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5 信ずる「夢」があればこそ
ジリリリ、と、けたたましい目覚まし時計の音で、あたしは目を覚ます。
夢を見ていたのに、とてもすっきりとした気分だった。ずっと感じていた憂鬱で嫌な気持ちが、すっかり無くなってしまったようだった。
窓辺を見ると、夜中に浮かべたはずの桜の花びらが消えている。おまじないが本当に効いたのだという実感が沸いてくるのが、分かった。
そして、悪夢から解放されたという安堵と同時に、あたしは、昌子のことを思い出していた。
なんて酷い事を、彼女に言ってしまったのだろう。
「昌子……」
後悔する気持ちがあふれ出して、いても立ってもいられなくなった。その感情に突き動かされるように、ベッドから跳ね起きる。そして壁にかけた制服を急いで着て、朝食もそこそこに家を飛び出した。向かったのは、昌子といつも待ち合わせをする公園だ。
不安だった。昨日、あんな酷い態度を取ったあたしの事を、待っていてくれるだろうか。いや、居ない可能性が高い。昨日だけではなく、ずっと、昌子を下に見ていたあたしの態度に、昌子はきっと、怒っているだろうから。
それでも、あたしは言いたかった。ここに来なかったら、教室でも、部活の帰りを待ってでも……こうなったら、家に直接行ってもいい。昌子にちゃんと言わなきゃいけない言葉が、気持ちが、ある。
微かな望みに賭けて角を曲がる。いつもの場所に、昌子の姿は無い。ああやっぱり、と諦めの気持ちが広がる。あたしはいつも昌子が待っていてくれる場所に立ち尽くして、こみ上げる悲しい気持ちに耐えるよう、俯いて目を瞑った。だけどやっぱり涙が溢れてきて、鼻がツンとなった。
なんてあたしは馬鹿なんだろう……。
そう思った瞬間だった。
「綾乃ちゃん、おはよう」
控えめな声が、あたしの名前を呼ぶ。思わず顔を上げて、目の前を見た。そこには、いつもと同じように微笑を浮かべた、昌子の姿があった。
「昌、子……?」
涙と一緒に、昌子の名前が、口から零れる。あたしの顔を見た昌子は、目を見開いて驚き、そしてオロオロとした様子になってあたしの肩にそっと手を置いた。
「どうしたの、綾乃ちゃん、大丈夫?」
普段と変わらない昌子の優しい言葉。目頭が熱くなるのを感じながら、口を開いた。
「……あたし、昌子に、いっぱい、謝らなくちゃいけない。昌子、昨日は、ごめんなさい。酷い事、貴方に言ってしまった。……教えてくれたおまじない、効いたの。もう、嫌な夢、見ないと、思う。今までおまじない、馬鹿にしてて、ごめん。ずっと心配してくれてたのに、昌子の事、大事にしなくて、ごめんなさい……!」
ごめんなさいのオンパレードだ。後はもう、嗚咽にしかならなかった。いつも通りに現れた昌子に申し訳なくて、自分が情けなくて、仕方なかった。こうして吐き出すことさえ自己満足にしかならないと分かっていても、それでも言わなくちゃいけなかった。
「もう泣かないで、綾乃ちゃん」
肩に置かれた手に身を引かれたと思ったら、あたしは昌子に抱きしめられていた。
「……わたしは、綾乃ちゃんみたいに凄い人じゃないから、応援する事しか出来ないの。だから、わたし、大丈夫だから。もう、謝らなくていいんだよ」
まるで優しい母親みたいな言い方だった。どうして貴方はこんなに優しいの、どうして。昌子に抱かれたまま、まるで幼い子供のように、あたしは昌子に聞いた。
「だって、綾乃ちゃんが大好きだから。大事な友達だから」
はっとして昌子を見やる。
はにかんで答えた昌子は、今まで見たどんな女の子よりも――可愛く見えた。
◆◇◆
白昼夢の薄い膜の向こうには、人間が暮らす現の世界がある。
私は夢守人の掟により白昼夢から出ることは出来ないが、サクラバナの刃に残った夢の欠片から、夢主の様子を見ることが出来るのだ。
あれから数日、私は膜にサクラバナの刃を宛がい、あの少女の様子を見守っていた。綾乃という名の少女は、すっかり悪夢から解放され、友人と共に学校から帰宅する途中だった。
「……でね、あたし、色々考えたけど……。やっぱり、お芝居がやりたくなった。芸能界に未練が無いっていうと、嘘になっちゃうけど、すぐに戻れるなんて思ってないから……。まずは、演劇部に入ってみようと思うの。パパやママに迷惑かけない範囲で、もう一回、お芝居の世界に戻ってみたいんだ」
そう話す彼女の鞄には、戯曲の本が入っている。あの夢は真っ直ぐな形に変わった。人間の夢は、ちゃんと育めば歪まずに咲くのだと思える瞬間だ。
「そっかあ、嬉しいな。じゃあ綾乃ちゃんの演技、今度は生で見られるんだね」
「そういうこと! でも、部活見学に行く勇気が、ちょっと……。昌子、お願いなんだけど、明日、途中まででいいから、一緒に付いて来てくれないかな」
「良いよ、綾乃ちゃんの頼みだもの」
「いつもありがとう、昌子」
友人に笑いかける彼女を見て、私はサクラバナを鞘に収める。そして白昼夢は、いつもの白いもやに包まれた。
私は適当な場所に座り、右手首に着けた、組紐の腕輪を見る。そして、腕輪に付いている十字の御守りを左手で握りしめ、誰かの夢を守れたのだという実感を味わっていた。
夢は人の心の核なる部分だ。安らぐ場所であり、また、自分自身を見つめ直す事の出来る場所である。たとえ目が醒めた時、大半の人は夢を忘れてしまうとしても、人が人である為には必要なものだ。
――だからこそ、私は青子が許せない。
私は十字の御守り――恋人・護の遺したモノ――を再度、強く握りしめる。「皆の夢を守ってくれ、僕の、夢の恋人」護の言葉が蘇る。
「絶対に、護ってみせる」
私は夢守人であり続ける。私を呼ぶ誘いがある限り。
私は、誰にも屈したりはしない。
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