにならない現実から、逃げるための言葉。
「あたしは、何もしなかった、ただの人……」
呪いの言葉をつむぎながら、あたしは真っ暗で冷たい地面に横たわる。頬にはひんやりとした感触がある。次いで、あたしはただ、言葉にならないうなり声を上げながら、涙を流した。
後悔だとか、自己嫌悪だとか、そういう名前の付いた涙。今更そんな愚かな事に気づいた。
演劇が好きなら、学校の演劇部だって良かったのに。別に、芸能界に戻らなくたって、場所は近くにあるのに。そんなことは知っていたはずなのに。
邪魔していたのは、肥太った、慢心、虚栄心だ。昌子にぶつけた、あの汚い感情だ。過去の栄光にすがる、汚い自分だ。実力の無い自分を認めて、次に生かせなかった、未熟な自分だ。
――だけど、もう遅い。ほら、こんなに深く堕ちてしまったんだから。
あたしはもう何も考えたくなかった。頭の芯がぼーっとする。このままずうっと、眠りについてしまいたい。まぶたを閉じようとした、そのときだった。
「おねえちゃんの夢、本当に素敵になったね」
あたしの頬をゆっくりとなぞる、細い指。そして、鈴を鳴らすような、甘く愛らしい声が響く。ピカピカの黒いエナメル靴と、ワンピースのフリルが目に入った。
「あ、なたは……」
あたしは顔を上に向ける。そこには、あの青い髪の女の子が、微笑を浮かべてあたしを見下ろしていた。
夢の中に現れる美少女。あたしを助けてくれるのは、もうこの子しかいないことを思い出した。だけど彼女はただ、うっとりとあたしを見つめているだけだ。
「おねえちゃん、本当に素敵……素敵、素敵!! 〝間引き〟して、本当によかった!」
女の子は、頬に手を当て、陶酔するような口調で言い放った。
間引き、という、突然出てきた言葉の意味を、理解する暇はなかった。すとん、とその場に座った女の子は、あたしを仰向けにさせ、覆い被さるとおでことおでこをくっつけた。幼子をあやすようなその仕草と、冷たい感触のギャップに、身体全体が恐怖からか、ぶるりと震える。
紅く綺麗な目が、あたしをじっと見つめている。
「た、すけて……」
かろうじて助けを求める言葉を発したが、やはり女の子は微笑んだままだった。
「助ける……?」
女の子は心底不思議そうな声を出し、小首を傾げる。愛らしいはずの仕草が、今のあたしには空恐ろしく感じられた。
「青子は、おねえちゃんに植え付けた夢花を育ててただけだよ。すっごく素敵そうな夢だったから、育てたらきっと、綺麗な夢花が咲くと思って」
青子と名乗る女の子は、はしゃぐような様子で話す。
「どういう、ことなのか、わからない……」
植え付けた、夢花、育てる……。全く訳が分からないけど、ただ一つ解ったのは、彼女は決して、あたしを助けるために、ここに来た訳ではないということだった。
「わかんなくていいよ」
笑顔が張り付いたまま、青子は言う。あたしの顔じゃなくて、胸元をじっと見ながら、青子は言葉を続けた。
「青子がおねえちゃんの夢に来てたのは、夢花の間引きに来てただけ。青子が欲しいのは、最高に綺麗な夢花。下手に悪夢を見すぎて、変な形の夢花が出来ても青子、困っちゃうもん。綺麗な夢花は、良い夢と悪夢のバランスが大事なの。ええと、人間には肥料って言えば分かりやすいのかな?」
くすくすと笑いをこぼしながら、青子はあたしの胸に、とん、と指先をおいた。
瞬間、あたしの胸は熱くなり、皮膚が裂けるような痛みが走った。おそるおそる見れば、胸から、植物の葉と茎が生えている。そのうち、蔓があたしの身体の上を走り、絡みつく。ぎちぎちと締め上げる痛みと、気持ち悪さに、思わず大きな悲鳴を上げた。
取り去りたくても、もう上半身どころか、腕一本、指先一本動かせなかった。身体に力が入らないのだ。
あたしの恐怖をよそに、胸に生えた植物の先端は早回しで再生する映像のように、蕾に変わり、そしてゆっくりと開き始めた。
「開花だわ。夢花が開くの。きっと綺麗に違いないわ。だって、あんなに歪で、独りよがりで、自分勝手な夢なんだもの。どうして人間って、あんなに醜い感情から、あんなに綺麗な夢花を咲かせることができるのかな。素敵だね」
あたしの身体から離れた青子の、期待を孕んだ声が、心底恐ろしい。
そしてやはり、あたしの夢は、醜くて自分勝手だったのだ。その事実を突きつけられ、心がぐしゃりと握りつぶされるような気分になった。
あの花が開いてしまったら、あたしはどうなってしまうのか。もう、だいたい見当はついていた。想像することすら、嫌な答えが。
「夢花の糧は、おねえちゃんの夢であり、心なの。青子はもっともっと、綺麗な夢花が欲しい。この意味、もうおねえちゃんなら解るよね」
無邪気な言葉が、いっそうあたしの恐怖をかき立てる。
「おねえちゃんの夢、青子に頂戴?」
その言葉と同時に、胸の蕾……夢花の蕾が、完全に開花した。
――大きな、あたしの身体の幅ほどある花だった。清浄な青さに彩られた花びら。長細い花弁がいくつも折り重なって作られる形は、この状況でなければ綺麗だと思えただろう。
雌しべらしき場所から、ずるりと何かが生えてくるのが見える。
まるで植物が太陽に向かって伸びるように姿を現したのは、目と鼻を覆う白い仮面を付けた、裸の女性だった。目を細めた微笑は逆に恐怖を駆り立てる。身体にはうねるような黒い模様が施され、長い髪の毛はべったりと身体にくっついている。そしてくるりとあたしのほうを向く。微笑を形作るその唇から、赤い舌がちろりと見えて、舌なめずりをした。本能的に、この生き物が怖いと思った。
「さあ、陰獣よ、夢の主を食い尽くして。アナタはもっと、綺麗になるの!」
青子は、花から生まれた生き物に向かって命令した。
食い尽くす。その言葉はあたしの想像と、ほぼ一緒の答えだった。さっと血の気が引く。逃げたくても、あたしは陰獣と呼ばれる生き物の下に居る状態だ。いつのまにか、身体を拘束する蔓が、陰獣のべったりとした髪の毛に変わっていた。
陰獣は、ホホホホホ……と耳障りな笑い声を上げて、更に髪の毛の拘束を強めた。あたしの口からうめき声が漏れると同時に、身体全体から、力という力が全て抜けていくような感覚に陥った。
力だけじゃない、あたしの気持ちや、思いや、記憶……あたしという人間そのものが、全て吸い取られて……食い尽くされようとしているのが、分かった。
もう、終わりだ。絶望という文字が頭に浮かんだ、その瞬間だった。
目の前に突然現れたのは、はらりと浮かぶ、桜の花びら。
「……さ、くら……?」
次第に花びらの数は増え、やがて、視界が遮られるほどの、見事な桜吹雪がこの場を支配する。辺り一面、まるで満開の桜の木の下に来てしまったようだった。いつの間にか髪の毛の拘束が緩んでいる。陰獣を見ると、桜吹雪に巻き込まれて怯んでいる姿が見えた。
一瞬にして、この場の空気が変わったのが分かった。さっきまで充満していた、あの甘い匂いが、桜吹雪で一掃されたのだ。
「貴方の夢へ、お邪魔させてもらう」
凛とした力強い、女の子の声が響いた。声のする方向に、残った力を振り絞って首を傾けた。
茶色のポニーテールをなびかせ、淡い桜色を基調にした、巫女服のようなものを着た女の子が歩いてくるのが見えた。彼女の右手に見えるのは、桜の枝。短めのスカートから見える、黒いニーハイソックスに包まれた、すらりとした足。凛とした面持ちに光るのは、射抜くような鋭い視線。
桜の花びらに包まれた女の子、あたしの脳裏に、昌子の言葉が響く。
『夢の中に、悪夢を退治してくれる女の子が現れるの。桜の花びらと一緒に』
昌子、貴方の言ってた事、嘘じゃなかったよ。
全身の力が抜けて、あたしはゆっくりと目を閉じた。
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